« 庭にも同じく命の循環が | トップページ | ハンブルグトリオと世界の平和 »

2018年9月16日 (日)

読みそびれていた堀江謙一の「太平洋ひとりぼっち」を読む

ヨットクラブをこの3月で止めてしまって、後悔が時折頭をかすめる。やめたのは体調が1日続かないように感じてきたためだが、ともかく海の遊びを定期的にやる場と仲間を一度に放棄してしまった様な感じだ。ヨットのことはまだ気になっていてインスタでもヨットのいい写真があるとついフォローしてしまう。
そんな時、そうだヨットといえば堀江謙一だ、あの太平洋ひとりぼっちは結局読まずじまいになっている、との思いに行き当たった。もう50年以上も前の話で、当時の報道から少々無鉄砲の人の手記とのイメージを抱いていた。しかし実際にヨットに乗ってみると最小クラスのクルーザーで単独で太平洋を横断するということのとんでもなさ、考えただけで次々と浮かんでくる困難さをどうやって乗り越えたのだろうと思わずにはいられない。少し大きめのクルーザーでも湾外に出ると緊張する、それを小舟で3か月だ。とても自分にはできない。
図書館予約ですぐ入手出来て読み始める。ひらがなが多いように思えていかにもしろうとの文章という雰囲気がする、しかしストレートに読めて引き込まれていく。ヨットを始めたきっかけがたまたま入ったクラブが関大第一高のヨット部だったというだけでそれまでは海の遊びからは縁遠かったという。それが高校卒業するころにはなんとか太平洋を横断したい、それが出来るヨットを手に入れるため進学せずに働くという道を選ぶほどになる。関大OBのクルーザーオーナーグループに加わり実技を磨きつつ渡航の実務を学ぶためもあって旅行代理店でも働く。少し資金がたまったところで小型外洋ヨットの設計者から設計図を買い関西のヨット造船所で作ってもらう。搭載する計器、機器類も慎重に買いそろえていく。艇が進水したその半年後、高校を出てから5年後になる1963年5月、西の宮をパスポートなしで出航した。どう調べてもヨットで一人で太平洋を横断する人にパスポートが発行されるとは思えない日本の出入国管理の状況だった、密出国しか方法はないと悟っての出航だった。ここまで日本の鎖国は続いていた、吉田松陰の時代と同じだったとヨットの設計者横山氏は述解している。堀江の快挙が日本の出国管理に大きな風穴を開けたという。18歳の時の信念が様々な意味で大きな結果を生んでいる。
恐るべき生き方だ。ヨットによる単独太平洋横断に対して当時やれることは全てやり尽くして出発している、ここまでとは思ってなかった。
wikipediaの記載も読むがちょっと違うところが出てくる。水20リットルを積んで出航との記載があるが堀江の記述では水は合計68リットル積んで出航している、随分な記載違いだ、wikipediaはそれらしく書いてあるが内容は違っていることが他でも気になる時がある、便利だが信頼感がないものに囲まれているというのが現代なのだろう。
もっとも出航後2週間のところで水を入れていたビニール袋に破れがあると解りこの時点で残りは18リットルにまで減っており、更にビニール袋の幾つかにカビのようなものが発生してこれも捨てている、出発時に20リットル積んだというのは利用できた水を20リットル積んだことになると読めばそう間違いでもない。
水については雨水も使っていたが途中でジョンストン島の超高空核実験に遭遇しそれ以降雨水利用も控え気味としたとある。飯はビールと海水を半々にして炊いてみたなどの記述もある。色々工夫している。
結局サンフランシスコ到着時の水の残りは10リットルだったと書いているので、雨水利用と海水利用それにビールなどの飲み物からの水分補給でほとんどの必要量がカバーできたことになる。
4度の嵐を乗り切り、台風にも遭遇、20mを超える暴風雨にも耐えチンすることもなく、サメの群の中も進み、巨大なクジラの群れにも出会い、想像される大方の困難には全て遭遇しこれを乗り切っている。
色々改善できるところを見出して自信も得たのだろう、これ以降5-10年ごとに単独大航海の海洋冒険を繰り返している。

若い時の決意、一直線にゴールに向かう姿、眩しい。

今更こんな人生は選択できない、しかし刺激的だ。まだ何かできることが残されているかも知れない、そんな事も思ってしまう。
Img_0400

 

|

« 庭にも同じく命の循環が | トップページ | ハンブルグトリオと世界の平和 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 読みそびれていた堀江謙一の「太平洋ひとりぼっち」を読む:

« 庭にも同じく命の循環が | トップページ | ハンブルグトリオと世界の平和 »