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2018年12月10日 (月)

カズオイシグロの浮世の画家 An Artist of the Floating World

図書館から順番が回ってきたとやっと連絡を受けて今しがた読み終えた。1年間順番を待っていたことになる。

Kazuoxa

奇妙な小説だ。奇妙さを感じる小説だ。
舞台は近代の日本、戦前に体制を鼓舞する作品を描いた高名な画家がそれを引きずりながら老年を過ごすという物語だ。
戦前の振る舞いに対して是とする部分と否定する部分が内面でとぐろを巻くその様子を本人の語り口で語る。読み手は主人公の説明に全ては納得できない仕掛けになっている。戦後主人公の身の回りに起こる次女の縁談や長女夫婦との生活のディテールを戦前の回想を細かく織り交ぜながらいかにも小説らしい小説として展開している。
戦前の世界で皆のためお国のためと行った振る舞いが終戦を境に全否定されるようになる、その屈折した状況は日本国民各個人の中で多かれ少なかれ起っていたはずだがそれを正面から描いた小説に遭遇したことは自分自身としてはなかった、その意味での新鮮さを感じた。
現実には戦争を支持し後押しする気持ちが国民の少なくも半分以上の心の底にあったのではなかろうか。それが敗戦とともに手のひらを反すように昔から変だと思っていたと言い出すのはちょっとついていけないところがあるように思っていた、戦前の世界から戦後を生きた人たちの心には何が漂っていたのだろうか、それをきちんと認識しないとまた同じような事態が起こってくるのではなかろうか、時々そんなことを思っていた。
それをこんな形で書こうとしたのが(日本人の間に生まれたとはいえ)イギリスの作家で英語で書かれている、というところに大きな奇妙さを感じる。国内にいては正面から向き合えないのかもしれない。
今日この頃ではあの戦争の記憶として強調されるのは被害者としての記録ばかりで、あの大戦の本質である加害者としての立場や何故それを支えたことになったのかに思いを巡らしそれと正面から向き合う、という試みがあまりにもなさすぎているように感じていた。原爆の被害者、空襲の被害者、無謀な軍部の被害者、やたらそればかりで戦争を支持していた気持ちは本当に無かったのか、言ってくれる人や記録は明らかではない。戦勝の提灯行列は皆がいやいやだったのか。そうとは思えない。
タイトルの浮世の画家、原題でArtist of the Floating Worldというのもなんだか変だ。浮世絵師としての画家ならイーゼルとキャンバスを立てたりはしまい。油絵画家で浮世絵を描く画家の集団を想定して書かれているがそんな世界が本当にあったのか.日本画の画家ならどこかちがうのではなかろうか。浮世絵は英語でpicture of floating world というらしいので日本の画家ということを印象付けるためにこのようなタイトルになったのではないかと想像される。藤田嗣二などをイメージして書いていったのかもしれない。でもここに書かれている主人公は浮世絵を油絵として描く師のもとで弟子として修業する一団に加わって戦前を過ごしている。藤田嗣二の様な和風な線を持つ油絵とは大きく違う。
設定そのものに違和感がある、しょうがないのだろうが、仮にそういう世界があったということを受け入れてしまえば小説の世界に没入することはできる。
戦前戦後の情景や生活のディテールの描写に力が入っていて、5歳までしか日本に居なかったという著者とはとても思えない。小説を書ききる能力は確かにノーベル賞作家として恥ずかしくないと感じる。
これで昨年イシグロがノ―ベル賞を受賞して以来図書館に予約して読んできた彼の主要作品の読破は終わりとなった。最後に読むことになったこの浮世の画家は彼が世に出した小説の2作目だったが、最も従来の小説らしい良く書けた小説との印象を受けた。
今後はどんな展開をイシグロはみせてくれるだろうか。どうなろうと当分気になる作家であり続けるだろう。

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