「火宅の人」を読む
福岡に住むと気になる作家の一人が檀一雄だ。生まれは山梨だが壇家はもともと福岡・柳川にあり、高校時代を福岡市で過ごし、「リツ子その愛・その死」の舞台も福岡だ、東京住まいの後、博多湾の能古島で最期を迎えている。福岡の周りを渦巻きに巻かれるようぐるぐる回っている一生とも思える。
最後のベストセラー、「火宅の人」は映画は見たが小説は読んでいなかった、なんだかどろどろの恋愛模様のようで手が伸びにくかったこともある。
そうはいっても、と思い立って読み始めた。文庫本の上下2巻だが、上巻を読んだところで、これは殆どドキュメントだ、本当はどうだったのだろうか、と矢島恵子として書かれている入江杏子の書いた「檀一雄の光と影 「恵子」からの発信」と桂ヨリ子夫人として書かれている檀ヨソ子夫人への詳細なインタビューによってヨソ子夫人の一人称で書かれた沢木耕太郎による「壇」を借り出してきて並行して読んでいった。殆どが実際にあったことだと二人も認めている。それでも小説らしくニュアンスに強弱はあるようだ。
「火宅の人」は壇のポルトガル行の手前で終わっている。「壇」を読むとポルトガル行辺りから夫人の手の中に戻っできていて、破れんばかりの恋愛模様が落ち着いてきて小説に入れにくくなったのだろうと思わせる。それにしても「火宅の人」を書き上げたのは能古島で亡くなる4か月くらい前でここまで締めきれなかったのにはあまりにモデルがリアルで書き進めるのが苦しくなっていたのかとも思ってしまう。
「リツ子その愛・その死」といい「火宅の人」といい、曝け出しかたが半端ではない。恵子(入江杏子)と”事を起こした”始まりの一部始終がその月の月末には「残りの太陽」という小品になって別冊文芸春秋に掲載されていたというあたりには唖然としてしまう、書くために事を起こしたのではないか、ヨソ子夫人ならずともそう思ってしまう。
曝け出しながら作品を世に出していく様は最近のSNSに、エッまさか、と思う写真をアップし続けていくネットの心理とどこか通じるものを感じてしまう。
架空の世界を作り続けてそこにテーマを載せていくカズオイシグロと対極にある文学のようだ。
読後感が一筋縄ではまとまらない、存在全体をかけている気迫が見えるという所に重さがある、価値がある、そんな書き物のように思える。
案外ここらあたりが文学のある一極なのかもしれない。
一回は読んでみるべき小説だった、その意味では面白いと確かに言える。
月は変わって2月になった。時はとにかくさらさらと流れていく。
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