前畑遺跡に大和朝廷の生々しい気持ちを感じて
半月ほど前のことになるが、以前から見に行かねばと思っていてなかなか行けなかった遺跡に、エイッと訪れてきた。前畑遺跡といって大宰府を巡る水城、基山、大野城という古代城の繋がり(羅城と呼ぶらしい)の南側の輪が見つかったそれが前畑遺跡だという。テレビでも何回か取り上げられた。
殆ど破壊されようとしているという悲痛な訴えをネットのあちこちで見つける。まずは役所に当たってみようと筑紫野市の文化財担当のところへ電話して今どうなっているのか聞いてみる。全く何もない、以前の説明会の時に出されていた映像はもうすっかり変わっている、山に分け入れば土塁の痕跡はないわけではないが現状では道もなく見られる状態に無い、と情けない返事がある。ともかく前畑遺跡とネットで打つと出てくる住所(福岡県筑紫野市若江217)をナビに入れてそこへ向かってみることにした。
ついでに最近特別史跡に加わった水城の父子嶋(ててこじま)という遺跡が新聞に出ていてこれにも寄ってみようと家を出る。
更には九州博物館の先日行った醍醐寺展の半券で常設展に無料で入れるというのがあって、それも帰りに行ってみようという算段だ。歴史ショートトリップだ。
道順からは先ずは父子嶋(ててこじま)だ。ここら辺らしいというポイントをナビに地図入力して進むとJR水城駅前付近に導かれる、駅前の駐 車場にクルマを置けた記憶があったがびっしり止まっていてクルマが置けない。
兎に角父子嶋の横まで行くが細い道で交通量もその割にはあってとても車が止められない。近くの空き地の道路側が離合用と思われる分だけ道に提供してあるところに悪いと思いながら家内を見張りに残したまま車を止めて徒歩で走り回る。とても落ち着いては見れない。あわただしく水城西門付近と父子嶋をコンデジで写して急ぎ足で立ち去る。見れただけでもいいかという感じだ。
それにしても道が細いしアクセスがすこぶる悪い。これは考えてみれば防御用の施設である水城の周りという本質なのかもしれないと思い始める。すらすらと便利に事が運んでは防衛として困るというのが水城本来の役目なのだろう。今の時代になっても交通の阻害要因になっているようだ。しかたがない。
父子嶋そのものは平たい土盛で見ても感動とは縁遠が、阿蘇山大噴火時の火砕流堆積物でできた自然地形を水城の防衛ラインに取り込んだものではないかとされて、流れる歴史を感じるところが面白い。
水城廻りのごちゃごちゃした小道を抜けて前畑遺跡に向かう。
ナビでたどり着いた場所はまさに造成中の住宅団地の眺めだった。2016年12月にあった現地説明会資料がネットに残されていて現状と見 比べることはできる。2016年段階でもかなり造成は進んでいてその後造成の中に残された遺構が削り取られたようだ。痛々しいがここまで開発した土地を遺跡公園として残すという決断はできなかったのだろう、しようがない、それも人間の歴史なのだろう。それにしても父子嶋よりは明らかに歴史的価値が高いように思える、史跡指定の動きはなかったのだろうか。造成された宅地には住宅が建ち幸せな市民生活が送られるようになるのかもしれない、自然破壊と時の流れの遺跡の破壊の上の幸せにはどこか侘しいものを感じてしまう。
大宰府を巡るように羅城が作られていたのはどうも間違いなさそうだ。大変な建造物だ。少し気になるのはそこまでしてこの太宰府という場所を新羅・唐の連合軍から何としても守ろうとしたのは何故なのだろう、というところだ。太宰府には奈良時代には条坊制が施かれていたようで古くから都市としての体裁があったようだ、攻め込まれてもここなら組織的抵抗が持続可能という判断があったのだろう。それにしても、西の都市を死守したいというのには大和朝廷の源が九州にあったという日本書紀や古事記の記述がまさに形作られた時代のその生々しさをどうしても感じてしまう。
見上げると頭上にツバメの群れが舞っていた、この春初めて見るツバメだ。とんでもない昔からツバメはひたすら春になるとこの地に渡ってきていたのだろう。人の歴史はたかが知れている。
太宰府周りにはまだまだ遺跡が眠っているのではないか、もしかしたらここまで公になる前に沢山の遺跡が壊され続けているのではないか、そんな気がしてしまっている。
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