坂本八幡宮
令和に変わる。令和の名前のゆかりで梅花の苑が開かれた太宰権帥大伴旅人の館の跡とされる坂本八幡宮が少々気になっていた。近くではあるし混む連休が始まる前には行って見ねばとしばらく思っていた。
最近の研究では大伴旅人館跡は坂本八幡ではない可能性が高いとの新聞記事をいくつか読んだが、決定的には解らない状態のようだ。ともかく人が集まるところに行ってみた方がいいか、と連休寸前の26日に出かけた、考えてみれば少々軽薄だ。
調べるとすぐ近くに駐車場も用意されているようだ。連休前の金曜日ということもあって道はいつもより混んでる。都府楼跡辺りに来るが渋滞というほどでもない、ともかく坂本八幡のすぐそばの駐車場まで行ってみる。大宰府政庁跡の裏手にあたってここらは来たことがなかったが雰囲気がいい。まずは八幡宮に詣でる。それなりに参拝客はいるが列をなしてお参りするようでもない。神社の建物はあまり威厳が無くて近くの集落の氏神さま風の神社だ。神社側は張り切っていて氏子の方だろうかお手伝いの人が結構いて令和の額を持って記念撮影してくれたりする。ともかく拝観料も駐車料も要らずに随分安上がりでいい記念になる。
八幡宮の周りは住宅地がそばまで来てはいるが全体にゆったりしていて いにしえの雰囲気がそこはかとなくある。のんびりできていい。
ついでに政庁跡のすぐ東にある展示館にも行ってみる。ここも無料でボランティアの方が丁寧に説明対応してくれる。
令和の発祥となった梅花の苑の博多人形による模型が展示してある。見ると梅花の苑に遊行女婦の児嶋も加わっていることになっている、そうだったっけと戻って万葉集巻5や「太宰府万葉の世界」(前田淑)を見直してみるがそんな記述はない。展示のために適宜創作したようだ。少々いい加減だ。
展示は他には政庁跡の発掘現場そのものが保存展示してあってこちらは本物だけに面白い。
政庁跡は昔は田んぼだったその頃に遠足で来たと説明員に昔話をしているとこんなにきれいになり始めたのは昭和43年頃からだと教えてくれる。当時は田んぼの持ち主の反対が強かったともいう。
アジア博が開かれた平成元年頃には福岡の周りはとりわけ一気に小ぎれいになってきたようだ。
それが平成という時代だったな、今から振り返る とそう思える。
あと数時間で平成も終わる。災害も含めてスクラップ・アンド・ビルドで小ぎれいになる、それが平成という時代だったと今思う。令和も30年くらい続くだろうか、どう時が流れていくだろうか。
年号が変わるということは時の流れが見えてくるようで面白くもある.
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