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2019年7月30日 (火)

「室町将軍」を観る

九州国立博物館で室町将軍という展示をやっているというので見に行った。室町時代はもうひとつ解りにくいが、足利尊氏が福岡の多々良浜の戦いで勝利して京へ反攻、一気に室町幕府を開いたとか、その後の南北朝時代では南朝側と北朝側が福岡県久留米市付近で激突、南朝側が勝利Muromachi し暫く北部九州は南朝の支配下にあった等、この辺りは室町の騒乱に直接的にかかわっていて、どういう時代だったのか、知りたい時代でもあった。
この展示は巡回ではなく九州国立博物館独自の催しであり珍しい。足利家の菩提寺である等持院の工事があってその彫像群等の寺物を暫くこの博物館で預かることになったというのが発端ではあるようだ。
等持院は3年前の秋に京都を巡った際にたまたま訪れていたが、その時こじんまりとも見える等持院が足利家の菩提寺として将軍彫像群ほか色々と足利家ゆかりの物を抱えていることを知って少々驚いた。
6年前まで栃木県に住んでいたこともあり栃木に発祥した足利氏にはどこか親近感を持っていた。足利学校が足利市には残されていて戦国時代の宣教師は日本最大のアカデミアは足利学校だと本国に書き送っていたようでもある。群馬県を本拠とする新田義貞が稲村ケ崎を越えて鎌倉に攻め入って鎌倉幕府を滅ぼした丁度その時足利尊氏は京で後醍醐天皇を支援して六波羅探題を攻め滅ぼし京で天皇・公家の親政を可能にした。その後親政が失敗し武家の支持を失って再び入り乱れての戦乱となる、武家側に立った尊氏は一度は後醍醐天皇側に破れ九州まで落ち延びここで九州の武家の支持を得て反攻・上京するが、ここに至る戦乱が室町政府の不安定さを初めから表しているように思える。後醍醐は吉野に逃れ南朝となり3代将軍義満時代後終わり頃までの約70年に渡って尊氏の北朝と対峙することになって混乱は後引く。南北朝の終わりから8代義政時代の終わりに応仁の乱が起こるまでの80年位が室町時代の華やかな時代だったように見える。今回の展示でも文化的なものはおよそこの期間のようだ。
室町時代に対する中国の時代は明だ、現在残っている中国の遺構も明時代のものが多いようだ、この時代に現在に至る文化芸術の原点になっているものが両国ともに多いように感じる。中国からもたらされた当時の貴重な宝も示されている。
観ていくと展示では朝廷側から出された綸旨そのものの紙片といった歴史の証拠物件のようなものが目を引く。文字が戦いを支え文字が時代の生の有様を伝えている。字そのものも美しい、驚くばかりだ。現代の遺物が後世に残るとしても歴史的な美しい手書きの文書などもう殆ど残せまい。明らかに便利さの代償に失っているものがある、そう感じる。

文化的なものも重文・国宝が展示されているのだがふーんという位だ、感動をもらうという程でもない。勉強不足なんだろう。或いはより静謐な環境でないと伝わらないのかもしれない。


矢張り難しい時代だ、とても時代全体を俯瞰できるような展示にはならない、しようがない。ずらりと並んだ等持院でも見た将軍たちの彫像を又眺めながらそんなことを思っていた。

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