「サピエンス全史」を読む
みむ
気になっていた「サピエンス全史」上下(ユヴァル・ノア・ハラリ著)の借り出し順がやっと回ってきて暫くこれを読んでいた。結構厚い本だが難しいことはないのですらすら読めて1週間くらいで読んでしまった。
もっと科学史的な本かと思っていたら人類という種の歴史を生物的に或いは社会学的に主張を持って俯瞰したやや独善的な本だった。キリスト教・ユダヤ教の西洋人が俯瞰している人類史だった。西欧世界で評判になったのがうなずけるような本だが果たして東洋で特に日本でおっしゃ る通りといえるかというと、そう思える本でもなかった。
目からうろこというほどではない、が 歴史に沿ってニュートラルに考えをまとめて道筋をつけるという手法が新しい。
ネットで拾いながら考えをまとめていくとこんな文章になるかもしれない、そんなことを思ってしまった、自分も同じようなやり方でブログを書いている。
内容は、例えばこうだ。農耕文化の始まりはホモサピエンスには労働時間の増大と多様性の損失をもたらした、生活者にとっていいことはなかったのではないかというのだ。
狩猟時代の生活は現代まで地球上に残された狩猟民族の生活を調べることで推測されているようだがそれによれば狩猟による生活は多くの自然の様態と調和し自然の恵みを得られることで、小麦を辛抱強く育てていく農耕より少ない労働時間で変化に富んだ生活が得られるという。狩猟時代から農耕時代に移行したことにより考えることが減り脳の重さがやや減少したという説も紹介される、人類にいい事ではなかったかもしれないというスタンスだ。人々はゆっくりした変化であったため気がつかずにこの悪化ともいえる変化を受け入れてしまったのだろうともいう。
何故こんなことが起こったか。小麦や稲という植物にとっては農耕はその種の勢力の拡大をホモサピエンスが汗水たらして行ってくれたことになり、人類はまんまとその戦略にはまったのではないかとの説を展開する。確かに生物には他の生物に影響を及ぼして自らに都合のいい環境を作り出す或いはその生物にそのような行動をとらしめるということがあるようだ。これは最近放送大学の生物系の講座で学んだばかりだ。しかしここまでのことがあるだろうか。走り過ぎているようにも感じる。
地球上の生物としても人類の牛や鶏などの他の家畜と呼ぶ生物に対する仕打ちは残虐そのものだ、このような残虐さは地球の歴史ではこれまでにないものとなっていると繰り返し指摘してもいる。ここでは一生物としての人類の歴史という視点に新鮮さを感じる。
宗教に対しては仏教に対しての記述がどこか暖かいものがある、現代の人類で広く支持されている平等、自由 という思想が、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教などの一神教の思想-神の前には人は平等-に由来しているのではないか、必ずしも人類を幸福には導いていないかもしれないという懸念を示してもいる、歴史を追っていくと仏教の心の平安を追及する考え方に価値を見出すようになってくるということだろうか、そのようにみえてくる。
その他、よく収集された広範囲の新しい知識の上に議論が展開されているところは圧倒的だ、ネットの助けがあったればこその著作という気がしてくる。勿論多くの原典は読んだにしてもどのような議論が各分野で展開されているかをつかむにはネットが多用されているように感じる。
面白い時代になった。新しい広範囲な思索に基づく著作が色々これからも現れそうだ。一方で、この本はニュートラルな立ち位置に気を配っているが、偏った考えのそれらしい本も出やすい状況になってきているのも感じる。面白いが不安な時代になってきたということだろうか。
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