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2019年11月22日 (金)

安徳台遺跡が興味深い

市になって間もないせいか那珂川市が主催する講演会が少し気になって、聞きに出かけた。安徳台遺跡についての講演だ。
安徳台という名前についての解説はない。そちらの方がまずは気になったりする。
少し調べると安徳台の名は安徳天皇に由来していることとすぐわかる。平清盛の強引な後押しで安徳天皇が数え3歳で即位したのが1180年,壇ノ浦で入水したのが1185年で,短い命だが足かけ6年は在位している。この間1183年に木曽義仲に押されるように京を離れ平家とともに九州太宰府に移り、筑紫の豪族原田種直の館に滞在した。この時安徳天皇がいた場所がこの安徳台とされる。この後一行は屋島に移動するも義経の奇襲に会い、再び西へ逃れ逃れて壇ノ浦にまで至って滅んでしまう。
江戸時代にも安徳台は「御所が原」と呼ばれており、とにかくこの地に安徳天皇がいたことは確かのようだ。
一方で2003年に安徳台で弥生中期の大型円形住居跡が発見され俄かに大規模な弥生遺跡として注目されるようになった。この地は古くより居住に適しており、それが故にこの地一帯を支配する豪族がここを拠点にしてきたと思われる。安徳天皇がここにいたというのも歴史的な必然があったのだろう。神功皇后が開いたとされる裂田の溝(うなで) も安徳台のすぐ横だし日本の住吉神社の本宮ともいわれる非常に古い神社現人神社も近い。
Antokudai歴史のある場所のようだ、それにしても安徳台とは何なのだろうと思っていたところへこの講演会のポスターが目に入り聴講を申し込んだ、というのが聴くことになった経緯だ。講演が3つとシンポジウムが1つという構成で13時スタート終了17時の4時間の講演会となっていて長い。安徳台遺跡でそんなに話すことがあるのだろうかとさえ思ってしまう。
3人の講演者の話をつなげると弥生中期から古墳時代まで続く遺跡で様々な出土品や人骨が長い時間経過に応じて出土している、ということのようだ。昨年11月の答申を受け今年2月に安徳台遺跡として文化庁から国の史跡に指定されている。それを記念しての講演会ということになる。
話を聞いていると弥生時代に玄界灘の荒波を越えた交易を平然としばしば行っていたというのにも尊敬の念さえ覚えてしまう。
青銅器の鋳型や鉄剣、ガラス器、ゴホウラ貝やイモ貝のおびただしい数の腕輪等出土品が多様で広範囲の国や地域との交易の有様が証拠付けられているように思える。
交易ルートは那珂川から博多湾に出る水路の他、南に峠越えし有明海から船出する交易路の使用も推測されている。今では街から離れた奥まった場所だが、この地は現在思うより遥かに交易に都合の良い立地だったようだ。
ともかくここは魏志倭人伝に登場し漢から金印を授けられたあの奴国を支える重要な地域の一つだったということになる。
講演をMapantoku 聞いていくと知らないことも多い。ゴホウラ貝の腕輪は主に男性の右腕の副葬品で右腕に25個も付けた状態で発見された人骨もある、女性はイモ貝の腕輪となっているという、そんな区別が有ったとは知らなかった。呪術的な意味合いがあるのだろう。また、勾玉は勢力の強い被葬者ほど大きい美しいものが出ておりその差は歴苑たるものがあるようだ。力があるということを誰の目にもわかるように示すといTekkenn う役割があったのだろう。鉄製品や鉄素材は弥生時代は殆どが輸入されたものでそのため鉄剣の分布は西日本に偏っているというのも初めて知った。戻って少し調べると弥生時代の国内鉄生産については諸説あり国内でも幾らかは製鉄されたとするのが有力そうだ。日本における製鉄の歴史も色々とまだわからない事が有って面白そうに思える。

飽きることなく話が湧いてくる。時空を流れる流れの様を俯瞰して見ていくような心地がしてこんな話には興味が尽きない。我々は一体どこからきてどこへ向かっているのだろうか。

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