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2019年11月18日 (月)

岩屋城の戦いが空しくて

放送大学で毎学期1科目だけとって学ぶというのを続けているが、放送での受講ばかりでなくたまには面接講座もいいのではないかと、この下期には一つだけ面接講座もとってみた。タイトルは「太宰府争乱史」という、2日間の集中講座だ。古くから太宰府周辺で起こった争いの歴史を学ぶというものだが2日間張り付きででも勿論全歴史が学べるわけではない。
10月30,31日に開講される。初日に座学として「磐井の乱」「白村江の戦い」「藤原広嗣の乱」「岩屋城の戦い」の4つを九州歴史資料館で学び2日目は実地学習として太宰府、水城、大野城跡を巡る。講師は歴史資料館の学芸員が交代で当たり、試験はないが初日の最後にレポートを提出してそれで評価される形にはなっている。
それぞれに興味深い内容だが4番目の「岩屋城の戦い」というのが気になって、事前に歴史本を読んだりして少し予習もしていた。戦国時代Mapiwayajyo1 1586年頃の戦いで、大野城址のある四王寺山の中腹に築かれた戦国時代の山城「岩屋城」を大友宗麟配下の高橋紹運が守るが九州制覇を目指す島津の大軍に囲まれて少ない手勢で奮戦したものの全滅した。しかし島津軍はここに手を取られ過ぎて攻め下る秀吉軍が到着する前の九州制覇を果たすことが出来ず、結果的に南九州に押し込められた形で秀吉に従わざるを得なくなった、という歴史上の事件だ。如何にも戦国時代らしい話に満ちていて、後世にも種々誇張されて語り継がれたようだ。高橋紹運の息子でこの時すぐ北方の立花城にたてこもって守り抜いたのが武人として名高い立花宗茂で、武勇の系譜が引き継がれているところにも物語がある。
島津と九州の覇権を争った大友宗麟はキリシタン大名として知られるがキリシタンに改宗して期待していたのは国崩しの大筒と言われたような西洋式の強力な武器の調達に魅力を感じてのことで、不純なところがある。宣教師の是認の元、戦いに敗れた捕虜を奴隷として海外に輸出していたようでもあり、この岩屋城の戦いも汚い戦いに満ちていた九州の中での空しい戦さとの感を禁じ得ない。こんな時代を終わらせた秀吉・家康は色々な意味でやはり偉いというべきなのだろう。
Iwayajyou1a 岩屋城跡そのものには行けなかったが大宰府政庁跡から直ぐに見上げる場所にありしたから眺めることはできた。辺り一帯を制するにふさわしい山城としていい位置にあったように思われる。
山城としては同じ四王寺山にある、6世紀後半白村江の戦に破れて中大兄皇子が慌てて造らせた大野城の方がはるかに大きい規模になっている。岩屋城の背後に大野城跡の土塁や石垣がある形で、岩屋城は水も大野城跡から得ていたらしい。岩屋城の戦いでは水の道の場所を地元の老婆が島津側に教えたためにあっけなく城は落城したという言い伝えも残っているようだ。教えた老婆は再び岩屋城が大友勢の手に戻った時住民によって大野城跡の石垣の下に生き埋めにされたという話まで伝わっているらしい。高橋紹運は立派な人物としてよく知られていて豊臣方の黒田如水は無駄な戦いとなる岩屋城の放棄を助言しまた敵将さえも何とか彼を生かしたいと努めたが果たせず武士らしい死に際を選択して散っていったという。
歴史を理解することはできるが如何にも空しい。戦うだけのために特化した武人が支配する時代の無意味さを強く感じてしまう。
現代にもその底流はどこかに流れていて気を緩めるとすぐに顔を出してくる、それが人類という種族なのかもしれない。

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