穐吉敏子の自伝を読んでいる
これはすごいの一言に尽きる。
チャーリーマリアーノの演奏がCSのミュージック・エアで放送されているのを見つけて暫く見てしまう、もうだいぶの年のはずだがと思ったがバリバリだ、でも1988年の録画ではこんなものかもしれないと思う、何しろ32年前だ。
秋吉敏子の方はどうしているのだろうとネットを手繰ってみる。90才になっているがまだ元気の様だ。半生を描いた自伝が何度か出版されているようで、市立図書館にある「ジャズと生きる」
という最初に出した岩波新書版のものを予約して借りだしてみた。市立図書館もコロナの影響を受けているが予約受け取りと返却のみ可という形態で今のところ開館している。
著者名は秋吉ではなくて直ぐには読めない穐吉という表記なっている、気が付かなかったがもうずいぶん前から穐吉と表記している様だ。穐吉は大分に昔からある苗字で簡略の秋吉という表記を戸籍上の由緒正しき表記に直したのだろう。大分出身の名横綱双葉山の本名も穐吉だ。
話は満州・遼陽の最初の記憶から始まるが生きている周りの状況が畳みこむように次々と大きく変わっていくのに驚く、これはすごいと引き込まれていく。小学校1年の時から担任の先生に好きなピアノのレッスンを放課後個人的に受けていたそしてピアノは大連の女学校時代まで続く、それがプロとして立つ前にピアノを習ったすべての様だ。戦争が始まり、やがて敗戦となってソ連に占領され更にその後中国共産軍、蒋介石軍と支配者は変わるが一家は何とか生き延びて終戦の翌年の夏にに引き上げ船で宇品港に到着する。そのまま両親の故郷である大分に戻って生活が始まるが生活は厳しい。移り住んで間もない頃、16才だった敏子がダンスホールのピアニストの職をビラを見てみつけてこれが一家にとって貴重な収入源となる。ピアノが困難を救っている。ここでジャズに出会い程なく福岡に単身で転身して米軍将校相手のバンドのピアニストとなる。ジャズ奏法はレコードや先輩のコピーを丹念に行い吸収し、ひたすら練習を続けて技を磨いている。
1年位福岡で過ごした後48年夏にやはり単身で東京に進出する、18才の時だ。ここでも米軍相手のバンドに属するが52年の夏には独自のカルテットを結成、若き渡辺貞夫を迎えたりもする。53年の11月にJATPとして来日していたオスカーピーターソンに見いだされノーマングランツによって彼のレーベルでレコードを出すべく東京でレコーディングを行っている。レコードは翌年米国で出されダウンビート誌で一定の評価も受けているようだ。こんなことがあって米国でも少しづつ名が知られるようになり、知り合いとなった米人の勧めでバークリー音楽院に入学の願書を書き送ったところ55年の夏ごろ奨学金付きでOKが来る。渡航手続きに奔走した後、56年の1月に羽田をたってプロペラ機で単身アメリカに向かう。引き上げてきて10年しないうちにジャズも知らなかった少女がここまで走り詰めている、驚くばかりだ。努力と熱意で人の出会いと繋がりと幸運とを引き寄せている生き方だ。
ボストンでは到着した空港にバークリー音楽院校長他計3名が出迎えに来てその後の面倒もみている。3か月後からユニオンのカードを得てプロとしても米国で演奏できるようになり昼は学校夜はジャズクラブに出演という生活となる。その後チャーリーマリアーノとの結婚・出産・離婚、そしてルータバキンとの結婚、ビッグバンド結成へと走り続けていく。その勢いに圧倒される。
秋吉敏子の方はどうしているのだろうとネットを手繰ってみる。90才になっているがまだ元気の様だ。半生を描いた自伝が何度か出版されているようで、市立図書館にある「ジャズと生きる」

著者名は秋吉ではなくて直ぐには読めない穐吉という表記なっている、気が付かなかったがもうずいぶん前から穐吉と表記している様だ。穐吉は大分に昔からある苗字で簡略の秋吉という表記を戸籍上の由緒正しき表記に直したのだろう。大分出身の名横綱双葉山の本名も穐吉だ。
話は満州・遼陽の最初の記憶から始まるが生きている周りの状況が畳みこむように次々と大きく変わっていくのに驚く、これはすごいと引き込まれていく。小学校1年の時から担任の先生に好きなピアノのレッスンを放課後個人的に受けていたそしてピアノは大連の女学校時代まで続く、それがプロとして立つ前にピアノを習ったすべての様だ。戦争が始まり、やがて敗戦となってソ連に占領され更にその後中国共産軍、蒋介石軍と支配者は変わるが一家は何とか生き延びて終戦の翌年の夏にに引き上げ船で宇品港に到着する。そのまま両親の故郷である大分に戻って生活が始まるが生活は厳しい。移り住んで間もない頃、16才だった敏子がダンスホールのピアニストの職をビラを見てみつけてこれが一家にとって貴重な収入源となる。ピアノが困難を救っている。ここでジャズに出会い程なく福岡に単身で転身して米軍将校相手のバンドのピアニストとなる。ジャズ奏法はレコードや先輩のコピーを丹念に行い吸収し、ひたすら練習を続けて技を磨いている。
1年位福岡で過ごした後48年夏にやはり単身で東京に進出する、18才の時だ。ここでも米軍相手のバンドに属するが52年の夏には独自のカルテットを結成、若き渡辺貞夫を迎えたりもする。53年の11月にJATPとして来日していたオスカーピーターソンに見いだされノーマングランツによって彼のレーベルでレコードを出すべく東京でレコーディングを行っている。レコードは翌年米国で出されダウンビート誌で一定の評価も受けているようだ。こんなことがあって米国でも少しづつ名が知られるようになり、知り合いとなった米人の勧めでバークリー音楽院に入学の願書を書き送ったところ55年の夏ごろ奨学金付きでOKが来る。渡航手続きに奔走した後、56年の1月に羽田をたってプロペラ機で単身アメリカに向かう。引き上げてきて10年しないうちにジャズも知らなかった少女がここまで走り詰めている、驚くばかりだ。努力と熱意で人の出会いと繋がりと幸運とを引き寄せている生き方だ。
ボストンでは到着した空港にバークリー音楽院校長他計3名が出迎えに来てその後の面倒もみている。3か月後からユニオンのカードを得てプロとしても米国で演奏できるようになり昼は学校夜はジャズクラブに出演という生活となる。その後チャーリーマリアーノとの結婚・出産・離婚、そしてルータバキンとの結婚、ビッグバンド結成へと走り続けていく。その勢いに圧倒される。
個人的には秋吉敏子のピアノ演奏はどうにものめりこめない印象がある。バドパウエルのコピーという印象を初めに持ってしまったのが後びいているのかもしれない。ビッグバンドを作編曲を含めて取りまとめて鳴らす力の方が素晴らしく思える。
しかしこの懸命に生きている生き方そのものには感動的なところを感じる。悔しい思いも随分したようだがやり切っている。そして激しく動く時代というか歴史というかそれを見事に背負っている、こんな生き方をできる人はもう出まいとも思う。歴史的な存在のような気がしてくる。なかなかの本だ。
コロナでゴロゴロしているとこんな本にも出会える、悪いことばかりでもない。
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