放送大学で「文学・芸術・武道にみる日本文化」を学ぶ
放送大学の講義を一つ取って学ぶというのをまだ続けている、今回選んだ講義は 「文学・芸術・武道にみる日本文化」という文系の科目だ。4日ほど前に試験も終わった。今回の試験はコロナ対策上試験会場は設定されず試験期間にリモート開示される問題を自宅でパソコンで見て別途郵送されてきた回答用紙に記入し指定の封筒で期間内に郵送提出するという形だ。当然なんでも持ち込み可ということになり、ネットで調べたりもでき、更に記入に最長1週間かけることができる。大概のことは調べられるので、試験というよりまとめの勉強の感じだ。講義の整理がつくのでこんな形でも十分有意義な気がする。
講義内容は日本文化の歴史といえるもので今までにどこかで学んだことのある内容が多い。ここでは日本文化に歴史的に流れ続けているものは何か、という点を見ながら、通して日本史を見直していく形になり、頭の整理ができる気がしている。
全体の講義を聞き終わって試験も終わってさてこの講義は何だったんだろうと振り返る。
幾つかの気になったところがあった。縄文の世界的位置づけと江戸時代の武術そして日本史上初めての異国の軍隊による占領となった戦後の米軍占領のあたりだろうか。
縄文の長い歴史から始まるのだが、縄文人はそもそもどこから来たのかについても3万8千年くらい前から朝鮮半島経由、沖縄経由、樺太経由の3方から移り住んできた人々が混ざり合って形成されていった程度のあっさりした説明がある。およそ10万年前のホモサピエンスの出アフリカまでは遡らなくてもどこからどういう文化的背景のある人々が流れ込んできたのか、知りたいところではある、それは未だ解明されてないということだろうか。
縄文は世界史的には新石器時代と定義し16500年頃に始まるとする。世界最古級の土器が創られたことになる。最古級の土器というところがどうしても引っかかる。本当にそうだったのだろうか、本当とすればそれは何故だったのだろうか。
縄文海進があった温暖な時代でもあったことから縄文文化は中部山地や東日本に偏っていたようだ。中部の山々の地方には稲作文化は沖縄・アイヌ以外では最も遅く波及している。ほぼ定住した狩猟文化だった縄文から弥生への移行は地方によって随分差がある様だ。
縄文人は渡来した稲作文化と渡来人を受け入れ融和して弥生文化に至る。縄文は日本文化の底流を形作ったとされるがその底流とは具体的には何なのか、記録が無いのでわからないということだろうか。ここでは古事記の記述等から諏訪大社に伝わる神を縄文からの神と考える、以前訪れたことがあるが(人の)生贄の風習が長く伝えられていて少なくとも大和朝廷以前の神であることに違いはない。もっとも縄文時代は地方性の強い文化が各地で栄え縄文人にも色々いたかもしれないとも思う。魏志倭人伝に触れることなく弥生期を軽く説明した後説明は白鳳期に飛ぶ。こういう風に見直すと日本語そのものの歴史が日本文化史の底流で最も大切なものではないかと思えてくる、どのように形成されてきたのだろうか、漢字渡来以前に文字は全くなかったのだろうか、世界最長級の新石器時代が全く文字機能を持たなかったとは考えにくい気がする、少なくとも縄目文字位はあったのかもしれない、次々に疑問が湧いてくる。
江戸時代の武道の展開でおやと思うのは、戦闘がもはやほとんどなくなった時代だからこそ武道といういう道が精神性を高めたというあたりだ。上州出身の上泉信綱によって新陰流が生まれ、これが柳生宗矩に引き継がれ徳川家康に遇され徳川家の兵法師範となる。稽古を体系化し極意を書き残し、禅の無心を用いた武道の形を広めた。戦前ドイツ人哲学者ヘリゲルが東北大教授として来日した際弓道を修業した話が紹介される。師の阿波は的を狙うな無心で射よと教え実際に暗闇の下で的に命中させて見せる。彼は大きな衝撃を受け稽古を重ねて遂に無心の矢を自らも放てるようになる、無心になって無限の大きさに合致し、自我ではない”それ”が矢を射しめるということを体得する。
ヘリゲルは禅の精神が日本の文化を貫いていると感じたようだが、日本の禅の精神は縄文のすべてのものに神が宿るという感覚と仏教が結びついた結果であり、縄文から流れているものの上に花開いたということができるようだ。
太平洋戦争に敗戦し歴史上初めて異民族支配をうける。米軍は戦争に至った攻撃的な日本の精神を変えるべく全ての武道を停止し、スポーツ化したもののみを許可するようになる。厳しい文化・言論統制が布かれ歌舞伎すら一時上演禁止となる。確かに占領政策によって戦前に行われていた諸々は全否定され、日本文化のコアの部分が破壊されたかのように見えていたが、長い独特の文化の歴史の流れを振り返って見ていくとこのような事位では到底変えることのできないものを日本文化は持っているように思えてくる。
なんだそれ位かということかもしれないが、また何かを学んだ気がする。
学び続けることそのものがやはり面白い。
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