三島由紀夫の書く、谷崎・川端
三島由紀夫による谷崎、川端の評論を集めた文庫本(中公文庫:「谷崎潤一郎・川端康成」三島由紀夫)が図書館に新刊として入っていたので借 りてきて暫く読んでいる。文学全集の中の一つの巻として谷崎や川端が出版されたときにそれに付帯された解説する形での評論が多い。従って数ページで完結する文章がたくさん集めてある、ほぼ職業的文といってもいい。読んでいくと三島の考え方がこんな発想だったのだと感じるところがいくらもある。三島自身が文面から現れてきてそこが面白い。例えば新潮日本文学6谷崎潤一郎(昭和45年4月刊)の解説では、谷崎の「金色の死」という初期の小説をとりあげこれについて比較的長い文を書いている。読者はこの小説が分かっているものとして書き進めているので、これは「金色の死」を読んでみなくてはと、まずはネットでフリーの青空文庫をあたる。と、「金色の死」を含め谷崎の殆どの作品が掲載されているのが見つかる、驚くばかりだ、便利な時代になった。縦書きの本を読むような形に表示させて早速「金色の死」を読んでいく。
私小説の形で、主人公は子供のころから天才的に理解力があって頭のいい子供だったが、同じくらいに秀でていた岡村君という子がいて友だちになる。成長して社会に出るころは主人公は無難な道を選ぶが岡村君は美の追求の道を選び続ける。岡村君は最後には自分自身が美を体現する必要があると考えるに至り遂には全身を金色に塗って死んでしまう。というのがあらあらの粗筋だが、岡村君の考えにどうしてもこの年(昭和45年)の11月に市ヶ谷で割腹自殺に至った三島の行動が2重写しになってしまう。
昔、大学闘争が華やかな頃、三島がバリケードの学生と討論する場を持ったことがあった(昭和44年5月)、自分もその場に観客として居合わせた、その思い出が蘇ってきた。三島と全共闘との討論は白熱したという印象はなく、抽象論のやりとりが大半だったとの記憶がある、その中で三島が繰り返したのが 天皇と一言言ってくれれば僕は君らの側に参加する、という言葉だ、その時の世の中の状況は誰もが問題があると感じ何かをなすべきだ、との感覚が共有される時代の雰囲気でもあった。今思う右翼と左翼とという切り分けから少し違った世の中だった様にも思う。三島は「金色の死」の岡村君のように芸術的観念を突き詰めてその先に死を見ていたのかもしれない。谷崎が「金色の死」という自身の作品に否定的だったのは、その先には恐ろしい未来があると感じて「金色の死」から離れようと努めたのではないかと三島は論じている。芸術のための死に至る道を示していたとの予感があったのではないか、そういう生き方にはまりたくなかったのではないか。しかし書いている三島はそれにはまっていっている自分というものをこの時見ていたのではないか、それ故に文学全集の解説として似つかわしくもないこの「金色の死」にのみ焦点を合わせた書き物をこの世に残したかったのではないか、そんなことを思ってしまう。
谷崎は次第に世の中では健全とは認められない「鍵」のような小説の分野にのめりこんでいき、その死に際して国民を上げて表彰するという動きが生じてこなかったことへの不満を三島は別のところで述べている。江戸時代の芸術を支えたものの流れを谷崎はしかと受け止めてこのような小説群を書いていったそのこと自体は国内より海外で高く認められているようだ。それが正しく評価されない世間というものに三島は失望感を覚えていたようにも見える。
曝け出しながら見せあいながらの文学という世界が生々しく感じられる。
川端についても色々書いていて面白い。細かくその人を見ているその三島の目が面白い。
川端のもこのまま書いてみたいのだが長くなるので今日はもうやめる。また度外れてただただ暑い夏の日々が続いていく。
| 固定リンク
コメント