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2020年10月18日 (日)

時には寺巡りを

時にはお寺さん巡りもいいかと地下鉄祇園駅から寺町辺りを散策した。福岡というこの街を観察するという目でまだ十分見ていない気がしていた。

先ずは博多駅寄りからと承天寺を訪れる。地下鉄祇園駅から承天寺に向かうもののすぐには入り口が見つからない。ここかというところは裏口Jyoutenji20201003 のように思えたがとにかく境内に入るとまず鐘楼がある。如何にもお寺らしい。立派な建物が見えてきて前に石灯篭が立っているが、何だか新しくて有難味が今一つだ。仏殿らしい。覗いてみると本尊のあたりには幕が引かれていて仏像は見れないようになっている。拝観料もないお寺なのでこんなのが現実的ともいえるのかもしれないがちょっと残念な気がする。裏手に周って承天寺通りに出る。

この通りで境内が2分されている形になっている、あまり見ない形式だ。勅使門が本殿方丈に向かって開いているが無論ここからは入れない。横の通用門と記された門から本殿側の境内にJyoutenji20201026a 入ると饂飩蕎麦発祥の地の碑他幾つかの碑が立っている。鎌倉時代にこの寺を創建した聖一国師(円爾)は中国での修行中に様々な技を学びとり日本にもたらしたようだ。饂飩蕎麦はそのものというより実用的な製粉機を伝えてこれを機に日本に饂飩蕎麦が広く広まる現実的な一歩をもたらしたということの様だ。その他厚手の絹織物である博多織の元になる製法も伝えている。博多の街の伝統行事である山笠の原型を作ったのも聖一国師だ。博多の文化的源泉の担い手になっているようだ。それにしてもこうしてみると宗教が文化の核だった状況は聖徳太子の時代から連綿と続いていたように思えてくる。
方丈及びその前に広がる石庭には壇家以外の一般人は立ち入れない。入口から庭を少しは眺めることができるが玄界灘をイメージしたとされる箒目の模様が面白Jyoutenji20201023 い。先の大戦でこの寺院も被害を受け一部被災したという。勅使門、山門や仏殿は戦後50年位たって開創750年を機にやっと復興整備されたらしい。古いつくりと新しいつくりが必ずしもしっくりいっていないようなところがなくもないが、立派なお寺だ。
承天寺通りを博多駅に向かって少し進むと博多千年門とJyoutenji20201038 いうのが建っている、これも新しい。一応歴史的には太宰府と博多を結ぶ古道のこの辺りにあった辻堂口門を模して建てられたということらしい。今日的意味は観光に向いた寺社エリアの入口をカッコよく示したということのようだ。確かにちょっといい。
千年門を出たあたりに厄払いで名の知れているという若八幡宮と謝国明の墓があるというのでこれも見に行った。
若八幡宮の方は小さな神社だが丁度お祓いを拝殿の中で受けていた人達がいて神社らしく機能している。確かに神社として正業が忙しいということの様だ、土地に密着しているともいえる。裏手に周ると力石というのが置いてある。江戸時代に江戸の力持ちと言われた木村興五郎がこWakahachiman20201011 れを持ち上げたと石に明記してある。180kgあるという石だ、全国を巡る力持ちの興行というのが江戸時代にはあったらしい。180kgというと現在の重量挙げでは重量級スナッチの日本記録位ににあたり、相当なものではあるが、鍛錬すれば人が上げられるかもしれない位の重さのようで話に真実味はある。
少し先の謝国明の墓の方は前に大きな楠木の枯れた根もととその木から分けられたとみられる若木があってこれが目立つ。謝国Syakokumei20201010 明は鎌倉時代に日本に帰化した宋の人で貿易で富を築き博多の街の寺社を支えた。承天寺の創建の資金も提供しているという。

千年門近くのうどん屋で昼をとった後、祇園駅に近い東長寺と聖福寺を巡る、疲れてきたのでここまでとする。博多の寺社もなかなかだ、拝観料がないのもいい。博多という街が大陸文化の流入点であり続けた痕跡が色々と目について面白い。新しいものに先んじて飛びつこうとする気質が今の福岡の街にも引き継がれていて、流れ続ける歴史というものを思ってしまう。
もう少しこの街を散策してみるべきかもしれない。

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