放送大学で文学批評を学ぶ
放送大学をまだ続けている。今期は「文学批評への招待」というのをとっている。ラジオ講義だ。本を読んで思うことをSNSに書き綴ったりしていると、一体大学の講義で文学批評とはどう教えられているのだろうか、少しはこんなことも学んでおくべきではなかろうか、と気になったあたりがその動機ということになる。
講義が始まるとすぐに思った、高度な講義だ。優しくない。
放送大学の教科書には各回の講義テキストの最後に学習課題というのがついている。今回のこの文学批評では簡単にはできない課題(例えば俳句か短歌か詩を選び得意な外国語に翻訳してみて翻訳のプロセスで何が起こっているか記述せよ、等)が3つか4つ提示されていて、とても直ぐには手が出ない。やらねばならないというものでもないのでほってある。 15回の講義の途中には中間試験のような形の課題提出が要求されていてこれは提出しないと終わった後ある試験が受けられない、今回は「長距離走者の孤独」「中原中也詩集」、映画「羅生門」、「アフターダーク」のいずれかを選択して読み或いは観て示された課題を1000字にまとめる、というものだが、それぞれが興味深いので取りあえず全部目を通してみてまともに書けそうなものを提出することにした。
まずは1959年に書かれたシリトーの作「長距離走者の孤独」を図書館から借りだして読んでみる。短編だからそれほど負担はない。有名な小説で大昔一度読んだような気もするが読み始めてみると殆ど記憶していない。
話はこうだ、パン屋の金庫を盗んで捕まり感化院に入れられた少年の話だ。足が速いのを認められたのか感化院では入ってすぐ長距離ランナーのトレーニングを受けることになり、結構な走力を発揮する。院長は彼なら全英長距離クロスカントリー競技で優勝できそうだと国会議員にもそう鼻高々に説明したりもして、われわれのために是非カップをとるよう主人公をけしかける。
社会的な地位のある院長の言葉に乗ってレースに勝てば自分にとっての約束された未来が開けてくる、しかしそれは院長のシナリオに載せられた人形として自分がふるまい続けるということにほかならず、それでは自分の信条に誠実な行動とは言えない、不良少年として感化院に入れられた青年の純粋な心が読む者に共感を与える。この院長のような考えの人はどこにでもいそうで、この小説の普遍性が損なわれないのだろう。何かの真実を明らかについている。でも描き方そのものがちょっとステレオタイプだ。
作者のシリトーはある時ランニングシャツで走る若者を見てこのタイトルthe lonliness of the long-distance runner(「長距離走者の孤独」)とだけ紙に書いてしまっておいた、あるとき出てきたこの文字を読んで一気に小説を書いたと解説にある。
どんなに苦しくとも自分ひとりの力で田野を駆けていく長距離走者、誰の指図も受けない自由がここにはある。更には、最後にわざと負ける自由をも持っている。主人公の少年はトップを独走した後、最後に誰の目にもわかる形でわざと勝を譲る。
1950年代はじめ、イギリスの経済は停滞し街にはいわゆる不良少年が跋扈していた。その時代に流れた「社会のくびきから切り離される自由」への欲求が伝わってくるような小説だ。
しかし今から読み直すと、もはやそう簡単に切り分けできる時代は過ぎ去ったようにも感じる、もっと多次元的な複雑な時代に入ってしまっている。世界がシンプルだった在りし日のいい話という感じが拭いきれない。もっと言えばちょっと古臭い。
時代とともに見方は移ろう、どうしようもないことなのだろう、「何時までも変わらぬ真実」は幻想のようにも思えてしまう。
何となくこんな調子では提出するには書きづらい、他のにしよう、そう思って次へ移っている。
コロナ騒ぎから離れて、こんな風に漂うように学んでいくのもまた面白い。
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