映画「羅生門」を見直す
放送大学の講座の課題になっているということもあって久しぶりに黒沢の映画「羅生門」を見た。Amazon primeに入っていたのをタブレットで見たのだが小さい画面でも雨にけぶる壊れかけた羅生門の映像が美しい。それにしても昔の映画を見ようとすると色々探ればレンタル屋に行かずとも見れる方法に行き当たることが多くなっているような気がする。図書館のライブラリには無かったがそのうちこれも補強され、作者に対する敬意を保ちつつ映像作品を社会で永久共有するという形に向かって流れていくように思える。
この映画は芥川龍之介の小説「藪の中」を元に作られたとされているが、小説もこの際読んでみると、映画らしく構成が作り替えられていることが解る。
旅の武家夫婦が山中で多襄丸という盗人に襲われ夫である武弘が死体で発見される、何があったのか、捕えられた多襄丸と襲われた武家の妻、及び死体となった武弘も巫女の口を借りながらそれぞれに検非違使の庭で証言するが、それぞれに己を美化した異なった話にして語る。死んだものまでが都合のいい話を語る、真実とは何なのだろうか、真実と思っていることの裏側はこんな話と同じではないのか、本当は作り上げられた話を人は真実と思い込んでいるだけなのではないか。最も近くにいた人も真実を語るとは限らない。真実らしい話の集合体で世の中は動いているだけで真実は少し違うところにあるかもしれない、すべてをそう見るべきではないか、そんなところがこの話のテーマのようだ。
小説は3人の証言を並列して記すにとどめ、本当は何なんだろうとの想いばかりが残って少々もどかしい。映画ではこのところを第4の証言として、全部を第3者的に目撃していた杣売りの話を最後に加える。そのためだろう、映画では破れた羅生門でたまたま雨宿りする下人と旅の僧とに語る杣売りという形をベースに設定しこれをこの物語全体の骨組みとしている。杣売りの目撃談は本当らしい。しかしこの杣売りの話にも小さな嘘が隠されていることを下人が見破る。誰もが本当のことはしゃべらない、常に疑っていくほかないこの世の中というものを映画では小説よりも強く表現しているようだ。
この映画は確かに虚実のあいまいさという真実を突いているように見えるところが面白い。しかし考えてみれば実はそのことそのもの、本当らしい話でも真実は別のところにあるという見方そのものすらも、疑ってみるべきことのように思えてくる。全てはつかみ取ることのできない砂の上にある様だ。そんなことを思いめぐらさせてくれるこの映画は確かに名作なのだろう。
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