ギンズブルグの徴候
放送大学の文学批評の講座には色々学ぶことが多くて試験も終わって全て終了した後でも何か書き残したくなる。 例えば「徴候」という概念がある。この概念についてはカルロ・ギンズブルグの著作「徴候-推論的パラダイムの根源」(1979年)に細かく記述されている。
要するに「神は細部に宿れり」の概念だ。
細部の観察、例えば爪や耳たぶの描き方が絵画の作者鑑定で重要なポイントとなることは1875年頃イタリアの医者であったモレッリが変名を使って指摘しており、この手法によって美術館の有する沢山の作品が作者名の変更を余儀なくされたという。この頃コナンドイルの書くシャーロックホームズも同様に些細な細部の観察から全体を組み立てる手法で真実に迫っている(1890年頃)。またフロイトもモレッリの評論を読みこれに影響されて精神分析という考え方を固めていったことを認めている(1883年頃)。モレッツ、コナンドイル、フロイトに共通なのは医者であったということで、細々した症候から病気を正確に言い当てる症候学に強く影響されていたともいえるようだ。
このような推論的パラダイムの流れにのって出てきたのが 「神は細部に宿れり」というA.ヴァールブルクの有名な言葉(1925年)ということができるようだ。確かにこの言葉は彼のものだが概念そのものは彼が新たに言い始めたものでも何でもない 。
時代をさらに辿れば人類が狩猟時代に獲物の足跡や糞などを細かく観察することから獲物が何でありどんな状態でどのあたりにいるかを推察して狩りをしていたというあたりに行きつくものともいえるだろうとギンズブルグは記述している。
彼の評論を読むと、この推論的パラダイムが歴史を下って行きつくところの一つが指紋による個人の識別ということになるらしい。個の確立という社会的流れもこの概念があったればこそということの様だ。
しかし考えてみるとこれでは細部にこだわりすぎるような気がしてくる。ギンズブルグは今までにない新しい視点で歴史を見るという立ち位置からこのような概念に拘りを持ち続けたようでもある。もっと怒涛のように流れる流れも、或いは流れこそ、物事の核心に迫るということが多々あるのではないだろうか。
「神は様々なところに宿る、勿論細部にも宿る」位がいいところのように思えてしまう。そうなのだろう。
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