駕与丁(かよいちょう)公園に行ってみる
特に予定もないので思いついて10時過ぎに少し気になっていた糟屋町の駕与丁(かよいちょう)公園に行ってみる。ネットでオオノスリの記事に駕与丁公園のハッシュタグが付けられていたのが気になった一つだが、ネットの紹介記事を見る限りオオノスリがいるとは思えない公園のようだ。しかし大きな池の周りの公園のようで兎に角どんなところか行ってみようという位で出掛けた。新二又瀬橋の交差点を右に折れて東の方へ暫くいくが全体にクルマは混んでいる。少し右寄りの道を行って「かすやドーム」の先を右に折れてバラ苑のところにあるはずの駐車場に向かう。と、駐車場への道が通行止めになっている。しょうがないので周回を続けて次の"半島"のところにある駐車場にとめる。半島からバラ苑に向かう橋は土台だけが残っていて橋はない。地震で落ちたということ??,よくわからない。 昼食をとって、池の鳥を見るがユリカモメとヒドリガモばかりだ。対岸に当たるかすやドームのほうにも鳥がいるようなのでまたクルマで周回を続けドームの駐車場に入れる。ぶらぶらしていると、のんびり遊歩道を周回する人が次々に過ぎていく。鳥は先程と同じような感じだ。大体わかった。それにしても駕与丁とは何だろう、落ちた橋はどうしてなんだろう、疑問符が幾つもわいてくる場所だ。
戻って少し調べ直す。先ずは駕与丁だ。ネットで調べると駕与丁公園にある駕輿八幡宮の由来を書いた看板に、ここに昔 駕輿丁座(かよちょうざ)があって江戸時代にこの池を作る頃まで座の人々がここに住んでいたということからこの名前が残っている、と書かれている。駕輿丁座とは何か、また調べる。もともと奈良時代以来朝廷に属した下級官吏で、天皇・皇后等の皇室の輿を担ぐことを仕事としたのが駕輿丁(かよちょう)であった。仕事がそれほどなかったのか、時代が下るとそのうち駕輿丁座として専売権を持つ商工業従事者の組合となっていったという。扱ったものは米や材木、唐物、その他多岐に渡っていたようだ。秀吉は専売権の廃止を指示したが地位が確立されていたのか座は残ったということの様でもある。関西にあるのが当然のような駕輿丁座が何故ここにあったのかはよく解らない。この地に天皇が行幸した時に輿をかつげるように配置していたのだろうか。そういう理屈で大陸との交易の場であるこの地域に取引を取り仕切る座ができたのだろうか。
全国で駕輿丁の地名が残っているのはここだけというから貴重ではある。流れ着いた歴史がある。
もう一つの橋の謎は、少し調べるとややわかった。
橋はみずとり橋といい、1997年4月に竣工、2014年12月に崩落、地震があったわけではなく突然墜ちたようだ。設計施工に問題があったと思われるが原因詳細は調べた限りでは公表されていないようだ。
吊り橋の一種だが吊り線の代わりに床板の中を通るケーブルで吊るという構造のようで 詳しくは竣工時に出ている ((「PC3径間連続吊床版橋(水鳥橋)の設計・施工 Design and Construction of Three-Span Stress Ribbon Bridge(Mizutori Bridge)」著者 : 渡辺正勝 (福岡県粕屋町役場) , 烏野清 (九州共立大) , 岡崎洋 (マエダ) , 左東有次 (富士ピー・エス).))というレポートに出ているようだが入手できていない。橋の崩落は興味深い。随分前、米国シアトル近郊のタコマ橋というのが風により一種のフラッター共振を起こし崩落した、映像は設計者が崩落時現場に居合わせていたこともあり映画として残っていて後の世の教訓となって印象的だった、この橋も大きな教訓が残されたものと思われる。公表されるべきなのだろう。
コロナで遠くに出かける訳にもいかず10km半径くらいの範囲を動いているが、それでも結構色々なことを学ぶ。学び続けるのが生きていくということかもしれない。
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