コロナの本質は何なんだろうかとつらつら思う
コロナのことを何でも書き残そうとまた書いてみる。
図書館も今日から今月一杯コロナで閉館となった。閉まる前の図書館でふと見つけた「世界一周恐怖航海記」という本を今読んでいる。車谷長吉という作家が著したクルーズ船旅行記ということになが、車谷という作家はよく知らないというか全く知らなかった。知ってる人は知ってるようで、20年くらい前に直木賞をとった作家らしい。
15年くらい前の旅行記で、コロナの時代となった今の視点で見ると古き良きクルーズ船旅行の時代の道中記と映る。
実名で関係者の名前が次々に出てくる。個人情報に敏感な今から見ると何だかわきが甘い。そう思って今に至る時代を振り返って見ると、インターネットで個人が大量の情報に簡単にアクセスできるようになった辺りから、人と人の結びつき方が次第に形を変えてきたように思う。
葉書や手紙でなくメールやラインのやり取りが増えた、それだけ情報が拡散しやすくなった、匿名で攻撃することも容易にもなってきてしまった、その結果と言うべきか、電話帳が個人情報リストとして役に立たなくなってしまった、同窓会名簿がクローズになってきた、小さな会でも住所録リストは勿論会員名簿も会員内にも公開されないようになってしまった、年賀状も減少の一途だ。何らかの形でつながりのある知ってる人としか通信できないような社会形態になりつつある気がする。意見を同じくする人のみが固く結ばれ他者との接触がクローズされたサークルが形成されやすくなってきたようだ。社会を形づくっていた個と個との結ばり方が切れやすくなってきたようでもある。そこへコロナだ。
コロナはこの流れを決定づけた。知らない人とは距離を置く、が拡がり、個がバラバラにさせられてきた。これは今まで高まってきた潮流を決定的に後押ししているに過ぎないように思えてしまう。人類はバラバラにされれば生き残れなくなっていく。弱くなる。争いも起こる。
コロナウイルスの騒ぎが始まったころはDNAの特異な形からこれは人工的に作られたウイルスとしか考えられない、といった主張がいくつかの研究者から提示されていたがそれは政治的にはあまりにも危ない表現となるせいか、このところ言われなくなってしまった。しかし、真実を突いていたのではなかろうか、未だにそう思っている。敵を弱らせるにはこんな風に人の繋がりをバラバラにしていくウイルスが有効なのではないか、といった研究が実は各国でやられていてその故に対策ワクチンがするすると米英ロ中という、いわばきな臭い国々からたちまち大量供給されるようになったということではなかろうか。生物兵器の専門家は誰もが知っているだけにこの舞台のからくりを語ろうとしないようにも思えてくる。
もう随分前から人間社会は見えざる手に導かれて自らが滅びの選択をしてしまっているのではないか、と思ってしまう。突然のように見えるコロナ騒ぎもその脈絡の上に乗っているだけなのではなかろうか。
旅行記の方は、何だか行間に滲み出る自慢話を読まされているような気がしてきて読むのが辛くなり途中でやめてしまった。
今は緊急事態宣言下の梅雨をどうやってやり過ごそうか、そればかりが頭を占める。
本当にどこへ向かっているのだろうか、我々は。
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