和歌を学んでみようと
放送大学で半年に1つずつ学んでいるが今期は和歌としてみた。「日本文学と和歌」という講義だ。NHK和歌に半月に1回投稿して入選したこともあるが最近は惰性で作っていて、一度和歌とは何かというところをきちんと学んだ方がいいのではないか、と思っていた、そのあたりがこの講義をとった動機といえるのだろう。数日前に試験答案も送り出して終わったところだが、さて何だったのだろうと振り返ってみる。
万葉から江戸期までの和歌がどの様に詠まれてきたか、という短歌の歴史的経緯を学ぶのが中心となる。
学び終わって振り返ると、武家が支配する時代は天皇・公家は和歌の編纂にばかり力が入っていたようにみえる。そこに存在の価値を込めていたのだろうか。新古今和歌集の後の南北朝から江戸に至る時期の和歌など注目したことが無かったが、形式に堕せず現代的な率直な歌が幾つも見られて少し驚かされる。例えば14世紀に登場した京極派の中心人物と目される光厳院のともしびのうたに、
ともしびに我も向かわず灯も我に向かわずおのがまにまに
とあったりする。
古歌に とらわれず表現が直接的で現代に響いてくるようにも感じられる。
古い歌を踏まえた歌というのが歌道の基本にあったと思っていたが、そんな時ばかりではなかったようだ。古歌を学ぶにしても、うたの言い回しというよりその古歌をを読むに至った作者の心の動きを学ぶべきだ、との教えが尊重されたりもしたようだ(和歌嫡流の二条家・二条為世の弟子であった和歌四天王の一人、頓阿による教え)。
和歌の歴史そのものが生き生きしているように見えてくる。
学んでいくとどうしてもこの和歌という形がどうやって成立していったのか、万葉仮名で音を写し取って万葉集が成立したように、文字伝来以前、語る言葉のみを用いて和歌が成立していたのは明らかだ。それは何処から来たのか、とどうしても疑問になる。この講座の範囲ではカバーされておらず、講師に質問すると、<うた>起源考 藤井 貞和/著 という本を紹介されて図書館から借りだして読んでいる。
読むと、外から来たとすると南インドのタミル語のサンガム詩に強い類似性が見られるという説が紹介される。大野晋によるもので日本語そのものとタミル語の類似性の指摘とともに語られているようだ。著者も無視できない説としており、共通の祖先を持つのかもしれない。南回りに言語文化が波及したという見方は10万年前のホモ・サピエンスの出アフリカから東進して来た人類の歴史を示しているようにも思えてくる。
またいろいろのことを学んだ気がする。学び続けることが生きるということかもしれない。
| 固定リンク
コメント