メレル・ヴォーリズの生涯を読む
思い返せばヴォーリズの名は戦前からの建築家として今参加しているサイトで10数年前に教えられた。関東では建築を見る機会がなかったが、ここ福岡では西南学院の旧本館・講堂(現ドージャー記念館)がヴォーリズの手になる建築物として福岡県の文化財に指定されている。ヴォーリズは米カンサス州出身、マッカーサーと同じ年(1880年)に生まれ同じ年(1964年)に亡くなっていて、同じように日本と深く関わっている。その生涯を記述した本「失意も恵み-ウイリアム・メレル・ヴォーリズ」 がたまたま図書館で目について借りてきて読んでいる。なかなかの一生だ。
24才でYMCA派遣英語教師として来日後、近江八幡を中心にキリスト教伝道活動を展開した。派遣教師の契約終了後も伝道活動を続けようとしたが収入を絶たれその一助として教会などの建築設計を引き受け始めた。建築設計に強く惹かれていたものの専門的に建築を学ぶことができなかった事情がありほぼ独学で学んでいたが、かなりの素養があったようで、教会や学校などの建築を中心に仕事を広げていっていった。他方でメンソレータムの国内での製造販売会社も起こしている。理念の根幹はキリスト教の教えで金儲けとは全く縁遠い事業だったが、結果的に事業としても成功している。資金や人材は米国の篤志家からの寄付と集まってきた志のある人材によっている。夫人の一柳満貴子とは東京での廣岡家の仕事でたまたま出会ったのが縁だというが、一柳満貴子は大正天皇(1879生 )の親しい学友(一柳 剛、1879生)の妹で、ヴォーリズ夫妻は結婚後長くそして深い皇室との付き合いがあった様だ。ヴォーリズは天皇家に対する敬虔の念が強かったとも書かれている。人間的な魅力があったのだろう、つながってくる人が限りなく広くそして厚い。
開戦前に日本国籍を取得、戦時中はメンソレータムが軍需物資指定となりそれなりの社会的役割も果たしている。終戦直後、近衛元首相からの依頼が発端で昭和天皇(1901年生)とマッカーサーとをつなぐ役目も果たしたという。何回か天皇やマッカーサーと個別に会って話をしている。最後は前の東京オリンピックの年にオリンピックを見ることもなく83歳で亡くなった。
単なる建築家ではなかった。信念のままに神に身をゆだねるように生ききっている。
キリスト教伝道で異国に入り込むということにはそれが帝国主義の先兵だった時代の印象が強くあり、ポジティブに受け止めることは難しい気がしていた、でもこんな人もいる。キリスト教の原点を抱き、愚直に生きてその役割を見事に果たしている。
宗教というものはどうしても好きになれないが決めつけるものでもないようだ。心を自由にしてあらゆるものを見ていく、それさえできればいいのかもしれない。
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