ドライブマイカーのシナリオを読む
今年のオスカーの作品賞候補に日本のドライブマイカーがノミネートされたと1月ほど前に伝えられて、それでは村上春樹の原作でも読んでみようと図書館に予約するととんでもない待ち行列だ、これではオスカー当日までに読むことはとてもできない。映画館まで観に行くのはコロナも収束していない状況ではそこまでは、と思ってしまう。他の手は、と思うと、そうか、映画シナリオを読むという手があるはずとばかり図書館で検索する。雑誌シナリオに、この映画のシナリオがそのまま掲載されている号(「シナリオ」2021年11月号)があることがわかり早速予約した。こちらは待ち行列もなく数日で準備ができたと連絡がくる 、すぐに借り出す。2週間半くらい前のことだ。原作は短編だけに映画は随分いじられているとのネット情報もありシナリオを読むのが映画を見る以外ではこの作品を理解する最も良い方法であるようにも思えた。
読み始めるとすんなりは物語の世界に入っていけない、自分のいる世界と随分違う。主人公である家福の作り出す舞台が多言語世界を特徴にしているというのにも驚く。舞台の主役が日本語で喋るとタガログ語がかえってくる、それを双方理解しているという前提で芝居が進む、観客は表示される字幕で会話を理解する、言語は、韓国語であったり北京語であったり英語であったり、ろうあ者の手話であったりもする。多様性に満ち満ちている。ここらあたりがアカデミーの評価が高いのかもしれない。
芝居のオーディションをし稽古し上演する現地広島では家福のクルマを運転する専属のドライバーが準備される、若い女性でみさきという、とても運転がうまい。家福は宿と稽古場の往復のクルマの中で、亡くなった妻が読み上げる今回のシナリオ「ワーニャ伯父さん」のテープを聴いて主役としてセリフを語ることを常にやり続ける。また くも膜下出血で突然亡くなった妻が作りかけていたテレビドラマの筋書きの話も絡まるように出てくる。更に芝居の主演者高槻(亡くなった妻とも関係していた)が傷害事件を起こして劇の上演がピンチに追い込まれるという現実も起こる、一方、ドライバーのみさきは母を土砂災害によって目の前でなくした過去を抱いている、要するに一見関連のなさそうな物語がいくつも重層的に埋め込まれている。妻を救えなかった家福、母を救えなかったドライバーみさき、その痛みを互いに明らかにし認め合う。芝居は主役を高槻の代わりに家福が演じて予定通り上演される。
最後が唐突だ。韓國釜山のお店にみさきがその車で買い物にくる、その後部座席には、広島での舞台をアレンジしたユンス夫妻(その妻はろうあ者として劇に出演)と共にいた犬と同じかもしれない犬が乗せられている、というシーンで終わる。何の説明もない。広島での舞台が釜山に場所を移して続いていっているということのようにも思えてしまう。新しい家族のようなものとして、ということかもしれない。
やはり映画を見てみなくては、と思ってしまう。みても分かったような、分からないような、という映画的経験を与えてくれる作品のようでもあるが。
オスカーの作品賞は結局「コーダ あいのうた」がとった。ろうあ者がろうあ者の役で存分に芝居をしている作品らしい。ドライブマイカーは外国語映画賞(国際長編映画賞)をとった、アカデミー賞の受賞であることには変わりない、立派だ。この流れを見ると今年のオスカーは多様性がキーワードだったように思えてしまう。そういう時代なのだろう。
しかし受賞中継で次々に紹介される各種候補作品はコーダやドライブマイカー以外の殆どの作品が、バタ臭い、いかにもハリウッドという雰囲気に満ちている、ここでの価値観が世界標準ということでもないな、そう思えてしまう。アカデミーも必死に変わろうとしているのかもしれない。