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2022年11月30日 (水)

川端の自殺を扱った小説「事故のてんまつ」を読んでみる

三島由紀夫が市ヶ谷で割腹自殺してこの25日で52年になった。そんなこともあるのかWowowで「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」という2020年につくられたドキュメント映画が放映されたりしていた。もうそんなに時が過ぎ去ったのかと思う、その場に観客としていた当時のことを思い出しなJikonotenmatu がら見ていたが、そういえば三島と川端康成は三島が学生の頃川端のところへ押しかけて以来師弟のような間柄で交際が続いていた、川端の自殺は何だったんだろうか、と思い至った。少し調べると川端の自殺に至った経緯を 事故のてんまつ という小説にして臼井吉見が書いている、と引っかかる。言われてみれば 事故のてんまつ の名前は薄っすら記憶にある。市の図書館の蔵書を調べると借り出せることが分かって早速借り出して読んでいた。この小説の主人公となる語り手は安曇野の植木屋の娘縫子(仮名)で川端に見込まれてお手伝いさんとして川端家に6か月の約束で出向いていた。川端は縫子を運転手として重宝に使っていて手放したがらなかったが縫子は嫌で延長をきっぱり断った、落胆した川端はその日の夕方に自殺している。殆どが事実のように書かれていて主人公の縫子やその周りの人は仮名だが川端など名の知れた人はすべて実名で登場してくる。何で臼井吉見がこんな小説を、と思うが調べると臼井は安曇野の出身で、安曇野をめぐる事件に並々ならぬ関心を寄せたものと思われる。もしかしたら件の植木屋も縫子も知っていたのかもしれない。あとがきには貴重な資料を得たことが執筆のきっかけと書いていて、縫子から日記のようなものを渡されたことをにおわせているが、どこまでが真実かわからない。
日付を逆に追っていくと

1972年(昭和47年)4月16日に川端康成自殺
1971年11月* 縫子、6か月間の約束でお手伝いとして川端家に来る(1972年4月一杯までの約束とみられる)
1971年(昭和46年)4月11日に投開票された東京都知事選挙で川端は美濃部に対抗する秦野を支援、応援演説も行っている。
1971年(昭和46年)1月24日、川端は築地本願寺で行われた三島由紀夫葬儀・告別式の葬儀委員長を務める
1970年(昭和45年)11月25日 三島由紀夫割腹自殺、直後川端現場を訪れる
1970年(昭和45年)5月12日 川端とその誘いで東山魁夷、井上靖 の3巨頭が、安曇野を訪れる。この時に件の植木屋に寄ったと事故のてんまつに記されている。

1969年(昭和45年)5月13日 東大駒場キャンパスの900番教室 三島由紀夫vs全共闘の討論

1968年(昭和43年)10月17日、川端の日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定した。

(* wikipediaの記述では縫子が川端家にお手伝いとして行ったのは1970年11月からとあるが、1971年の間違いと思われる。事故のてんまつの記載でも3巨頭の安曇野訪問の同じ年に川端家に行ったことになっているが、都知事選挙の後とも書いており、事故のてんまつの日付の記載もおかしなところがある。全体を整合的に見るなら1971年としか考えられない。)

結局川端の自死と三島の自死との関連は解らない。三島葬儀の後に行われた都議選でも急に秦野の応援演説を引き受けるなど、それまでの行動よりも政治的な動きになっていたようにも感じられるが自死までに至るとは考えにくいような気がする。お気に入りのお手伝いさんが延長依頼を拒絶した件は直接の引き金になった可能性があるようにも思えるが、底流に死に向かうものがあったればこそ、の感がする。それは何だったのだろうか


やはり自殺の理由はわからないというしか言いようがない、そう思えてしかたがない。

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