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2023年1月20日 (金)

量子物理学を放送大学でとってみたが

半年に1つずつ放送大学の科目を受講して学ぶというのをもう10年近くやっているが、面白い。

今回は量子物理学を学んでみた。たまたま図書館で朝永振一郎の文庫本「量子力学と私」をみつけて読んでみると結構生々しくて面白く、機会あれば量子物理を学んでみたいとほのかに思ったのが直接のきっかけということになるが、量子の存在が世界の根源に位置するような気がしてずいぶん昔から頭の片隅に引っかかっていて気になっていたような気もする。放送大学で半年学んだとてとても理解できるものではなさそうな気がしていたが、試験も終わって振り返ってみても、わかったという感情を持つにいたるには相当にまだ道が遠い気がしている。何が故にそう思ってしまうのか、と思い返すと色々言い訳の様な言葉が浮かんでくる。とにかくひっかかるのが、言葉だ。量子物理で当たり前のように用いられる記号や言葉、いちいち、いったい何なのだろうと思ってしまう。本当の始まりからそんな有様で、ついていけなさ感が募ってくる。例えば、ブラとケットだ。1930年に出版された量子力学の初めてのといってもいい教科書、ディラックの「量子力学」に登場してくる表記法で、状態ベクトルであるケットに演算子で演算するという行為を表すのに便利なように考案されたようだが、放送大学の講義の説明ではケットに対応するブラの方は一体何なのか、わかりにくい。状態ベクトルであるのは同じだがケットと何が違うのかと思ってしまう。放送大学の教科書では双対ベクトル空間の元である、とあるだけで、それで?、と思ってしまう。ディラックの教科書にある <A は A>の共役虚という言い方のほうがまだ解った気がする。ディラックはa²+b²=(a+ib*(a-ib) の因数分解の形が好きなのではないかとも思ってしまう、所々でこのやり方が顔を出す。このほかにも数学者には普通なのかもしれないが∂μはxμによる偏微分とか、∫dxLは∫Ldxと同じだとか、面食らうことが多い。あげだせばきりがない気がしてくる、記号表や言葉の定義表がつねに傍らにあればという場面が多いがそれはない、解りにくい、ということになる。慣れればそんなものという別世界の様だ。

最も驚くべきことはこの難解とも言える手法でしか表現できない事物が万物そのものだというところにある、光も電気も金属もなんでも、がだ。コンピュータもスマホもLED照明も超電導も新しそうな技術はなんでも量子の働きを理解してそれをうまく活用しようとしているところから生まれあるいは改良されてきているようだ。この奇怪な量子の世界と人類は未来永劫付き合い続けなければならないというのも考えてみれば驚くべきことのようにも思えてくる。

とにかく試験も終えて一区切りだが、生きている限り学ぶことは止められないようだ。

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