フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」の後で
フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」の後で を読んでいる。
冬は本を読む時間を取りやすい。適当に何冊かを読んでいた時この本を引用していたり紹介していたりする場面に幾度か出くわしてこれは読んだ方がいいかと図書館の予約の列に並んでみた。先週やっと順番が回ってきて読んでいる。マチルデ・ファスティングというノルウェーの経済思想家の質問に答える形で進んでいく。フクヤマは何冊もの本を書いており、質問者はそれらを取り上げながら問いを発し続けていくので、フクヤマが全体として言いたいこと考えていることが直接的に語られていて手間が省けるという気がしてくる。
まずは「歴史の終わり」とは何か
、これは簡単で、自由民主主義(liberal democracy)がこれからも含めた人類の歴史の中で最後の政治体制となる、ということだという。一昔前は左派のインテリは共産主義が最後の形と考えていたが今そう考えるものは誰もいない、というわけだ。なーんだという感じだ。

では、世界の色々な国が自由民主主義になかなか到達できないのは何故か、ということになる。それを何回も形を変えて質疑応答している。自由民主主義が根付くにはナショナル・アイデンティティに基づく国民国家と強固な制度を固める体制が必要で、歴史的には権威主義などの形を経て最後に到達できるもの、と答えているようだ。
ナショナル・アイデンティティという言葉が曲者で、これはフクヤマがニューヨークという街で育ったということが大きく関係しているように思える。この地ではアメリカ人とはアメリカとしての共通の理念を共有する人という考えが強く人種や出身国、宗教などの重みはほとんど感じられないという、このイメージがナショナル・アイデンティティということなのだろう。偏狭なナショナリズムとは明らかに違うものだが、かなり近いところにあるような気もする。ナショナル・アイデンティティがあってのその基盤の上での自由民主主義ということのようだ。
更に腐敗を抑え込む体制というのが重要と何度も述べているように見える。権威主義が倒されてさあ自由主義だとなると、不正が横行し体制を私物化しようとする動きが現れてくる、これを排除しなくてはうまくいかない、としている、確かにそうだ。ここでつまずく国が多いような気がするし、もう大丈夫となってもまた腐敗が頭をもたげるようにも思える。
自由民主主義に対する脅威としてはポピュリズムの拡散をあげている、偏狭なナショナリズムなどで多数の支持を得て権力を握ると権力を私物化し制度や司法を破壊していく、というのがその特徴としている。現代の社会の仕組みを、そうみればいいのか、と説明してくれるところが、読んでいて気持ちがいい。
EUのような各国をまとめて統合していく方向に未来があるという見方には否定的で、ナショナル・アイデンティティが曖昧な形となってうまくいかないだろう、としているようだ。EUの人々がフランス人やドイツ人でなくヨーロッパ人という意識を強く共有できるとは思えない、ということのようだが、この本はウクライナの戦争が始まる寸前に書かれており、現在ではヨーロッパ対ロシアという形が明瞭になってきて、この戦争がEUの理念を強めてきているように思えている。今フクヤマに聞けば別の答えが返ってくるかもしれない。
また、経済学という学問では経済的利益最大化で行動する個人というモデルの上で学問が組み立てられているがそれは正しくない、個人の行動の原理には、個人の価値や尊厳への承認要求を満たすという個人の魂が大きく関わっている、(これをテューモスというプラトンの表現で表している)、これを考慮に入れない規制緩和などを軸とする新自由主義経済は、富の集中・格差の増大などの社会的歪を生み、うまくいかなくなる、ともいう。
なかなか面白い本だ、フクヤマは非常に多くの本を読み込んでいると感じられ社会の仕組みや出来事のなりたちによく考えが廻る、知の巨人という言葉がふさわしい人のように感じられてくる。
それにしても最近感じる、日々の買い物に顔を出す店の小さなごまかし、政府の広報の小さなインチキ、通産官僚によるコロナ補助金不正受給、自衛隊員が闇バイトで強盗一味に加担、といった今までは目にしたことのなかった社会のほころびが、そうか、これがフクヤマのいう腐敗の始まりか、こういう風にして自由民主主義体制は崩れはじめていくのかもしれない、と頗るリアルに感じられてくる。
いい本だ。
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