メディア論を放送大学で学んでみたが
放送大学は今期はメディア論というのを取っていて、もう試験も終わって一段落だが、振り返ってみて何だか物足りない感が残っている。メディアの現在進行形が教える方にも学ぶ方にも同時に響いてくるという状況が、改めて学ぶという感覚を損ねているのかもしれない。メディアについての意見は人それぞれで未だに確固た る論が形成されているというほどでもないグニャグニャした状況ということなのかもしれない。せっかくだからいくつか本を読むかとマクルーハンの「メディア論」、「グーテンベルグの銀河系」「グローバルヴィレッジ」を図書館から借りてきて適当に読み始めたが、ちょっとがっかりしている。難解なような思わせぶりな鎧を着た空疎な内容のように感じられて、読み進むのはいい加減なところで止めている。これは今や骨董品だ、ここから真面目に学ぼうとするのは時間の無駄だ。現代のメディアの存在は明らかにこれらとは随分と違ったところを走っている。
なぜこうも無責任にメディアは人を導こうとするのか、昔から言われていたことだが自分のすぐそばで起こった事件が世間に報道されていくのを見た経験がある人はほとんど報道は間違っている、あんなもの信じてはまずい、という感想を抱くということらしい。なんでそのような存在でメディアはあり続けるのか、メディア論を学んでも全くというほど解らない。言葉そのものの持つ何かがあるような気がしている。
和歌もメディアであるという。和歌を時々作ったり読んだりしているが、本当の気持ちがのりやすい形式のように感じている。家族が歌人で構成されている場合、手紙よりなにより和歌が生の気持ちを最もよく伝えるとある有名な歌人が書いていた。そう思う。何かその辺りに信頼されるメディアの形のヒントがあるような気がしている。
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