「新しい戦前」を読んでみて別のことを想った
「新しい戦前」」という本が話題らしいので図書館の予約の列に並んで借りてみた。どうも著者の内田という人は全共闘時代の生き残りのような感じで当時の活動の残滓を引きづっているように感 じる。もう一人の著者の白井という人はよく解らないが新しい全共闘時代という感じがしないでもない、古い言葉だが新左翼という言葉をどこか思い浮かべてしま う、勿論今や全く左翼ではないが。両者の対話が内容のすべてだが、対話という形が、堅苦しく独善的になりがちな内容をそうさせないでいるせいか読みやすい。米軍の占領が今も続いているとみるべき対米追従に対する指摘など全くそう思っていたと共感するところは多々あるが、読み終えると、それで、と思ってしまう。対談の中に出てくる破壊はたやすいが作り出すことは簡単ではないという言葉のとおりで、破壊的な主張がこの本の内容の多くをカバーしており、それでどうする、というところが見えにくい。まあそれでもこんな視点を打ち出すことは大事なことだとは思う。
つらつら考えるに、反共、というコンセプトで戦後はずっと進んできてソ連崩壊とともに、形が見えにくくなったが、考えてみれば東アジアに限ってみれば、中国、北朝鮮と、いまだに頑張り続けている共産主義体制が健在でそこに過度の対米追従の必要性があったとも思われてくる。ここへきてロシアが独裁制を確立しそうで、それが中国、北朝鮮の旧態依然の共産党独裁の落としどころになると両国が気づき始めているような気がしている。反共ではなく反独裁の塊のリーダーとしての米国に追従すべき存在価値があるということが今の形態を引きずっている大きなドライブになっているのかもしれない。ところがトランプの登場で米国にも独裁的振る舞いのリーダーを求める勢力が多数となりつつある時代になってきて、さあ日本はどうする、というのが今の時代と見ることできるのではないか。民主主義が行き詰まり国連主義が行き詰っているのがこの世の姿でそれに対する回答が得られないままに進んでいってしまっているというのが今のこの世なのではあるまいか。
日本に残る強さは天皇制というところに最後行き着くのかもしれないという気がしている。独裁ではないが完全な民主主義でもない形態の可能性がそこに残されているというのが日本の強さなのではなかろうか。
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