邪馬台国がリアルに感じられて
野方遺跡というのを最近見に行って、また邪馬台国が気になり始めた。またというのはこれまでにも何度もということだが、今回はそのリアリティゆえだ。
野方遺跡というのは福岡市西区にある弥生後期・古墳時代の住居跡遺跡だ。
これまで邪馬台国というと胡散臭い架空の世界との感じがどこか漂っていた。これが邪馬台国の遺跡ですというものにお目にかかったことはなかった。ところがここへ来ると、これ は紛れもなく邪馬台国の遺跡といっていいと感じる。というのは例の魏志倭人伝だ。正確には西晋の時代に陳寿により編纂された古代中国の正史「三国志」巻30の東夷伝の中の倭人伝を指し日本を記述した最初の歴史書とされる。後の南朝宋の時代にまとめられた後漢書も魏志倭人伝の記述の多くをたどっているようだ。魏志倭人伝では女王のいる邪馬台国への道筋を書いているが対馬・壱岐・松浦・伊都・奴 と距離方角を示しながら来るがその先は南に邪馬台国水行10日陸行1月と書かれているばかりで、はっきり書かれていない、のちの邪馬台国論争のもとがここにあるのだが、逆に言えば奴までは女王国に属すると明記されているのでここまでの国が邪馬台国の一部であることは確かということになる。この野方遺跡の集落は伊都国の東の入り口に位置し伊都国の一部と考えられている、出土品から1800年から1700年前の時代の住居跡とされており丁度卑弥呼時代の遺跡ということになる。どうみてもリアルに邪馬台国遺跡の一部だ、議論の余地はない。
この機にと魏志倭人伝や後漢書を読んでみるとなんとなく感じがつかめてくる。魏志倭人伝/後漢書では中国側の役所のある楽浪郡から女王のいる邪馬台国までは1万2千里、楽浪郡から朝鮮半島の端の狗邪韓国 までは7000里、魏志倭人伝では松浦までの3回の渡海で3000里、松浦から奴までは600里とあり単純計算では残りは1400里ということになる。対馬と松浦の間の距離より大分近い距離だ、邪馬台国が近畿にあるというのは相当無理な解釈のように思えてしまう。水行10日陸行1月という記述は楽浪郡からの日数を書いたものという説があってまさかと思っていたがこれが本当らしく思えてくる。とにかく当時中国と行き来していたのは九州の邪馬台国で東の倭種の国ではなかったと解釈するのが素直な読み方のように思えて仕方がない。
九州へ来ると古代史が身近にある、どうしようもないことなのだろう、それに浸っている感触が面白い。
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