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2024年8月 1日 (木)

暑い日が続いて久しぶりに九響を聴きに行く、シーララのピアノがさすが

7月はコンサートの日程が合わず月末にやっと九響/シーララの演奏を聴きにアクロスまで出向いた。早めの夕食を天ぷら屋でとって会場に入ると人の数の多さにちょっと驚いた。ほぼ満席だ。次回の9月の定期演奏会の切符を会場の臨時売り場でとったがこれも随分な売れようでややきつめの席を選ぶ羽目になったQ423 。切符の売り方を変えたのだろうか、指揮者が変わっただけでなく色々やり方が変わってきているような気がする。演奏が始まると何だか変な感じがする、舞台右側が妙に空いていて、コントラバス、チェロが左半分に全部移動している、こんな配置は見たことがない。気のせいか弦の音域のバランスがいまいちで低音側が弱くなった気がするが、まあとにかく今までのやり方を変えてみる試みは歓迎だ、新しいより面白い形態に着地する可能性を秘めている。華だった首席トランペットが今回限りで退団というのも誠に残念だがこれも新しい展開が見えてくるやもしれない。全ては移ろっていく。
シーララの演奏するベートーベンのピアノ協奏曲4番だが、不勉強でこの曲は初めて聴く、一番驚いたのがピアノのトレモロが非常に心地よく延々と流れていく様だ、特に第1楽章の終わりのあたりだ。ベートーベンは作曲したのだから当然このトレモロピアノを弾いたに違いないがその姿がとても思い浮かばない、あの重厚なイメージのあるベートーベンが軽やかな単音連打のトレモロを弾き続けるというイメージが面白くて聞き入ってしまった。勿論シーララの巧みさがあってこの心地よい音の連なりが実現しているのではあるが。
アンコールはブラームスの間奏曲ィ長調作品118-2と帰る時に掲示されていたが、これは全く聞いたことのない曲だ、なんだかきらびやかなベートーベン4番で舞い上がる気持ちを鎮静させるような重さのある曲だ、バランスを取りたかったのかもしれない。この辺の選曲も面白い。
休憩の後はチャイコフスキーの悲愴交響曲だった、チャイコフスキーが自身の生涯を音楽にしたような曲で最後は死の静寂があたりを覆いつくす、終活が頭をよぎるような歳になるとこんな曲は生々しい、2曲続けて聞くには重い曲で少々疲れた、まだ拍手が鳴りやまない中席を立って帰路につく。 聴くだけの音楽になってしまったが音楽のある生活はやはり楽しい、クルマを走らせながらそんなことを思っていた。

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