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2024年9月 1日 (日)

伊藤比呂美の「いつか死ぬそれまで生きるわたしのお経」を読む

伊藤比呂美の「いつか死ぬそれまで生きるわたしのお経」を読んでみた。そもそもは伊藤比呂美の歌を文藝春秋か何かで読んでいい詩を書く人だと思って図書館の蔵書を検索したらこの本が出てきて予約したのがこの本に出合った経緯ということになる、予約してみて待ち行列の長いのに驚いた、随分な人気だ。何ヶ月も待ってもうどうでもよくなった頃順番が回ってきた、パスするのもあんまりなので取り敢えず借りることにして図書館に出向いたが、付録にCDが付いていて窓口のOkyouyy 人がこれも借りますかと念押しする、付録だから借りないという選択肢はなさそうに思うのだがと怪訝な思いで、借りますと答えて借りてきた、まだ聞いていない、自作の朗読のようだ。変わった本だ。
とにかく本の文の方を読みだした。
人生相談的な文が現れるかと思いきや本当にお経の現代語訳を自身で書いて次々に出して来る。信心など全くないと書いているがずいぶんな探究心を仏教に注いでいる。確かに坊主の唱えるお経は一体何と言っているのだろうとの疑問はいつもあった。般若心経は学生の頃お寺に泊まってグライダーを飛ばす合宿をやったことがあって何かのご縁ですからと朝のお勤めで毎日読経した記憶がある、一通りは内容の説明を受けたがもうすっかり忘れている。そのほかのお経はその内容に仮初めでも向き合ったことがない。わからないんでいいんだといった空気があるように思える。聖書やマホメットの言葉を誰もが理解しこれを拠り所にするキリスト教やイスラム教とは大違いだ。仏教経典であるお経は一体どういう内容なのだろうというのは長年知りたいことではあった。
般若心経の他には阿弥陀経や法華経のこれはという所が現代語訳されて出てくるが、何とはなしに死への向き合い方やブッダが教えを広めることの尊さを謳い上げるばかりのように見えて教えそのものに踏み込んでいかないもどかしさを感じてしまう。最後にブッダが死の直前に弟子たちに残した仏遺教経の現代語訳が出てきてやっとこういう風に生きなさいという教えが示される。なかなか立派な教えだが眠りをむさぼるなというあたりは要するになるだけ眠るなと読めてちょっと非人間的だとか、怒るなのところはそうなのだろうけれど余りに不当な仕打ちを受けても怒らないというのはこれも非人間的なように思えてしまう。歴史的には僧兵という組織があって僧が暴力をふるうことがあったがこれは全く教えを無視していたのだろうかとも思えてくる、仏教とは仏教の集団とは一体どの範囲までを指すのだろうかとの疑問が湧いてきたりもする。
読後感は、そういうことなのか?、ふーん、というものだった、何だか違和感がある。合間合間に著者の身の回りのエッセイが挟まれるがこれが生き生きしていていい、ということで全体としてはまあいい本かな、という気がしている。

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