福岡市に残る蒙古古戦場にいってみる
福岡というところは調べるほどに古い時代の歴史が刻まれているとわかる、多分大陸との接点に当たる場所であり続けたというのがその大きな理由ではあるのだろう。日本最古の水田跡遺跡があるのもこの地だし、下って白村江の戦いの頃には指揮した中大兄皇子が滞在したのも福岡の地だ。そこまでさかぼらなくとも元による侵略の本土最前線だったのもこの地だ。元寇防塁は有名だがその他にも元寇の古戦場が近くにあると分かり、行ってみた。早良区の祖原山だ。クルマで20分くらいで、公園になっていて付近のコインパークを見繕って駐車する。30数mの低山で上り始めると、いかにも日常的にここを歩いてるんですという風情の人数人とすれ違う、上り下りがあってコンパクトで運動にちょうどいいのかもしれない。すぐに頂上に着く、立派な碑がたっていて説明もある。読むと文永の役(1回目の元寇)で元軍が上陸後陣を張ったのがこの地であるとある。そういうことか、とちょっと納得する。戦は小高い丘 を占領して戦ったほうが有利だこれは洋の東西を問わない、定石通りの戦いを元は行っていたということなのだろう。この周りで激しい戦闘が行われたようだ。上ってみると確かにいい場所だ、海まで見張らせる(現在では海岸線は幾重もの建物の陰になるが)、それほどの高さではないので陣を展開するのも容易だと思える。文永の役では一日ここに陣を張っただけですぐに撤退している。理由はいくつもの推測があるようだが、日本側の抵抗が壱岐対馬とは段違いでこれは簡単には落とせないと感じたのもあったのではないか。台風被害が大きかったのは2回目の元寇(弘安の役)の時のようだ。
歴史的にはこの2度の元の攻撃を撃退できたことが神がかり的な防衛力がこの国にはあるという妙な過信を与え、先の大戦の大敗に至ってしまったようで、何が災いするかわからないと思えてくる。
この地に流れてきた時をリアルに感じていくと、今ここにあるあたりまえのような平和について考えてしまう。いつまでキープできるだろうか。
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