2018年5月17日 (木)

傘を治す

あまり傘は使わないのだけれど、雨が降りそうで散歩に出る時等にはポケットに入るくらいの軽い安い折り畳み傘を持ち歩くことがある。
つい半月ほど前 何かの拍子にこの傘の骨がぽっきり折れてしまった、安い傘で買い直せばいいのだが、ごみが増えるだけなので治してみる。物を「なおす」というと直すという字を使うべきだろうが骨が折れたとなると治すと書きたくて書いてしまう。

Kasanaos

アルミの骨格ということもありいじりやすい。折れた部分の継ぎ手となる釘を適当に探してきて骨の両側の溝に押し込み周りのアルミをペンチでかしめる。これだけで一応使えそうな感じになった。ビニールテーを巻いて継ぎ手の脱落を抑えて完成とした。曲がりが残るがちゃんと機能してほのかな達成感がある。これで使っていてまた壊れればその時は買い直せばいい。
壊れたものは直せばいい、また壊れれば買い直せばいい、買うのが金銭的にためらわれるようになれば何かをあきらめればいい、単純な生活を送っている。単純な透明な生活、望んでいたものに違いない。
しかしまだまだ捨て去ることのできるものを数多く抱えている。

Yotto

この春からヨットをやめた。未練があるが体力的というか体調的というかよほど安定してないともはや一日続けてはできないなと思うに至ったことによる。
フルートもばったり吹くのをやめている、やはり体調上、肺がきつくなるような気がしているためだ。
山歩きも体に負担を感じるほどにやれば内臓がてきめん不調になる、ほんの散歩+アルファくらいしか体が許してくれない。
ランニングは5kmのスロージョギングがいいところだ、少しピッチを上げて負荷をかけると心臓がリアルにおかしくなる。以前軽くできたと思っていたレベルの運動は次々に捨てざるを得なくなっている。しかし捨てても捨ててもやることはなくなりはしない。


Skii

スキーはまだ捨てた気がしないが九州に引っ越してからこのかた全く滑れていない。この地でスローペースでのんびりしたスキーをやるなどは到底できそうにない。北関東にいた時のように自宅を出て1時間半でちゃんとしたスキー場で滑り始められて3時間も滑れば満喫して引き上げる、そんなことはもうできない。この地ではまともなスキーといえば遠くまで出かけて行って泊りがけでマイペースで一日滑って戻る、こうなる、一人ではできそうにないし付き合ってくれる人もいそうにない。スキーも捨てたも同然だ。

こんなに捨てたのに何故か日々が気ぜわしい。まだ見ていないもの、訪れていないところ、なんでも見たり訪れたりしたくなる。寿命というものを見つめ始めている、そう感じる。ちょっと嫌だがそうなのだろう。何にでも正面から向き合うようにしていかねば、そればかりを思っている。

それにしても、傘を治す、単純なことだが、捨てるべきといつも迫られている心地がしている時に一つでもささやかに押し戻せたという感触があって、どこかいい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月 8日 (火)

昔住んでいたところを歩く

昔住んでいたところを歩いてみよう、ずっとそう思っていた。自宅から歩いて5分程のバス停から出る路線に乗れば乗り換えなしで行ける。又は最寄駅から西鉄電車で行ってもいい、簡単に行ける。それなのに福岡に引っ越してきて実際に訪れるまで5年かかった。いつでも行けるという気持ちがここまでずるずると引き延ばしてきたような気がする。
結局3週間ほど前のとある日思い立って全く唐突にふらりと出かけた。すぐ近くのバス停から駅行きが来ればそれに乗ればいいし間があれば少し離れたバス停からバスに乗ればいい、そんな風に思ってまずはすぐ近くのバス停の時刻表を見ると数分後に駅行が来るようだ。ラッキー!とこれを待って乗り込む。ミニバスだ。久しぶりに乗る、駅東口が終点となっていて、前に乗った西口で降りるのと行き方が少し変わっている。なんでも変わっていく。短い間にも世の中は動いていく。
次の
まで西鉄電車に乗る。
そういえばこの駅で降りた記憶が昔にもない、というか蘇ってこない,その先で降りるのが常だった。駅の階段を降りて出たところでも地理がピッと頭に来ない。暫く眺めまわしてああこっちだとわかる。
街角の記憶は薄っすらとしかない、写真があればいいがそんな写真は昔撮ってはいない。

Jinjyax

北へバス通り沿いに下っていくと右手の路地のずっと向こうに鳥居が見える。西鉄電車の高架線を越えた向こうに神社があるようだ。こんな神社は全く記憶にない。昔は西鉄電車が高架になっておらず土手のように盛り土した上を走っていた、そんなせいで土手の向こうの記憶が乏しいのかもしれない。とにかく人の記憶などあいまいなものだ。
川を渡る橋の少し手前を右に折れる。道の向こう側には駄菓子屋があったはずだが勿論今はもうない。近くの外車ディーラー大手のショーウインドーは健在だ。生き残る

Dagasiyaato

のは大手だけなのだろうか。右に曲がって進んでいくと昔ここらのどこか広い場所でラジオ体操を行ったと思い出すがそれらしい場所はない。変わってしまった。進駐軍の将校が接収して住んでいた角の家のところまで来る。今や背の高い建物ばかりで面影はない。昔住んでいた区画の中では自宅の裏にあったやや大きな木造の家がそのまま残っている、50年以上前そのままの姿に少々驚く、但し空き家のようだ。その他の家は全く面影がない。もと自分が住んでいたところはと見ると今は通信制の高校のビルになっている、初めて知った。通信制でありながら全日制

Uraroji

のユニークな高校で芸能人も輩出しているようだ。
昔の風情を感じるどころか驚きだけだ。昔歩いた道を行きつ戻りつジグザグに歩いて先の電車の駅に向かう。途中でおやという張り紙に出くわす。昔行きつけだった床屋だ、寄る年波には勝てず3月末で店を閉めました、とある。惜しかった、あとひと月早くここを散策しておれば床屋の主人か女主人と言葉を交わすことができたものを。喧嘩床屋と「うち」ではあだ名していた、いつも床屋夫婦が言い合いをしながら髪を切ってくれた。昔の思い出のままとなってしまった。80才は過ぎているだろうから店を閉めるのもむべなるかなだ。
駅に抜ける抜け道だった細い路地が拡幅されて立派な歩道になっている。変わり続ける。
高架になった駅を左に見て1丁目に向かう。途中で右へ折れて昔 通学のバス停までの経路として使っていた道を探してみる。すっかり様子が変わっていて道を見つけるのさえ苦労する。
しかしどんどん昔の記憶が蘇ってくる。路地の太さの感じが昔の記憶より細い。周りの建物の高さが高くなったためだろうか。
一丁目で終わりにしようかと歩いてきたのだが着くとまだ元気だしずんずん歩けて面白

Rakusui

い、もう少しと柳橋の市場に向かう。手前で少し休憩したくなったのと喉の渇きを覚えたのとでコンビニでアイスコーヒーを飲む。座れるところのあるコンビニは有り難い。
長くいるのも気が引けて飲みながら歩く。柳橋市場に来たのは小学校以来のような気がする。古い記憶だがあまり変わっていない感じがする。見るだけで通り過ぎる。昼下がりの時間帯では活気も少ない。
思いの外短くて市場を抜ける。ここまで来ると出発前に何気に見ていた楽水園の紹介が思い起こされて楽水園まで行って終わりにしようと想い始める。手に持ったアイスコーヒーの飲み残しカップが邪魔だが捨てるところがない。
住吉神社のところまで歩いてくる、通りは人は多くないが旅行者風の姿がちらほら見える。
住吉神社境内に入る、池にはマガモがいてつつじがきれいだ。広い境内を歩いて本殿のところに出る。5年前の正月に初詣に来て以来だ。

Suikinkt

5年前の混雑とは様変わりして落ち着いた雰囲気がある。中国からの旅行者の一行が過ぎていく。
昔 海に向いていたといわれる正面入り口から出て右回りに縁を巡って樂水園に至る。この地にあった明治時代の豪商の別邸庭園を再現したような庭園で建造は戦後だ。茶室で抹茶を飲む。ちょっと気が休まる、雰囲気はいい。そういえば水琴窟がここにはあって音が聞けると思い出して尋ねると、庭の石に水をかけて耳をすませば聞こえるという。早速試す。周辺の都市雑音がやや気になるが石に柄杓で水をかけて耳を澄ますとゴアンゴワンというかすかな音が聞こえる。フーン優雅な響きだ。博多塀などもじっくり見て近くのバス停から帰路に就く。何だか満喫した思いだ。

昔の記憶を思い起こしながら気ままに街を歩く、これは案外面白い。計画しないところがいい、そんなことが気ままにできる街だし、歳だ。
また新しい遊びを見つけたような気がした、果てしない時の流れは泳ぐように過ごしていくだけで楽しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月15日 (日)

壊れたLinkstationディスクからデータを読み出す

もう7-8年は使っているリンクステーションLANディスク(linkstation LS-CH1.0TL)が動かなくなった。

Linkstation

橙色のランプが遅いのと速いので1回ずつ点滅している。調べると「I11:ハードディスクの不良セクタが危険な範囲に達する可能性があります。ハードディスクを修理センターまでご送付ください。」ということのようだ。ハードエラーがあるらしい。修理に送れとあるがディスクの内容は消去されるというからとても送り出す気にならない、ネットでみるとクラッシュディスクのデータ回収業者の広告が幾つもあるがずいぶんと値が張る、そこまで出す気がしない、自分でやれるだけやってみよう。
ぶら下がっている子供のLanディスク(HD-LC1.0U3)は無事の様だがUSBでパソコン直結しても認識してくれない。discをフォーマットした時お薦めだったext2でフォーマットしたためだろう。フリーソフトがあって読み出しは可能のはずだった。やっとの思いでext2fsdというソフトを見つけてパソコンにインストールする。先人の書き込みをネットで探してそれに従ってdiscをusb接続してext2fsdを起動させdiscの接続名称を指定すると普通にエクスプローラから認識できるようになり読み出しはできる、但し書き込みはできない。こうなればLanディスクはもうやめて直結のusb外付けハードディスクにするほかないとシリコンパワーの2テラの外付けディスクを発注する。まずはこれに生き残った子供のディスクの内容は移せばいい。
ここまで確認して予定していた中国旅行に出かける。まだ半分しか解決していない。
旅行から帰って、頭が痛いがやる他ない、旅行の後片づけをして続きに取り掛かる。

問題は親となっているlinkstationのディスクだ。usb接続はなく筐体からディスク本体を取り出してATA-usb変換コードにつないでパソコンにusb接続するほかない。とにかくATA-usb変換コードも発注する。
直ぐ翌日にものがきて筐体の分解から取り掛かる。この手順もnetに書き込みが見つかりそれに従って押しピンの先を少しペンチで切ったものを10個くらい用意してケーシングのプラスチックのつめを外していく。ねじは一か所だけだ。つめを折ることもなくうまくケースが開いて中にあるハードディスク本体を取り出す。

Landisk

これに届いたばかりのATA-usb変換コードをつないでパソコンにusb接続しext2fsdソフトを立ち上げて見てみる。ディスクそのものは認識するがフォーマットはRAWとなっていてこのままでは内容を読みだせない。
この場合の残された選択肢はLinuxOSをパソコンにインストールしてここから読めば読めるということらしい。Linuxのインストールは厄介そうに見えて他に手はないかとネットで色々探すがどうも他には見つからない。腹をくくってLinuxのインストールをusbスティックメモリから行うべく新たにusbスティックメモリーを発注する、これもすぐ翌日には到着する。ハードが揃うとやる他ない。ネット情報に従ってLinux-ubuntuというOSをインストールすることにする、これが最も簡単らしい。起動用usbメモリを作るソフトrufusをダウンロード、続いてubuntu-ja-17.10.1-desktop-amd64.isoをダウンロードしrufusを使って届いたばかりのusbスティックメモリにこれを格納する。
次にusb端子が3つあるwin10パソコンに新たに買った外付けハードディスクとlinkstationから取り出したハードディスク及びLinux-ubuntu起動用のusbメモリを刺してパソコンを起動する。lenovoとpress F2の表示が出る瞬間にまずはF2キーを押せばいいのだが、press F2の表示が出ずにwindowsが立ち上がってしまう。強引に電源ボタン長押しで強制終了させてまた立ち上げると今度はlenovoの表示の下にpress F2が出てくる。ここからusbメモリで起動するという選択肢を選んで記憶させて一旦終了させる。もう一度立ち上げるとlenovo の下にpressF2,pressF12の文字が見えた瞬間にF12を押すとやっとubuntuが立ち上がってくる。一時使用である方を選んで先へ進むとTopページが開かれてくる。ここでファイルアイコンをクリックすると確かに新しい外付けハードディスクとは違う1TB位の問題のディスクが認識されこれをクリックすると、クラッシュしたディスクの中のフォルダがズラッと表示される、うまくいった。
取りあえずは30GBくらいのフォルダーを新しいハードディスクにコピーしてみる。問題なくできて、ちょっと疲れたのでこの日はこれで止めて、usb接続は外し一旦パソコンはwin10に戻し別のことを少しやって終わる。次の日になって続きをやろうと接続を元に戻してubuntuを立ち上げると今度はクラッシュしたディスクは認識するものの読むことができない。やっぱりハードのどこかが壊れているようだ、動いたらなるべく触らないで作業してしまわねばならないようだ。問題のディスクをもう一度別のパソコンに繋いでext2fsdソフトでアクセスしてみたり何度も昨日のセットで立ち上げ直したりしてみる、その内パソコンの強制停止のさせ方が良かったかハードがショックを受けたようで立ち直った、とにかくこれからはセットを変えることなくフォルダをコピーすることに専念する。丸1日くらいかかって450GB位をコピーし終わった。
Lanディスクではなくなるが、パソコンで共有指定すれば外付けハードを別のパソコンからLAN経由で読み書きできる、Lanディスクのような運用が可能とわかり、大した不便はない。自宅の無線LANであればそもそもLANディスである必要はなかったような気もしている。

取りあえず成功で一段落だ。久しぶりの達成感に浸る。パソコンを巡るトラブルは精神的な疲労がきついがうまく終わるとともかくほっとできる。

せっかくLinuxのusbメモリによるインストール方法が分かったので、windows-xpサポート終了のため捨て置いていたエイサーのAspireOneをLinuxで動かすのもいいかと、こちらに取り掛かる。これは遊びで気が楽だ。
今回使ったusbメモリをAspireOneに刺して同じように立ち上げようとするとcpuが32bitだからできないとのメッセージが現れる、確かに64bit用のubuntuだったのでダウンロードページに戻ってみると今は64bit用しか公式にはリリースされていない。32bit用のはどこかにないものかとネットで探していくとUbuntu9.04等見つかるがうまく動かない、色々探してはやってみる、結局 ubuntu-ja-12.10-desktop-i386.iso というのが見つかりこれで試すとさっきと同じように開き始めた。
無線lanにも難なくつながって少しいじってみるが、レスポンスが今一遅くてあまり実用的とは思えない。しかしパソコン周りは何が起こるかわからない、こんなツールも動かせるようにしておくに越したことはないそんな風に今は思っている。とにかくLinuxと聞いてもあああれかと思えるようにはなった。

色々勉強した。トラブルはつらいが新しいことに直面するのは面白いことでもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年2月25日 (日)

インフルエンザに

めっきり春めいてきた。極東に降りてくる寒気も緯度がやや高いところに限られてき

Dekanki2

て九州はもう早春の雰囲気だ。地球的規模でも今年は北米の寒気の強まりが目立っていたがこれも随分緩んできて五大湖に面するシカゴでもこの先少なくとも1週間は0℃以下にはならない見通しだ。北米の厳しい冬は終わったという感じがする。(添付図の1500mの気温分布、左が極寒の2月6日、右が今日2月25日。北米の寒気の塊が随分小さくなっている)。ヨーロッパ特に中東欧はむしろここへきて寒くなっているようだがその他では春の訪れがそこまでというところまできた。

1週間くらい前風邪をひいたらしいとかみさんが医者に行ったらインフルエンザB型と即座に判定されタミフルを貰ってきた。そういえば自分も少し変だと医者に行って苦手な検査を受けてみたらやはりB型と告げられる。予防注射をしたのにと思うがB型はカバーしてなかったのだろうか。帰ってネットでB型の特徴をみてみると、熱低し、腹具合おかしい、だるい とぴったりの症状だ、そうなんだと納得する。
1週間ほどゴロゴロしていたら大体は良くなったが未だ少々変だ、無理が全くきかない。今日はランタンフェステバルを見に長崎へ出かける予定で宿をとっていたがやむなくキャンセルした、直前だけになにがしかのキャンセル料はやむを得ない。これとは別に昨日は九響のコンサートも2枚予約して買っていたが少しは体調がましな自分だけ1人で出かける次第となってこれも少々空しくなる。楽しむための先払いは楽しめない事態になったら素直にあきらめるしかない、そういうものだ。

コンサートでも映画でも野球・サッカー・芝居でも すべからく先払いで成り立っている、切符を買って観てつまらなかった不愉快になったからといって金を返せとはとても言えない、要するに面白いに違いないという幻想・イル―ジョンに人は金を払うものなのだ、そう思わなくてはいけない。面白いから金を払うのではなく面白そうだから金を払うということになる、だから
業的には宣伝が命であり本質といってもいいものなのだ。こんなことに気が付いたのはずいぶん昔で高校の頃だった、とても新鮮な気がしたものだが 今もってそれが変わらないこと・真理であることにどこか苛立たしさを感じている。
先払いで金を失ったと思うのはあり得ないことでその瞬間の気持ちに払った金は戻らないと考えるべきなのだろう。

もうそこまで春が来ている。春になれば心浮きたってまた色々出かけよう、それまでには完治せねば。既に前払いしたことも幾つかあることだし。


がんばるべき時にはがんばり、あきらめるべき時にはあきらめる、生じてくる全てを受け入れて心のままに生きる、これしかない、そう思い続けている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年2月21日 (水)

今年の冬は

Ume2018a

今年の冬は雪が多くて寒かったがようやく梅も咲き始めて寒さも先が見えてきた。日射が長くなり北米とシベリアに分かれて南下していた寒気も次第に縮んできた。しかし今年の雪は幾つかの教訓をもたらしたようでもある。

2月12日のことだった。前の日の晩から雷鳴がして朝起きると雪が積もっていた。世の中はどうなっているのかと道路情報を調べると九州道が福岡県を中心に広く通行止めになっている。雪用タイヤ規制位かと思えば通行止めだ。しかし不思議に思えるのは大分県部分の高速道は雪用タイ

Yuki201802

ヤ規制で走行は可能となっている。また中国道も下関までは雪用タイヤ規制で通行は可能だ。どうにも福岡県の基準だけが徒に厳しいように思える。常識的に考えれば九重付近を走る大分道や中国山地を走る中国道の方が積雪しやすいはずだ。高速道路の閉鎖は即物流の遮断であり経済に与える影響が極めて大きい。中国道を走ってきたトラックは勿論雪への備えはしっかりしているはずだ、それが九州への立ち入りを拒絶される、何を考えているのだろうか、道路管理者もしくはそれを指導する警察は。

幾つかネットをさまよっていると2014年の全国の雪で閉鎖された高速道路のワースト10が出ていてトップは大分道だった。東北でも北陸でも山陰でもない大分が最も閉鎖が頻発したというのだ。明らかにやり過ぎだとの反省から常識的な規制に改めた結果が今回の奇妙な九州の道路規制を際立てたのだろう。
どうして大分道並みの規制を福岡を走る九州道ではできないのか、道はつながっている以上長距離を運航する利用者に違和感のない規制とできないのか。昔天気予報は県単位で出されていて書き並べるとつじつまの合わない予報地図になっていた時期があった。今は全国横断の予報が出されておりまともになっているがそれと同じようなことを今の気象による規制に感じざるを得ない。県境が気象の境目であるはずがなく、気象のための規制がバラバラでいいはずもない。変な縄張り意識が国民の生活をゆがめているとしか思えない。こんな自治組織は早晩AIにその役割を譲らなけてばならないのではなかろうか。

福井豪雪の実態がいろいろ伝わってくる。豪雪地帯ではあるが例年を大きく上回る積雪だったため輸送が止まりガソリンの枯渇や物資の不足などあらゆるインフラがダメージを受けたようだ。特に国道8号線の長時間の立往生が問題とされたが、発端は高速道の通行止めだったらしい。物輸を担うトラックはやむなく下道に降り普通でも冬は積雪や凍結で車両事故の多い場所とされる県境の牛ノ谷峠付近を通らざるを得なくなり立往生に至ったということのようだ。高速道は最早物流の生命線になっている、何とかして止めずに流すことを考えるのが道路管理者の仕事と思える。他の道を適当に走ってくれという姿勢は根本的に間違っているように感じる。

温暖化のせいだ何とか温暖化を止めねばという議論ばかりが先行するが事実上温暖化などの気候変動は常識的な人の力ではとても止めることのできない代物だ。起こることを予測して適切に対応さえできれば生き延びることができるのだろうしそれしかないのだろう、ちょうど動きの鈍い恐竜がすべて滅んだものの環境にあった場所を選べる鳥が生き残ったように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月21日 (火)

寒くなってガスに切り替えた

2017112403gsm

日本列島を寒冷前線が次々に通過して冬がそこまでやってきた。週末に向かってまた寒波が北から降りてきそうだ。(添付は11月24日03jstの850hp(約1500m)の気温予想図)。アジアでは日本狙い撃ちの寒波だ。

今年は室内の暖房を都市ガスに切り替えたので灯油の心配は無くて気軽に暖房が使える。もともとガス配管はあるので工事は要らずガス管口につける変換ソケット(ガスタッチ)とガスファンヒータ、ガスコードを2セットネットで取り寄せるだけだ。
暖房を灯油に頼る生活は思い返せばここまでの生涯すべてであったような気がする。勿論エアコンは使うが寒くなるとそれだけでは足りなくなる。補給をいつも考えなければならないし灯油屋が売りに来なければガソリンスタンドまで買いに行かなくてはならない、買ってきても家まで持ち上げるのもちょっとした力仕事だった。歳を重ねてくると10年先でもできる生活に徐々に切りかえて行かねばと思い始める。
思い切ってガスに切り替えて随分気楽になった。多分暖房コストは少々上がるだろう。しかし楽な生活に代えがたいものがある。

Tachiaraie

絵をまた描いている。昨年初夏に訪れて見た旧大刀洗飛行場跡に広がるポピーの赤が戦争の血なまぐささと平和の両方を象徴しているようで心に残っていて、それを形にとどめるためにポピーの風景を描いている。人に伝わるかどうか他人に感銘を与えるかどうかそれはどうでもいいことのように思っている。結局はそんな絵を描いていきたいのかもしれない。
暖かい日だまりの中で絵を描きながらゆっくりとした時間を過ごす、そんなことに幸せな時間があるように思えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月30日 (土)

移ろいゆく時・変わりゆく景観


1週間ほど前、思い立って干潟の野鳥を見に有明海の大授搦に出かけた。

これには前段があった。その前の日久しぶりにヨット遊びで小戸のヨットハーバーを訪れて、終わった後つ

Tounen

いでだからと隣の小戸公園のほうへ鳥見でもと見に行った。浜の水際にチドリのような小さなシギが20羽位来ているのが目に入る。家族連れが多くて小さい子供がシギを追っかけるものだからなかなか落ち着いてみたり写真に撮ったりできないがいくつか撮れた写真を後で調べるとトウネンのようだ。もしやヘラシギでも混じってはいまいかとつぶさに見ていくがいない。最近博多湾でヘラシギが出たとテレビで流していたような記憶があってもしやここのことかと思ったりしていたがそうではなかった。しかしこんなところにこんなシギがまとまってくるとはと、そんな渡りの時期になったとの感慨があった。
それにしてもトウネンを見ても即座にトウネンの名が浮かんでこなかったのが気になった。これはいけない、シギチドリは
時々でもちゃんと見てないと名前を忘れそうだとの一種の強迫観念があって、翌日有明海の大授搦に出向いたという次第だ。

大潮から中潮に移るあたりで11時20分頃満潮というのも行きやすくて背中を押される思いで出かけた。

20170924daizen4a

8時半頃普通に自宅を出て満潮の1時間半くらい前に到着した、鳥のいるラインは若干離れているが、これから潮が満ちるにつれ寄ってくると思うと丁度いい距離感だ。
ダイゼンが多いが夏羽が変わりつつあって模様はいろいろだ。面白い。トウネンもまばらにいる。ヘラシギはと探すが見当たらない。シロチドリやダイシャクシギ他色々いるが識別はいまだにすらすらとはいかず、進歩がないとまた思ってしまう。
でものんびり移ろい行く秋の日を干潟で過ごすのは悪くない。気持ちが緩む思いだ。
9月はおやと思うことが毎日のように起きてきた、季節ばかりでなく、色々な事象の変わり目でもあるようだ。



干潟へ行った翌々日、福岡・六本松の九大教養学部跡地の再開発で新しいビル(六本松421)がオープンしたとあって出かけた。小さいころから何度も見ていた場所が大きく変容したことに
なる、見たくなるし、初日なら何か配られているかもしれないという期待もある、まったくの野次馬だ。

Ropponmatu421

福岡市科学館が入るビルの中にあるTSUTAYAとスーパーが先に開店した、科学館本体は10月1日開館ということらしい。
駐車場がどうなっているのかネットでもよくわからなかったが、どうにかなるだろうと正面なら右折で入ることになる西のほうからアプローチした。近づくと敷地の中央にPのマークが見えて右折でも曲がりこめるようになっている。満車ではないようだ。上り下りがすれ違うようになっている駐車場でやや狭い感じがするが上がってとにかく空いたところへクルマを押し込む。とめた階は丁度TSUTAYAのフロアーと同じでそのまま店内に入る。
武雄図書館のTSUTAYAのように軽食が売られており飲食しながら本を手に取れるようになっているが混んでいてあまり落ち着かない。手

Tutaya

に取れるところに色々本が置いてあるが、こんな本があったのか、という感じは武雄のほうが数倍優れている、普通では目にしないいい本がある、という印象があまりない。マスに合わせようとすると結局こうなるかと思ってしまう。それでも探していると、おや、という本もあってせっかくだからと買い込む。「シンメトリーの地図帳」という文庫本だ。かねがね自然の織り成すシンメトリーが気になっていた、自然科学の公式でも何故かシンメトリーが現れるようなところも引っかかっていた。こんな時に買う本としてちょうどいい。

1階のスーパーも覗いてみる、ちょっとおもしろそうなところはあるが驚くようなほどでもない、適当に引き上げる。

干潟の野鳥のように毎年繰り返される変化も、昔からなじんでいた都市景観の新たな変化も、変化はなんでも面白い。生きるということは結局は変化の中に身を置き続けることかもしれない、ふとそんなことも思った。変化の日々が過ぎていく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月19日 (金)

東西合同同窓会

高校の東西合同同窓会があるというので神戸まで出かけた。今振り返ると何かが詰まった旅だった気がする、昔暮らした街だが旅全体がそれらしい小さな驚きに満ちていた。忘れないうちに書き留めておこうと思う。

神戸を訪れるのは半世紀ぶりのような気がしている。宇都宮にいたころは宇都宮と福岡を何度もクルマで往復したが神戸は通り過ぎるだけだった。クルマで神戸まで行く、もうそんな元気はない。
同窓会翌日はゴルフをやろうというプランも用意されていたがゴルフはついに人に付き合えるほどにもならなかったなあと、やらずに帰ることにして、夜行バスで帰りを予約しておく。セパレート3列の座席のバスというから眠れそうな気がする。泊まるのは何か大げさで夜行バスで帰るくらいが安くてどこか感じがあっている。
行きは新幹線だがこれも安い買い方を調べてJR西日本のe5489という予約システムでお得とされる切符を事前購入した、10270円(普通に買うと14990円)で随分安い。ちなみに5489とは「ごよやく」の語呂合わせの電話番号でこの番号で予約を受けていたものをネット予約にしたのがe5489ということらしい。初めて見るとやや不気味な暗号のように見えてしまう、こんな言い方を使い続けていることへの疑問が湧いてこないところが旧国鉄らしいともいえる。でも旅らしい始まりだ。
切符の引き取りは 乗車当日JR西日本の券売機で「予約切符受け取り」を押して予約の時に登録していたクレジットカードを差し込み予約時登録電話番号下4桁を入力すればすぐに発券される。1度やってみると難しくなくて便利だ。とにかくみどりの窓口で並んで買うことからは解放されていていい。

新神戸の駅に着く、本来の神戸・三ノ宮駅からは結構離れていて歩いてはいけない。神戸市内の最終目的地までJRを使うなら途中下車となる計らいがあって、それ用の改札機が出口の左の方にある。切符を通すとハンコを押されて出てきて先でまた使えるという仕掛けだ、こういうところでケチりたくなる、それが出来るというのがいかにもJRの旅という感じがする。

新神戸駅のにぎやかなのには少々驚かされるがそのまま地下鉄で三ノ宮に向かう、一駅だ。高校にいたころはまだ新神戸などという駅はできておらず当然こんな地下鉄もなかった、新しい世界に来たような感じがする、半世紀という時の流れは偉大だ。

三ノ宮の地下鉄駅から阪急、JRと地下を抜けてサンチカに入る、やたら人が多いしDscn3171 なんだか店も多い。半世紀前はサンチカが出来たばかりでここまでの賑わいではなかった、歩いているとどこにいるかわからなくなって地上に出る、ほっとする、弱い雨が時折降りかかる。

センター街はどうなったのだろうと覗いてみる。勿論店は入れ替わっているようだが商店街としての姿は昔とあまり変わらない感じがする。震災でもアーケードは壊滅しなかったようだ。元町の途中まで行ったところでそろそろ今日の行事の一番目の母校見学の時間かな、と切り上げてせめてもの神戸土産にと たまたま目についたにしむら珈琲店で粗挽きの珈琲缶を買っていく。土産として手頃感と神戸らしさがある。

JRまで戻ってくだんの切符を改札機に入れると問題なく受け付けてくれる、これで幾ばくかは助かった。
住吉で降りて国道2号沿いを歩く。昔は国道電車と称する路面電車が走っていたがむろん今はその姿はない、昔の通学路だが風景はまるで変っている。住吉川まで来るとポートライナーの線が頭上を走り川底の昔ダンプの走っていた道は立派な遊歩道となってランニングしている人の姿が見える。六甲山はここから見た風景は変わらないがポートアイランドのために削られた小山が裏の方にあるのだろう、僅かに山を動かして街を広げる、そんなことを神戸市は半世紀も前からやってきた。
歩いていると 震災があったからだろう、新しい建物ばかりのように見える。

母校の正門のところに来る、見た感じ昔と同じようだ。きれいにはなっている。案内に従って集合場所に至り見学が始まる。集まった顔を見渡すとかろうじてそうかなと思う名前が2人くらい浮かんであとは誰が誰やらわからない。半世紀ぶりではこんなものだろう。
建物は震災でも持ちこたえてそのまま残ったが老朽化とやや人数が増えたことで改修増築されて中身は昔とだいぶ変わっている。プールからは高飛び込みの飛び込み台も消えて、代わりにというべきか校舎の屋上には天体観測ドームが設置されている。剛からスマートへのシフトがそこここにある。普通のことだろうし思ったほどには変わっていない気もする。

Dscn3225 母校見学会の後は同窓会となる、会場はトアロードの突き当りの洋館の一つという触れ込みだったが、行ってみると新しい建物のように見える。しかし格式がある、雰囲気がある、神戸らしい。
知らない顔が少しずつ解けてくる、様々な人生が交錯する。まだ働いている人もいる。

それぞれの顔からはどこかもう脂ぎったところが消えて全体がセピア色に変わりつつある、平和な眺めだ。
穏やかな談笑の続く2次会を適当に切り上げて夜行バスの集合所へ向かう、PMPTビルという三ノ宮の飲み屋街のただなかにある建物だ。入口の飲食店の客寄せかと見まごうばかりの係員にバスの出発予定時間を告げて待合室に入る。年代層が随分若い。若者の世界に足を踏み入れた感がある。出発10分前にバスのところまで誘導されて列をなして飲み屋街を歩く。
眠れるだろうかと悩む間もなく眠りに落ちる。歩きまわって疲れたのと酒が回ったのとある。丁度いい。山口県まで走ったところで休憩があり目を覚ましてバスの外に出てみる。夜行バスが何台も止まっている。どよーんとした感じが旅らしい。
やっぱり少々窮屈なところがある。ゆっくり眠れたとの感触はない。

でもコンパクトな旅だった、目的と交通手段がマッチした旅のように思えた。時を旅する。時が流れる。人が流れる。世代が流れる。

自分の座標がまた一つ確認できたような気がする。
今年は同窓会が続く、次は小学校の同窓会だ、振り返るばかりではもう先がないことへのあきらめと認めているようで、同窓会も変わるべきなのだろうけれども。

五月の緑がまぶしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 6日 (土)

インスタグラムと著作権侵害

インスタグラムに写真を投稿していると時々不愉快な事態に遭遇する。自分の出したInstag 写真とタグをほぼそのままコピーして別の人がその人のハンドル名でインスタグラムにアップしているというちょっと信じられないような事態だ。

発見はふとしたことからだった。
アップした時に殆どの人が使っていないハッシュタグを書き込んでしまって、しばらくした後少し後悔しながらタグのページを開くと自分のと同じ写真が2枚アップされている。あれっと自分のミスかと思ったりもしたが写真をクリックすると知らない人のページに行く。こちらにも いいね を打っている人もいる。
何なんだこれはと思うがロシア語であったりヘブライ文字が出てくるぺージであったりしてこんなことをしている本人に注意するのも厄介そうだ、どうしたものかと暫くほっておいた。ほぼ忘れかけていたが、つい4-5日前にSNSの著作権侵害に関するニュースが流れているのをテレビで見て思い出した。
せっかくだから著作権侵害の申し立てをインスタグラムに送る方法はないかと探してみると すぐに見つかった。やはり問題のところなのだろう。

Instagramヘルプセンター - プライバシーと安全 - 報告する と辿ると報告する手順が始められる。にっくきコピーページのurlをメモし、自分の対応ページもメモして手順を進めると最後まで行きつく。最後のところに電子署名の要求があり、電子署名?といぶかるがそのまま自分の名前を書き込む。これでOKのようだ。
送信して2-3日もしないうちに 削除しました との英文のメールがinstagram team から送られてきた。確認すると問題のページは削除されている、めでたしだ。まだあったと思い出してその後も申し立てを何回かやっているが慣れるとすぐにできるようになる。ネットで手続きが面倒だとの書き込みをいくつか見かけるがやってみるとそんなことはない。勿論日本語でOKだ。

ネットに出した写真は無断コピーは避けられない、ある程度の著作権侵害は防ぐのが難しいというのが実情と思うが、防ぐ手立てはとにかく講じてみるのが大事のようだ。すこしづつルールを固めていけばこれはひどいという事態は抑制されてくるだろう、ネットを便利に使っている現在の様な生活は少なくとも維持したい、これは知恵が出せればできるだろう、拡大しても行けるだろう。

とにかくこれから続いていく未来は言葉通り広く果てしないのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月30日 (日)

たらたらと歴史を想う

4月も終わりとなった。なんだかちょっと疲れた。

晴れた日が多くて、クルマも新しくなって出かけたくなる日が続いたためかもしれない。
なるべく食事会飲み会には出ないようにしているが何故か4月5月6月とその機会が増える。気象だ野鳥だとどうしても所属するグループの輪の飲み会・食事会には年度初めということもあり付き合うことになり、法事もあったりすると、そうでなくとも体調が今一つで足が遠のいているヨット遊びには出れなくなる。花見にも行かねば、興味のある歴史探索にも出かけねばと思えばとにかく忙しい。
本当はやらねばならないことなど何一つないのだから全部をうっちゃってぼーとしてればいいのだがそうもいかない。春は気ぜわしい。

最近行った歴史探索では装飾古墳の竹原古墳が心に残る。6世紀後半ころのものというから水城や基肄城や大野城といった、白村江の敗戦後に造られた対唐新羅防衛建造物などと同じころの古墳ということになる。よく残ったと思う。現地に常時駐在して管理している方の話によれば高松塚などの明日香の装飾古墳は漆喰の上に描かれたため脆くて傷みが出ているようだがここは岩にじかに描かれているため比較的傷みにくいということらしい。
Takehara 同じく筑豊にある特別史跡の王塚古墳のはかない壁画に比べてもくっきりとして見事だ。勿論ガラス越しで見ることになるがよく見える。
きちんと管理して何時でも誰でも見れるという強さが古墳の管理には重要なのかもしれない。絵が傷みそうなら誰の目にもすぐそれが解るという状態が直ちに対策をとれるということになって望ましいのだろう。隠さないことが強さを作るのだろう。
壁画は撮影禁止となって掲示されている説明図を撮るしかない、説明にはなるが記録にはならない。フラッシュを焚かないことを条件に撮影可と
Ponpei1した方がいいのではないか、そんなことも思ってしまう。最近福岡市に周ってきたポンペイ壁画展(日伊国交樹立150周年記念「世界遺産 ポンペイの壁画展」)は全て撮影可だった、そこには堂々とした誰に向かっても解放された人類の遺産という誇りがむしろ感じられた、そんな姿がこの古墳にも似つかわしい。

ポンペイの壁画展には紀元前数十年頃に描かれた壁画が含まれていたが、そのころといえばシーザーがガリア戦記を記したころだ。
たまたま図書館にあった
Ponpei2ガリア戦記(新訳ガリア戦記 ユリウス・カイサル著 中倉玄喜 翻訳・解説)を読んでいるところだったので一層この時代が生々しく感じられる。ガリア戦記もポンペイの壁画も2000年前とは思えないリアルさと人間の息遣いが感じられる作品だ。
2000年もの間を人類は徒に過ごしていたのだろうか、10 年前に書かれたといわれてもそうかと思ってしまうほどだ。

そのころの日本の様子はどうだったのか。2000年前の遺跡である自宅近くの吉武高木遺跡で少しはうかがい知ることができるが、到底ローマには及ばない時代を過ごしていたようだ。それにしても吉武高木遺跡の王墓らしき墓からは前漢製の鏡が出土するなど東シナ海を越えた交易が広がっていたようでもある。邪馬台国成立以前、伊都国や奴国ができる以前の時代だ。日本でも目いっぱい生きていた
Yositaketakakiその時代の人の生きようがうっすら浮かぶ。進んでいたか遅れていたかそんなことではない人間の生活が感じられてくる。

たらたらとこんなことを思って4月も終わる。いい生き方かもしれない。時々そう思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧