2025年4月 7日 (月)

福岡市民ホールが開館

3月の終わりに新たに建設された福岡市民ホールが開館した。これまでの市民会館が古くなったので建て替えるというくらいにしか認識していなかったが、数日前開館記念コンサートの一つを聴きに行ってちょっとびっくりした。全く新しい大きな建物が公園の木々を切り払って忽然と姿を現した感じだ。
市民ホールへのアクセスは幾つかあるが桜も満開の時期だしと天神中央公園から川の左岸に沿って鳥でも見ながら散歩して至った。鳥はキンクロハジロのメスばかりが3羽寝るように浮いていたりハクセキレイが燕のような鳥に追われて逃げまどっていたり、それなりではある。川から1本横にずれて須崎公園に向かう道を進むと見覚えのない大きな円形の建物が見えてくる、これが新しい市民ホールのようだ。建物の南側についている広いスローSiminhall0403a プをゆっくり上っていくと入り口に至る。
この日のコンサートは「加来徹バリトンリサイタル特別出演陸上自衛隊第四音楽隊」と銘打ったものでどういう組み合わせ?と思ってしまうが、聞き始めるとなんとなくわかった感じもした、要するにホールの音響性を確認する実用試験のようだ。ほぼ満席のお客を入れた状態でマイクなしピアノ伴奏だけのバリトン独唱、ブラスバンド、ブラスバンドにマイクを使ったバリトン歌唱 と確かにこれくらいやればどういう感じに聞こえるか色々わかるだろう。バリトン独唱から始まったが微妙な反響音が少し気になる気がした、縁取りをしたような音のように感じる、聴いていると後半になると気にならない程度に抑えられる、歌い手の技術なのか、ホール設備の微妙な調整しろがあってそれをいじっているのか、多分その両方なのだろう、とにかく良くなってくる。ブラスバンドの単体の音の方は特に違和感ないのだがマイク付き歌唱になるとマイクがブラスバンドの音も拾うのだろうか随分響きが違って聞こえる、ちょっと気になる薄っぺらい響きになるような気がする、歌唱の方もマイクを通すと何かを失っている感じがしてしまう。仕方ないのかもしれないが徐々に改善されていくだろう。
音楽隊のブラスバンドはムーンリバーを演奏したりと聴きやすい曲になるよう気を配っていたような気もしたがなんといっても最後の威風堂々が良かった。こんなブラスの良さを存分に出せる曲をもっと前面に出して演奏するべきかなと思ってしまった。

生の演奏を新しいホールで聴く、こんな体験はいずれにせよ刺激的なところが色々あって面白い。

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2024年3月21日 (木)

今年の芥川賞、九段理江の「東京都同情塔」を読んでみた

1月17日に第170回芥川賞は九段理江さんの「東京都同情塔」が授賞作に決まりましたと発表があり、その日のうちに掲載誌の「新潮」/2023年12月号を図書館に予約した。すでに数人の予約が入っている、2か月近く待ってやっと順番が回ってきて3月16日に借り出して読み始めた。「新潮」で66ページほどの作品なのですぐにも読めるだろうと読み始めたがなかなか進めない、会話の部分が少なくびっしり字でページが埋まっているせいもあるようだ。ザハ案の新国立競技場がZaha0 キャンセルされずに姿を現している2026-2030年の東京が舞台のパラレルワールド物といってもいい。設定が面白い。ザハさんが2016年3月に亡くなったその8か月前の2015年7月に安倍首相によりザハ案はキャンセルとなっている、今から見てもザハ案(添付図)は未来的で魅力的だ、確かにこれが予定通り作られた世界というものを想像したくなる。東京都同情塔とはザハ案の新国立競技場と対をなすようにオリンピック後に新宿御苑に建てられた未来的ないわゆる刑務所のことだ。ザハ・ハディッド・アーキテクツと対をなすようなサラ・マキナ・アーキテクツを率いる建築家牧名沙羅によって設計される、それにまつわる物語の形だが勿論人物伝では全くない、新しい時空間を描き出しToukyotodojyo ている、確かにこれは未来に向かった小説のようだ、新しい、芥川賞にふさわしい。
いい本を久しぶりに読んだ、そんな気持ちを抱かせる小説だった、勿論きわめて個人的な感想だが。

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2023年11月30日 (木)

山鹿の康平寺、多数の鎌倉仏にちょっと驚く

8月に山鹿の灯篭踊りを見に行った後情報を整理していて山鹿には康平寺という寺があることを見つけた。名前も気になったが秋のイチョウの黄葉が見事という。フーンという感じで頭にあKoheiji1126b って、紅葉のシーズンになって思い出した。紅葉を見るには木が紅葉していることが一番だが日差しがしっかりあることも重要だ、きらきらする秋の光の中で見る黄葉とどんよりした曇り空の下の黄葉は大違いだ。ネットで黄葉の状況を調べるが今どうなっているかの最も確実な情報はインスタにアップされている最新の写真を見ることだと分かってくる。見ると一応はイチョウの黄葉はいけそうだ、ただこの寺のイチョウ黄葉は葉が落ちて黄色いじゅうたん 状態になったところが特に見事のようではある、そこまでは到達しないかもしれないが天気の見通しもあり11月26日の日曜に出かけた、月曜からしばらくは天気の見通しが良くない、日曜で道が混んでいることも覚悟だ。高速は予想通り混んでいたが渋滞でノロノロというほどでもない、ナビの予測時間よりやや遅れ位で菊水ICを出て下道を走る。鹿央町霜野の集落に入ると離合困難な細い道となり康平寺に至る。こんな道では少し車が増えると身動き取れなくなりそうだ。到着すると20台くらいの駐車場はほぼ満車だが1台分だけ空いてKoheijibutuzo1126a2 いてなんとか置くことができた。途中で休憩買い物して2時間弱程度/91kmということになる。持参したコンビニサンドを車中で食べて散策始める、予想通り食べるところはあたりにはどこもない。黄葉は真っ盛りKoheijisenjyu1126a3 ではらはら落ち始めている、地面を薄っすら覆い始めているが黄色のじゅうたん状態には程遠い。予想された状態ではあるが十分綺麗だ。寺の収蔵庫が拝観できて地蔵菩薩、千手観音、二十八部衆、計30体余り大半が鎌倉時代の仏像を寺の人の解説付きで見ることができた。彩色が一部残っていたりもあって興味深い。こじんまりした寺の割には仏像の数が多いのにも驚かされる。康平寺の名前は康平元年(1058年)に元々の寺が建てられたことに由来するようだ。寺の左にあるKoheiji1126c 山道を少し登ると見下ろすような視点から黄葉に包まれた寺を見ることができる、撮影スポットのようだ、ちょっといい。
山鹿は豊前街道沿いで昔から人の行き来が多い場所となっていたこともあって特徴ある文化が残されているのだろうと思えてくる。またこようか、そんなことを思っている。

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2022年11月23日 (水)

コロナの旅行支援で姫路/山陰をめぐる

コロナの旅行支援があるのでせっかくだからと、1泊2日の旅行社ツアーで姫路城/鳥取砂丘/足立美術館/出雲大社を巡る旅に参加してみた。山陰は自分で旅程を組むにはちょっと面倒なところがあって、丁度いいかという感じがあった。ルートを調べるとこの3月に姫路から中国道までの高速道が開通し姫路城を見た後鳥取砂丘に回Kippu1 るコースが1日で回れるようになっ て実現したツアーのように思える。
8時10分の集合時刻に合わせて博多駅に行くと40人くらいいる、結構多い、女性が多い感じもする。集合場所で新幹線の切符が渡されるかと思いきや指定座席のシート番号が書かれたメモ紙が渡され入場は改札口の横の仕切りを開けてもらって団体で一斉に入る形となるHimejijyo 、普通の改札はな い。切符もないこんなんで大丈夫かと思うがいつもこうのようだ。2時間半くらいで姫路到着だから遠いというほどではない。観光バスで11時30分ころ姫路城につく、懸念した通り昼食が問題だった。昼食は付いておらず2時間の城内観光の時間内で各々昼食をとる必要があるが城内は食事禁止でひとまわりした後お堀の外に並ぶ土産物兼食事の店まで戻って食べるほかない、結構混んでいて、バス出発時間が際どい。しょうがないので店の前で売っているおでんを買って近くのベンチを探してここで昼食を済ませる。バスの中もコロナ対策で食事は禁止となっている。コロナ時代の旅はやはり少々面倒だ。
2時間半ほどバスに揺られて鳥取砂丘に4時前に着く。日没は4時55分ころだ。砂山の肩のところまで歩いて登って海を眺める。風は弱く砂が靴に入ることもない。Sakyu このくらいの砂丘なら日本の各所にありそうな気もしてくる、大抵は松を植えたりして砂をコントロールしているがここはそれをあきらめたに過ぎないような気がする。福岡の海の中道も剥ぎとれば大砂丘なのだろう。でも夕日の景色はいい、夕日の頃にここにつくように設定されたプランはさすがと思わせる。ここにきたら砂の美術館も行くべきところのように思えてくるが時間がきついお仕着せのツアー故今回は行けない、そこまでは無理だ、しょうがない。
大山のふもとの宿に一泊する。大きな建物でツアー客が多い。コロナ真っ盛りの時はどうしのいだのだろう、やっと一息つけた雰囲気がひしひし伝わる。もらった一人3000円のクーポン券は鳥取県内でしか使えない、このホテルで半分と次の日の朝一番で行く土産物屋で残り半分を使う。とにかくこの地の経済を回すことにお役に立てた心地がして悪くない。
Teien 続いて安来の足立美術館に寄る。足立といっても足立区とは何の関係もない。足立全康という名の安来出身の事業家・蒐集家が1970年に創設した大きなスケールの美術館で横山大観の豊富なコレクションと広い日本庭園が(国際的にも)立派として知られる。団体客を多く受け入れるだけのキャパシティーがあり、この日も平日ながら結構な混みようだ。すこぶる個人的な印象としてはフーンという感じで、感動というほどのものは感じない、でもこういう施設は個人が作ったものにせよ島根にとってはかけがえのないものとなっていることをどうしても感じる。こんな美術館はここにしかない、よくぞ創った。
出雲大社に行く。このツアーの訪問地としてはここが最後だ。本殿に向かって参ったが本殿はよく見えない、見るということにはあまり向いていない建造物のようだ。また昼にかかるがオプションの昼膳を頼んでIzumotaisya いたのでランチは何とかなった。食べ終わって歴史博物館へ急ぐ。圧巻は荒神谷から出土した銅剣365本だった、全てをこれでもかと展示してある。加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸もすぐそばに展示してある。何故これほどの量がここにとどうしても思ってしまう。古代史における出雲の位置づけがまだまだ不十分なのを感じる。
あわただしく駆け抜けてバスは広島に向かう。途中の休憩は三次ワイナリーDouken だったがインターのそばのトイレ休憩に向く施設として存在しているのも面白い、次々に観光バスがやってくる。勿論ワインも大サービスの試飲が効いて次々に売れていく、巧みなビジネスだ。
余裕で広島駅に到着、やや持て余した時間をスタバで過ごす。夕食は予約していた駅弁となるが勿論新幹線内は食事可能でのんびりとくつろぐ。
あわただしい旅ではあったが、この時代の旅行を取り巻くビジネスの有様があちこちで面白くも見られたのが印象的だった。コロナが8波でやってきてもこれは何としても凌がねばならない、そんなことを思っていた。

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2022年4月29日 (金)

ららぽーとにバブリィな福岡を見る

福岡という街に改めて越してきてもう9年以上の時が過ぎた。どこかバブル期の日本の雰囲気を捨てずにいる街だな、そういう感じが引っ越した時にしていた。9年も住むとそんな印象も薄らいでいったが、時々そうでもないこともある。

先日、近くにららぽーと福岡というモールがオープンした、正式オープン前に近隣住民にはプレオープンとしてこのビラで入場できますというビラ入れがあって、せっかくだから昼ごはんでも食べようか、と出かけてみた。案内に従って駐車場に入ると、平日のプレオープンというのに結構車が止まっている。ビラは関係なく誰でも入れた、このビラでというのは客引きセリフだったようだ、福岡らしい。
食事場所を探していくが広い、ラーメンかソバ屋くらいはあるだろうと進むと、これかなというしじみラーメン屋の前だけ長蛇の列だ。昼には麺類がちょうどいいと思うのはだれしも同じようだがその割に麺類の出店が少ない。そこまで店の構成を考えてもいないようだ、アバウトのまま力で押す感じだ。長蛇の列では折りたたむようなジグザグの列にするのは旧来のやり方だが、密を避けるコロナ時代ではそんなやり方はこのところ見たことがない、しかしここではお構いなしだ。どうみても列が密すぎる。こんな風ではコロナの蔓延も簡単には収まらないかな、そう思ってしまう。
そうはいってもプレオープンだ、いろいろ気になるところがあるのは当たり前かもしれない。

少し歩きまわって駐車場に戻るところで、右手に巨大なガンダム像があるのに気づいた、そういえばこの実物大ガンダムができるというのが1年位前から話題になっていた。近くで見ると本当に大きい、よくぞ作ったGandam と思える。背中に背負った武器の分お台場や横浜のガンダムより高い、歴代最高のガンダムだという。いずれにせよ客寄せにしてはちと大き過ぎの感がある。

とにかく色々店がある、店が多い、福岡という町は以前からオーバーストアの街といわれていたように思う。50年近く前に天神地下街が開業し、商業ビルが次々に天神地区に造られたとき、これはいくらなんでも店が多すぎではないか、そういわれ経済誌に書かれたことを今でも覚えている。多すぎだろうが何だろうが、店の数は増え続けていて共倒れなどということもないようだ。

この街はこのくらいのモールは難なく吸収してしまうのだろう。既存の店に埋没してしまうのかもしれない、という不安が巨大ガンダムの設置までに至ったと思えてしまう。それは正解だったかもしれない、ここに来るとそう感じる。

どこかバブリィな雰囲気を未だ保持している、それがやはりこの街の強さのようだ。

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2022年2月28日 (月)

メレル・ヴォーリズの生涯を読む

思い返せばヴォーリズの名は戦前からの建築家として今参加しているサイトで10数年前に教えられた。関東では建築を見る機会がなかったが、ここ福岡では西南学院の旧本館・講堂(現ドージャー記念館)がヴォーリズの手になる建築物として福岡県の文化財に指定されている。ヴォーリズは米カンサス州出身、マッカーサーと同じ年(1880年)に生まれ同じ年(1964年)に亡くなっていて、同じように日本と深く関わっている。その生涯を記述した本「失意も恵み-ウイリアム・メレル・ヴォーリズ」Voliz がたまたま図書館で目について借りてきて読んでいる。なかなかの一生だ。
24才でYMCA派遣英語教師として来日後、近江八幡を中心にキリスト教伝道活動を展開した。派遣教師の契約終了後も伝道活動を続けようとしたが収入を絶たれその一助として教会などの建築設計を引き受け始めた。建築設計に強く惹かれていたものの専門的に建築を学ぶことができなかった事情がありほぼ独学で学んでいたが、かなりの素養があったようで、教会や学校などの建築を中心に仕事を広げていっていった。他方でメンソレータムの国内での製造販売会社も起こしている。理念の根幹はキリスト教の教えで金儲けとは全く縁遠い事業だったが、結果的に事業としても成功している。資金や人材は米国の篤志家からの寄付と集まってきた志のある人材によっている。夫人の一柳満貴子とは東京での廣岡家の仕事でたまたま出会ったのが縁だというが、一柳満貴子は大正天皇(1879生 )の親しい学友(一柳 剛、1879生)の妹で、ヴォーリズ夫妻は結婚後長くそして深い皇室との付き合いがあった様だ。ヴォーリズは天皇家に対する敬虔の念が強かったとも書かれている。人間的な魅力があったのだろう、つながってくる人が限りなく広くそして厚い。
開戦前に日本国籍を取得、戦時中はメンソレータムが軍需物資指定となりそれなりの社会的役割も果たしている。終戦直後、近衛元首相からの依頼が発端で昭和天皇(1901年生)とマッカーサーとをつなぐ役目も果たしたという。何回か天皇やマッカーサーと個別に会って話をしている。最後は前の東京オリンピックの年にオリンピックを見ることもなく83歳で亡くなった。

単なる建築家ではなかった。信念のままに神に身をゆだねるように生ききっている。
キリスト教伝道で異国に入り込むということにはそれが帝国主義の先兵だった時代の印象が強くあり、ポジティブに受け止めることは難しい気がしていた、でもこんな人もいる。キリスト教の原点を抱き、愚直に生きてその役割を見事に果たしている。

宗教というものはどうしても好きになれないが決めつけるものでもないようだ。心を自由にしてあらゆるものを見ていく、それさえできればいいのかもしれない。

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2021年4月15日 (木)

高良山のツツジと高良大社と

 朝方、熊本の大津(おおづ)のツツジの話をしていて大津まで出かけないにしてもツツジ見物もいいなと、ネットでこの辺りのツツジのいいところを探してみる。久留米の森林ツツジ公園というのがひっかかった、ちょっと良さそうに見える。天気もいいし今日今からでも十分行けるとすぐ出発した。高良大社の近くだ、こちらも見てみたいというのもある。
Tutujien0410


ナビに従って下道を走り出したが車が混んでいるのでナビの勧めもあって高速に乗る、しかしこちらも相当に混んでいる。鳥栖JCTまでは時速30kmで走れれば、やったぜ、というくらいのノロノロ状態だ 。久留米で高速を降り、高良山の上りにかかると道が思ったより狭い。片側一車線がギリギリ保てている位で、左右どちらにせよ脱輪すると相当にまずいことが起こる道がうねうねと続く。やっとここかと思うところに着くと、ウソのように広々とした駐車場だ。見晴らしが良く筑後川流域が一望でき山側には鮮やかなツツジ模様だ。これはいい。
座る場所を見つけて持参のコンビニランチをとる。目の前一杯にツツジが広がる。全てクルメツツジの様だ。色とりどりのツツジの小道を上に行ったり下に行ったりしていると、茂みからホオジロやアオジが突然でてくる。姿は見えなかったがソウシチョウの鳴く声が盛んで、ヤマガラもうるさい。鳥もツツジを楽しんでいるようだ。

Tutujien0410b

那須などで見ていた自生のヤマツツジの森ではなく、各種のクルメツツジを人の手によって斜面一杯に植えて造られた森林ツツジ園だ。なーんだというところがなくもないが、キレイだから文句を言う筋合いはない。明治百年記念事業が発端であったと看板にある、5-60年かけて今の姿になったということらしい。
夏目漱石は熊本時代にここ高良山を訪れたようで石碑が残されている。高良山山頂も少しの上りで行けるようだったが、山頂には行かずじまいで帰る、後で調べると山頂を囲むように南北朝の頃に築かれた毘沙門岳城の遺構が残っていると分かり見ておくべきだったと悔やまれる。

帰りに高良大社に寄る。階段のぼりが厳しそうに思えたが、横にスロープカーが設置されていて往きも帰りも利用した、とにかく楽だ、料金は無いがお賽銭程度をということで、適当にコインを入れる。上がると江戸時代初期の立派な社殿が残されており国の重要文化財になっている。裏手には神社の社域を囲む神籠石の一部も残されている、古代よりの山城の様だ、戻って調べるとこの神籠石は7世紀頃造られたらしいという。残念ながら高良大社の博物館は閉館中でよくわからなかったが、日本書紀によれば磐井の乱の決戦の地はここ筑紫御井郡(高良Korataisya0410a大社の住所は今も御井町1番地)であり、磐井の乱(西暦528年)とのかかわりも想像される、随分な歴史があるようだ。
帰りも高速を使う、今度は渋滞もなくスイスイと1時間くらいで帰り着く。ちょっと疲れたが、大和朝廷が支配を確立するKorataisya0410b以前の痕跡があちこちに残る九州という地の面白さを改めて感じてしまっKorataisya0410c た。Korataisya0410d

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2021年3月21日 (日)

隈研吾のedX講座で日本の現代建築の流れを学ぶ

新型コロナがなかなか収まらない。ワクチン接種が進めば少しずつ改善されてくるのだろうが、大江千里や朝日の報道特派員などの海外在住日本人が接種した2回目の接種の体験談を読むと、2回目では結構きつい副反応が起こるのは現地では当たり前のようで大江千里(ニューヨークで接種)気絶、朝日の特派員(イスラエルで接種)は高熱と激しい。接種が広く行われるのには少なからず抵抗がありそうに思えてしまう。まだまだコロナ騒ぎは続きそうだ。
学びの場もリモートが当たり前のようになってきていて国内の大学の授業は殆どがズームだという。そういう訳でもないがedxというハーバードとMITが始めたネットを用いた通信教育は、資格証明をとるのでなければ、試験も含め無料で受けられるので幾つか受けてきた。今年になって隈研吾の建築家シリーズFour Facets of Contemporary Japanese Architecture の第3回目が始まったのでしばらく見ていた。今Kumakng 回は有料コースとして選択しないとテストも受けられないので、無料では講義をとっているとはいえず聴講している形だ、でも刺激があって面白い。終わった後にアーカイブとして講義が後々まで繰り返し見れるというサービスも今回は受けられない。ちょっと残念だがしょうがない、感じたことを忘れないうちに書き残しておく。

アーカイブは無いものの毎回の講義のイントロダクションの4分位の映像だけは残されているのでこれを見ながら思い出してみる、もっとも最後の隈研吾のまとめは見れる形では残されていない。

第2世代(1920-30年代生まれ)、第3世代(1940年代生まれ)、第4世代(1950年代生まれ)、ポスト4世代(1960年以降生まれ)の建築家の都市に対する取り組み方がとりあげられる、丹下の後 何を考え都市建築はなされてきたかを俯瞰する事になる。

(このシリーズ全体では (カッコ内は生年)
第1世代:丹下健三(1913)
第2世代:槇文彦(1928) 磯崎新(1931) 原 広司(1936) 香山 壽夫(1937) 
第3世代:安藤 忠雄(1941)長谷川 逸子(1941)伊東 豊雄(1941)石山 修武(1944)山本 理顕(1945)藤森 照信(1946)難波 和彦(1947)大野 秀敏(1949)
第4世代:隈研吾(1954)妹島 和世(1956)青木淳(1956)坂 茂(1957)篠原 聡子(1958)
ポスト4世代:千葉 学(1960)塚本由晴(1965)貝島 桃代(1969)小渕 祐介(1969)藤本 壮介(1971)
といった建築家達がとりあげられている。)

第1世代の丹下らは明るい未来を目指していたものが、バブル崩壊があり、東日本大震災があり、そして今コロナだ。未来が変容している。

見ていくと隈に指摘されまでもなく公共建築とドメスティックな建築の切り分けが弱くなってきている今を感じる。確かに丹下の都庁に代表される建築は上から目線の権力を体現していた。
小渕祐介の各建築家へのインタビューの形で進められていくが、いずれの建築家の話でもストレートな話し方をしない、悪く言えば話しているのを聞いていても何を主張しているのかわかりにくい、という一種やさしさがない話し方を感じる。ある意味上から目線で、これは未だに修正されていないのかもしれない。
それでもポスト第4世代である塚本・貝島らの話には、それまでの世代の建築家が示していなかった、ユーザーのやりたいことを第一においてそれをよりはっきり押し出せる建築というものを強く意識しているように見える。目線が下がっている。隈のいう 建築家は社会に責任がある、大きな存在であるべきという意識から寄り添う意識への変化を感じることができる。
第2-4世代の建築家群も、第2世代の槇が作り続けているヒルサイドテラスが変化を継続的に続けているように世代にとらわれることなく変わり続けていて、今となっては同じ方向を向いているようにも感じられる。

バブル崩壊以後コロナに至る価値観の変遷は、以前までの時代とは変わらなければ存在が続かない、立ち位置を失ってしまう世界になっていることを示しているようだ。大会社ほど脆くなっているのかもしれない。みずほが考えられないシステムダウンを起こす。考えてみれば東電の原発事故もその一環かもしれない。未来が見えない。輝く未来の嘘くささ、それを動いていく時代とともに感じ取る必要があるようだ。

我々はどこへ向かっているのだろう、またこの問いに戻ってきてしまう。

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2021年2月18日 (木)

駕与丁(かよいちょう)公園に行ってみる

特に予定もないので思いついて10時過ぎに少し気になっていた糟屋町の駕与丁(かよいちょう)公園に行ってみる。ネットでオオノスリの記事に駕与丁公園のハッシュタグが付けられていたのが気になった一つだが、ネットの紹介記事を見る限りオオノスリがいるとは思えない公園のようだ。しかし大きな池の周りの公園のようで兎に角どんなところか行ってみようという位で出掛けた。新二又瀬橋の交差点を右に折れて東の方へ暫くいくが全体にクルマは混んでいる。少し右寄りの道を行って「かすやドーム」の先を右に折れてバラ苑のところにあるはずの駐車場に向かう。と、駐車場への道が通行止めになっている。しょうがないので周回を続けて次の"半島"のところにある駐車場にとめる。半島からバラ苑に向かう橋は土台だけが残っていて橋はない。地震で落ちたということ??,よくわからない。 昼食をとって、池の鳥を見るがユリカモメとヒドリガモばかりだ。対岸に当たるかすやドームのほうにも鳥がいるようなのでまたクルマで周回を続けドームの駐車場に入れる。ぶらぶらしていると、のんびり遊歩道を周回する人が次々に過ぎていく。鳥は先程と同じような感じだ。大体わかった。それにしても駕与丁とは何だろう、落ちた橋はどうしてなんだろう、疑問符が幾つもわいてくる場所だ。
Kayoicyouike

戻って少し調べ直す。先ずは駕与丁だ。ネットで調べると駕与丁公園にある駕輿八幡宮の由来を書いた看板に、ここに昔 駕輿丁座(かよちょうざ)があって江戸時代にこの池を作る頃まで座の人々がここに住んでいたということからこの名前が残っている、と書かれている。駕輿丁座とは何か、また調べる。もともと奈良時代以来朝廷に属した下級官吏で、天皇・皇后等の皇室の輿を担ぐことを仕事としたのが駕輿丁(かよちょう)であった。仕事がそれほどなかったのか、時代が下るとそのうち駕輿丁座として専売権を持つ商工業従事者の組合となっていったという。扱ったものは米や材木、唐物、その他多岐に渡っていたようだ。秀吉は専売権の廃止を指示したが地位が確立されていたのか座は残ったということの様でもある。関西にあるのが当然のような駕輿丁座が何故ここにあったのかはよく解らない。この地に天皇が行幸した時に輿をかつげるように配置していたのだろうか。そういう理屈で大陸との交易の場であるこの地域に取引を取り仕切る座ができたのだろうか。
全国で駕輿丁の地名が残っているのはここだけというから貴重ではある。流れ着いた歴史がある。

もう一つの橋の謎は、少し調べるとややわかった。
橋はみずとり橋といい、1997年4月に竣工、2014年12月に崩落、地震があったわけではなく突然墜ちたようだ。設計施工に問題があったと思われるが原因詳細は調べた限りでは公表されていないようだ。
吊り橋の一種だが吊り線の代わりに床板の中を通るケーブルで吊るという構造のようで 詳しくは竣工時に出ている ((「PC3径間連続吊床版橋(水鳥橋)の設計・施工 Design and Construction of Three-Span Stress Ribbon Bridge(Mizutori Bridge)」著者 : 渡辺正勝 (福岡県粕屋町役場) , 烏野清 (九州共立大) , 岡崎洋 (マエダ) , 左東有次 (富士ピー・エス).))というレポートに出ているようだが入手できていない。橋の崩落は興味深い。随分前、米国シアトル近郊のタコマ橋というのが風により一種のフラッター共振を起こし崩落した、映像は設計者が崩落時現場に居合わせていたこともあり映画として残っていて後の世の教訓となって印象的だった、この橋も大きな教訓が残されたものと思われる。公表されるべきなのだろう。

コロナで遠くに出かける訳にもいかず10km半径くらいの範囲を動いているが、それでも結構色々なことを学ぶ。学び続けるのが生きていくということかもしれない。

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2019年9月30日 (月)

熊本城と金栗巡りでたらたらと時が過ぎる

少し前に修復中の熊本城と金栗ミュージアムを巡る町内会のバスツアーが開催されて値段も安いしちょっといいかもとこれに乗ってのんびり見物してきた。もう随分前のことのような気がしていたが調べると凡そ半月前のことだ。何かに書き留めておかないと次々に起こったことは片っ端から時空のかなたへ飛び去ってしまって何も残らないような気がしている。考えてみれば残らなくてもいいのかもしれない。正確な日付は9月12日のことだ。
自宅直ぐ近くのセブンの前にバスが来て乗り込む、こんな近くからバスツアーが出るのはとんでもなく楽だ。30数人の参加者は殆どが女性だ。Kumamotojyo 思い返せばバスツアーというのはとにかく女性中心だし、海外旅行ツアーも大半が女性だと感じる。一体男は何しているのだろうか。不思議な世の中だ。
途中一回トイレ休憩しただけで福岡から真っすぐ熊本城に向かい、城の正面から左手に回って二の丸駐車場にバスは到着する。堀の手前側の遊歩道を歩きながら城をながめる。工事中で堀のInuiygr 向こうの城のエリアには入れないが修復中の全体像が却って分かりやすい。解説は専門のボランティアが手際よくやってくれる。城の石垣や櫓は未だにボロボロと崩れたままで、今は天守閣と小天守の修復に全力が注がれている様に見える。全部が元の様な姿に復するまでにはまだまだ相当な年月がかかる感じだ。以前報道で「奇跡の一本石垣」として話題になっていた辛うじて石垣一列が崩れず生き残っていた飯田丸五階櫓は、文化財的に価値が低いという判断から取り壊されていた。それでも別の似た様に石垣一列が残って支えられている戌亥櫓が残されていて、地震の破壊の凄まじさを生々しく見ることができる。人の力には限界があることを思い知らされる。
堪能した後食事と金栗四三ミュージアム訪問に熊本県玉名郡和水(なごみ)町に向かう。福岡県との県境近くだがあまり太い道はなく結構時間がかかる。こんなところに住んでいて車がなければ歩くか走るほかなく確かに足は丈夫になりそうだ。三加和温泉という温泉も湧いていて福岡からの日帰り温泉でも十分楽しめそうなところだ。以前福岡に住んでいた時からマラソンの話になると金栗翁という文字がたびたび新聞に現れてなんなのだろうと思っていたが、ここへきての大河でやっとそんなことだったのかと感じていた。地元開催の福岡国際マラソンは初めは金栗賞朝日マラソンと呼ばれていたとか、高校の創立時の顧問が嘉納治五郎だったとかもあって、金栗は昔から自分の周りに現れていたとも思ってしまう。
Kanakr 放送されているドラマ自体は舞台の様にやたら大声で叫ぶシーンがあって今ひとつのめり込んで見る雰囲気ではないが、こんなことがあると悪くもない。
こんな風にたらたらと時が過ぎ去っていく。夏ももう終わって時は渡り鳥は忙しい季節になってきたようだ。

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