2017年6月29日 (木)

運河の眺めと蛍と

品川の南で大学時代の運動部の同期会がある予定だったが少し早く着いてしまった。
京浜運河とつながる高浜運河沿いに時間つぶしでぶらぶら歩いてみた。
運河の対岸に巨大な門型のビルがある。こういうビルを見ると近頃はインスタグラム投

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稿に相応しいいかなと思ってしまう。そう思えば躊躇いもなく想う存分に眺められるのがいい。小心者には理由付けがあると何をやるにも気楽にできる。後で調べるとマンションとオフィスの複合ビルのようだ、因みに家賃はとみると2LDKで24.6万円とある。ほとんど埋まっているようなのにも少し驚く。確かに場所も環境もいいが幾ら何でも高い。そういう世の中になってしまったようだ。東京は最早自分には住めない街だ。
でも少しだけ東京という街が羨ましくなる。

 

旅から福岡に戻ってきて翌日蛍を見に行った。
蛍を見るとこの時期ホッとする。宇都宮にいた頃はどこで蛍が見れるのだろうとあっちこっち見に行って結局市内の美術館裏の数頭の蛍を見るばかりが毎年のことだった。
福岡へ移ってくると、あちこちにほたる公園と銘打った場所がある、どうもこっちの方が多そうだ。蛍のポイントとして最も近いところが那珂川町の中ノ島公園と教わって、行ってみると見たこともない蛍の数だった。こんなに手軽に見れるならと毎年必ず訪れている。駐車場が少し離れたところに確保されているのもいい。
映像になんとか収めたいと写真撮影を試しているが大体分かってきた。1枚で撮るなら

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iso3200でf8,5秒が今のところまずまずで、撮った映像を画像処理ソフトで明るさとコントラストを好みに調整すればまあみれる写真になる。たくさんの蛍が翔ぶさまの映像が欲しければ同じ場所同じアングルで何枚か写真を撮って重ねればいい。もちろん多重露光ができればそれがいいがやり方がよく分かってないので後でソフトで重ねるのが簡単だ。
今年は少しは動きの入った写真が撮れた。梅雨どきでも結構遊べる。

 

梅雨も後半戦に入ってきた、大気が連日不安定になっている。雨が殆ど毎日何処かの時間帯で降る。植物がよく伸びる。だからと言う訳でもないが、やっぱり福岡に住むのが丁度いいのかな。そんなふうにも思っている。

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2017年6月22日 (木)

何かが凝縮した街東京

東京で同期会が2つあって、おまけに気象予報士総会のシンポジウムも聞いたりして久しぶりに2泊3日を東京で過ごした。折角だからとモノレール羽田線沿いのコアジサシを途中下車でみたり、皇居東御苑のアヤメを見たり、旧古河庭園のバラを見たり東京をあちこち動き回ってもみた。

何とか時間を作って東京駅近くで開かれるダビンチ・ミケランジェロ展もみようと計画したが結局疲れて力尽きて辿り着けず旧古河邸での歌曲のミニコンサートを心安らかに聴いていた。歌の翼がバラ園の中空に拡がっているようでゆるく流れる時のうねりが心地よかった。
東京はストレートな生き方がし易いかもしれない、そんなことを思っていた。


旧古河庭園にバラの時期かと見に行ったのは、東京には旧華族や財閥の邸宅がいくつか残されていてそれが東京ならではの見どころのように思っていることがあった。
旧古河財閥の迎賓館であった旧古河庭園は北区にあり京浜東北線の田端の次の駅上中里で降りて10分足らずで到着する。泊まっていたホテルは人形町駅の近くだから日比谷線で上野まで出てJRに乗り換えればいいという塩梅で複雑な地下鉄乗換もなくて気軽にアプローチできる。

日曜だからなるべく早めでないとと人出が気になって9時の開館直後に入る。洋館の見学は10時半からだが当日申し込みは少し早めに行って並ぶ必要があるらしいというのもあった。
Furukawagarden
バラは殆どの木にはまだたくさん蕾をつけていて1番花は過ぎているものの2番花が十分に楽しめる時期だった。2番花などという言い方はここのホームページで初めて知ったが言って見るといかにも詳しそうな雰囲気になって面白い。丁寧に手入れされていて、見ている間もずっと手入れの人が手を動かし続けている。話しかけたくなって、バラのムシ対策は?と聞いてみる、基本的に1週間に1回の薬剤散布でムシは防げているという。ふーんそんなもんでいいんだという感じだ、話すことが面白い。

洋式庭園の作庭は邸宅の設計者ジョサイア・コンドルによるものという。いかにもヨーロッパの庭園だ。
連日の飲み会で疲れていたのもあって日本庭園につながるところの木陰のベンチで鳥の声を聴きながらスケ
Baraen_2ッチを始めた。描くべきものがたくさんある景観だから十分に時間が使えて気兼ねなく休憩できる。
鳥の声は大抵がヒ
ヨドリで時々コゲラの声がするそれくらいだ、しかし何故か品がいいヒヨドリでいやみがない。ゆったりした時の流れに身を任せる。
いくら何でも洋館見学時間が迫ってきたので切り上げて急ぎ日本庭園を見て回る。茶室が点在しこのままのんびりしようとすれば幾らでも居られる雰囲気の庭だ。いいところだ。

Furukawagarden2 洋館に辿り着くと当日見学の列ができ始めているが十分定員内だ、ほどなく見学が始まる。写真撮影は禁止という。写真を撮ることにしか興味のない人はご遠慮願いたいという管理者側の気持ちが伝わってくる気がする。

建物は進駐軍に接収された後暫くは放置されてお化け屋敷状態にあったというが今は綺麗に維持されている。こういう風に整備され始めたのが戦後の終わりを示しているともいえるだろう。

2階の洋式ホールのドアの裏側に襖があって和室が作られていたりする、和室の床の間や違い棚も含めて全てジョサイア・コンドルの設計という所がまた面白い。明治期の招聘外国技術者で鹿鳴館等を設計した人だ。東大で辰野金吾他多くの建築家を育て、個人的にも日本画や日本舞踊まで習い日本舞踊で知り合った日本人の妻をめとって67歳で日本で没している。ロンドン生まれの英国人だ。デレーケ等も含めて明治初期の日本には人生を日本に捧げた優れた外国人が来てくれているのには感謝を覚えるばかりだ。
一回りした後、1階ホールで3人の女性声楽家によるミニコンサートがあるというのでもう東京で回るところは終わりにしようとコーヒーとケーキを味わいながらその歌声を楽しむ。菩提樹にからんで訳詞の近藤朔風を少し調べたところだったので同じ訳詞家の手になる野ばらの歌唱になにか因縁を感じる、歌の翼がバラ園の空に響くさまは何とも言えない安らぎがある。
東京という街もさすがに素晴らしい、そう思えてくる。何かが凝縮している。

上中里駅から浜松町経由で雨が降り始めた羽田に出て午後の便で福岡へ戻る。博多駅前でバスを待っていても人の多さの圧力を感じない、やはり東京の人の厚みは疲れるかな、歳をとるとすかすかしている福岡位の街が丁度いいかな、そんな風にあれこれ思いながら家路についた。この街らしい乾いた風が吹き抜けていた。

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2017年1月31日 (火)

トランプ旋風と文化遺産と

トランプ旋風が吹き止まない。これまでのアメリカが持っていた、善意を押し付けるようにして力を振りまくその姿を捨て去ろうとしているようだ。

メキシコ、カナダを従えた北米の王者がメキシコ、カナダに怯えて壁を作り自由貿易をやめるという、縮こまろうとしている。そんなに情けない国になることをアメリカ国民が選択したのだからしょうがないといえばそうだ。これまでの姿が保てなくなったら捨て去るほかないということだろう。そうするにふさわしい田舎者を選んだのだろう。


先日、筑後川中流の原鶴温泉を訪れたついでに浮羽付近の文化財は、と少し回ってUkihachizu みた。古い街だ。

浮羽の地名の由来は日本書紀に記されていて、この地への第12代景行天皇巡幸の折の逸話に基づくとされている。恐ろしく古い。少なくとも日本書紀がまとめられた8世紀以前に街が形成されていたのは明らかなようだ。
江戸時代、天領日田と久留米を結ぶ街道が筑後街道と称され筑後吉井や浮羽を通っていた。日田から更に東へは中津に抜ける日田往還で瀬戸内に出ている。

日本書紀にうきはの名が出てくることから考えてYosii1 も、ずっと昔から有明海沿岸地方と近畿を結ぶにはこのルートが用いられていたと考えることができそうだ。

筑後吉井には街道沿いの塗家造の街並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

塗家造とは蔵屋敷ほど壁は厚くないが外壁を土塗りの白漆喰仕上げとして木部を覆い耐火的といわれる町屋建築で近世初頭から用いられた様式という。
訪れると、想像した以上に白壁の建物が続く。関東では栃木の街の白壁の景観が知られているが、ここはそれよりはるかに白壁の家の数が多い。
明治初期の大火で街が焼けそのあと塗家造りの丈夫な家立てられるようになって白壁の街が形成されることになったとの説明がある。通りはいまだに主要な道になっているのYosii2 でクルマの交通量が多く、立派な街並みだがゆっくり散策という風情でもない。ちょっとおしい。
公開されている2つの屋敷の内部も見て回る。鏡田屋敷といわれる江戸末期から明治にかけてつくられた屋敷では、よく見る旧家の形だが2階から見える入り組んだ屋根瓦の景観が重層的でいい。

確かに木造の並ぶ日本の街道の風景は、150年くらいもてば立派でそれ以上は火事で焼けたり朽ち果てたりで、石造りのヨーロッパの古い町並み景観のようにはどうしてもいかない。しかし今残せるようにしておけば100年後200年後には重々しく歴史を伝える景観となるのだろう。そう思えば進行形の歴史保存を眺めるというのも意味があるような気がする。

もう一つ近くに国指定重要伝統的建造物群保存地区とし新川田篭(たごもり)が指定Tagomori1 されているのでこちらにも足を延ばす。こちらは筑後街道から南にそれた筑後川支流隈上川沿いに展開している。

クルマで走っていくと途中に説明板があってそれとわかるが普通の山村・農村風景のように見える。棚田が石造りなのは立派だが、どこが国指定の建造物群かと思ってしまう。更に走ると三連の茅葺農家が現れこれがこの建物群の中で重文指定となっている平川家住宅のようだ。立派な造りでこれは確かに重要文化財という気がする。室内照明が落とされていて引き戸を閉めると暗くHiyabayashi1 てよく見えないが、そもそもがこんな明かりの家だったのだろう、かえって雰囲気が出る。古代より人は長く薄暗がりの中で生き延びてきたという歴史を感じる。
それにしても平川住宅よりほかは印象に薄い建物群だ。白壁通りとは好対照だ。
棚田のつづく山間の普通の集落が貴重な文化遺産として保護される、そんな時代になったのだ、そう思う。普通のように見える景色が次々と時の流れで消されていHiyabayashi2 く、そんな時代への危機感がこの集落の文化財指定を生んだのだろう。


何を残して何を捨て去るか、どこへ行ってもいつになっても、その決断から人は逃れられないのかもしれない。そんなことばかりを心に刻む日々が過ぎる。

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2016年10月 7日 (金)

学ぶことが刺激的で

放送大学で半年ほど地球史を学んだが、下期はこれという興味を引く講義が大学院には見当たらず、そうかといってやめてしまうのもなんだかつまらなくて学部のjavaプログラミングの講義をとってみることにした。何かの役には立つかもしれないし放送大学でのプログラミングの講義とはどの程度のものか見てみたい気もした。
9月下旬に申し込んで払い込みは9月末日となったためIDが送られてくるまで時間がKumak 少々かかる。丁度隙間ができたこともあり、8月頃から送られてきていたedXの隈研吾の建築の講義を集中的に見てみた。edXはMITが始めた無料の大学の講義でその後各国の大学も参加して世界的広がりを見せている。隈研吾の講義は日本語の映像なので、畑違いでも視聴に困難はない。英語訳が画面に出てshort testの設問も英語だが4択で難しくもない、しかし時々間違える。
Four Facets of Contemporary Japanese Architecture: Theory というのがタイトルで現代の日本の建築家の系譜を丹下健三以降の世代について解説してくれる。丹下健三を第一世代として隈研吾のいる第4世代までの建築家の考え方の変化を建築家にインタビューしながら明らかにしていくという組み立てだ。磯崎新や香山、藤森、大野、瀬島のインタビューなどもあって戦後の建築の考え方の流れがやっとわかった気がするところが面白い。

いくつも気になる言葉が出てくるが、中でも香山のインタビューで出てきた丹下健三から教わったものそれはnothingだった、というくだりが心に残る。学生の期待をよそに丹下は講義ではまともな建築の考え方は一つも教えてくれなかったというのだ。その時代がそうだったのかもしれない。丹下はリアルなプロジェクトに邁進していて教育には熱が入らなかったようだ。香山は東大を卒業後米国に留学してkahnの教えを受けた、これは日本の大学とは全く違い様式の歴史を背景にした理論で衝撃的なリアルな講義だったという。

nothingだったにもかかわらず丹下の仕事は続く世代に極めて大きな影響を与えた、それはインタビューされた建築家いずれもが認めている。教育とは結局そういうことかもしれない、事実で見せる、作品で見せる・考えさせる、nothing それはそれで意味があった、そんな風な言い方を香山もしている、そういうことなのだろう。

なかなか知的な刺激を受けるレクチャーだった。仕事という ねばならない連鎖から解き放たれた後は、やはり学び続けること、これが一番面白いのかもしれない。

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2016年8月21日 (日)

くじゅうに旅する

ふっこう割というのが始まったので すかさずクーポンを得てくじゅうへ出かけた。
こう暑いと高原に逃れるほかない。
宿泊は2人で7千円引きだから少しは安いものの前に同様の割引きのあった時は2人で1万円引きだったのでそれよりは割引率は低い。すぐにクーポン枠が一杯になるかもしれないというので少々慌てていたこともあり九重の宝泉寺温泉というよく知らない温泉の宿を予約した。檀一雄が時々訪れていたらしいのでそれなりなのだろうということもある。
特にここを見たいということでもない。どこを回ろうか、そういえば大吊橋というのは評判らしいのではここに行こう、ついでに振動の滝という日本百滝の一つがあるのでこれを見よう。雨になれば小さな美術館や博物館を回ればよいか、雨にならなければ男池周辺がいかにも涼しそうだ、あとはタデ湿原でも散策することにしよう、そのくらいの心積もりで出かけた。天気の見通しでは一応雷雨はなさそうではあるが油断はできない。

Tuukoudome 九重インターで高速を降りて大吊橋に向かうととたんに土砂崩れによる道路閉鎖にでくわす。6月22-23日の大雨で幅広く土砂崩れがあり2か月近くたってもまだ復旧しないようだ。地震の間接的な影響もあるのかもしれない。
四季彩ロードに迂回してくださいとの現場の誘導員の指示に従って大回りして大吊橋に到達するがこちらは道はしっかりしている。

大吊橋見物は近ごろのくじゅう観光のポイントになっているようだから見るだけでも見ておくか、くらいの気持ちだ。2015年には開場以来9年目で累計900万人の来場者数を数えており、確かにくじゅう観光の目玉になっているのは間違いない。

クルマを降りると風もあって確かに少しは涼しい。標高は800m弱だから当たり前だが平地の気温が35℃近くあるためか驚くほどは涼しくない。韓国や中国からの観光客も来ていて平日だがにぎわっている。地震やその後の大雨 災害を乗り越えてよく頑張っている感じがする
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つり橋の途中から振
動の滝の雄滝と雌滝が見える。滝壺への道は危険なため閉ざされていて少し遠いがここから見るほかない。勿論振動は伝わってこないが堂々たる滝だ。滝があるから眺めも面白い、そうでなければただの長い橋だ。でも一見の価値は確かにある。
長大で細い吊橋は横風でねじれを伴う共振振動が発生して航空機でいうフラッターが起こりやすく悪くすると破壊に至ることがある。米国ワシントン州のタコマ橋がフラッターで1940年に破壊し完成後僅か4か月で落ちてしまったというTacomabridg1 事故が有名で、設計にはそれなりの配慮が必要になる。調べると この夢大吊橋を担当した川田工業という会社ではねじれ剛性を上げるとともにフラッター抑制に床板の中央に格子を設けて空気抜きする他、床板構造の両側にフェアリン
グをつけることが有効と風洞試験で確認しこれを適用しているようだ、結構知恵を絞っている。吊橋は2006年に建造以来問題なく現在まで運用されておりフラッター対策はうまく機能しているようだ。渡ってみても振動に対する不安感は殆どなTuribashi1a1い。
構造については後でインターネットで調べた後知恵だが調べると結構面白い、橋そのものの工学的解説がより詳細に現地でされていればもっとこの橋の魅力は増すようにも思える。現代はダムにもダムマニアがいる、そういう時代なのだから。


次は黒岳山腹の男池に回る。次は男池と言っている家族連れの声が聞こえてもきて大吊橋から男池というのは定番コースのようだ。
こちらは標高850m位のところにある原生林の川沿いの遊歩道歩きがメインで今回は遊歩道の下流側にある名水の滝と呼ばれる滝を往復してみた。日本の滝百選には入ってOikemichi おらず、大した滝でもなかろうと遊歩道を歩いて行く、少しの登りの後急に下って滝壺に至る、なかなかの滝だ。滝壺のすぐ下流を滝を見ながら川を横断できるように飛び石が配置してあり間近で滝の迫力を感じられる。涼しい風が滝から吹き寄せこの時期これ以上に気持ちの良い散策は無いと思えるほどだ。
滝付近の上り下り以外は平坦でどこか奥日光戦場ヶ原の湯川に沿った遊歩道を思い起こさせる。野鳥はあまり姿を見せないがカケスやカラ類それにオオアカゲラらしい声など が聞こえてまずまずだ。この日の鳥で面白かったのはタデ湿原を啼きながら飛び回るセッカの姿だった。ヒッヒと啼いて上昇しビョンビョンと啼き方を変えて低高度を忙しく飛び回っている。初めは何だろうと思っていたがとまるところをやっと見つけてセッカと確信した。
セッカというとヒッヒという啼き方しか知らなかったがまた一つ知識が増えた。タデ湿原はサワギキョウ
20160816sekka4やトンボソウなどこの時期でも多くの花が咲いていてこちらも面白い。
雨にも会わず散策を楽しんだ後法泉寺温泉まで戻ってのんびりする。
万年山(はねやま)の近
くで、有名な、ついこの間動いたらしい別府万年山断層がこのあたりには何本も走っていそうだが、温泉の出るというところは所詮どこでも長い目で見れば危ないところだとあきらめる。

暑い時期はすべてを受け入れる緩くけだるいこんな旅がふさわしい。

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2016年4月30日 (土)

修学院離宮で感じる

4月の20日頃京都に遊びに行った小旅行が教訓が多くて忘れないように書き留めておかねばと思っている。
2日目の午前は修学院離宮に行った。修学院離宮と桂離宮を同じ日に訪れるように見学許可を得ることができてそのように日程を組んだのだが、許可が出て改めてその場所を確認してみると京都の右上と左やや下に位置していて結構離れている、そのうえにいずれも最寄りの公共交通機関からは10分以上くらいは歩かねばならない。
雨降りになるのが心配だ。
気象庁のGSM11日予測データを京都付近で切り出して毎日見ていた。8日前の時点では当日は低気圧が紀伊半島付近を通過し終日雨の予想でこれはどうしたものか案じていたが6日前の時点まで近づくと南の大気の張り出しが弱く低気圧は腰砕けで南の海上に押しやられてしまうという予想となり現実にその日がやってくると晴れ上がった好天となった。
南と北の大気が日本付近で入り乱れる春の天気は前もってはなかなか予想の精度が上がらない。悪い予想は大体当たるものだがそうならないこともある、天は公平だ。

ともかく当日は計画通り京都駅前から地下鉄で国際会館前まで行きバスで修学院離宮道まで戻ってそこから歩く。10分位のゆったりとした散歩のような歩みで入り口に到達する、のんびりしたところだ。久蔵の描いた桜図によく似た八重桜が丁度咲いているのを道すがら見たりもする。
修学院離宮は江戸時代、桂離宮より僅かに後の頃に後水尾天上皇により造られている。後水尾上皇は非常にこの離宮を好んで亡くなるまでに70数回も訪れたとされている。上皇は桂離宮にも訪れていて上皇を迎えるために新御殿が造られておりその意味Syugakuin2 では桂離宮の完成にも深く影響を与えたと言える、一つの文化的頂点を実現した人ともいえるだろう。徳川家康の圧力で後陽成天皇は(桂離宮を作った)弟の智仁親王に皇位を譲ることができず息子に譲りこれが後水尾天皇となった。皇室と徳川家がせめぎあっていた時期でもあったようで、自然あふれる修学院離宮に格別の愛着を持っていたのもそんな息苦しい時代背景
があったためかとも推察される。

修学院離宮は桂離宮のように巧みな技を方々に埋め込んだというようでもなく周囲の自然とのどかな農村風景をうまく取り込んだところが秀逸な印象を与える。
例えば途中の松並木は人工的に低く抑えられており辺りを見渡しながら歩ける、こんな松並木は世界的にも見たことがない。
結構な上り下りの見学
Syugakuin1路を歩いて行くが忙しいというほどでもない。桂離宮の見切れない感はここにはない

東の東照宮と京の修学院離宮・桂離宮は確かに当時の文化的先端の両面を具現していと思える。こうであったことが日本の文化に深みと立体感を与えられたのだろう、二つの軸を持つ歴史そのものが日本の文化的バックボーンであり続けたのだろう、今更ながらそんなことを考えてしまう。

京都は大分見たかな、と思うがそれでもまだまだ学ぶところが多いようだ。こんな学びは楽でいいなとも思うし、また来たくなるそんな所のようにも思ってしまう。

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2016年4月25日 (月)

桂離宮を見る

紅葉の桂離宮見学は抽選で負けて果たせなかったのもあり、空いてくる桜の季節の直後を狙って、修学院離宮と同日に両方を見学できる空きのある日を探して、やっとの思いで見学許可を取得した。色んなことがあって3カ月が過ぎその日がやってきて京都に出かけた。
1日に両方を見るのは効率いいと思っていたもののやはり疲れる。
修学院離宮見学の後、中間の四条の祇園辺りでランチを食べ多少散策して14時30分Katsurarky8 からの桂離宮の見学に向かった。
阪急の桂駅から歩くほかないのかとバス道に沿って歩き始めたところ目の前のバス停にバスがちょうど来て桂離宮口にもいくという。ほっとしてバスを利用する。Yahooの経路検索ではバス利用が出てこなかったので歩くほかないと思い込んでいた。広い無料駐車場があるのでクルマでこれればそれが一番のようだ。
4月から桂離宮の案内となったばかりという宮内庁の案内担当の方から説明を受けながら回る。とにかく忙しい。見るべきものがたくさんある、建物も石組も庭も歩を進めるごとに意匠が移ろっていく。見落とすまいと写真を撮っていると遅れて説明も聞けなくなる。客へKatsurarky3 の庭の見せ方がいちいち凝っている。例えば目隠しとなる生垣が上手く配置され視界を遮る松が植えられたりもして、開けてところに出た時の驚きを印象づけるようにしつらえてある。敷石が美しかったり、ツツジの配置が心地良かったりもする。

松琴亭というところに行く。デザイン的に目を引く襖、開け放てば柱だけのようにもなるスケスケの構造、はかなくも脆い。桂川のたび重なる氾濫にも耐えてよくここまで生き残ったと思う。
日光東照宮が作られたちょうど同じ時期に造られた、というがその粋さというか東照宮とは対局の軽妙さ、遊びがいちいち目を引く。
Katsurarky6 賞花亭という東屋ではすけている下地窓の棧の影が畳に落ちる様も面白い。ここまで仕組んだわけではないのかもしれないが、ほかではこんな様は見られない。
八条宮が細かく指示してこの離宮は造営されたと言われる。相当に思い入れがあったようだ。簡素なようで細部には異様ともいえる手のかけようがみられる。ひ弱な建築物だがいとおしさがある、壊してはならないという空気が取り巻いている。天皇家の雰囲気がある。

Katsurarky9 神社のような直線の美しさ清々しさと工芸の巧みを見事に取り混ぜて頗る頗る日本的な建造物だ。矢張り見るべき造形だった。

忙しい見学時間がたちまち過ぎ去り、駐車場辺りに待機していると教えられた客待ちのタクシーの姿ももうなく、とぼとぼと桂駅まで歩いて戻る。少々疲れた。印象が溢れていて纏まりがつかない、何回か訪れてみねば、とも思いながら歩く。しかしともかく九州からは遠い、それに体力もいる、もう多分来れないだろうな、見れただけでも上出来だな、そんな風にも思って桂駅を後にした。

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2016年3月31日 (木)

ギリシャを旅する4-----エーゲ海1日クルーズ

ツアーの中にエーゲ海1日クルーズというのが含まれていて少しはエーゲ海の雰囲気を味わえるかと期待Egeseaしていた。
エーゲ海といってもそのうちのサロニコス湾と呼ばれるペルポネス半島とアテネのあるギリシャ本土に囲まれ
た海域で、クレタ島などのある東地中海をさしてよく使われるエーゲ海という響きからはややずれることにはなる。

双胴船で安定が良い上に波がとりわけ静かで滑らかな航海が始まる。
アテネのピレウス港を出港するところから岬の上まで白い Egesea6a 箱型の家で埋まった景色が現れエーゲ海の雰囲気となる。カモメが近くに見えるが足が黄色いもののウミネコではない、日本に帰って調べるとYellow-legged gullというカモメのようだ。日本付近にはいない種類で、海もカ
モメも同じようだがちょっと違うところが地中海らしい。

アテネ港を出たあたりがサラミスの海戦があったところに近いは ずだが、なんでこんなところでペルシャ軍は海戦をするに至ったのだろうと思ってしまう。アテネ側がうまく仕掛けて海戦に引き込んで勝利に至ったのだろう。しかし静かな海だ。

イドラ島、ボロス島、エギナ島と順に回る。どれだったか、島に近づくと35ftから
Egesea240ftくらいのクルーザーが2隻のんびりでてくる。こんな海ならいかにも遊べる海だ。正直こEgesea4 んな海でヨットで遊んでみたい。
島の港は観光客相手でにぎわっている。 海の水は港近くで見ると透明でキラキラしているが航行中はサンゴ礁のような明るい海ではない、当たり前のことだが、海を見るだけなら宮Egesea5 古島の海がやはり綺麗だ。
Egesea3 食事が出たり踊りがあったりと前にハワイで乗ったホエールウオッチング&ディナークルーズに少しは似ているが、ツアーに完全に組み込まれていると何となく開放感が今一つの感じがしてしまう。そういうものなのだろう。何かを得ようとすれば何かを失う。ツアーで楽をしようとすると開放感が減ってくる、どうしようもないことだ。
エギナ島ではアフェア神殿を見に行く。パルテノンとポセイドンの両神殿と正三角形の位置にあり高さも同じに合わせていると船の中で説明される。本当だろうかと帰って検証してみる。9egesea 地図を見るとすぐわかるのだが明らかに正三角形ではない、しかしパルテノン=アフェアを底辺とする2等辺三角形ではあるようだ。少し大きな地図で見るとデルフィから南東に向かう大きな矢印となっているように見え、矢印の向かう先にはミノス文明よりさらに古いキクラデス文明(BC30世紀)を生んだキクラデス諸島が認められる。地球のへそといわれたデルフィとキクラデス文明をつなぐ何かを壮大に示し ているようで極めて興味深い。エーゲ海には人類文明の源が確かにあるような気がしてくる。

アフェア神殿はEgesea7小島の神殿とは思えない堂々とした作りだった。資材は本土から運び丘の上まで持ち上げて建造している、目にしている遺跡は紀元前5世紀で最初の神殿はもっと遡るのだろう。
エーゲ海クルーズは終盤となりギリシアダンスが始まる、喧騒から逃れて落ちゆく夕日をぼんやり眺めていた。
何も考えずに眼前の光景に向き合うとそこにはすべての 歴史が凝縮して流れていくようで、我々は古を繰り返しているだけではないのか、すべての答えがここにあるのでhないか、そんな
Egesea8_3気がしてきて時間の壁のない茫洋とした感じに浸るに至る、そんな感覚を味わうのにふさわしいのがエーゲ海の船旅かもしれない。

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2016年3月28日 (月)

ギリシャに旅する3-----デルフィ、メテオラ

アテネから北へデルフィを経てメテオラにチャーターバスで向かう。両者とも当然のごとく世界遺産だ。北上する高速道路E75から南西に折れて山越えしながら次第に雪をParnasos 被ったパルナッソス山の山麓に接近する。最初にオシオスルカス修道院というところを見る。10世紀のギリシア正教の修道院でこれも世界遺産だ。ギリシャは古代遺跡のほかは中世のギリシャ正教遺跡に見るべきものが多いようだ。カソリックの教会と全く趣の異なる建築になっていて、ユダヤ教とイスラム教とキリスト教は同じ旧約聖書を信奉している根は同じ宗教だと実感する。晴れていい日だ。
テーバイとデルフィを結ぶ道に沿って西へ向かう。この道Osioscar に沿って進むと、オイデプスの悲劇でオイデプスがデルフィ神殿で神託を受けた帰りそれとは知らず実の父ライオスに遭遇して殺害してしまうボーキスの三叉路のあったあたりに差し掛かる。この地点という明瞭なマーキングは無い。ゼメノウ付近の山道がそうらしく、そのあたりを見上げるばかりだがどう三叉路なのかはよくわからない。もともとがギリシア神話でありアイスキュロスやソフォクレスがこれを題材にしてオイディプスの悲劇を描いたものだから、どこまで現実の世界とつながるのかはぼやけているが、Oideps デルフィもテーバイも残っておりそこが舞台なのは明らで邪馬台国の卑弥呼の話よりかなりリアルだ。山に囲まれた険しい街道という感じが伝わってくる。谷の道の三叉路としている解釈もあるようだが山道から突き落としたと考える方が舞台としてはありそうに思える。ゼメノウの直ぐ西のアラホバという小さな町で休憩する。貸スキーの看板も出ていて今はパルナッソス山でのスキー客をあてにしているような風情がある。ギリシャでスキーとは思わなかったが2500m近い山だから確かに冬はスキーができそうArahob だ。街そのものはデルフィとテーバイを結ぶ街道の宿場町の形で古い歴史がある。
デルフィが標高600m位有り、デルフィから高度をあまり落とさないように山腹に付けられた道でテーバイの間の峠を越えたのだろう、片側が崖のような道で馬車を突き落としたということはありそうな設定だとまた思う。三叉路そのものは大きな分かれ道というほどのことはなく枝道との分かれ道ということではないかと思う。
狭い山道で口論となり父親をはずみで殺してしまったというイメージが湧い
Derphiてくる。
2500年前の世界と今が普通につながっているのが感じられて日本のぼんやりした古代のイメージとはだいぶ違う。

デルフィの神殿は紀元前11世紀ころから神託の地とされていたようで、広い地域から捧げものを持って神託を得に多くの人々がやってきていたようだ。地球の中心のへその石もある。
デルフィ神殿は山の斜面が崩れて埋もれてしまっていたのを19 Derphi2世紀に発掘されたという。石に掘られた文字が数多く出 土しており当時の様子が具体的に解明されているようだ。現在使われているギリシャ文字とほぼ同じ文字で記述されている、文字の力は大きい。地下から湧いてくるガスを巫女が吸って朦朧となった状態になり神託を伝えるということが行われていたようだ。当時のギリシャ社会で非常に重要なポジションにデルフィは位置づけられていて、ペルシャの海軍を打ち破ったサラミスの海戦もデルフィの神託に従った結果とされているようだ。次々と学んでいく旅だ。

デルフィを後にHeigenして北のメテオラに向かう。ギリシア中部の平野部を横切るが、ほとんどが牧草地になっている。広い平原でいい畑になりそうな気がするが畑をシコシコ耕すというのはあまりギリシャ人の相に合わないのだろうか。ギリシャ料理ではどこか野菜が貧弱なような気がして少々合点が行かない。
デルフィを出て3時間くらいひたすら走って日が暮れた頃メテオラ近くのカランバカの宿に到着する。
メテオラは世俗を絶った修道士たちが14世紀頃から険しMeteora1 い岩山の上に篭りはじめ次第に修道院の形を成して現在に至っている。修道院を経済的に支えるためもあって観光客へ開かれた修道院が幾つかある。今回はメガロメテオラと聖ステファノの2つの修道院を訪れた。内部のイコンやどこか東照宮に通じる装飾も興味深いが何といっても岩山の上に造られたその景観が圧倒的だ。黒いコウノトリであるナベコウがゆったりと飛翔を見せてくれたりもする。絶景といってよい。
デルフィといいメテオラといい宗教の力を見せつけられる。テロに怯える今もそうなのだろうか。
旅は続く

Meteora2

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2015年11月25日 (水)

軍艦島,心象

軍艦島は1974年の閉山の1年前までフル操業だった、それが急に終結を迎えた。島には豊かな生活があった。打ち捨てられたコンクリートの街は高い防波堤をも越えてくる荒波で壊され続けている。

崩れゆく
       軍艦島に波高し

トビ舞いて波砕け
  雨に風 朽ちゆく壁に音もなし

ビビビュー嵐廃墟の街を過ぎ

 違うんじゃないのと声有り軍艦島

子らの声空に響けむ

  時は去り 人夢ありし軍艦島 

雨けぶる軍艦島に秋深し

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