2022年11月23日 (水)

コロナの旅行支援で姫路/山陰をめぐる

コロナの旅行支援があるのでせっかくだからと、1泊2日の旅行社ツアーで姫路城/鳥取砂丘/足立美術館/出雲大社を巡る旅に参加してみた。山陰は自分で旅程を組むにはちょっと面倒なところがあって、丁度いいかという感じがあった。ルートを調べるとこの3月に姫路から中国道までの高速道が開通し姫路城を見た後鳥取砂丘に回Kippu1 るコースが1日で回れるようになっ て実現したツアーのように思える。
8時10分の集合時刻に合わせて博多駅に行くと40人くらいいる、結構多い、女性が多い感じもする。集合場所で新幹線の切符が渡されるかと思いきや指定座席のシート番号が書かれたメモ紙が渡され入場は改札口の横の仕切りを開けてもらって団体で一斉に入る形となるHimejijyo 、普通の改札はな い。切符もないこんなんで大丈夫かと思うがいつもこうのようだ。2時間半くらいで姫路到着だから遠いというほどではない。観光バスで11時30分ころ姫路城につく、懸念した通り昼食が問題だった。昼食は付いておらず2時間の城内観光の時間内で各々昼食をとる必要があるが城内は食事禁止でひとまわりした後お堀の外に並ぶ土産物兼食事の店まで戻って食べるほかない、結構混んでいて、バス出発時間が際どい。しょうがないので店の前で売っているおでんを買って近くのベンチを探してここで昼食を済ませる。バスの中もコロナ対策で食事は禁止となっている。コロナ時代の旅はやはり少々面倒だ。
2時間半ほどバスに揺られて鳥取砂丘に4時前に着く。日没は4時55分ころだ。砂山の肩のところまで歩いて登って海を眺める。風は弱く砂が靴に入ることもない。Sakyu このくらいの砂丘なら日本の各所にありそうな気もしてくる、大抵は松を植えたりして砂をコントロールしているがここはそれをあきらめたに過ぎないような気がする。福岡の海の中道も剥ぎとれば大砂丘なのだろう。でも夕日の景色はいい、夕日の頃にここにつくように設定されたプランはさすがと思わせる。ここにきたら砂の美術館も行くべきところのように思えてくるが時間がきついお仕着せのツアー故今回は行けない、そこまでは無理だ、しょうがない。
大山のふもとの宿に一泊する。大きな建物でツアー客が多い。コロナ真っ盛りの時はどうしのいだのだろう、やっと一息つけた雰囲気がひしひし伝わる。もらった一人3000円のクーポン券は鳥取県内でしか使えない、このホテルで半分と次の日の朝一番で行く土産物屋で残り半分を使う。とにかくこの地の経済を回すことにお役に立てた心地がして悪くない。
Teien 続いて安来の足立美術館に寄る。足立といっても足立区とは何の関係もない。足立全康という名の安来出身の事業家・蒐集家が1970年に創設した大きなスケールの美術館で横山大観の豊富なコレクションと広い日本庭園が(国際的にも)立派として知られる。団体客を多く受け入れるだけのキャパシティーがあり、この日も平日ながら結構な混みようだ。すこぶる個人的な印象としてはフーンという感じで、感動というほどのものは感じない、でもこういう施設は個人が作ったものにせよ島根にとってはかけがえのないものとなっていることをどうしても感じる。こんな美術館はここにしかない、よくぞ創った。
出雲大社に行く。このツアーの訪問地としてはここが最後だ。本殿に向かって参ったが本殿はよく見えない、見るということにはあまり向いていない建造物のようだ。また昼にかかるがオプションの昼膳を頼んでIzumotaisya いたのでランチは何とかなった。食べ終わって歴史博物館へ急ぐ。圧巻は荒神谷から出土した銅剣365本だった、全てをこれでもかと展示してある。加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸もすぐそばに展示してある。何故これほどの量がここにとどうしても思ってしまう。古代史における出雲の位置づけがまだまだ不十分なのを感じる。
あわただしく駆け抜けてバスは広島に向かう。途中の休憩は三次ワイナリーDouken だったがインターのそばのトイレ休憩に向く施設として存在しているのも面白い、次々に観光バスがやってくる。勿論ワインも大サービスの試飲が効いて次々に売れていく、巧みなビジネスだ。
余裕で広島駅に到着、やや持て余した時間をスタバで過ごす。夕食は予約していた駅弁となるが勿論新幹線内は食事可能でのんびりとくつろぐ。
あわただしい旅ではあったが、この時代の旅行を取り巻くビジネスの有様があちこちで面白くも見られたのが印象的だった。コロナが8波でやってきてもこれは何としても凌がねばならない、そんなことを思っていた。

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2022年4月29日 (金)

ららぽーとにバブリィな福岡を見る

福岡という街に改めて越してきてもう9年以上の時が過ぎた。どこかバブル期の日本の雰囲気を捨てずにいる街だな、そういう感じが引っ越した時にしていた。9年も住むとそんな印象も薄らいでいったが、時々そうでもないこともある。

先日、近くにららぽーと福岡というモールがオープンした、正式オープン前に近隣住民にはプレオープンとしてこのビラで入場できますというビラ入れがあって、せっかくだから昼ごはんでも食べようか、と出かけてみた。案内に従って駐車場に入ると、平日のプレオープンというのに結構車が止まっている。ビラは関係なく誰でも入れた、このビラでというのは客引きセリフだったようだ、福岡らしい。
食事場所を探していくが広い、ラーメンかソバ屋くらいはあるだろうと進むと、これかなというしじみラーメン屋の前だけ長蛇の列だ。昼には麺類がちょうどいいと思うのはだれしも同じようだがその割に麺類の出店が少ない。そこまで店の構成を考えてもいないようだ、アバウトのまま力で押す感じだ。長蛇の列では折りたたむようなジグザグの列にするのは旧来のやり方だが、密を避けるコロナ時代ではそんなやり方はこのところ見たことがない、しかしここではお構いなしだ。どうみても列が密すぎる。こんな風ではコロナの蔓延も簡単には収まらないかな、そう思ってしまう。
そうはいってもプレオープンだ、いろいろ気になるところがあるのは当たり前かもしれない。

少し歩きまわって駐車場に戻るところで、右手に巨大なガンダム像があるのに気づいた、そういえばこの実物大ガンダムができるというのが1年位前から話題になっていた。近くで見ると本当に大きい、よくぞ作ったGandam と思える。背中に背負った武器の分お台場や横浜のガンダムより高い、歴代最高のガンダムだという。いずれにせよ客寄せにしてはちと大き過ぎの感がある。

とにかく色々店がある、店が多い、福岡という町は以前からオーバーストアの街といわれていたように思う。50年近く前に天神地下街が開業し、商業ビルが次々に天神地区に造られたとき、これはいくらなんでも店が多すぎではないか、そういわれ経済誌に書かれたことを今でも覚えている。多すぎだろうが何だろうが、店の数は増え続けていて共倒れなどということもないようだ。

この街はこのくらいのモールは難なく吸収してしまうのだろう。既存の店に埋没してしまうのかもしれない、という不安が巨大ガンダムの設置までに至ったと思えてしまう。それは正解だったかもしれない、ここに来るとそう感じる。

どこかバブリィな雰囲気を未だ保持している、それがやはりこの街の強さのようだ。

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2022年2月28日 (月)

メレル・ヴォーリズの生涯を読む

思い返せばヴォーリズの名は戦前からの建築家として今参加しているサイトで10数年前に教えられた。関東では建築を見る機会がなかったが、ここ福岡では西南学院の旧本館・講堂(現ドージャー記念館)がヴォーリズの手になる建築物として福岡県の文化財に指定されている。ヴォーリズは米カンサス州出身、マッカーサーと同じ年(1880年)に生まれ同じ年(1964年)に亡くなっていて、同じように日本と深く関わっている。その生涯を記述した本「失意も恵み-ウイリアム・メレル・ヴォーリズ」Voliz がたまたま図書館で目について借りてきて読んでいる。なかなかの一生だ。
24才でYMCA派遣英語教師として来日後、近江八幡を中心にキリスト教伝道活動を展開した。派遣教師の契約終了後も伝道活動を続けようとしたが収入を絶たれその一助として教会などの建築設計を引き受け始めた。建築設計に強く惹かれていたものの専門的に建築を学ぶことができなかった事情がありほぼ独学で学んでいたが、かなりの素養があったようで、教会や学校などの建築を中心に仕事を広げていっていった。他方でメンソレータムの国内での製造販売会社も起こしている。理念の根幹はキリスト教の教えで金儲けとは全く縁遠い事業だったが、結果的に事業としても成功している。資金や人材は米国の篤志家からの寄付と集まってきた志のある人材によっている。夫人の一柳満貴子とは東京での廣岡家の仕事でたまたま出会ったのが縁だというが、一柳満貴子は大正天皇(1879生 )の親しい学友(一柳 剛、1879生)の妹で、ヴォーリズ夫妻は結婚後長くそして深い皇室との付き合いがあった様だ。ヴォーリズは天皇家に対する敬虔の念が強かったとも書かれている。人間的な魅力があったのだろう、つながってくる人が限りなく広くそして厚い。
開戦前に日本国籍を取得、戦時中はメンソレータムが軍需物資指定となりそれなりの社会的役割も果たしている。終戦直後、近衛元首相からの依頼が発端で昭和天皇(1901年生)とマッカーサーとをつなぐ役目も果たしたという。何回か天皇やマッカーサーと個別に会って話をしている。最後は前の東京オリンピックの年にオリンピックを見ることもなく83歳で亡くなった。

単なる建築家ではなかった。信念のままに神に身をゆだねるように生ききっている。
キリスト教伝道で異国に入り込むということにはそれが帝国主義の先兵だった時代の印象が強くあり、ポジティブに受け止めることは難しい気がしていた、でもこんな人もいる。キリスト教の原点を抱き、愚直に生きてその役割を見事に果たしている。

宗教というものはどうしても好きになれないが決めつけるものでもないようだ。心を自由にしてあらゆるものを見ていく、それさえできればいいのかもしれない。

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2021年4月15日 (木)

高良山のツツジと高良大社と

 朝方、熊本の大津(おおづ)のツツジの話をしていて大津まで出かけないにしてもツツジ見物もいいなと、ネットでこの辺りのツツジのいいところを探してみる。久留米の森林ツツジ公園というのがひっかかった、ちょっと良さそうに見える。天気もいいし今日今からでも十分行けるとすぐ出発した。高良大社の近くだ、こちらも見てみたいというのもある。
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ナビに従って下道を走り出したが車が混んでいるのでナビの勧めもあって高速に乗る、しかしこちらも相当に混んでいる。鳥栖JCTまでは時速30kmで走れれば、やったぜ、というくらいのノロノロ状態だ 。久留米で高速を降り、高良山の上りにかかると道が思ったより狭い。片側一車線がギリギリ保てている位で、左右どちらにせよ脱輪すると相当にまずいことが起こる道がうねうねと続く。やっとここかと思うところに着くと、ウソのように広々とした駐車場だ。見晴らしが良く筑後川流域が一望でき山側には鮮やかなツツジ模様だ。これはいい。
座る場所を見つけて持参のコンビニランチをとる。目の前一杯にツツジが広がる。全てクルメツツジの様だ。色とりどりのツツジの小道を上に行ったり下に行ったりしていると、茂みからホオジロやアオジが突然でてくる。姿は見えなかったがソウシチョウの鳴く声が盛んで、ヤマガラもうるさい。鳥もツツジを楽しんでいるようだ。

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那須などで見ていた自生のヤマツツジの森ではなく、各種のクルメツツジを人の手によって斜面一杯に植えて造られた森林ツツジ園だ。なーんだというところがなくもないが、キレイだから文句を言う筋合いはない。明治百年記念事業が発端であったと看板にある、5-60年かけて今の姿になったということらしい。
夏目漱石は熊本時代にここ高良山を訪れたようで石碑が残されている。高良山山頂も少しの上りで行けるようだったが、山頂には行かずじまいで帰る、後で調べると山頂を囲むように南北朝の頃に築かれた毘沙門岳城の遺構が残っていると分かり見ておくべきだったと悔やまれる。

帰りに高良大社に寄る。階段のぼりが厳しそうに思えたが、横にスロープカーが設置されていて往きも帰りも利用した、とにかく楽だ、料金は無いがお賽銭程度をということで、適当にコインを入れる。上がると江戸時代初期の立派な社殿が残されており国の重要文化財になっている。裏手には神社の社域を囲む神籠石の一部も残されている、古代よりの山城の様だ、戻って調べるとこの神籠石は7世紀頃造られたらしいという。残念ながら高良大社の博物館は閉館中でよくわからなかったが、日本書紀によれば磐井の乱の決戦の地はここ筑紫御井郡(高良Korataisya0410a大社の住所は今も御井町1番地)であり、磐井の乱(西暦528年)とのかかわりも想像される、随分な歴史があるようだ。
帰りも高速を使う、今度は渋滞もなくスイスイと1時間くらいで帰り着く。ちょっと疲れたが、大和朝廷が支配を確立するKorataisya0410b以前の痕跡があちこちに残る九州という地の面白さを改めて感じてしまっKorataisya0410c た。Korataisya0410d

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2021年3月21日 (日)

隈研吾のedX講座で日本の現代建築の流れを学ぶ

新型コロナがなかなか収まらない。ワクチン接種が進めば少しずつ改善されてくるのだろうが、大江千里や朝日の報道特派員などの海外在住日本人が接種した2回目の接種の体験談を読むと、2回目では結構きつい副反応が起こるのは現地では当たり前のようで大江千里(ニューヨークで接種)気絶、朝日の特派員(イスラエルで接種)は高熱と激しい。接種が広く行われるのには少なからず抵抗がありそうに思えてしまう。まだまだコロナ騒ぎは続きそうだ。
学びの場もリモートが当たり前のようになってきていて国内の大学の授業は殆どがズームだという。そういう訳でもないがedxというハーバードとMITが始めたネットを用いた通信教育は、資格証明をとるのでなければ、試験も含め無料で受けられるので幾つか受けてきた。今年になって隈研吾の建築家シリーズFour Facets of Contemporary Japanese Architecture の第3回目が始まったのでしばらく見ていた。今Kumakng 回は有料コースとして選択しないとテストも受けられないので、無料では講義をとっているとはいえず聴講している形だ、でも刺激があって面白い。終わった後にアーカイブとして講義が後々まで繰り返し見れるというサービスも今回は受けられない。ちょっと残念だがしょうがない、感じたことを忘れないうちに書き残しておく。

アーカイブは無いものの毎回の講義のイントロダクションの4分位の映像だけは残されているのでこれを見ながら思い出してみる、もっとも最後の隈研吾のまとめは見れる形では残されていない。

第2世代(1920-30年代生まれ)、第3世代(1940年代生まれ)、第4世代(1950年代生まれ)、ポスト4世代(1960年以降生まれ)の建築家の都市に対する取り組み方がとりあげられる、丹下の後 何を考え都市建築はなされてきたかを俯瞰する事になる。

(このシリーズ全体では (カッコ内は生年)
第1世代:丹下健三(1913)
第2世代:槇文彦(1928) 磯崎新(1931) 原 広司(1936) 香山 壽夫(1937) 
第3世代:安藤 忠雄(1941)長谷川 逸子(1941)伊東 豊雄(1941)石山 修武(1944)山本 理顕(1945)藤森 照信(1946)難波 和彦(1947)大野 秀敏(1949)
第4世代:隈研吾(1954)妹島 和世(1956)青木淳(1956)坂 茂(1957)篠原 聡子(1958)
ポスト4世代:千葉 学(1960)塚本由晴(1965)貝島 桃代(1969)小渕 祐介(1969)藤本 壮介(1971)
といった建築家達がとりあげられている。)

第1世代の丹下らは明るい未来を目指していたものが、バブル崩壊があり、東日本大震災があり、そして今コロナだ。未来が変容している。

見ていくと隈に指摘されまでもなく公共建築とドメスティックな建築の切り分けが弱くなってきている今を感じる。確かに丹下の都庁に代表される建築は上から目線の権力を体現していた。
小渕祐介の各建築家へのインタビューの形で進められていくが、いずれの建築家の話でもストレートな話し方をしない、悪く言えば話しているのを聞いていても何を主張しているのかわかりにくい、という一種やさしさがない話し方を感じる。ある意味上から目線で、これは未だに修正されていないのかもしれない。
それでもポスト第4世代である塚本・貝島らの話には、それまでの世代の建築家が示していなかった、ユーザーのやりたいことを第一においてそれをよりはっきり押し出せる建築というものを強く意識しているように見える。目線が下がっている。隈のいう 建築家は社会に責任がある、大きな存在であるべきという意識から寄り添う意識への変化を感じることができる。
第2-4世代の建築家群も、第2世代の槇が作り続けているヒルサイドテラスが変化を継続的に続けているように世代にとらわれることなく変わり続けていて、今となっては同じ方向を向いているようにも感じられる。

バブル崩壊以後コロナに至る価値観の変遷は、以前までの時代とは変わらなければ存在が続かない、立ち位置を失ってしまう世界になっていることを示しているようだ。大会社ほど脆くなっているのかもしれない。みずほが考えられないシステムダウンを起こす。考えてみれば東電の原発事故もその一環かもしれない。未来が見えない。輝く未来の嘘くささ、それを動いていく時代とともに感じ取る必要があるようだ。

我々はどこへ向かっているのだろう、またこの問いに戻ってきてしまう。

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2021年2月18日 (木)

駕与丁(かよいちょう)公園に行ってみる

特に予定もないので思いついて10時過ぎに少し気になっていた糟屋町の駕与丁(かよいちょう)公園に行ってみる。ネットでオオノスリの記事に駕与丁公園のハッシュタグが付けられていたのが気になった一つだが、ネットの紹介記事を見る限りオオノスリがいるとは思えない公園のようだ。しかし大きな池の周りの公園のようで兎に角どんなところか行ってみようという位で出掛けた。新二又瀬橋の交差点を右に折れて東の方へ暫くいくが全体にクルマは混んでいる。少し右寄りの道を行って「かすやドーム」の先を右に折れてバラ苑のところにあるはずの駐車場に向かう。と、駐車場への道が通行止めになっている。しょうがないので周回を続けて次の"半島"のところにある駐車場にとめる。半島からバラ苑に向かう橋は土台だけが残っていて橋はない。地震で落ちたということ??,よくわからない。 昼食をとって、池の鳥を見るがユリカモメとヒドリガモばかりだ。対岸に当たるかすやドームのほうにも鳥がいるようなのでまたクルマで周回を続けドームの駐車場に入れる。ぶらぶらしていると、のんびり遊歩道を周回する人が次々に過ぎていく。鳥は先程と同じような感じだ。大体わかった。それにしても駕与丁とは何だろう、落ちた橋はどうしてなんだろう、疑問符が幾つもわいてくる場所だ。
Kayoicyouike

戻って少し調べ直す。先ずは駕与丁だ。ネットで調べると駕与丁公園にある駕輿八幡宮の由来を書いた看板に、ここに昔 駕輿丁座(かよちょうざ)があって江戸時代にこの池を作る頃まで座の人々がここに住んでいたということからこの名前が残っている、と書かれている。駕輿丁座とは何か、また調べる。もともと奈良時代以来朝廷に属した下級官吏で、天皇・皇后等の皇室の輿を担ぐことを仕事としたのが駕輿丁(かよちょう)であった。仕事がそれほどなかったのか、時代が下るとそのうち駕輿丁座として専売権を持つ商工業従事者の組合となっていったという。扱ったものは米や材木、唐物、その他多岐に渡っていたようだ。秀吉は専売権の廃止を指示したが地位が確立されていたのか座は残ったということの様でもある。関西にあるのが当然のような駕輿丁座が何故ここにあったのかはよく解らない。この地に天皇が行幸した時に輿をかつげるように配置していたのだろうか。そういう理屈で大陸との交易の場であるこの地域に取引を取り仕切る座ができたのだろうか。
全国で駕輿丁の地名が残っているのはここだけというから貴重ではある。流れ着いた歴史がある。

もう一つの橋の謎は、少し調べるとややわかった。
橋はみずとり橋といい、1997年4月に竣工、2014年12月に崩落、地震があったわけではなく突然墜ちたようだ。設計施工に問題があったと思われるが原因詳細は調べた限りでは公表されていないようだ。
吊り橋の一種だが吊り線の代わりに床板の中を通るケーブルで吊るという構造のようで 詳しくは竣工時に出ている ((「PC3径間連続吊床版橋(水鳥橋)の設計・施工 Design and Construction of Three-Span Stress Ribbon Bridge(Mizutori Bridge)」著者 : 渡辺正勝 (福岡県粕屋町役場) , 烏野清 (九州共立大) , 岡崎洋 (マエダ) , 左東有次 (富士ピー・エス).))というレポートに出ているようだが入手できていない。橋の崩落は興味深い。随分前、米国シアトル近郊のタコマ橋というのが風により一種のフラッター共振を起こし崩落した、映像は設計者が崩落時現場に居合わせていたこともあり映画として残っていて後の世の教訓となって印象的だった、この橋も大きな教訓が残されたものと思われる。公表されるべきなのだろう。

コロナで遠くに出かける訳にもいかず10km半径くらいの範囲を動いているが、それでも結構色々なことを学ぶ。学び続けるのが生きていくということかもしれない。

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2019年9月30日 (月)

熊本城と金栗巡りでたらたらと時が過ぎる

少し前に修復中の熊本城と金栗ミュージアムを巡る町内会のバスツアーが開催されて値段も安いしちょっといいかもとこれに乗ってのんびり見物してきた。もう随分前のことのような気がしていたが調べると凡そ半月前のことだ。何かに書き留めておかないと次々に起こったことは片っ端から時空のかなたへ飛び去ってしまって何も残らないような気がしている。考えてみれば残らなくてもいいのかもしれない。正確な日付は9月12日のことだ。
自宅直ぐ近くのセブンの前にバスが来て乗り込む、こんな近くからバスツアーが出るのはとんでもなく楽だ。30数人の参加者は殆どが女性だ。Kumamotojyo 思い返せばバスツアーというのはとにかく女性中心だし、海外旅行ツアーも大半が女性だと感じる。一体男は何しているのだろうか。不思議な世の中だ。
途中一回トイレ休憩しただけで福岡から真っすぐ熊本城に向かい、城の正面から左手に回って二の丸駐車場にバスは到着する。堀の手前側の遊歩道を歩きながら城をながめる。工事中で堀のInuiygr 向こうの城のエリアには入れないが修復中の全体像が却って分かりやすい。解説は専門のボランティアが手際よくやってくれる。城の石垣や櫓は未だにボロボロと崩れたままで、今は天守閣と小天守の修復に全力が注がれている様に見える。全部が元の様な姿に復するまでにはまだまだ相当な年月がかかる感じだ。以前報道で「奇跡の一本石垣」として話題になっていた辛うじて石垣一列が崩れず生き残っていた飯田丸五階櫓は、文化財的に価値が低いという判断から取り壊されていた。それでも別の似た様に石垣一列が残って支えられている戌亥櫓が残されていて、地震の破壊の凄まじさを生々しく見ることができる。人の力には限界があることを思い知らされる。
堪能した後食事と金栗四三ミュージアム訪問に熊本県玉名郡和水(なごみ)町に向かう。福岡県との県境近くだがあまり太い道はなく結構時間がかかる。こんなところに住んでいて車がなければ歩くか走るほかなく確かに足は丈夫になりそうだ。三加和温泉という温泉も湧いていて福岡からの日帰り温泉でも十分楽しめそうなところだ。以前福岡に住んでいた時からマラソンの話になると金栗翁という文字がたびたび新聞に現れてなんなのだろうと思っていたが、ここへきての大河でやっとそんなことだったのかと感じていた。地元開催の福岡国際マラソンは初めは金栗賞朝日マラソンと呼ばれていたとか、高校の創立時の顧問が嘉納治五郎だったとかもあって、金栗は昔から自分の周りに現れていたとも思ってしまう。
Kanakr 放送されているドラマ自体は舞台の様にやたら大声で叫ぶシーンがあって今ひとつのめり込んで見る雰囲気ではないが、こんなことがあると悪くもない。
こんな風にたらたらと時が過ぎ去っていく。夏ももう終わって時は渡り鳥は忙しい季節になってきたようだ。

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2019年3月17日 (日)

エチオピア航空のボーイング737MAX8が墜落

またボーイング737MAX8 が墜落した。もうかなりな騒ぎになっている、ここらで状況を整理してみてみたい。

現在までに明らかになっているエチオピア航空の墜落事故の状況は次の通り:
2019年3月10日(日)現地時間午前8時38分(5:38UTC)ケニアのナイロビ-ジョモ空港に向け エチオピアのアジスアベバにあるボレ国際空港を離陸したエチオピア航空ET302便

737max

(ボーイング737MAX8)は離陸後約6分で連絡が途絶えその後墜落が確認された。乗客149名乗員8名合計157名全員が死亡した。
離陸時の気象は空港のMETARによれば 5:00UTC 向い風10kt(5m/s)視程10㎞以上 2500ftに雲量1/8~2/8 気温16℃露点10℃気圧1029hp、6:00UTC 向い風8kt(4m/s)視程10㎞以上 2500ftに雲量1/8~2/8 気温18℃露点9℃ 気圧1029hp で特に問題となる気象条件ではない。パイロットはエチオピア航空からは飛行時間8000時間以上のベテランとあり、こちらも特に問題となる情報は今のところない。機体はボーイング737MAX8、2018年10月30日にボーイングで初飛行し11月15-17日にエチオピア航空に引き渡され、17日からすぐに運航が開始された。製造番号は7243 243番目に製造された機体と見られる、機体の登録番号は ET-AVJ エンジンはCFMのLEAP-1B双発。運航開始から4か月で墜落した新鋭機ということになる。整備上も問題となる報告はなかったとエチオピ航空のCEOは述べている。

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事故の目撃談がいくつか報じられている、6人位の目撃者からReuterが聴いた話では大半の人が尾部から白い煙を吐きながら頭から墜落した、墜落前には音には気づかなかったと述べている、空中での爆発はなかったようだ。2回くらい旋転しながら落ちたという話もある。地面に激突して大きな爆発を起こしたとも語っている。
事故現場では機体は細かい破片になっており墜落の激しさを物語っている。
管制との交信では離陸後3分には機長はパニックになったような声のトーンで着陸の要求を伝えてきており、管制官も機体が上下に振動するのを確認したという(14日付Newyork Times)。

Etajvflight24

事故機の飛行データはフライトレコーダとボイスレコーダーが回収されフランスに送って読み出されているが解析作業はまだ公表されていない。一方飛行中の機体からリアルタイムで地上に送られてくる高度速度データがFlight24のサイトで公表されている。これでは墜落時の急降下までは記録されていない。

Data1a

更にこのデータから得られた高度変化の比較データが報道機関によって流されている。これによれば離陸直後から振動的な挙動を見せており、この周期が前回のインドネシアでの墜落事故機のデータによく似た周期の振動となっている、事故は類似しているのではないかとの指摘がある。このデータが明らかになった後でこれを根拠の一つとしてFAA(米連邦航空局)は同型機の飛行停止命令をやっと発した。事故後3日たってのことだ。FAAは事故後ボーイングと歩調を合わせてとっていた機体の設計には何ら問題ないという姿勢をやっと撤回した形だ、ボーイングとFAAに癒着があるのではないかとの声もある。
振動するデータを見ると周期は確かに20秒くらいで1分周期くらいとなる所謂フゴイドモードや5秒以下の周期となる短周期モードという機体固有の周期とは違う周期になっていて(フライトコンピュータによる強制頭下げとパイロットが闘った)インドネシアの墜落事故と似た挙動にも見える。より詳細なフライトレコーダの情報の公表が待たれる。

今回も迎角センサーの誤信号による強制頭下げが飛行制御システムから発せられてこれが原因でインドネシア機と同様に墜落したと考えることもできるが前回の事故後強制頭下げ解除の手順はエチオピア航空のパイロットにも教育されており解除するだけの時間はあったが墜落していることを考えると更なる困難がパイロットを捉えていたのではないかとも懸念される。迎角センサーがそうたびたび誤信号を出すだろうか、そこも気になる。どこかに取り切れなかったソフトバグがまだ潜んでいるのではないか、そう思ってしまう。
ボーイングの失った信用はどこまで墜ちていくだろうか。
 

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2018年9月30日 (日)

五島に旅するーその1

以前から五島が気になっていた。カクレキリシタンの歴史が世界遺産となったこともあるがハチクマの秋の渡りの唯一の出口が五島であることが気になっている最大かもしれない。更には古事記に記載の国産み伝説の中でイザナギ・イザナミによって2回目に作られた6つの島の中に五島列島とその南にある男女群島の2つの島が入っていて古代の海の交通の要衝だったことを古事記は図らずも伝えている、どんなところなのだろうか、そんな興味も大分あった。

ハチクマの渡り時期に合わせて9月の2つ目の連休の終わった次のあたりが平日で

Gotomap

行きやすいかとハチクマの観察場所である大瀬埼に近い玉之浦の民宿を2泊予約し、往復は博多港から福江港に向かうフェリー船とした。海の感じが欲しかった。海を眺めながら感じたかった。島内移動にはレンタカーを予約、また着いた日はキリシタン遺跡・島巡りのツアーが五島の観光協会で企画されていたのでこれも事前予約した。ハチクマの渡りのピークは日の出から数時間の間で観察は2日目にならざるを得ない、初日は観光とした。

肝心なのは天気だ。今年は船旅が悪天候に見舞われるのを3度経験している、うち2度はツアーキャンセルを余儀なくされた、今回警戒すべきは台風だ。祈るような気持ちで2週間くらい前から細かく天気をチェックしていくとどうやら嵐は予定の旅行の後になりそうだ、それでも北に秋の高気圧があり南側が低気圧となって旅行予定の辺りは晴れてもかなり風が強くなりそうではある。7-10m位の風になりそうだ。東風だからタカの渡りには好都合でタカにはいいのだが観察にはつらくなるかもしれない、また島めぐりの船は小さそうだから欠航となるかもしれない、フェリーのほうは風速20mまでは運航するというからこれは動きそうで行くことはできそうだ、その他にも色々気をめぐらしたがともかく風が最大の懸念事項だった。

往きのフェリーは23時45分博多港出航の野母商船の太古という新しい船でグリーン寝台というのを予約した。向かいが仕切り壁になっている上下2段ベッドを専用使用す

Gbed

る形だ、昨年小笠原航路で乗ったおがさわら丸の特2ベッドに近いがセミ個室というほどの独立性はない、しかし1個1個がカプセルホテルのようになっていて安心感がある。テレビもあって十分な感じだ。船内の施設は(使わなかったが)シャワーもあり、トイレも立派で綺麗だが、食堂がないのが残念な気がした。8時10分に福江着なので朝食は船内でとることになるがカップ麺に冷凍おにぎり・チキンを自販機で買ってカウンターで食べるほかない。もう少し何とか、と思ってしまう、ちょっとおしい。


Sunrise

上五島には4時頃着いて後は五島列島の島の間を縫うように進むことになっている、6時頃に起きだして日の出を見る、これがいい。風は厳しくもなく甲板で過ぎゆく島々を眺める、とにかく島だらけだ。乗客は寄港地ごとに次々と降りて静かになっていくが、最後の寄港地の奈留では通勤の風情の乗客が大勢乗ってくる。大事な島の足になっているようだ。

福江港に着くと早速レンタカー屋が待っていて事務所まで運ばれる。カースタというレンタカーチェーンでガソリン

Douzaki

スタンドが兼業でやっている。足掛け三日48時間のレンタルでマーチがほぼ1万円と安い。十分な感じだ。
島めぐりキリシタン遺跡ツアーの方は集合が11時45分ということもあって午前中は福江島の東側を少し走る。まずはキリスト教解禁後五島で初めて建てられたという堂崎天主堂へ向かう。県道162号から脇道へそれて天主堂への道を進むと途中で車両はここまでとの表示が出て少し手前の駐車場にクルマを置いて、歩いて到達する。立派な教会で五島のキリスト教の歴史の展示館にもなっていて潜伏キリシタンの貴重な展示もある。内部の撮影はできない。建築建築には有名な鉄川与助も施工者として参画しているという。世界遺産の構成要素ではないが五島のカトリック教会としては権威があった教会のようだ。福江島の教会を代表する堂々たる建築物だ。

Ishidaj

後は石田城跡と武家屋敷通り景観を巡る。駐車場探しに苦労したが探せば何とかなる。城は石垣と堀だけが残り本丸跡には高校がすっぽり入っている。離島での教育の重要さは島のあちこちで遭遇する小学校の廃校跡でも感じてしまうが、昔から未来につながる教育が島の最大の関心事だったのだろう。

島めぐりキリシタン遺跡ツアーは昼前に予定通り始まってまずは隣の久賀島(ひさかじま)に向かう。船は海上タクシーで狭苦しいが速い。心配した波は島に囲まれているためだろう、大したことはない。しかし窓も綺麗でなく景色がよく見えなくて船の楽しみは全くといっていいほどない。残念だ。
久賀島は江戸時代に潜伏キリシタンが九州本土から開拓民として移住して住み着いたとされる。島全体が世界遺産の対象になっているという。ここではタクシーで移動し

Gotokzr

て旧五輪教会が元々建っていた場所にある浜脇教会を見る。更にタクシーで移動して古民家を改修したところで昼食になる、結構忙しい。食事の後はまたタクシーで移動して牢屋の窄殉教記念教会という明治初期の解禁前の弾圧(五島崩れ)の地を見た後 旧五輪教会にむかう。五島の世界遺産のパンフレットには必ず出てくる教会だ。タクシーは離合不能の片側が崖の砂利道をしばらく走るが自分ではとても走る気がしない道だ、離合はバックしかないという。
それでも到着した降車場所からは坂を下って海辺までの未舗装路を500m位歩く必要があり、特に天気が悪いと
旧五輪教会は陸路からアプローチするのは難しい場所にある。潜伏キリシタンだけのことはある。

Gorin

やっとの思いで着いた旧五輪教会は木造のこじんまりとした教会だが内部は所謂蝙蝠天井になっていて美しい。明治14年に建てられたがその後この五輪の地に移築されている。五輪(ごりん)の名は集落の名前でこの集落には五輪(いつわ)姓が多く、歌手の五輪真弓の父方もここの出という。野球選手の野茂英雄も五島の奈留島にルーツがあるという話もあり、思いもよらず五島をルーツにして羽ばたいている人が多いのに気づかされる。乗っ

Gorin2

てきた野母商船の野母の名前もずーと辿れば五島に行きつくのかもしれない。
旧五輪教会の近くの船着場からまた海上タクシーに乗り奈留島に渡る。個人では組むのが難しいツアーだ。
奈留島では江上天主堂とその集落が世界遺産の対象になっていて江上天主堂を見る。ここも潜伏キリシタンの集落だったが明治になってカトリックの洗礼を受けている。小さくてきれいな建物だ。湿気除けに高床になっていたり

Egami

ステンドグラスが手書きだったり細やかな配慮がある。木造の柱の木目は特殊な技法で描いたものだという、美しいがとても描いたとは思えない。竣工は大正7年で設計施工はやはり鉄川与助だ。

これでツアーは終わりまた海上タクシーに乗って福江港へ戻る。やはりよく見えないガラス越しにしか外は見えない。寝不足なうえに窮屈な船に揺られることもあって何だか疲れた。海の景色が楽しめればなあとまた思う。
それにしてもツアー参加者11名は北は秋田から全国各地の来訪者となっているのに少し驚く。全国区だ。その内外国人も混じるようになるのかもしれない。こんな見せ方はまだ始まったばかりで暫くは色々と試行錯誤が続くのだろう。見るところが多い島のように感じる。

港の駐車場に置いておいたレンタカーで、玉之浦の民宿まで走る。島の道には不安があったりするものだがここは問題なく走れる道でクルマも少なく走り安い。1時間ほどで宿に到着する、18時過ぎになってしまう、明日は5時半出発目標で忙しい。


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2018年7月14日 (土)

日本海周遊クルーズその2

コスタクルーズによる日本海周遊の旅は天気が今ひとつだったもののクルーズ船の旅は初めてで色々思うことがあって、もう少し書き残しておきたい。

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最初の寄港地舞鶴に船が近づくと突然海の色が茶色の領域に突入した、大雨で河川が運んだ濁流の先端がこんな形で海に及んでいるということのようだ。普通では見られないものを見た思いだがちょっと複雑だ。
豪雨のため船が提供する寄港地ツアーはすべて中止とのアナウンスが着港前にあった。舞鶴港では寄港地ツアーは利用せずクルーズセンター近くのレンタカーを予約していたが着岸の少し前に電話で様子を聞くと 天橋立方面は道路状況が難しい、港の周りなら動けるという話だった。豪雨の被害が広がっていて舞鶴にも豪雨の帯が及んでいるようだ。港に設けられた舞鶴の歓迎コーナーでオリックスレンターの窓口はと聞くとすぐ出たところだとある、外に出るとすでに数人が手続きをしている、ツアーがキャンセルになって慌ててレンタカー調達に走っているようだ。ともかく営業店まで送ってもらってレンタカーを受け取る。ここは港でレンタカーを直ぐ借りられるところがいい。金沢や浜田はその辺りができていないように見える。
走り出してすぐ近くのコンビニでまずは傘を買う。船にコンビニがあればと思ってしまう。そういう時代だ。
雨はそこそこの強さではあるが豪雨という降り方でもない、着岸した西舞鶴港から峠

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を越えて東舞鶴港地域にある赤レンガ倉庫を見に行く。駐車場で降りると港の自衛艦艇群がどうしても目に付く。護衛艦なのだろうか現代的な船の上で何かのセレモニーが行われている風にも見える。(後で調べると DDH-181 ヘリコプター搭載護衛艦「ひゅうが」だった、いわゆるヘリ空母だ)。他にも所狭しと自衛艦がいて軍事用の艦艇を置いておくには入り組んでいい港になっているようだ。舞鶴は戦前から海軍の街として存立していた

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街のようでもある。今は重要文化財となって観光に公開されている赤レンガ倉庫群も全て旧海軍の建物という。土産物も海軍カレーなどが目を引く、そうはいっても展示には軍事色は殆どない、妙に気を使っているようでもある。
赤レンガパーク用とされた駐車場からは結構歩く、こんな雨の日はすぐそばの市役所の駐車場に置けばいいようでもある、多分一度でも来た人はそうするだろう。そのあたりに観光客には来てほしいが日常生活は害されたくないという心情がにじんでいて微妙でちょっと面白い。
一通り博物館も見て少し先の引揚記念館に向かうところで雨が強くなってくる。記念館は5km位離れているようでこのまま強い雨が降り続くと往復している間に小さい川が氾濫しそうだ。橋が一つでも通行止めになると帰れなくなる、これはまずいと途中で引き返す。この短い時間の間でも川の水かさは着々と増しており赤レンガ倉庫近くの松島橋あたりでは氾濫までもう余裕がいくらもないのが見てとれる。緊張しながら急いでレンタカー屋に戻り船まで送ってもらう、なんとか戻れて一安心だ。この後夜10時出航予定だったものが翌朝6時半まで出航延期とするとのアナウンスがある、後で聞くと港

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湾当局の安全上の指示だったという。確かに洪水となれば川から何が流れ込んでくるやもしれず嵐の暗闇での出航はリスクが大きい。
翌日は金沢だが着岸は5時間半遅れとなって素早い観光が必要になる、ここは寄港地ツアーを利用することにして急遽申し込む。何もなければ路線バスと徒歩でゆっくり回る積りだった。未曽有の豪雨でどうしようもないが選択肢が残されているだけましだ。
7-8年前に年末宇都宮から福岡へクルマで移動するときに金沢周りで計画したが出発寸前で豪雪で高速が閉鎖されそうとわかり急遽奈良経由に変更し金沢に行けなかった思い出がある、金沢は鬼

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門だ。船だから行けるだけでも有難いと思わねばならない気がしている。
13時半に着岸してツアーバスでひがし茶屋と兼六園を巡る、雨は降っているが大したことはない。武家屋敷も見たかったが、2箇所だけになって却ってゆっくり歩けていい感じともいえる。後で調べるとこの日は1万
2千歩くらい歩いており十分過ぎる散策だ。
ひがし茶屋はいわゆる廓の街並みなのだが殆どが芸妓だったことからポジティブに観光地として生き残ったようだ。建物内部を公開しているところがあり入って見るが写真は撮れない。綺麗にこじんまりと纏まっているところが日本の伝統のコアを伝え残しているようではある。

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兼六園は雨で濡れて美しい。雨でもまたそれなりの美しさをみせてくれるところが素晴らしい。いい庭だ。瓢池のほとりにある夕顔亭で抹茶を頂く。静かな午後の時間が流れる。
船に戻って予定通り18時頃出航し暫くすると船長主催のカクテルパーティーが始まる。ドレスコードはフォーマルの夜で、ネクタイ・ジャッケットとするがスーツの人も結構いる。いかにもクルーズ船らしい。そのままディナーに移ってこの日は終わる。

随分いろんなことが立て続けに起こってくる。のんびりするはずのクルーズの旅でもこうだ、旅らしい、これがいい。次は浜田港だ、旅は続く。

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