2022年11月10日 (木)

5回目のコロナワクチンを接種

5回目のワクチンを打つ。ファイザーだ。説明書によれば従来型+オミクロン対応2価ワクチンという。2種類の抗体が生成されるということのようだ。

ファイザーだから副反応は殆どないのかと思えばそうでもない、睡眠サイクルにでてきたようだ。打ったその日は夜寝付いてから1時間後に目覚めた、こんなことは今までなかった。2度寝してもまた2時間で目覚める。また寝るのもすぐにはできずそのまま起きていた。朝食後に眠いからと寝る。起きても何かだるい。どこまでがワクチンのせいか判らないが、今までとは違う体の反応だ。不気味といえばそうだが、脳がワクチンのmRNAをウイルスと思って寝てる場合じゃないぞと慌て

Jyugatsuzkr1110a11 ている様を思い浮かべると面白くなる、そんなことなのだろう。
5回目があるということは6回目も半年後くらいにきそうだ。いつまで続くのだろうか、これまで言われていたのは、スペイン風邪がそうだったように軽症なウイルスに変わっていってついには普通の風邪の一種になるというものだったがまだそんな状況の雰囲気ではない。スペイン風邪の時とは違うようだ。

いずれにせよ天寿を全うしたとしてもそれほど長い命ではない。
だから大事に生きなくては、目一杯生きなくては、という考えには抵抗を感じる。だからどう生きようと気にすることではないと思っている。やり残したことだらけだ。見なかったことだらけだ。すべてを見、すべてを行うことは不可能だ。生きるとはそういうことだと思っている。水のように生きていければそれで十分なのだろう。

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2022年8月 8日 (月)

放送大学で人体の機能と構造を学ぶ

放送大学の講座、今年度上期は人体の構造と機能という講座を取ってみた。仕事も終えてぶらぶらしているとやはり健康は気になる、特にコロナ騒ぎの真っ最中で自分の体のつくりは一体どうなっているのだろうかと改めて興味がわいたこともある。
講義が始まってまず思ったことは、人体は本当によくできている、Jintaikouzou 誰がこんなものこしらえたのだろうという素朴な疑問だ。勿論神が作ったという答えはあり得ないが、進化論がその役割を果たしたとしても造物主という概念が捨てきれず湧き出てくる。更には人類というよりここまでたどり着いた地球生物というものの宇宙的特異さにどうしても思いがいってしまう。これはどういうことなのだろうか。答えはない。
全体に豊富極まる内容だが、個別には色々感じるところがある。血液で驚きを覚えるのは赤血球の数の多さだ。1mm3中に少なくも450万個の赤血球があるという、血液の容積のそのおよそ半分が赤血球の容積となる、これではちょっとしたことで血栓が起こりやすくなるのも当然だ。細胞数からいけば全身の細胞数60兆個の1/3位が赤血球ということになる。とんでもない数だ。全身の酸素使用量の20%が脳で使用される、脳を含め全ての細胞に酸素を供給し続ける赤血球という仕組みが成り立つように人体の大きさが決まっているような気もしてくる。
体の状態を一定に保つ、ホメオタシスな機能が人体に備わっていることは当然のように思っていたがその仕組みを知ると驚くべきことだった。
まずは尿のコントロールというのが重要な役割を果たしている。腎臓の機能として血液の多くをいったん取り込みそれをまた戻し入れている、その戻し量が取り入れた量の99%に当たるというから驚きだ。1日あたり160リットルを血液からいったん取り込みこの殆どを戻し入れて最終的には一日あたり1.5リットルの尿が排出される。浸透圧の差で再吸収が行われるのだが’ここを少しいじれば血液の量を容易にコントロールできる。血液の量が増えることは血圧の上昇であり、腎臓からの酵素による血管の収縮とともに血圧は腎臓でほとんどがコントロールされていることになる。知らなかった。
体温の調整もよくコンマ以下の体温までコントロールできるものだと驚くが、基本的には熱が上がるというのは脳の指令で目標体温が引き上げられたことによるという。病原菌などの活動を脳が感知した時にこの活動を抑え込むために目標体温が上げられることになる。脳の指令で目標体温が上がると皮膚血管の収縮などの熱放散の減少や震えなどの動作が起こり熱が上がってくる。逆に体温を下げるには皮膚血管を広げ表皮付近に血流をより多く回すとともに汗を出して表皮の温度を下げることによるが、外部からの熱の流入がこの機能を上まわれば体温は歯止めなく上昇を続ける、この危険な状態が熱中症ということになる。確かにウイルスより危ないかもしれない。
その他、そうかと思うことは沢山ある、取ってよかったと思える講義だがミスで通信指導を送りそこない、試験が受けられなかった、来期もう一度受験のチャンスが与えられているので今度はミスしないようにと今から思っている。

学ぶことに終わりはないようだ。

 

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2022年2月 6日 (日)

パルスオキシメーターが

コロナ騒ぎがまだ続いている。ワクチン3回目も打ったし人混みは避けるようにしているので、逃げきれそうな気がしているが、万一ということもある。テレビ報道などで見ていると症状の重さの判断はパルスオキシメーターで測った血中酸素濃度によっている様なので、これを買って体温計の様に使ってみたいものだとネットで探してみる。価格が大きくバラついているのに驚く、数万円から千円くらいとなんなんだというくらいの巾がある。パルスオキシメーターは日本人技術者が発明して、コロナで瞬く間に世界的に使われるようになったようだ。原理的には指先の血液の色から酸素濃度を測っていることになりある程度の感度があれば絶対値の精度はそれほどでなくとも値の変化する様が見れて使えるだろうと中国製の最低価格帯のものを発注した。程なく郵便の封筒に入って送られ てくる、送料無料で苦心しているようだ。単四電池2本を入れスイッチを入れると動き出す、指は入りやすければどの指でもいいらしいので、左手の薬指で測ることにする。96位の値でそれらしい、息を少しとめて様子を見ると一旦少し上がった後93くらいまで下がってすぐ戻る、ネットなどPulsoxmeter で出回っている反応と大体同じで何かしら測れている様だ。少しでも調子が変だと感じたらすぐ測ることにしている、体温よりも測りやすい。
北京五輪が閉幕する頃には終息が見えてくるだろう、もう少し頑張れば逃げきれそうな予感がしている。それにしても何故かオリンピック開催と感染ピークが再び同期しているように見えてしまうのはどうしてだろう、又だ。地球の上に生きているとやはり簡単にはわからないことが多い。

今朝庭に出てみると、なにかトビムシの様なものが植木のところに飛んでいるように見えた、何だろうとみていると、分かった、雪だ。風花だ。見上げると黒雲が迫っている。
立春を過ぎても地球は簡単には季節を進ませてくれない。やすやすとは手の内を見せない、そういう地球がどこか愛しい。

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2021年12月 3日 (金)

オミクロン株に安心する

コロナウイルスの理解に随分助けとなった本に「ウイルスは生きている」(中屋敷均著)という本がある。5年位前の出版だがウイルスの本質をよく教えてくれる。オミクロン株の登場にも参考になる記述がある、ここで紹介されているスペイン風邪の終息の話が興味深い。多くの人が感染し抗体が多くの人の体内に造られたというのもあるが、ウイルス自身も致死性を弱めるように変異していったというのだ。ウイルスは変異が進むと致死性は下がってくるが流行はしやすくなる、というのが一般的傾向のようで、結局普通のインフルエンザになっていくということらしい。宿主無しではウイルスは生きていけない、宿主を殺してしまっては元も子もない、従って合理的にそうなっていくというのだ。今度のオミクロン株はそんな変異である可能性が匂っている。感染力は確かに強いが、南アからもたらされる症状に対する医師の見解は相当にマイルドな症状というものだ。だんだんただの風邪のコロナウイルスになっていくのだろう。ウイルスとしては感染力が強いのでデルタ株などを駆逐していきオミクロン株だけとなるが、心配するには及ばないということになりそうだ。そんな近未来が見えてくる。オミクロン株の登場は収束段階に入ったということになるのだろう、いい風邪薬があれば済む話になっていくのだろう。
各国政府がピリピリしているのは、コロナでつまずくと即退場を強いられる政治の世界が世界中で現出しているためなのだろう、外れるととんでもないことになる。

分ってくると少し心が楽になった。自粛明けにどこへ行こうか。

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2021年9月24日 (金)

オリパラが終わってもう20日

2021年の2020東京オリパラが終わって20日くらいたった。未だに分からない感じがあるのは開催反対の声が7-80%くらいあったという事前の世論調査だ。誘導的な設問があったにせよ、きわめて大きな数字だ。どうせ直接は見れない地方にいる自分の周りではそのような強い声はあまり聞かなかったように思う、恐らく東京の話でしかない、ということだろうか。あるいはそのような声を先導している者がいたということだろうか。楽天の三木谷の様な知名人が反対したというのもあるのだろうか。しかし三木谷のそんな発言を読んだ時はこんなこというのはどうかと思った、J1リーグにもプロ野球にも自分のチームをかかえながらJ1、プロ野球の中止という声は発せずに頑なにオリンピックにだけ反対するというのは何か別の損得勘定があってのことなのだろうか、そのようにしか見えなかった。オリンピックでJ1やプロ野球が注目されなくなるのがいやだということだろうか。或いは朝日新聞は社説でオリンピック開催反対を主張していたが、朝日主催の高校野球を取りやめようとはしない。オリンピック開催で高校野球の影が薄くなるのが実は反対の根っこにあるのだろうか、勘ぐってしまう。利害関係者が中立のような顔をして意見を述べそれが世論を誘導するというのは見ていて胸糞が悪くなる。兎に角変な声があちこちにあった、こんな変な声が多くの人のぼんやりとした疑問を明確な反対へ後押ししたのではなかろうか。結果的には懸念されたオリンピック関係者から広がる感染爆発(主に海外メディアの懸念だった)は起こらなかった。

一方で実行サイドの対応にも、あれ、というところがある。徹底したPCR検査を選手・関係者に対し毎日のように行なっていたというあたりだ。これまではPCR検査を予防的に広く行うというやり方は全くというほど政府の行動としては排除されていたように思う。恐らく厚生労働省サイドを主導する医療関係者のPCR検査に対する不信感(6-7割位しか信頼性が無いという)がそうさせていたように見える(例えばチームの中心にいた押谷氏の発言@newsweekインタビュー)。ところがオリンピックでは手のひらを返したような検査密度だ、国際的感覚がここにあって、これをIOC側から指摘されたということだろうか、解らない、なーんだできるんじゃないか、そう思ってしまった。

普通に思えばオリンピックは選手のための大会だ、4年に一度しかない大会のメダルは選手寿命の中で大きな比重を占めているだろう、何とかやってあげたいという気持ちがあるのが当たり前のように思う。しかし、これが表に出にくかったマスコミの状況が大会前にあった、少し異常だったように思う。戦前の軍国主義が大手を振っていた時代もこんなのと同じではないのか、マスコミがあおった軍国主義と同じように、操られるようにしてオリンピック反対の世論がヒステリックに形成されていった、この過程は落ち着いて検証さるべき事態のような気がしてならない。また別の形で繰り返されるのではなかろうか。

コロナの時代は非日常の連続の様な気がしている。その意味では眺めているだけできわめて興味深い時代というほかないようにも思っている。

それにしてもこのオリンピックは最初福岡へ誘致するという話があった、もしそれが実現していたら、どんな展開になっていただろうか。未来はとても見通せないことで満たされている、つくづくそうも思ってしまう。

 

 

 

 

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2021年8月14日 (土)

コロナの時代の記録を兎に角残す

2021.8.中旬現在、新型コロナ感染が急拡大している。今月に入っての同窓生のMLでも関東での破綻の有様が伝えられていて、リアルだ。家族の一人が感染しても感染者の隔離治療も濃厚接触者である他の家族に対しての検査や行動の制限等もまるでなされておらずもはや関東では保健所は感染拡大に無力になってきているようだ。これでは感染拡大が抑えられるとは到底思えない。

この時期散歩していても熱中症にも気を付けねばならない、マスクは人の姿が見える時だけということになる。すれ違う人に気が付かないと、マスクを外したまま行違うことにもなる。こんな塩梅だから夏はどうしても感染が増えそうだと実感する。公園の子供たちもマスク無でサッカー練習をやったりしている。暑い時の運動ではマスク着用は無理がある。しかし夏休みをじっと過ごすことも難しかろう。40-50代が感染が多いということは必ず家庭内感染が広がるということになる、これは止まらない。ワクチンを出来る限り打って、有効な治療薬を少しでも多く市場に流通させる、対策はこれしか考えられない。

人との接触を制限して閉じこもってばかりいるとどうしても人は怒りやすくなる。
こんな時こそArtや芸能がその力を発揮することになるのだろう、そんなことも期待している。

この時代は100年先にどう位置づけられているのだろうか、困難な時代に新しい飛躍が内包されているといいのだが。

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2021年7月 1日 (木)

コロナと音楽と

コロナの時代の出来事を書き残す上でコンサートの状況も外せないように思っている。
2週間ほど前にアクロスのランチタイムコンサートとしてチェロリサイタルがあって出かけた。
昼食はアクロス地下2階のそば屋でごぼてん蕎麦をたべる。客はまばらで感染の恐れは感じない。それにしてもいつも思うが店員さんは気が気ではないだろう、感染の恐怖を抱きながら生計のためには客は来てほしい、いつまで続くのだろうかこの試練は。
コンサートの方はCcellohirota0617a
チェロ/広田勇樹 ピアノ/矢野雄太
二人とも名前は全く知らなかったが経歴を見ると若手のバリバリのようだ。
主演奏者であるチェロの広田がマイクで話す、こんな形はクラシックの演奏会では以前はあまりなかったが増えてきたようにも思う。この時期の演奏会を可能にしてもらったことに心から感謝しているという、そうだろうと思う。不要不急の外出は自粛といわれると文化的活動は何もできない。関東が活動の拠点のようだが、福岡の弦楽器屋、まつもと から古い時代のチェロを入手、これで演奏していて、福岡に縁があるという。いい音色だ。
席は前から4列目左側、よく見える、1席おきの配置だ。それなりに席は埋まっている。
曲目は
サン=サーンス:動物の謝肉祭 より “白鳥”
ベートーヴェン:魔笛の主題による7つの変奏曲 変ホ長調WoO.46
間宮芳生:チェロとピアノのための「六つの日本民謡」 より “ちらん節”
プロコフィエフ:チェロ・ソナタ ハ長調 op.119
アンコール曲目
ラフマニノフ:チェロ・ソナタ ト短調 op.19 より 第3楽章
アイルランド民謡:ダニー・ボーイ(ロンドンデリーの歌)

ベートーヴェンによる魔笛の主題変奏曲がいい。ソルによる同名のギター曲があるがそれとは全然違う、伴奏のピアノがぽろぽろと控えめなのがプロフェッショナルさを滲みだす。チェロの響きがいい、ここちよくて、眠くなる。
プロコフィエフのソナタもちょっと面白い。完全なデュオだ、控え目なピアノとチェロがうまくからみあっている。
アンコールは2曲だが、もったいぶらずにそさくさと自分のペースで演奏、若い。若さが好ましい。

ちょっといいコンサート聴けた心地がした。

数日前、深夜番組であるBSのプレミアムコンサートの録画ビデオを見ていたらバイオリンの弓のドキュメントが放映されて少しばかりの驚きがある。、こんな世界があったんだ。パオ・ブラジル(ペルナンブコ)という、ブラジル特産のブラジルという国名の由来となった赤い木が弓の木として最も適していて、入手が難しくなってきたのをきっかけに欧州の弓製作者の団体が寄付を集めブラジルで植林プロジェクトを展開しているという。楽器本体と弓と弾き手の組み合わせがいい音楽をリアルに作ることでその世界が保たれている。パオブラジルが弓に使われるようになったのは200年も前からと語られていた、長い。

コロナはたっぷりの時間を提供してくれている。新しい目で世界を見直したり、深く考える時間を多くの人が持つことから、新しい飛躍がそこに待ち受けているのかもしれない。

100年経って今を振り返りたい。

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2021年6月25日 (金)

またコロナのことを書き残す

コロナのことを何でもまた書いてみる。今しか感じることのできないことだ。


10日位前に近くの医院で1回目の新型コロナワクチン接種を受けた。ファイザーのワクチンだ。通常の診察の合間に接種をやっている形で待合室にワクチン接種待ちの人の姿は多くはない。これで済むならこれでいい。接種は接種量が少ないためかすぐ終わり待機場所で30分過ごす。何とも無い。風呂はいいが運動はなし、とあり、散歩は止める。散歩位ならいいのかもしれない。2回目は3週間後でこちらは何らかのダメージが体に来る可能性があるようだ。ただし若い人ほど要警戒のようで、年寄りはそれほど心配するほどでは無かろうと思っている。この日は少し睡眠不足気味で接種を受けた、ネット情報では睡眠不足がワクチンの”つき”に最もよくないらしいとある、どちらかというとこちらの方が心配だ。
自分自身が接種を受けると、日本はどうしてこうも接種が進まないのかという憤りは収まってしまうのは我ながら情けない気がしてくる。結局は自分の事第一なんだ、こんな事態では恐らく多くの人もそうなんだろう、と思ってしまう。ともかくコロナの精神的な閉塞感はワクチンでずいぶん和らぐようだ。2回目を打ってしまうともっとなのだろう。「気が緩む」と表現される状態になって社会的な警戒感が薄れてくることから イギリスでの再流行のような事態になってしまう可能性も、確かKyogijyo2021 にと解る。

オリンピックの議論がいつまでも騒がしい。アスリートファーストでは何とか開催してあげたい、と思う。無観客が前提で開催とすべきだったのだろう。コロナ感染に顕著な好転があれば観客を入れることも考慮するという位がいいところなのだろう。少しでも観客を入れようとするのは、無観客ではスポンサーに対する申し訳が立たないと思ってのことだろうか。IOCからの圧力があるのだろうか。本当のところを伝わるようにしないと運営に対する不信感が増すだけのように思える。

東京2020ライブサイトやパブリックビューイングの中止決定も如何にも遅い。都内の計画はすべて中止と数日前にやっと発表されたが、都外の熊本などでの催しについては未だだ。熊本側は中止でもいいと東京都側に伝えているようだが東京都による正式な中止決定は未だに無い。このコロナ時代にパブリックビューイングなど密を生むだけのイベントを公共で行うのは如何にも認識がボケている、コロナ前に決めた計画が中止決定されないままずるずるここまできたということのようだ。間違いを認めない、一度決めると変えられない、典型的お役人仕事だ。こんなのを見ているとオリンピック全体の運営の頼りなさによるトラブルがまだまだぼろぼろと出てきそうな気がする。


競技開始となる7月21日はもうそこに迫っている。どうなるか。

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2021年5月19日 (水)

コロナ下のコンサートは複雑

このところ雨が続く。コロナで図書館や植物園も閉まり出かける機会が2重に減っている。せめてもと、1週間くらい前、キップを買っておいた九州交響楽団定期演奏会を聴に行った。緊急事態宣言下でも取りやめにはならない。欧米の対応などをテレビで見聞きするが日本はやはり緩い対応のようだ。ワクチンも遅く、大丈夫かこの国は、と思うところがある。菅政権の振る舞いは一時代前のように感じてしまう。こんな人しかいないというのが我が国の現状ということなのだろう。

Kyukyo394 の公演で夕方のラッシュと重なる時間帯だがクルマは混んでなくて思いの外早く着く、これでは駐車料が高くなる。夕食場所の「てんぷらのひらお」も空いている。やはり緊急事態宣言が効いているのだろうか。
コンサートは観客は多くもないが席は一つ置きではない、詰めた配置となっている。九響の事情があるのだろうが緊急事態宣言はお構いなしの風だ、ちょっと変だ。演目は
ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲
ルーセル/交響曲第3番 ト短調 作品42
ブルジョワ/トロンボーン協奏曲 作品114
ラヴェル/高雅で感傷的なワルツ
ラヴェル/ラ・ヴァルス
とちょっと面白い曲の組み合わせのように思える。作曲者の指定の楽器が多いせいか演奏者が多く舞台からこぼれんばかりだ。
ドビュッシーの牧神の午後への前奏曲は生で聴くのは始めてかもしれない、いい音が出ている。ルーセルやブルジョワの曲は聴いていると何でこんな曲が創られたのか、疑問になってくる、伝わってくるものがあまりない。ブルジョワの曲はトロンボーンの技巧を見せることのみを狙ったような感じがして音楽そのものとは距離がある様に思える、感動というものからは縁遠い。ラヴェルは流石だ、多彩だ。でも何だかキラキラが抑えてある、木管の高音が抑えてある印象を受ける。もっと押し出せばと思ってしまう。
催し物は午後九時で終わるというコロナ対策が発表されていたが、終了は9時を過ぎる。この辺りがピシッといかないのが蔓延を抑えられないこの地の風土なのだろう。そさくさ帰るが駐車料は1600円と予想通り高い。次は早めに安いところを予約しよう。

色々思うところがあるコンサートだったが、聴くだけの立場からはこんな場は有り難い、しかしそれだけでは済まないコロナの状況がある、複雑な時代になった。

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2021年5月12日 (水)

コロナの本質は何なんだろうかとつらつら思う

コロナのことを何でも書き残そうとまた書いてみる。

図書館も今日から今月一杯コロナで閉館となった。閉まる前の図書館でふと見つけた「世界一周恐怖航海記」という本を今読んでいる。車谷長吉という作家が著したクルーズ船旅行記ということになが、車谷という作家はよく知らないというか全く知らなかった。知ってる人は知ってるようで、20年くらい前に直木賞をとった作家らしい。
15年くらい前の旅行記で、コロナの時代となった今の視点で見ると古き良きクルーズ船旅行の時代の道中記と映る。
実名で関係者の名前が次々に出てくる。個人情報に敏感な今から見ると何だかわきが甘い。そう思って今に至る時代を振り返って見ると、インターネットで個人が大量の情報に簡単にアクセスできるようになった辺りから、人と人の結びつき方が次第に形を変えてきたように思う。
葉書や手紙でなくメールやラインのやり取りが増えた、それだけ情報が拡散しやすくなった、匿名で攻撃することも容易にもなってきてしまった、その結果と言うべきか、電話帳が個人情報リストとして役に立たなくなってしまった、同窓会名簿がクローズになってきた、小さな会でも住所録リストは勿論会員名簿も会員内にも公開されないようになってしまった、年賀状も減少の一途だ。何らかの形でつながりのある知ってる人としか通信できないような社会形態になりつつある気がする。意見を同じくする人のみが固く結ばれ他者との接触がクローズされたサークルが形成されやすくなってきたようだ。社会を形づくっていた個と個との結ばり方が切れやすくなってきたようでもある。そこへコロナだ。
コロナはこの流れを決定づけた。知らない人とは距離を置く、が拡がり、個がバラバラにさせられてきた。これは今まで高まってきた潮流を決定的に後押ししているに過ぎないように思えてしまう。人類はバラバラにされれば生き残れなくなっていく。弱くなる。争いも起こる。
コロナウイルスの騒ぎが始まったころはDNAの特異な形からこれは人工的に作られたウイルスとしか考えられない、といった主張がいくつかの研究者から提示されていたがそれは政治的にはあまりにも危ない表現となるせいか、このところ言われなくなってしまった。しかし、真実を突いていたのではなかろうか、未だにそう思っている。敵を弱らせるにはこんな風に人の繋がりをバラバラにしていくウイルスが有効なのではないか、といった研究が実は各国でやられていてその故に対策ワクチンがするすると米英ロ中という、いわばきな臭い国々からたちまち大量供給されるようになったということではなかろうか。生物兵器の専門家は誰もが知っているだけにこの舞台のからくりを語ろうとしないようにも思えてくる。
もう随分前から人間社会は見えざる手に導かれて自らが滅びの選択をしてしまっているのではないか、と思ってしまう。突然のように見えるコロナ騒ぎもその脈絡の上に乗っているだけなのではなかろうか。

旅行記の方は、何だか行間に滲み出る自慢話を読まされているような気がしてきて読むのが辛くなり途中でやめてしまった。

今は緊急事態宣言下の梅雨をどうやってやり過ごそうか、そればかりが頭を占める。
本当にどこへ向かっているのだろうか、我々は。

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