岩屋城の戦いが空しくて
10月30,31日に開講される。初日に座学として「磐井の乱」「白村江の戦い」「藤原広嗣の乱」「岩屋城の戦い」の4つを九州歴史資料館で学び2日目は実地学習として太宰府、水城、大野城跡を巡る。講師は歴史資料館の学芸員が交代で当たり、試験はないが初日の最後にレポートを提出してそれで評価される形にはなっている。
それぞれに興味深い内容だが4番目の「岩屋城の戦い」というのが気になって、事前に歴史本を読んだりして少し予習もしていた。戦国時代


山城としては同じ四王寺山にある、6世紀後半白村江の戦に破れて中大兄皇子が慌てて造らせた大野城の方がはるかに大きい規模になっている。岩屋城の背後に大野城跡の土塁や石垣がある形で、岩屋城は水も大野城跡から得ていたらしい。岩屋城の戦いでは水の道の場所を地元の老婆が島津側に教えたためにあっけなく城は落城したという言い伝えも残っているようだ。教えた老婆は再び岩屋城が大友勢の手に戻った時住民によって大野城跡の石垣の下に生き埋めにされたという話まで伝わっているらしい。高橋紹運は立派な人物としてよく知られていて豊臣方の黒田如水は無駄な戦いとなる岩屋城の放棄を助言しまた敵将さえも何とか彼を生かしたいと努めたが果たせず武士らしい死に際を選択して散っていったという。
現代にもその底流はどこかに流れていて気を緩めるとすぐに顔を出してくる、それが人類という種族なのかもしれない。