2024年8月11日 (日)

邪馬台国がリアルに感じられて

野方遺跡というのを最近見に行って、また邪馬台国が気になり始めた。またというのはこれまでにも何度もということだが、今回はそのリアリティゆえだ。
野方遺跡というのは福岡市西区にある弥生後期・古墳時代の住居跡遺跡だ。
これまで邪馬台国というと胡散臭い架空の世界との感じがどこか漂っていた。これが邪馬台国の遺跡ですというものにお目にかかったことはなかった。ところがここへ来ると、これNogataiseki は紛れもなく邪馬台国の遺跡といっていいと感じる。というのは例の魏志倭人伝だ。正確には西晋の時代に陳寿により編纂された古代中国の正史「三国志」巻30の東夷伝の中の倭人伝を指し日本を記述した最初の歴史書とされる。後の南朝宋の時代にまとめられた後漢書も魏志倭人伝の記述の多くをたどっているようだ。魏志倭人伝では女王のいる邪馬台国への道筋を書いているが対馬・壱岐・松浦・伊都・奴 と距離方角を示しながら来るがその先は南に邪馬台国水行10日陸行1月と書かれているばかりで、はっきり書かれていない、のちの邪馬台国論争のもとがここにあるのだが、逆に言えば奴までは女王国に属すると明記されているのでここまでの国が邪馬台国の一部であることは確かということになる。この野方遺跡の集落は伊都国の東の入り口に位置し伊都国の一部と考えられている、出土品から1800年から1700年前の時代の住居跡とされており丁度卑弥呼時代の遺跡ということになる。どうみてもリアルに邪馬台国遺跡の一部だ、議論の余地はない。
この機にと魏志倭人伝や後漢書を読んでみるとなんとなく感じがつかめてくる。魏志倭人伝/後漢書では中国側の役所のある楽浪郡から女王のいる邪馬台国までは1万2千里、楽浪郡から朝鮮半島の端の狗邪韓国 までは7000里、魏志倭人伝では松浦までの3回の渡海で3000里、松浦から奴までは600里とあり単純計算では残りは1400里ということになる。対馬と松浦の間の距離より大分近い距離だ、邪馬台国が近畿にあるというのは相当無理な解釈のように思えてしまう。水行10日陸行1月という記述は楽浪郡からの日数を書いたものという説があってまさかと思っていたがこれが本当らしく思えてくる。とにかく当時中国と行き来していたのは九州の邪馬台国で東の倭種の国ではなかったと解釈するのが素直な読み方のように思えて仕方がない。

九州へ来ると古代史が身近にある、どうしようもないことなのだろう、それに浸っている感触が面白い。

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2019年11月18日 (月)

岩屋城の戦いが空しくて

放送大学で毎学期1科目だけとって学ぶというのを続けているが、放送での受講ばかりでなくたまには面接講座もいいのではないかと、この下期には一つだけ面接講座もとってみた。タイトルは「太宰府争乱史」という、2日間の集中講座だ。古くから太宰府周辺で起こった争いの歴史を学ぶというものだが2日間張り付きででも勿論全歴史が学べるわけではない。
10月30,31日に開講される。初日に座学として「磐井の乱」「白村江の戦い」「藤原広嗣の乱」「岩屋城の戦い」の4つを九州歴史資料館で学び2日目は実地学習として太宰府、水城、大野城跡を巡る。講師は歴史資料館の学芸員が交代で当たり、試験はないが初日の最後にレポートを提出してそれで評価される形にはなっている。
それぞれに興味深い内容だが4番目の「岩屋城の戦い」というのが気になって、事前に歴史本を読んだりして少し予習もしていた。戦国時代Mapiwayajyo1 1586年頃の戦いで、大野城址のある四王寺山の中腹に築かれた戦国時代の山城「岩屋城」を大友宗麟配下の高橋紹運が守るが九州制覇を目指す島津の大軍に囲まれて少ない手勢で奮戦したものの全滅した。しかし島津軍はここに手を取られ過ぎて攻め下る秀吉軍が到着する前の九州制覇を果たすことが出来ず、結果的に南九州に押し込められた形で秀吉に従わざるを得なくなった、という歴史上の事件だ。如何にも戦国時代らしい話に満ちていて、後世にも種々誇張されて語り継がれたようだ。高橋紹運の息子でこの時すぐ北方の立花城にたてこもって守り抜いたのが武人として名高い立花宗茂で、武勇の系譜が引き継がれているところにも物語がある。
島津と九州の覇権を争った大友宗麟はキリシタン大名として知られるがキリシタンに改宗して期待していたのは国崩しの大筒と言われたような西洋式の強力な武器の調達に魅力を感じてのことで、不純なところがある。宣教師の是認の元、戦いに敗れた捕虜を奴隷として海外に輸出していたようでもあり、この岩屋城の戦いも汚い戦いに満ちていた九州の中での空しい戦さとの感を禁じ得ない。こんな時代を終わらせた秀吉・家康は色々な意味でやはり偉いというべきなのだろう。
Iwayajyou1a 岩屋城跡そのものには行けなかったが大宰府政庁跡から直ぐに見上げる場所にありしたから眺めることはできた。辺り一帯を制するにふさわしい山城としていい位置にあったように思われる。
山城としては同じ四王寺山にある、6世紀後半白村江の戦に破れて中大兄皇子が慌てて造らせた大野城の方がはるかに大きい規模になっている。岩屋城の背後に大野城跡の土塁や石垣がある形で、岩屋城は水も大野城跡から得ていたらしい。岩屋城の戦いでは水の道の場所を地元の老婆が島津側に教えたためにあっけなく城は落城したという言い伝えも残っているようだ。教えた老婆は再び岩屋城が大友勢の手に戻った時住民によって大野城跡の石垣の下に生き埋めにされたという話まで伝わっているらしい。高橋紹運は立派な人物としてよく知られていて豊臣方の黒田如水は無駄な戦いとなる岩屋城の放棄を助言しまた敵将さえも何とか彼を生かしたいと努めたが果たせず武士らしい死に際を選択して散っていったという。
歴史を理解することはできるが如何にも空しい。戦うだけのために特化した武人が支配する時代の無意味さを強く感じてしまう。
現代にもその底流はどこかに流れていて気を緩めるとすぐに顔を出してくる、それが人類という種族なのかもしれない。

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2016年3月31日 (木)

ギリシャを旅する4-----エーゲ海1日クルーズ

ツアーの中にエーゲ海1日クルーズというのが含まれていて少しはエーゲ海の雰囲気を味わえるかと期待Egeseaしていた。
エーゲ海といってもそのうちのサロニコス湾と呼ばれるペルポネス半島とアテネのあるギリシャ本土に囲まれ
た海域で、クレタ島などのある東地中海をさしてよく使われるエーゲ海という響きからはややずれることにはなる。

双胴船で安定が良い上に波がとりわけ静かで滑らかな航海が始まる。
アテネのピレウス港を出港するところから岬の上まで白い Egesea6a 箱型の家で埋まった景色が現れエーゲ海の雰囲気となる。カモメが近くに見えるが足が黄色いもののウミネコではない、日本に帰って調べるとYellow-legged gullというカモメのようだ。日本付近にはいない種類で、海もカ
モメも同じようだがちょっと違うところが地中海らしい。

アテネ港を出たあたりがサラミスの海戦があったところに近いは ずだが、なんでこんなところでペルシャ軍は海戦をするに至ったのだろうと思ってしまう。アテネ側がうまく仕掛けて海戦に引き込んで勝利に至ったのだろう。しかし静かな海だ。

イドラ島、ボロス島、エギナ島と順に回る。どれだったか、島に近づくと35ftから
Egesea240ftくらいのクルーザーが2隻のんびりでてくる。こんな海ならいかにも遊べる海だ。正直こEgesea4 んな海でヨットで遊んでみたい。
島の港は観光客相手でにぎわっている。 海の水は港近くで見ると透明でキラキラしているが航行中はサンゴ礁のような明るい海ではない、当たり前のことだが、海を見るだけなら宮Egesea5 古島の海がやはり綺麗だ。
Egesea3 食事が出たり踊りがあったりと前にハワイで乗ったホエールウオッチング&ディナークルーズに少しは似ているが、ツアーに完全に組み込まれていると何となく開放感が今一つの感じがしてしまう。そういうものなのだろう。何かを得ようとすれば何かを失う。ツアーで楽をしようとすると開放感が減ってくる、どうしようもないことだ。
エギナ島ではアフェア神殿を見に行く。パルテノンとポセイドンの両神殿と正三角形の位置にあり高さも同じに合わせていると船の中で説明される。本当だろうかと帰って検証してみる。9egesea 地図を見るとすぐわかるのだが明らかに正三角形ではない、しかしパルテノン=アフェアを底辺とする2等辺三角形ではあるようだ。少し大きな地図で見るとデルフィから南東に向かう大きな矢印となっているように見え、矢印の向かう先にはミノス文明よりさらに古いキクラデス文明(BC30世紀)を生んだキクラデス諸島が認められる。地球のへそといわれたデルフィとキクラデス文明をつなぐ何かを壮大に示し ているようで極めて興味深い。エーゲ海には人類文明の源が確かにあるような気がしてくる。

アフェア神殿はEgesea7小島の神殿とは思えない堂々とした作りだった。資材は本土から運び丘の上まで持ち上げて建造している、目にしている遺跡は紀元前5世紀で最初の神殿はもっと遡るのだろう。
エーゲ海クルーズは終盤となりギリシアダンスが始まる、喧騒から逃れて落ちゆく夕日をぼんやり眺めていた。
何も考えずに眼前の光景に向き合うとそこにはすべての 歴史が凝縮して流れていくようで、我々は古を繰り返しているだけではないのか、すべての答えがここにあるのでhないか、そんな
Egesea8_3気がしてきて時間の壁のない茫洋とした感じに浸るに至る、そんな感覚を味わうのにふさわしいのがエーゲ海の船旅かもしれない。

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2016年1月14日 (木)

アフガニスタンの黄金を九州国立博物館で見る

アフガニスタンの貴重な歴史的遺物が戦火を逃れて各国を回っている、それが福岡に来たというので見に行った。
Afgan1 九州国立博物館で1月1日から2月14日まで開かれたあと東京国立博物館で4月12日から6月19日まで開かれる。
2006年のフランスのギメ博物館に始まって米国ナショナルギャラリーやニューヨークメトロポリタン博物館、カナダ歴史博物館、ドイツ・ボン博物館、大英博物館、ノルウエーNTNU大博物館、メルボルン博物館、等数多くの世界を代表するような博物館を含めて各国を回り日本にやってきた。やっと来た、と言うべきかもしれない。福岡にいながら世界的行事に参加するという意味でも見たほうがいい展示だ。このあたりの地球的位置づけを主催者は十分には広報で説明しておらず歯がゆい思いがする。


展示物は予想以上だった。
紀元前2000年の金のゴブレットにまず驚かされる。金だからさAfgan2 びていないのは当然とはいえ美しい細工が目を引く。最近作ったと言われてもそうかと思ってしまうだろう。日本は縄文時代でそれなりの文化はあったとはいえとてもここまでのものはない。インダスーメソポタミヤーエジプト をつなぐライン上にあったこの地の文化の高さがすなわち人類の文明の最前線だったのだろう。
1978年に未盗掘状態で発見された墳墓から多くの金製副葬品が出土し、この場に展示されている、いずれも紀元前1-2世紀の時代とある。
その量の多さ、技術の高さ、豪華さに圧倒される。

アフガニAfgan3 スタンの貴金属や希少鉱物の埋蔵量は相当なものと言われており(1兆ドル相当との米国防総省の見積もりもある)、これが古代から繁栄を支えてきたのかもしれない。
それにしてもギリシア文化の影響が濃い出土品の展示が多い。仏教美術遺品は平山郁夫主導の
アグガニスタン流出文化財の委員会が保全している遺物の展示が目立ったくらいだ。やはり西洋各国を巡回するという企画がそうさせたのだろうか。東西の文化が交じり合う状況そのものの全体像を見たくなる。
出口で「めざましテレビ」のインタビューを受けた。東京の展示はフジテレビが主催しているがいまから雰囲気を盛り上げようとしているようだ、平日ということもあるが人の入りは展示物の素晴らしさに比してそれほどでもない。気が気でないのかもしれない。


しかし、戦乱が休みないアフガニスタンでよくこのような財宝を維持し続けられたと、驚くばかりだ。この事そのものが、この地域のまた新しい歴史となると思えている。人類もまだまだ捨てたものではない。

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2015年11月25日 (水)

軍艦島,心象

軍艦島は1974年の閉山の1年前までフル操業だった、それが急に終結を迎えた。島には豊かな生活があった。打ち捨てられたコンクリートの街は高い防波堤をも越えてくる荒波で壊され続けている。

崩れゆく
       軍艦島に波高し

トビ舞いて波砕け
  雨に風 朽ちゆく壁に音もなし

ビビビュー嵐廃墟の街を過ぎ

 違うんじゃないのと声有り軍艦島

子らの声空に響けむ

  時は去り 人夢ありし軍艦島 

雨けぶる軍艦島に秋深し

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