2024年5月11日 (土)

放送大学で「家族と法」を学び始める,知らなかった世界に入っていく感じが面白い

半年に一つだけ放送大学の講義をとるということを始めてもう十年くらいたつような気がする、まだ続けている。いくつになっても学ぶことが楽しいからだろう。2024年上期は「人生100年時代の家族と法」という講座をとっている。終活という文字が少し気になり始めたこともある、民法も大幅改Kazokuhoou 正されたようなこともある、ここらで一度学んでおくべきか、という現実的な部分がその動機の大半だ。
退職してからは遊びで法を学んで試験を受けたりもしていたが、この講座を学び始めてそうだったのか、ということにいくつも出くわす。まずは裁判に関する統計資料だ。全国の裁判所に申し立てられた事件数を民事・行政、刑事、少年、家事の4つに分類すると、2000年から2020年で家事が倍増し他はいずれも急減、いまや家事裁判数は刑事、少年をしのぎ民事・行政に迫る件数で、総件数の1/3になっている、という現実を見せられる。離婚や相続などの家庭を舞台にした裁判が急増しているということになる、マスコミではこんなことが報じられたことは一度もない、マスコミは要するにセンセーショナリズムだということをまた思い知らされる。講義はまだ全体の半分までは進んでいないが他にもアレということがいくつもある。例えば前回講義の国際的な婚姻にまつわる法律だ。婚姻できる年齢は日本では男女とも18歳以上で、これも改正民法でこうなり以前は男18歳女16歳だった。もし中国人と日本人が日本で結婚する場合、中国法では結婚年齢は男22歳女20歳となっているため中国国籍の人がこの年齢未満であれば日本でも婚姻は受理されない、という。中国の法が日本国内の法的手続きに効力を及ぼしている、こういうものらしい。アレっと思うのは結婚年齢が中国では高いところだ。中国での一人っ子政策の名残りかな、と思ってしまうが今では中国も急速な出生数の低下に直面しており、すぐにはパッパッと法を変えられないのかもしれないとも思ってしまう。
もっとも、結婚可能な年齢と出生数の関係よりも実結婚年齢の高齢化晩婚化が世界の出生数低下の主要な要因であるようで、調べていくと、ことはそう単純ではないようだが。
 
こんな風に今まであまり向き合ったことのない世界に入っていく感じが、世界はどうなっているか、我々はどこへ向かっているのかを学ぶことにつながるような気がして、なかなか面白い。 やはり学ぶことはいくつになっても楽しい。

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2024年4月12日 (金)

マイケルグリーンの「アメリカのアジア戦略史・上」を読んでみたが

マイケル・グリーンのアメリカのアジア戦略史 上 建国期から21世紀まで という本を借りてこのところ読んでいたが2週間の貸し出し制限がきつくやっと読み終えてそのまま返却した。アメリカという国は太平洋を越えた西にあるアジアとどう向き合ってきたかという視点からの書物で、こういう見方から書かれた本Photo_20240412103601 は初めてで新鮮な思いがした。誰がどう政策決定に関わってきたかを人名を中心に細かく書き記している。屈折しながらジグザグと進んできたアメリカの状況がそれなりに分かる気がする。書かれていることは多分本当なのだろうが、読み終えて感じることは幾つか肝心のところが書かれていない、意図的にか逃げているように感じるところがあるのが気になる。狂信的な愛国者からのトラブルを避けるためアメリカにまずいことは書かないようにしているのかもしれないと感じてしまう。一つはハワイ王国滅亡に対するアメリカ政府のかかわりのところだ。植民地化-併合のプロセスでは手を汚していないかのような書き方に終始しているというかきちんと書いていない。第2次大戦後の植民地の民族自決をアメリカがリードしたというところはきっちり書いているのに自らはハワイ王国を簒奪し併合している(住民の7割が反対したといわれる)という歴史的事実に向き合っていない、キレイキレイに書いている、そういうことなら他にもそんなところがあるかもしれないと内容が疑わしく思えてくる。日本との開戦に至るいきさつもたとえばハルノートのような動きはまるで書かれていない、というより開戦直前直後の米政府内部の動きについては一切書かれていない。何かまずいことがあるのかもしれないと思う、真珠湾はだまし討ちだというローズベルトの主張は米国の失態を覆い隠し利用するプロパガンダだったのかもしれないと思ってしまう。

色々あるが米国が建国以来太平洋を西へ西へと押し続けているという歴史・現状は事実に即して素直な目で眺め続けなければならないのだろう。思った以上に米中対立は簡単には終わりそうにもない、そうも感じる。

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2024年3月14日 (木)

「大シルクロード展」を見る

3月中に見ておかねばと思っていた2つ目の展示Posuta は、「大シルクロード展」というシルクロードの文物、資料の展示だ、現在中洲の福岡アジア美術館で開かれている。主催は中国文物交流中心( 中国の国家文物管理局直轄の機関)他各地美術館、各新聞社などで外務省も後援しており本格的なシルクロードの展示ということができるようだ。東京、福岡、宮城、愛媛、岡山、京都 と来年2025年2月まで国内各地を巡回していくという。
例によって放送大学の学割で入場する、放送大学の学費はこんなことで大方取り戻せるような気がしている。出展品リストの配布もないがとにかく見ては写真に撮るFelt1 を繰り返しながら見ていく。平日のためか年配者が多い。初めの方にウイグルから出土した紀元前8-前3世紀のフェルトの背の高い帽子があってちょっと驚く、あまりに保存がいい、砂漠地帯のためだろうか。最初の方に古いものが多く置いてあるようでもあるが展示順の筋がよく理解できないままに進んでいく。パッと見た目 正倉院御物のようなものが目に付く。江西省博物館から出品の和同開珎まであったりする、日本との交流の明確な証拠だ。6世紀ころの経文がいくつか展示されているが、漢字が今と同じというところに妙に感じたりして、アジアのベースになり続けた中国文化の深さに改めて感じWadokaiho 入る。展示物は興味深いものが多々あるが、これがシルクロードに点在して遺跡として現代まで残されているということそのものにインパクトを感じる。
出口手前で動画放映があり、その中に出てくる敦煌 月牙泉の映像に驚く。広い砂漠の中にここだけがげ現実離れした不思議な風景を作っている。シルクロード見てみたくなる、行けるものなら行ってみたくなるKyoumon
もう無理かな、でも、と、そんなことを想いながら会場を後にした。

添付写真は順に ポスター、フェルト帽子、和同開珎、経文断片、敦煌 月牙泉の映像Tonkou1

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2024年1月30日 (火)

メディア論を放送大学で学んでみたが

放送大学は今期はメディア論というのを取っていて、もう試験も終わって一段落だが、振り返ってみて何だか物足りない感が残っている。メディアの現在進行形が教える方にも学ぶ方にも同時に響いてくるという状況が、改めて学ぶという感覚を損ねているのかもしれない。メディアについての意見は人それぞれで未だに確固たTuki0117c る論が形成されているというほどでもないグニャグニャした状況ということなのかもしれない。せっかくだからいくつか本を読むかとマクルーハンの「メディア論」、「グーテンベルグの銀河系」「グローバルヴィレッジ」を図書館から借りてきて適当に読み始めたが、ちょっとがっかりしている。難解なような思わせぶりな鎧を着た空疎な内容のように感じられて、読み進むのはいい加減なところで止めている。これは今や骨董品だ、ここから真面目に学ぼうとするのは時間の無駄だ。現代のメディアの存在は明らかにこれらとは随分と違ったところを走っている。
なぜこうも無責任にメディアは人を導こうとするのか、昔から言われていたことだが自分のすぐそばで起こった事件が世間に報道されていくのを見た経験がある人はほとんど報道は間違っている、あんなもの信じてはまずい、という感想を抱くということらしい。なんでそのような存在でメディアはあり続けるのか、メディア論を学んでも全くというほど解らない。言葉そのものの持つ何かがあるような気がしている。
和歌もメディアであるという。和歌を時々作ったり読んだりしているが、本当の気持ちがのりやすい形式のように感じている。家族が歌人で構成されている場合、手紙よりなにより和歌が生の気持ちを最もよく伝えるとある有名な歌人が書いていた。そう思う。何かその辺りに信頼されるメディアの形のヒントがあるような気がしている。

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2023年12月31日 (日)

放送大学でメディア論を学んでいる

半年に1つだけ放送大学で学ぶということをもう何年も続けている。選科履修生 という形で在学しているのでいまだに大学生ということになる。学生証もあるし学生料金が設定されている催しでは割安で入場できる。学費はかなり取り戻せる感があるのでそう高いという印象はない。今期はメディア論という科目を受講している。2つの戦争が世界で進行しプロパガンダが横行し、メディアを通じて流れてくる情報にうんざりしていて、メディア論といMediaron うタイトルに何か惹かれたというのが受講のきっかけということになる。メディア論とはそもそも何か。メディアに関する学問と大雑把に捉えている、時代とともに変化の激しい情報伝達・情報共有を成り立たせるための手段(メディア)を扱った学問全般と思っている。メディアとは腕木式信号機であり旗振りであるというところからメディア史は語り始められるが、その前の長いのろしの時代というきわめて興味深い段階は省かれている。そこまでは論じられられないということだろうか。メディアの歴史の中で興味深いのは戦争とのかかわりが多々ある点だ。マスコミュニケーション研究の源流に位置する米国のリップマンは第一次大戦で情報将校として宣伝戦を戦った、その時得られた知見がその後のマスコミュニケーション研究の出発点になって世界に広がっている、また同じく米国のラザフォードは第二次大戦期に軍の戦争宣伝と結びついてマスコミュニケーション研究を発展させたりもしている。マスコミュニケーション研究を体系化したシュラムも2次大戦中は戦時情報局で宣伝研究に従事していた。要するに戦争の遺産・軍事研究のプロたちに主導されたコミュニケーション研究というのがそもそものマスコミ研究の出発点でありメディア論のもとになっているようだ。
そう考えると民主主義社会の中心である民衆をどうやってコントロールするかそのことに専心しているプロたちがいないと自由民主主義のような政治体制は安定した発展を保たれないということのようにも思えてくる。これが悪意の手に支配されればとんでもないことも起こる。メディア所有者の意思で民主主義の根幹がコントロールされる。そう考えると現代的にとても重要な学問と思えてくる。
まだ勉強中だが来月には試験がある、正月明けからまとめに本腰を入れなければならない。
でも、学ぶことはいくつになっても楽しい。

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2023年9月27日 (水)

図書館から本を借りて読んでいると

本を読むのは図書館から借りて読むに限る、と思っていた。借り出し期限内に読み終えなければならないという観念が付きまとって無理しても時間を作って読むことになる、これがいい。ところがこのところ借り出せる本の上限10冊までを抱えて、期限が来れば貸し出し延長を申請するという状態がしばらく続いた。これではいけないと思いながらもまだ読み終えていない本を返すに忍びない、読み終えないうちにこれは面白い本かもしれないと別の本に予約を入れる、これを繰り返して上限に達していた。しかし10冊は多すぎる。今週予約していた本が3冊来て身動き取れなくなって、エイッと6冊ほど返した。
ちなみに借りていたのは
 目で見る美しい量子力学 外村 彰/著 サイエンス社
 糸島モデルコース25 2023-2024 ぐる~り糸島別冊 聞平堂
 天野先生の「青色LEDの世界」 光る原理から最先端応用技術まで ブルーバックス 天野 浩/著 講談社
 Newsweek(ニューズウィーク) 日本版 2023年9月12日号 CCCメディアハウス 20230912
 私の1960年代 山本 義隆/著 金曜日
 食べて、祈って、恋をして 女が直面するあらゆること探究の書 エリザベス・ギルバート/著 ランダムハウス講談社
 古代の世界現代の省察 ギリシアおよび中国の科学・文化への哲学的視座 G.E.R.ロイド/[著] 岩波書店
 ソフィストとは誰か? 納富 信留/著 人文書院
 プラトン 哲学者とは何か  納富 信留/著 日本放送出版協会
 BOOKMARK 2 翻訳者による海外文学ブックガイド 金原 瑞人/編 CCCメディアハウス
の10冊で、このうち2番目、4番目、7,8,9,10番目を返した。2番目(糸島)と10番目(BOOKMARK)は読んでみると手元に置くガイドブックとして有用そうなので別途買うことにした。7(古代の),8(ソフィスト),9(プラトン)は放送大学でギリシア哲学をとっていたのでその関連で読んでいたものだから、講義も終わって返すのは普通なのだが、まだ理解できていないところが多々あって抱えていた。頭に入りきれない、でもこれ以上はプラトン全集を読む方に移るべきかとも思えて返すことにした。
1番目と3番目は量子力学関連で見ているが、これもまだ理解できていない、もう少し、と延ばしている。もう無理かもしれない、時々そう思う。特に1番目の量子力学は写真をHon0927a 見るのはいいが書いてあることは理解しやすいようには書かれていない、そういう世界なのだろう。新たに予約して借りたのはリーマン予想の本で(素数に憑かれた人たち リーマン予想への挑戦 ジョン・ダービーシャー/著 日経BP社)こちらも少々難しそうだ。また抱えそうだ、でも知らない世界に入り込んでいく感覚が面白くてこんなことを続けている。
どうせ死すべき運命からは逃れられないのだから気ままに生きていくか、そんなことばかり念じながら時が過ぎて行く。

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2023年7月19日 (水)

「西洋哲学の根源」を放送大学で学んでみる

要するにギリシア哲学のことだが、大学の頃はギリシア哲学の研究会というのがあってちょっと小うるさそうな思い込みの強い人達が集まっているようでどこかうさん臭さを感じていたことをGirisyatetugaku 思い出していた。放送大学の講義選択は前回は量子物理、その前は人体の構造機能と理学系が続いたのでここらで文系をという感じもあった、そのくらいが学び始める時の気持ちではあった。
15回の講義も終わり試験も終わって一体これは何なんだろうと振り返ってみている。そもそも何故紀元前6世紀頃からこんな形で哲学が始まったのか、というところから気になる。そこは結局はっきりしない。タレスが万物の始原は水だと言ったあたりから哲学らしい主張が現れだしたようではあるが、基本はこの世界はどうなっているのか、我々は何者なのか、どこへ向かっているのか、を何としても明らかにしたいという心なのだろう。
何故古代日本ではそんなことを考えてそれが系譜になるということがなかったのだろうか。書き残す文字がなかったということだけなのだろうか。そうかもしれない、どこでもそんなことを考える人はいそうではある。
地球については紀元前6世紀前半のアナクシマンドロスは円筒形としたことは講義で示されるが、球体と言い出したのはどのあたりからなのかの話はない。調べると少なくも前5世紀にはパルメデスやピュタゴラス派は球体であると明らかに主張しているようではある。学び終わってギリシャ哲学では地動説までにはたどり着けず地球が宇宙の中心にあるという認識だったように思っていたがこれも調べると前3世紀頃イオニアのアリスタルコスが惑星の見かけの運動を説明するには地球と惑星が太陽の周りをまわっているとすると可成り精度よく(数学的に)説明できる、としたようで、のちにガリレオが地動説を唱えた時にもアリスタルコスの説を知っていたともいわれているようだ。一体暗黒の中世は人類に何をしてくれたのだろうと思ってしまう。また、原子論は紀元前5世紀にデモクリトスらにより唱えられ確固たる唯物的な主張として当時認められていたようでもある。無神論ではなく神も原子でできているとしていたのにはちょっと驚くが、徹底しているというべきなのだろう。現代の世界観のあらかたはギリシア哲学に源があるといって間違いはないようだ、確かに驚くべきことだ。
確かにこれは知っておくべき歴史的知識の様だ、前にも書いたがチャットGPTが答える回答はこの紀元前のギリシア哲学の時代ドクサと呼ばれたいわゆる通説、通念というもので(これはチャットGPTに聞いてもその通りという答えが返ってくるのだが)、このドクサの評価もプラトンとイソクラテスなどのソフィストでは評価が分かれていた。プラトンはドクサではなく真の知識エピステーメーを探求すべしといったがイソクラテスは知者はドクサで大抵は最善のものを狙いあてる、とドクサの有用性を主張していた。同じ議論が今また繰り返されそうに思えている。
講義も試験も終わったが、何だか入り口にやっとたどり着いた気がしている。深めていくには時間が足りない、そればかりが気になる今日この頃だ。

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2023年6月18日 (日)

ギリシア哲学がチャットGPTとつながっていたり

ギリシャ哲学を放送大学で学んでいる。量子物理で時々ギリシア哲学というフレーズが出てきて、西洋のものの見方の根源にギリシア哲学が未だに厳然として存在し続けているのではないかとの感があって、今回とってみることにした。
始めてみると、暫くは何だか大昔の考え方を見直しているだけかな、との気がしていたが、最近の講義で知に対する考え方を聴いて、何やら現代的な認識に直結しているなこれは、と思うところがあった、学んでよかったともいえる。
知に対しては、人間は実は何も知らない、本来の知、もしくは知のイディアを直接認識することは容易ではなくて、知の様なドクサ、即ち通念が人間社会でやり取りされるだけだ、という考え方に収斂していったように見える。あっと思った、今ホットな話題となりつつあるチャットGPTのもたらすものがまさにこのドクサだ、通Alisteles 念としての知識を整理して次々に答えてくる、それが便利だとも危険だともする議論が喧しい。もう紀元前4世紀にギリシアではここに行き当たっていたのだ、その時日本はやっと弥生時代に入れたかというあたりなのに。まぶしい。
調べるとギリシア哲学者がアレクサンダー大王と関わっていたというのも興味深い、例えばアリストテレスは大王の家庭教師であり、またすべてを疑う懐疑主義哲学のピュロンは大王の東征に参加してインドの修行者に出会ったりもしたという、ギリシア哲学がリアルに歴史を動かしていたようにも見える。ちょっとした興味で学び始めてみたがもう少しこの世界に漂ってみたい気がしている。

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2023年5月 6日 (土)

手元にあった牧野富太郎の野外植物図譜を見たり

牧野富太郎の生涯が朝ドラ化されて毎朝のように見ているが、そういえば牧野富太郎著の植物図鑑があったはずと本棚を探したら出てきた。原色野外植物図譜 学生版 と表紙に書かれた古い本だ。50数年前に東京のどこかの古本屋で買った覚えがある。昭和10年11月30日発行 昭和16年6月15日再版発行 定価弐圓弐拾銭 と後ろにあり、牧野の著者印も無論ある。戦前の出版だ。野草の名前を書いた図鑑を古本屋で探したらスミレ16種から始まるこの本に出会って丁度いい本として買ったような気がする。戦前の本にしてはカラー版が豊富で、フーンと思った、戦前のカラー印刷というと着色した絵葉書くらいしか当時見たことがなく、色に誇張の無いきちんとしたカラー写真だったことに少し驚いた。700種位の身近にありそうな植物を小さい本で紹介している、今見ても役に立ちそうに思える。

自宅玄関の前に花の鉢をいくつか並べているが、結構雑草が出てくる。雑草という名の草はない、というのは牧野の言葉だが、昭和天皇もたびたび口にしていたようで、昭和天皇の言葉としても伝えられる、しかしこの地では雑草は厄介だ、雑草は雑草だと抜いては捨てていた。中に小さな花をつけたものがあり、抜かずに写真に撮ってネットで調べてみるとすぐ名前がわかった、最近は写真検索で結構よく当たる、ハキダメギクという植物だ。 説明はWikipediaに出ていてこれを読むと日本での発見者は牧野富太郎で世田谷の掃きだめで発見してハキダメギクと名付けたとある。ちょっとあんまりな名だ。英名はshaggy soldier(毛むくじゃらの兵士)といってこれもあまりいい名ではないがハキダメよりははるかにましだ。ハキダメでは如何にも雑草ですと言っているようでもある。
気になって牧野の野外植物図譜を調べてみるが載ってはいない、1920年代には発見していたはずだからこの本の出版時には間に合っている、雑草のような植物と小ばかにしていたのだろうか。牧野の姿がリアルに感じられて面白い。

それにしても牧野富太郎はマニアックな人だ。戦前という時代はこだわりの塊の人たちで動いていたのかもしれない、今はどんな時代なのだろうか。

添付写真は手元にある 原色野外植物図譜学生版 と 自宅の鉢で花をつけるハキダメギク。

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2023年1月20日 (金)

量子物理学を放送大学でとってみたが

半年に1つずつ放送大学の科目を受講して学ぶというのをもう10年近くやっているが、面白い。

今回は量子物理学を学んでみた。たまたま図書館で朝永振一郎の文庫本「量子力学と私」をみつけて読んでみると結構生々しくて面白く、機会あれば量子物理を学んでみたいとほのかに思ったのが直接のきっかけということになるが、量子の存在が世界の根源に位置するような気がしてずいぶん昔から頭の片隅に引っかかっていて気になっていたような気もする。放送大学で半年学んだとてとても理解できるものではなさそうな気がしていたが、試験も終わって振り返ってみても、わかったという感情を持つにいたるには相当にまだ道が遠い気がしている。何が故にそう思ってしまうのか、と思い返すと色々言い訳の様な言葉が浮かんでくる。とにかくひっかかるのが、言葉だ。量子物理で当たり前のように用いられる記号や言葉、いちいち、いったい何なのだろうと思ってしまう。本当の始まりからそんな有様で、ついていけなさ感が募ってくる。例えば、ブラとケットだ。1930年に出版された量子力学の初めてのといってもいい教科書、ディラックの「量子力学」に登場してくる表記法で、状態ベクトルであるケットに演算子で演算するという行為を表すのに便利なように考案されたようだが、放送大学の講義の説明ではケットに対応するブラの方は一体何なのか、わかりにくい。状態ベクトルであるのは同じだがケットと何が違うのかと思ってしまう。放送大学の教科書では双対ベクトル空間の元である、とあるだけで、それで?、と思ってしまう。ディラックの教科書にある <A は A>の共役虚という言い方のほうがまだ解った気がする。ディラックはa²+b²=(a+ib*(a-ib) の因数分解の形が好きなのではないかとも思ってしまう、所々でこのやり方が顔を出す。このほかにも数学者には普通なのかもしれないが∂μはxμによる偏微分とか、∫dxLは∫Ldxと同じだとか、面食らうことが多い。あげだせばきりがない気がしてくる、記号表や言葉の定義表がつねに傍らにあればという場面が多いがそれはない、解りにくい、ということになる。慣れればそんなものという別世界の様だ。

最も驚くべきことはこの難解とも言える手法でしか表現できない事物が万物そのものだというところにある、光も電気も金属もなんでも、がだ。コンピュータもスマホもLED照明も超電導も新しそうな技術はなんでも量子の働きを理解してそれをうまく活用しようとしているところから生まれあるいは改良されてきているようだ。この奇怪な量子の世界と人類は未来永劫付き合い続けなければならないというのも考えてみれば驚くべきことのようにも思えてくる。

とにかく試験も終えて一区切りだが、生きている限り学ぶことは止められないようだ。

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