2022年5月26日 (木)

短歌や俳句を時々書いている

短歌や俳句を時々書いている、和歌はNHK和歌に、俳句はNHK俳句および現代俳句協会、に投稿するのが目的のように書いている。NHKのはお題があってそれに合わせて作っているが現代俳句の方は特にはなく自由だ。並べてみるとお題に合わせたのはそれに引きずられて脈絡がない、何だろうと思ってしまう。マンネリにはならなくていいが、自分としてはやり方を考え直した方がいいような気がしてくる。
俳句の方は野鳥を詠みたいと思っていたが野鳥の季語にそうかなあというところがあって山谷春潮の野鳥歳時記をみたりもしたものの、矢張り納得できないところもあり結局思うが儘に詠むしかないという気が今はしている。リアルな野生を読み込むのは芸事の様な俳句にはなじまないのかもしれない。

最近3か月くらいの作品は短歌(NHK投稿)が

暖かき雨見つめ合うスズメ2羽電線揺れて恋の始まり

空がくさ宇宙たい でどげんしたと 何もなかたい見とるだけでよか

戻りたい「いいね」のなかった生活に春風がただただ気持ちいい

名物くさなんだちゃ食ぶるもんなんや うまかものなしちゃなかろうもん

ああ乾いた空気飛び去っていく木々かって住み生きし時沁みるこの地

正月は胃もたれ残して過ぎにけり行きつく果ては閻魔の餌食さ

池を廻っていつものアオサギに会う 僕らは今やいいチームかもね

天井の木目の襞を眺めおりここらが永久の寝室ならん

どこから来どこへ行くのか人駅を大河のように流れ続ける

俳句の方はNHK投稿が

万緑に赤を加えて阿蘇の山
うす味がいいとは限らぬ夏料理

薄闇に紛れるように蛍浮く
静けさや雨を匂わせ南風(みなみ)吹く 

かみなりの怖さ一番夏ヨット
雷の田んぼをこがし去りにけり

春風にまあるい雲がのったりと
恋スズメぴちゃぴちゃびちゃと騒騒し

もう日の出朝から忙しシジュウカラ
羅(うすもの)を貫き通す温暖化

さりげなく小物ファッション夕涼み
この団子どこの摘草だったっけ

卒業して友達何人できたかな
嬰児や回して回ってかざぐるま

風柔くのびのびしたり涅槃像

現代俳句のほうは
ハチクマのもう現るる立夏かな
自然なら桜の後ぞシクラメン

しなやかに松にもたれる花海棠

ピューヒラリ懐かしき舞初ツバメ
歳重ねいつまで会える初ツバメ

その他
青葉木菟ホッホ響かせ闇に舞う
カワラヒワ キュルルキュルルと初夏の風

 

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2021年11月30日 (火)

今年作った短歌を振り返る

久しぶりの雨になって11月も終わろうとしている。もう20日もすれば冬至が来てまた日差しが次第に強まるサイクルへと戻って行く。過ぎて行くこの年を振り返り今年作った短歌を新しい順に幾つか並べてみる。見ていくとコロナがらみがどうしても多くなってしまった、そういう年だ。

 

コロナにて同窓会も消し飛びぬ こうして人はバラバラになる

重々しい 宇宙の力我を縛る 何時もなりたや タイムトラベラー

倒れゆく書店アマゾン恨めしや 時の流れとカネの流れと

高き声イソヒヨドリを追いかけて壁壁壁の団地を過ぎぬ

暮れゆける空気かきわけひとり行く声も出せない人波の中

たてがみを頭に張り付け飛ぶように走りしタローという犬ありき

コロナあり古きソファーに沈み込む薄暗き日々静かに過ぎいく

宇宙飛行士にならずとも目の前にあり伸び縮みする時間

ここまでやればもういつ死んでもいい そうは言っても痛いのは嫌

力なく見上げる空に彩雲がこのままでいい雲が友達

幾つまでクルマを走らせるだろうか脚をもがれる不安ぐるぐる

やりたくば金を払って仕事するそんな時代が遠くに見える

笑わるも挑め常温核融合 憧れし二十一世紀の夢

こんな人だったっけzoomの向こうの表情を眺める自粛の部屋

ファミレスからも足が遠のくどこへ 寂しい時代を生きる我ら

国道だから大丈夫とドライブ ここから階段これも国道

思い出す負ける勝負はするなよな そんな教えで世は渡れるか

まだまだとのんびりしてはいられない爆発のよう波間の日の出は 

インスタのつながり過ぎて疲れあり 地球の裏から今日もいいねが

うつららと春の日過ごす母の家 もう15年も経ってしまった

何となく山のトイレが気になって 山登りから足遠のけり

一声の不思議な歌を響かせてハクチョウは今日北へ戻れり

大島を色鮮やかに歩きけり記憶の中の職場旅行

コンサート一つおきにて静まりぬ咳払えずに唾を飲みこむ

ゴルフにて握るといえばチョコレート遥かな昔錆びれた記憶

心はかぜ オオダイサギの軽やかに天上へ 陽が昇る宇宙へ

歳重ね流れ流れて彷徨いけり教室を出て教室に入る

山ではからすもいのししも威張っている生き物は対等なのだ

マスクよし三密よくて手洗いよし コロナ奉行のメガネが光る

コロナとは比べたくないあの頃の 燦めく語らいさざめく雑踏

美食やめ買い物抑えあらま痩せ 悪くもないかコロナダイエット

 

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2021年8月28日 (土)

短歌が解らなくなって河野裕子の本を読んでいる

短歌を時々作っているが、解らなくなることがある。
11年前に亡くなった歌人河野裕子の歌が引っかかっていくつか関係する本を読んでいる。
初めに大森静香による河野裕子の本 「この世の息」を少し読んでいたが、どうしても短歌集の解説本のように思えて、自分にはあまりいい本でもないかなと思ってしまう。河野裕子が過剰に評価されてきたのではないかとも思えて短歌の世界の普通でなさをも感じてしまう。自分の言葉で自分の好きな歌を作ればいいだけではないのだろうか。
「家族の歌」という本も読んでいる。永田=河野家族で順繰りに短歌とそれに続くエッセイを書いていく形の新聞連載だが、これは読みやすい、そして感じる本だ。河野の死を挟んで書き続けられていて、河野裕子は死の5日前まで連載の一こまを口述筆記していた。明晰な文だ。このようにして心が覚醒したままこの世を去るというのが望ましいのだがこんなことができる人は何人もいまい。しかしよく残している、死に至るその心情が良く伝わってくる。歌の力なのだろう。最後の歌を詠んだ翌日の、死の当日には「我は忘れず」と下7だけよんで「うんもうこれでいい」と言って亡くなった、と書かれている、これも連載の一コマだ。これでいい というのが最後の言葉というのはうらやましい。身の周りにそんなことを言える状態で亡くなった人を知らない。
家族全員が歌人というのも驚くが、歌を読むことで言葉で語るより深く理解しあっている家族の姿が見えてくる。歌を書くと、単なる文章を書く以上に伝わるものが歌に乗せられる、乗せる技が歌人の技量ということになるのだろう。夫婦共Kawanoyuko_20210829102001 に歌会始の選者である日本で第1級の歌人同士のやりとりがここにはある。死が迫っている河野を見つめる家族の目、それをみる河野の目、そして、亡くなった後に続いていく家族の河野への思い、それがストレートな歌を含めた文でフラットに書き継がれている、河野を含めたそれぞれの思いがよく分かる、すごい本だ。
「あなた」という短歌集も借りてみている、網羅的で河野の歌の全容が読める気がする。
でも正直 歌だけが並ぶ歌集は読むのがきつい。オペラをアリアだけで埋めているような感じだ。
歌ばかり見よと言わるも味気なし レシタチーボの語りあるべし と思ってしまう。

短歌について書こうとするがどうにも話はまとまらない。漠とした空に漂うようなものかもしれない、今はそう思っている。

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