2022年11月11日 (金)

事物の連鎖による理解

このところぼんやりと時の流れるままに過ごしているが、一つ一つの事象がつながって見えたりする時があって面白い。今は平野啓一郎だ。

図書館から何かの拍子で借り出していた平野啓一郎の芥川賞作品「日蝕」の返却期限が迫り急いで読む、ということが最近あった。読み始めると、15世紀末のヨーロッパが舞台となっていてそれをルビ付きの旧漢字がちNissyoku1 りばめられている見たことのない文体で書かれている。よく書かれていて学生が書いたものとはとても思えない。結構面白い。確かに才能がある。読み始めて直ぐは、文体のこれみよがしのようなひけらかしは気に入らない、と思うが読み進むとすぐに慣れて、中世の終わりルネサンスの始まりの時代の雰囲気が感じられるようにもなってくる。結構すらすらと読める。それにしても何故こんな作品を書くに至ったのかが伝わっては来ない。錬金術への興味からか。両性具有者を登場させる背景?。解らないまま読み終える。

数日後三島由紀夫vs全共闘のドキュメント映画をWowowで流しているので見ていると平野啓一郎が解説のような立場で出てくる、もちろん現代の、過去を振りかえっMisima1 て解説する立場だ。三島由紀夫の再来というキャッチフレーズがまだ有効なのだろうか。認識論の討論のようになっている場面で、こんな議論に強いということだろうか、そんなものかと見ているが今一つしっくりこない。今や遠くに過ぎ去った過去だが、今現在の時代の有り様に違う次元から関わってきている事件ととらえるべきなのかもしれない。

更に通日後、九州国立博物館で開かれているポンペイPonpei1 展を見る。数多くの発掘品の中に裸体の彫像もいくつかある、両性具有者ではないが男性器の誇示を感じる。現代とは何か感じ方が違うようだ。そしてその晩にはリアルな世界で皆既月食が出現する。 何だか「日蝕」の扱っていたキリスト教以前の世界とつながる錬金術のあやしい世界の雰囲気を感じてしまう。
ポンペイには今から見ても現代的とみえる生活の痕跡がリアルに残されている、中世の時代の人がこれを見たらどう思っただろうか。ポンペイ遺跡の発見は18世紀とされるが痕跡の一部は中世からルネサンス期にもみつけられていたのではなかろうか。それらが錬金術のようなキリスト教世界とGessyoku1 は違う認識体系を支えたのではなかろうか。

幾つかの疑問は解けないままだが、偶然につながって表れてきた時空が、感覚としてそうかもしれないという雰囲気を伝えてくれるような気がしている。事物の理解は連鎖の中にあるのだろう。

| | コメント (0)

2022年6月21日 (火)

ドライブマイカーの原作をやっと読む

アカデミー賞ノミネート以来一躍名が知れ渡ったドライブマイカーだが、シナリオは直ぐに読んだし映画はネットで程なく見たもののしばらくは肝心の原作の小説には目を通さないままにいた、やっと図書館の貸し出し順番が10日くらい前に回ってきて読むことができて何かほっとした。「女のいない男たち」という短編集に収録されている、ひたすら読む。
あれ、という読後感だ、映画のシナリオは相当に枝葉を原作に追加している。シナリオ/映画では主人公の亡くなった妻が語っていた物語-女子高生が憧れる人のうちに侵入して印を残していく話が印象深いがそんOnnanoinai なものもない。そもそもワーニャ伯父さんの舞台公演を地方都市で行うという舞台設定そのものがない。こんな改作も許されるのだと思ってしまう。
短編だからすぐに読み終えてついでだからと一緒に入っている「イエスタデイ」、「独立器官」、「シェエラザード」」、「木野」、「女のいない男たち」、を次々に読んでいった。それぞれにちょっと凝った深い小説に思える、こんな小説をドライブマイカーが文藝春秋に掲載されると決まってから次々に書き上げ毎月文藝春秋やMONKEYに掲載、この単行本の書下ろしにさえ使われるというプロフェッショナルな仕事ぶりに感心する、さすがだ。読んでいくと「シェエラザード」の中に憧れる人のうちに侵入して印を残していく女子高生の話が出てくる、幾つかの小説を組み上げたのが映画ドライブマイカーということのようだ。シナリオ(濱口竜介監督と大江崇充の共同執筆)はよく書けているという気がしてくる。映画という形の表現の面白さというものを感じてしまう。

思えばこの頃映画館で映画を見た記憶がない、コロナ騒ぎが終息したらまた映画館に出向いてみようか、そんな気分がしてきている。

| | コメント (0)

2022年3月31日 (木)

ドライブマイカーのシナリオを読む

今年のオスカーの作品賞候補に日本のドライブマイカーがノミネートされたと1月ほど前に伝えられて、それでは村上春樹の原作でも読んでみようと図書館に予約するととんでもない待ち行列だ、これではオスカー当日までに読むことはとてもできない。映画館まで観に行くのはコロナも収束していない状況ではそこまでは、と思ってしまう。他の手は、と思うと、そうか、映画シナリオを読むという手があるはずとばかり図書館で検索する。雑誌シナリオに、この映画のシナリオがそのまま掲載されている号(「シナリオ」2021年11月号)があることがわかり早速予約した。こちらは待ち行列もなく数日で準備ができたと連絡がくるDrivemycara 、すぐに借り出す。2週間半くらい前のことだ。原作は短編だけに映画は随分いじられているとのネット情報もありシナリオを読むのが映画を見る以外ではこの作品を理解する最も良い方法であるようにも思えた。
読み始めるとすんなりは物語の世界に入っていけない、自分のいる世界と随分違う。主人公である家福の作り出す舞台が多言語世界を特徴にしているというのにも驚く。舞台の主役が日本語で喋るとタガログ語がかえってくる、それを双方理解しているという前提で芝居が進む、観客は表示される字幕で会話を理解する、言語は、韓国語であったり北京語であったり英語であったり、ろうあ者の手話であったりもする。多様性に満ち満ちている。ここらあたりがアカデミーの評価が高いのかもしれない。
芝居のオーディションをし稽古し上演する現地広島では家福のクルマを運転する専属のドライバーが準備される、若い女性でみさきという、とても運転がうまい。家福は宿と稽古場の往復のクルマの中で、亡くなった妻が読み上げる今回のシナリオ「ワーニャ伯父さん」のテープを聴いて主役としてセリフを語ることを常にやり続ける。また くも膜下出血で突然亡くなった妻が作りかけていたテレビドラマの筋書きの話も絡まるように出てくる。更に芝居の主演者高槻(亡くなった妻とも関係していた)が傷害事件を起こして劇の上演がピンチに追い込まれるという現実も起こる、一方、ドライバーのみさきは母を土砂災害によって目の前でなくした過去を抱いている、要するに一見関連のなさそうな物語がいくつも重層的に埋め込まれている。妻を救えなかった家福、母を救えなかったドライバーみさき、その痛みを互いに明らかにし認め合う。芝居は主役を高槻の代わりに家福が演じて予定通り上演される。
最後が唐突だ。韓國釜山のお店にみさきがその車で買い物にくる、その後部座席には、広島での舞台をアレンジしたユンス夫妻(その妻はろうあ者として劇に出演)と共にいた犬と同じかもしれない犬が乗せられている、というシーンで終わる。何の説明もない。広島での舞台が釜山に場所を移して続いていっているということのようにも思えてしまう。新しい家族のようなものとして、ということかもしれない。
やはり映画を見てみなくては、と思ってしまう。みても分かったような、分からないような、という映画的経験を与えてくれる作品のようでもあるが。

オスカーの作品賞は結局「コーダ あいのうた」がとった。ろうあ者がろうあ者の役で存分に芝居をしている作品らしい。ドライブマイカーは外国語映画賞(国際長編映画賞)をとった、アカデミー賞の受賞であることには変わりない、立派だ。この流れを見ると今年のオスカーは多様性がキーワードだったように思えてしまう。そういう時代なのだろう。
しかし受賞中継で次々に紹介される各種候補作品はコーダやドライブマイカー以外の殆どの作品が、バタ臭い、いかにもハリウッドという雰囲気に満ちている、ここでの価値観が世界標準ということでもないな、そう思えてしまう。アカデミーも必死に変わろうとしているのかもしれない

| | コメント (0)