2023年5月30日 (火)

古代エジプト美術館展を見てエジプトの謎を感じる

古代エジプト美術館展というのが福岡アジア美術館で開かれていてもう終わりそうなので一週間前位に見に行った。美術展ではなく美術館展というとおり渋谷の古代エジプト美術館の収蔵品の展示という形だ。ほんとなら今頃はエジプト・トルコツアーに出ていたはずだが、随分高いのもあって申し込んだものの何もこんな円安の時にと思い直してキャンセルした、その記憶がまだ新しく、エジプトとあると見ておきたくなる。
クルマをリバレインの地下駐車場に入れる、ちょっと厄介な駐車場だ、久し振りだ。エレベータで7階まで上がって入場券を買うのだがここはキャッシュレスにとスマホで掲示されたページへアクセスして進めていた、しかし入力に要求される項目が多く小さいスマホからの入力が押し間違いばかりとなって遂にあきらめてキャッシュを払って入場した、カード払いもできない。勿論放送大学の割引が効いて学生料金で割安なのだが、何でEgypt0230522 現金のみ?、何だかなあと感じてしまう、頭の固い人がやっている美術館の気がしてくる。
展示は小さなものがいろいろ並べてあり紀元前35世紀位のもの(添付左)からあるが、大半は紀元前10世紀位の様だ、見ていくとどうも出土年代表示がきっちりしない感じがする。時代を追った展示にもなっていないのでちょっと見にくい。出土状態から年代を読むことができにくく、同位炭素で測れるような木製も少なくて、デザインにも大きな違いないため年代決定が難しいのかEgypt1230522 と想像してしまう。展示の中で引っかかるのはハヤブサだ(添付右及び左下)。鳥の中でもハヤブサに特別の意味を込めていたのが伝わってくる。もっと大きな猛禽ではなく何故ハヤブサなのか、いくら考えても分からない。チャットGPに聞いてみても「他の大型の猛禽には同じような特別な地位が与えられなかった理由は、具体的にははっきりしていません。」とあっさりで、解らない。
象形文字も非常に長い間同じ様な表記で引き継がれているようだ、何だか進歩が意図的に止められていた社会のような気もしてくる。それは何故なのか。
やはりエジプトは謎だ。円安も終わったころにでも元気が残っていればやはり行くべきところの様なEgypt2230522 気がしてきている。この世のすべてを見ることは不可能とはわかっていても。

 

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2023年5月27日 (土)

九州国立博物館のアールヌーボーガラス展を見る 

欧州のガラス工芸の源流、紀元前14世紀のエジプトのコアガラスの手法で作られた脚杯(左下図)から始まるガラス工芸の展示がアールヌーボーガラス展とKoaglass0501a銘打って九州国立博物館で開催されているというので、5月の初めに見に行った。この時代にこんなものまで、と思うほどに古くからガラス細工の工芸がエジプト・中東・欧州で作り続けられてきているのに驚かされる。現代でも通用しそうな装飾も2000年前には作られている(右下図)。見ていくとこの長い歴史の上に19世紀末から20世紀初頭のアールヌーボーの時期にエミールガレやドーム兄弟による燦然たるガラス作品が生み出されてきたというその流れが理解できる、そういうことだったんだとの感がある。更にあのパリコミューンを生むことに至った普仏戦争によりガレやドーム兄弟の故郷の地はドイツに奪われるが却ってそれが彼らの作品Koaglass0501bを生み続ける強い意志をもたらすことにもなっている、驚くべき歴史だ。そんな戦争に明け暮れた欧州の雰囲気が今のウクライナ戦争にも漂っているところが見えてきて現代的な問題につながっているように感じられるのも面白い。

さてエミールガレだ。ガラス工芸の技の極致を駆使してガレは表現しているように見える、半端でない。ジャポニズムにも傾倒し伊万里焼風の作品もいくつか残している。昆虫や草花をデザインに取り入れることで他には見られない作品群(例えば左下図)を残してもいる、多才だ、圧倒的だ。
Irisbud0501g1a ーム兄弟の方はガレとは違って大衆化の道を進めたように見えてしまう、芸術性より日常使いの美しいガラス器を多く生み出しているように見える。それにしてもなかなかの展示だ。

見終わって、ベネチアがガラス工芸を誇り薩摩が切子を生んだ歴史の展開がやっと少し腑に落ちた気がした、そこには強いアイデンティティへの意志があったのだ、見るべきものは見るように努めねば、そう思う日々だ。

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2023年5月25日 (木)

福岡市美術館でミュシャ展を見てジャポニズムを感じる

5月は少し気になる展示がいくつもあって、見なくっちゃと思っているうちに会期末が迫ってくる、今日は最後の福岡市美術館で開かれているミュシャ展を何とか見に行った。今回の展示は膨大なミュシャ作品を所有するチェコのチマル博士のコレクションから厳選したものの巡回展という。
ミュシャというとクリムトの頃の画家というくらいの時代認識しかなかった、確かにそうだがクリムトとは道が少し違ったようだ。年代を追うと、ミュシャは挿絵で生業を立てつつMyusyaa1 あった頃の1894年、女優サラベルナールを描いたポスター「ジスモンダ」で一気ににそのスタイルを確立してブレークしている。展示されている「ジスモンダ」を見るとその太い外形線にはどうしても日本の浮世絵の影響を感じてしまう(左図)。ついこの間九州国立博物館のガレ展で見たエミール・ガレのこの頃のガラス作品にも日本の伊万里焼の影響が濃い作品が展示されていたのを思い出した(右下図)。ジャポニズムという当時の文化的風潮が新しい芸術運動の核心部にあったことをあらわしているように思えてしまう。アールヌーボーの時代とはそういうことだったのだ。
ミュシャの作品の多くはリトグラフで印刷されたものだが、19世紀末から20世紀初めの時代にこれほどカラフルな印刷物が世間に流通していたことにも驚きを覚える、ハーフトーンを含めて発色がよく今の時代にも退色していない。
絵画を芸術という象牙の塔から広くあらゆるところに解放していく、そういう動きを切り開いていったミュシャという人、多才Galleimari という言葉だけではとてもカバーできない大きなインパクトを後世に与えているようだ。見れてよかった。

生きていて見れること感じれることには限りがある、でも、見たいものは見、知りたいことは知り、水のように自由な時間を過ごしていきたい、そればかりを思うこの頃だ。

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2023年4月30日 (日)

雨の連休初日はサクソフォーンのコンサートで

連休が始まったがあまり浮き浮きした気分にはもうなれない。予想通り雨となったのもある。そうはいっても、29日にある九響とサキソフォンの須川展也が共演するというコンサートがちょっと気になってチケットを買っておいたのでとにかく街へ出かけた、天神のFFGホールだ。須川展也の名はどこかで聞いたような位だったKyukyosax230429a が前回の九響コンサートでもらったビラで日本のクラッシク界ではナンバー1のサキソフォンプレーヤーとあったのが引っかかった、自分自身昔福岡にいた頃ブラスバンドでテナーサックスを吹いていたということもある。雨だからクルマにしたいところだが連休初日の雨とあってめぼしい駐車場はどれもネットで満表示が次々に出てくる。公演が終わるのは17時頃でその頃が雨のピークと予想していたがどうしようもない、あきらめてバスにする。天神で降りて直ぐ近くの地下街入り口から地下に入る。雨に風も加わってバス待ちや地下に入るまでの少しの間にも小ぶりの折りたたみ傘では結構濡れてしまう。しるしい。
地下街を抜けるがFFGホールには地下街からそのままは行けない。一旦地上へ出てまた傘をさして地下へ降りる。
開演40分前位に着いたがもう人が続々来ている。席は前のブロックの最後列で悪くはない、傾斜もあって舞台に近い感じでよく見える。壁が面白い。
オーケストラは40数人で小ぶりだ。ビラに室内オーケストラと書いてあったのはこういうことか。第2バイオリンが少ないかなとの感じがする。ラベルのクープランの墓から始まる。こんな曲だったっけとの思いで聴くが綺麗な曲だ。サキソフォンの須川 展也の登場は次の真島俊夫の曲「シーガル」からだ。白っぽいシャツに赤い還暦記念アルトサックス(ヤマハ)を携えて現れ、演奏。歌うように柔らかな音、クラシックともいえないような雰囲気だが豊かな音楽がある。この後指揮者太田 弦と須川 展也による解説トークを挟む、須川 先生!との間柄と弦。 次は挾間美帆のサクソフォン・ソナタ 第1番「秘色(ひそく)の王国」。今回の管弦楽版は[世界初演]!でこれが今日の目玉の様だ。これも須川 の委嘱で作られた曲という。始まりは、何だ現代音楽か、という調子だがすぐにジャズっぽくなっていい感じとなる、いい曲だ。特に3楽章がダイナミックだ。オーケストラとサキソフォーンのせめぎあいが白熱する。切れ味がいい。アンコールにはアルルの女よりサクソフォンソロ。やわらかい、優しい、豊か、いかにもクラシックのサキソフォンだ。休憩後はビゼーの交響曲 ハ長調、(サキソフォンは無し)。ビゼー17歳の作品との説明がある。曲を聴く。若い、それに尽きる。若さの勢い、単純さ、未来へ向かう、そんなものが端々に感じられる。しかし面白い曲だ。
知らない曲ばかりを聴いた、しかし今日のような曲が九響には向いているのではないか、響きがいい、歯切れがいい、そんなことをふと思ってしまった。
帰りは予想通り厳しい雨となる。隣のビル地下の食堂街で夕食しバス停のある大丸前まで地下街を歩く、人出が多い、この街らしい若さがある。バス待ちは長くはないが激しい雨で屋根はあってもまた濡れる。

こんな風にして連休初日は過ぎて行った。こんな日々が続くならそれも面白い。

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2023年4月19日 (水)

The 4 Players Tokyoのランチタイムコンサートが良くて

このところ続けてクラシックのコンサートに出かけている。今度はアクロスのランチタイムコンサートだ。12時から1時間と少し位のコンサートで1000円と随分行きやすいチケットなので結構利用している、メンバーは実力のある奏者が登場して、決しておまけのコンサートではない、おそらく県の補助なんかが出ているのだろうと想像している。今回は The 4 Players Tokyo という弦楽四重奏団だ。 弦楽四重奏そのもののコンサートも生では初めて聴く。
曲はヤナーチェクの弦楽四重奏曲1番、和田薫の弦楽四重奏のための3つの断章、プロコフィエフの弦楽四重奏曲2番 の3曲で 初めにこのグループをプロデュースする指揮者の藤岡幸夫からグループや演奏曲の解説があって入りやすい。BSテレ東土曜朝8時半の番組エンターザミュージックから生まれたグループのようだ。Lanchtime0418a
はじめてお目にかかる曲ばかりで、特に2曲目はアクロスが作曲者に委嘱して今日ここが初演となる作品という、作曲者も来ていて客席で聞いている、すぐ近くの席だ。初演に立ち会うというのも初めての経験だ。
ランチタイムコンサートいうので気楽に出かけてきたがこれはちょっとした聴き物の様だ。
最初の曲は副題が「クロイツェルソナタ」でトルストイの短編「クロイツェルソナタ」に沿って作られているという、ストーリーのある曲の展開だ。チェロとバイオリンの掛け合いがあって会話のようだったり、鋭い展開があって終りがドラマチックになるかと思えばふんわりと終結になる、とか、つくりが面白い感じの曲だ。演奏は、一つ一つの楽器の重みが弦楽合奏よりも遥かに重く、ソロの4重の重なりという感じで一音一音が鮮やかに響く、聴き入ってしまう。こういうことだったのか弦楽四重奏とはと思いを新たにした。これは機会があればなるべく生を聞くようにした方がよいようだ。
次のこれが初演という弦楽四重奏曲は、説明にもあった通り和を思わせる音で、聴いていると琴の六段をどこか思い出してしまう。幼いころ住んでいたのは藤井凡大さんのご両親の家の隣で琴の音や三味線の音が日常に漂っていた、それを思い出していた。音楽を聴くというのは頗る個人的なことかもしれない。
最後のプロコフィエフの2番は、今から思い返すと、激しい曲想が続き体力的によく演奏できるな、さすがプロだと感心しながら聴いていたのは覚えているがさてどんな曲だったかと思ってしまった。こんな時にはyoutubeで探せばこの曲の演奏がどこかにあるのではと、Sergei Prokofiev - String Quartet No. 2 で検索してみる、いくつかヒットするが“Kabardinian”という副題のついたPavel Haas Quartet(チェコ)の演奏のを見てみて驚いた。映像は曲に合わせて楽譜が次々に送られていくのだが、その楽譜を見て実際の生きた音を奏でることがこんなことなのかと思ってしまった、とてもできないというかそんな風に楽譜から読めない、本当にプロの世界だ。
今回の演奏はCD化されないのだろうか、印象深い他では聞けない曲の素晴らしい演奏で、このまま無限の空間に音が飛び去ってしまうだけというのはいかにも惜しい。
それにしても、このThe 4 Players Tokyoというグループはいい、力量というより音楽そのものがいい、素直にそう思う。次はいつその演奏に触れられるだろうか。

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2023年4月16日 (日)

九響の定期公演でオネゲルの3番とベートーベンの3番を聴く

春本番でどこかへ出かけたくなるが、何か疲れていたり寝不足の様な感じがあったりでこのところ遠出はしないままに過ごしている。
3日前に、以前買っておいた九州交響楽団の定期公演の切符があってアクロスまで聴きに行った。このくらいが出かけるにはちょうどいい感じだ。夜の公演で早めの食事を街でとる。クルマがすいていて思いのほか早く着いたので食事してもまだ時間余りぶらぶらとあたりを歩いて時間をつぶす、まだ明るい。天神をぶらぶらするのもこんなKyuukyou3ban0416a 時くらいだ。
19時開演、よく入っている。最初はオネゲルの交響曲3番だ、聞いたことがない曲だ、第2次大戦直後に発表された比較的新しい曲だという。渦を巻くような弦の響きがあり、いかにも新しい。ストーリーが展開していくような曲のつくりを感じる、ただ、戦争の影響だろうか、楽しいという曲想が流れるところはどこにもない、心は休まらない、そんな曲だ、しかしトータルの印象はネガティブというようでもない、なかなかの曲だ。演奏もいい。
次のベートーベン英雄は有名な曲だがフレーズを思い出さないなと思っていて、始まるとああこれだったかとすぐに思い出す。きちんとしたつくりだ。ベートーベンらしく次々とメロディを繰り出してくる。若いころはベートーヴェンというと、手あかのついたような漠然とした印象を持ったこともあったが、歳を経てくるとさすがベートーヴェンと思う場面がやたらとある、よく描いている。聴いているとナポレオンが直にいた時代のその空気が乗って伝わってくるような気がしてくる、音楽の力というべきか。
なかなかのコンサートだった。
途中の休憩のところで去年の10月ここで演じられたマーラーの「復活」をCD化したものが売られていてこれこれと買っておいた、こういうサービスはもっとやるべきだ。帰って聞くとあの長いがするすると過ぎて行ったその時の雰囲気がよみがえってくる。惜しむらくは会場の拍手などは全て切られていて臨場感は伝わってこない、スタジオ録音のように思ってしまう。これも追って改められていくだろう、とにかく先へ進んでほしい。

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2023年3月21日 (火)

コロナ明けの九響のコンサートでショスタコーヴィチを聴く

去年の夏ころに予約していた九響の定期演奏会がコロナの蔓延で流れてやっとこの3月の半ばに公演がおこなわれたので兎に角聴きに行ってみた。もうマスク着用義務は解かれたはずなのに街を歩いても殆どがマスクだ。チケットを切るところもコロナ前の様な手順に戻って半券を切って渡してくれる、マスク無でも何の注意もない。ホールの中もマスク着用義務はないので外していたが、そんな人は皆無に等しい。
始まって暫くするとどうにも気になることが出てきた、周りの口臭といううか加齢臭というかそんなにおいが漂ってくる、そういえば座っているあたりはお年寄りが多い。このところ何回か九響9kyousyosta のコンサートに行っていたがそんなことには気づかなかった。これまではマスクをしていたのが多分にあるのだろう、その方がにおいが気にならない感じがする。休憩後の後半はマスクを着けてみると気にならなくなる、マスクを着け慣れると周りのにおいから逃れられていた自分というものを感じてしまう。パンデミックは色々なことを教えてくれるようだ。
演奏の方はショスタコービッチ特集で、ロシアとキルギスの主題による序曲/ジャズ組曲 第1番/交響曲 第12番 ニ短調「1917年」 の3曲だがいずれも初めて聴く。ショスタコービッチというと打楽器の使い方が派手な印象を持っていたが、最初の曲は打楽器の影が薄くとらえどころのない感じ。次はJazzというより軽音楽でむしろ打楽器によるメリハリがなさすぎる(というか打楽器パートが全くない)締まりのない骨董品の様な曲だった、ちょっと期待外れだ。最後の曲はシンバルが鋭く響き続けショスタコービッチらしい、これは聴きごたえがある。始まる前に指揮者井上道義による解説があるが、説明に出てきたスターリンのテーマとする3連音がうまく聞き取れず、物語のような曲だがストーリーが見えず、よくわからない、という印象が残る。オケの音はよく演奏自体は素晴らしいのだが、曲そのものに難があるように思えてしまう。難しい。

音楽を聴くことは面白い、しかし頗る個人的な体験なのだ、また思ってしまった。

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2023年3月20日 (月)

今年の芥川賞を読む

今年も芥川賞が発表される季節となって、どんな作品だろうと、掲載される文藝春秋3月号を予約可能となる日の朝一番に図書館にネット予約した。予約順は1番ではなく2番だったもののすぐに順番が回ってくる、さっそく読んでみた。今回(第168回、令和4年度下半期)受賞したのは井戸川射子「この世の喜びよ」と佐藤厚志「荒地の家族」の2作品でいずれもそれほど長い小説でもなく、1週間もあれば2つとも楽に読めてしまう。
「荒地の家族」から読み始めた、3.11の震災被Arechinokazoku 害者の直面した生活を描いている。非常にリアルな感じがする、楽しい場面は殆どなくてこれでもかとつらい現実が展開され続けていくが、とても誇張と思えないリアルさだ。重い。しかし情景がよく描写されていて、文章そのものがいい。作者の力量を感じる、さすが芥川賞だ。
「この世の喜びよ」はこれとは随分違っている、読後感として最初に感じたのが物語の無さだ、これは小説というものなのか、と感じてしまう。ショッピングモールの一角にある喪服店の店員という主人公の周りに流れていく日常の描写のみではないかと思ってしまう。2人称で描かれていて主人公をあなたと呼んでいる視点で読んでいくことになるのだが、なじめない、勿論面白い試みではあるがなじめなさはどうしようもない。小説の描いている世界へ引き込まれていく感覚をどうしても抱けない。こういう小説が賞をもらう時代になったのだ、ついてこれるかな、と言われているような気さえしてくる。

小説を読んで絵空事の世界に時々身を置くという疑似体験が自分としては精神的にいいような気がしてこれまで時々小説を読んでいたが、精神の活性化に必ずしもつながらない小説が出てき始めてるような気がしてきた。そういう時代なのだろう、映画を時折見る方に切り替えた方がよくなってきたか、そんなことも考え始めている。

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2023年2月27日 (月)

ポリャンスキー指揮の九響をまた聴く

ポリャンスキーという少しは名の知れたロシアの指揮者が九響を指揮する、それに小山実稚恵というこれも少しは名の知れているらしいベテラン(もしくは熟達した)ピアニストがベートーヴェンの皇帝を奏でるというので、ダブルに面白そうだとばかりアクロスに見に行った。日曜の午後2時開演というお気軽コンサートだ。昼食は天神でとも思ったが如何にも混みそうな時間帯で自宅で簡単に済ませて出かける。2階のサイドの席だ、表情などはよく見える。皇帝か20230226a ら始まる。ポリャンスキーは3年位前にここに来ていてその時も見に行ったが、床をどんどんと足で打ったりバイオリン演奏者に近過ぎと思うほどに顔を近づけたりと見ていて面白いコンサートだった、今回はそれに比べればおとなしいものだった。足で床を打つのは次のシエラザードの前半部で少しだけというくらいで、やはり歳をとったかとも思ってしまう、まもなく74歳だ。。
ピアノの小山実稚恵(62歳)の演奏は クリアーで迫力のある音だが流麗でもあり細部も細やかでこれぞ皇帝の決定版と思いたくなる演奏だった、つい合わせて口ずさみたくなってしまう。オーケストラはホルンがちょっとと思ったりすることもあったがそんなことは問題ならない響きでピアノと掛け合っている、いい演奏だった。
休憩後はシエラザードだ、有名な曲だが皇帝の後に聞くとさすがベートーヴェンと思ってしまうほど曲としての皇帝のつくりがよいのに気が付き、こちらはしつこい重い曲に聞こえてしまう。思ったより長い、疲れる。演奏自体は素晴らしいのだが。
万雷の拍手の後のアンコールは3年前と同じチャイコフスキーの「四季」10月「秋の歌」(管弦楽版)だった、美しい曲でこちらの方がいいやとも思ってしまう。
 
ちょっと聴き疲れたが、いいコンサートだった。外に出ると日が伸びてまだ明るく、早春の太陽がまぶしい。もう春の始まりの様だ。

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2023年2月19日 (日)

久石譲のコンサートが楽しくて

数か月前九響(九州交響楽団)のコンサートに行った時抽選を引いたらこのコンサートの割引き券が当たったこともあって久石譲の指揮する九響/日本センチュリー響合同のオーケストラの演奏会に出かけた。ホールは例によってアクロス福岡だ。この頃小さな幸運でくじが当たることが幾つかあっている、ボロボロと籤運を使い果たしつつあるようでうれしいか微妙なところではある。
ほぼ満席だ。いつもの、女性とリタイヤ組中心の観客とは少し違って、男性の勤め人風の人も結構多い。
ステージ上に並ぶ椅子の数が多い、2つのオーケストラの合同だけに120は超えているように見える、始まると響きに迫力がある。最初の曲は久石が最近作曲した交響曲で彼とHisaisi しては3番目の交響曲(交響曲第3番)になっている曲だ。聴きなれない現代音楽の曲で、集中できなくて眠くなる。確かに音が多く、動く。それにしても久石譲とはこんな作曲家とは思ってもみなかった。気付かぬうちに転寝して終わり頃にハッと起きる、情けない。次はストラビンスキーの春の祭典で、これは気持ちがいい、大人数のオーケストラならではの迫力がある。弦は通常の九響のコンサートのようには揃わないがそんなもの何ということもない。最後はメキシコの作曲家によるダンソン(ダンスソングのことか)でこれも調子がよくて初めて聞く曲だがいい響きだ。いい雰囲気で終わりアンコールはお待ちかねとばかり、トトロだ、最初の現代音楽との落差が激しいが、楽しい。久石譲の多彩さを見せつけてくれた。
面白いコンサートだった。それに尽きる。


やっぱり生の演奏はいい、ついつい10日後のポリャンスキー指揮のコンサートも予約してしまった。気ままに生きていけるのが何より楽しい。

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