2025年4月15日 (火)

九響の定期演奏会を聴いたりランチタイムコンサートでThe 4 players Tokyoを聴いたり、春は忙しい

春は花見だけでなく忙しい。4月から年度はじめということもあるか4月3日の市民ホールコンサートに続けてアクロスのコンサート2つに出かけた。まずは4月11日の九響定期演奏会だ。太田弦のフランスでつなげた演目選定が興味深い。最初はフォーレの組曲「ペアレスとメリザンド」だ、聞いたことがないがと思いながら第3曲のシシリエンヌに至るとなーんだこれかという感じだ、フルートの曲として知られ自分もフルートで数年前に練習していたことがある。座った席Kyuukyouteiki429 は2階の左袖という舞台の左半分がまるで見えない位置で木管楽器の全体を見渡せないが、木管の響きがいい。次のラヴェルのピアノ協奏曲はアメリカ演奏旅行で仕入れたとされるジャズ風な旋律が所々で聞こえてきて面白い。ピアノ演奏の指使いが上からよく見えてそこはこの席の良さだ、特に第3楽章の丸まるような指使いなど印象的だ。確かにJazz好きのフランスの雰囲気が漂う。アンコールのピアノ「亡き王女のためのパヴァーヌ」(これもいい感じだった) の後 休憩をはさんでベルリオーズの幻想交響曲に至る。久しぶりに聴いた気がして新鮮だ、ティンパニー2セットの打楽器の迫力、チューバ2本の低音の響き、等々楽器編成自体に作曲者の意気込みが感じられる。こんな曲だったっけと改めて見直した思いだ。1830年という、王政復古したフランス・ブルボン朝がまた倒された7月革命の年に作曲初演されている、その騒乱の時代が伝わってくるようではある。混沌を打ち破る強い打楽器の響きがする、そういうことかと勝手に思ってしまう。なかなかのコンサートだった,やはり選曲に惹かれるところがあるようだ、組み合わせがいい感じがする。
アクロス2つ目は4月14日の弦楽四重奏によるランチタイムコンサートだ。演奏はThe 4Players Tokyoという関東のオーケストラのトッププレイヤーによる4playerstokyo0414 弦楽四重奏団だ。前にも一度聞いたような気がするがよく覚えていない。曲はベルクの弦楽四重奏曲、信長貴富作曲今日が初演のドンキーカルテットという曲、そしてベートーヴェンの弦楽四重奏曲第4番でいずれも初めて聴く曲だ。プロヂューサーの藤岡幸夫さんから最初に説明があって演奏に入ったがこんな曲並びの弦楽四重奏のコンサートにこんなにたくさんの人が来てくれたことが一種の驚きであったようだ。自分もそうだがランチタイムの弦楽四重奏と聞くとなんとなく気楽に音楽を楽しめそうと思って聴きに来たという所が多いのではないかと思っている。始まると確かに、難解なところのある曲が並んでいたと感じる。まずはベルクの曲だが全くのシェーンベルク張りの現代音楽だ、口ずさめられるメロディーというものがない。理解を超える音だ、でも音そのものがどうしようもなく美しい、なかなかだ。
次は世界初演となるドギーカルテットだ、こちらは作曲者も観客席で聴く。犬にまつわる曲8つを連ねたものでそれぞれのタイトルから柴犬が出てきたりチワワが出できたりしているようだが、具象ではないので犬好きでもない自分としてはピンと来るところがない、どうしようもないことだ。でも、とにかくここでこの曲が初めて世に出たということそれに立ち会っているというそのことそのものが面白い、初めての体験だ。最後のベートヴェンにくると初めて聴く曲ではあるが何かほっとしたものを感じる。終わってみるとよくできたコンサートだったように思えてくる、特段の休憩もなく、見事な演奏を響かせ続けてくれた演奏家に感謝と尊敬の念を抱かずにはいられない、さすがプロだ。

今日の強風で桜は散ってしまった、するすると時は進んでいく。春は忙しいが楽しい。

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2025年3月29日 (土)

春は急ぎ足で過ぎアクロス弦楽合奏団コンサートをやっと思い出す

3月が足早に過ぎてしまう。今年の桜は梅開花の遅れやハツミヨザクラの大幅な開花遅れがあってソメイヨシノもかと懸念していたが3/20以降の気温急上昇によりそれほどには開花が遅れず満Sakurakaika2025 開はあっという間に到来した。後から気温データを入れて計算し直してみるとこれまでの手法通りの開花、満開タイミングとなっていて気温の推移がその原因であることは明らかだ。なんだか遅れてやってきた春が一気に駆け抜けたような気がしている。山火事があちこちで起こるのも急ぎ足でやってきた春と関係しているような気がする。急速な気温上昇は過度な乾燥と天気の急変による強風の吹き出しHiyodr0327a3a221 を招く。燕は来ているはずだがまだ姿をしかとは見ていない、声はちらと聴いた気がするくらいだ、結局レンジャクは見ずじまいだった。鶯はいまだ練習中できっちり鳴いてはくれない。総じて何だか鳥の動きも随分変だ。
人間世界は予定で動く,センバツは決勝まできた。もう10日前になる3/20にはアクロス弦楽合奏団の第16回定期演奏会をアクロスに聴きに行った。いつもはここに感想を書いているのだがそれも忘れてしまっていた、なんだか追いついていない。アクロAacrosgengaku0320a ス弦楽合奏団はこのところ2年に一度の定期演奏会になってしまっているがそれだけに開催されればすかさず聴きに行くことにしている。、今年は大学に在籍中の学生が4名加わっているが他は前回とほぼ同じで何しろメンバーがいい。
とにかく弦が美しい。特に最初のビバルディの2曲はイタリアバロックのきらめきが心地よい。続くバッハの曲は、少々きらきらしすぎでバッハにしては抑制が不足しているようにも感じてしまう。休憩後のブリテンの組曲では弦の輝きはあまり感じない、そういう曲なのだろう、演奏自体は味わい深いものがあるがどこか今日の自分にはあまり伝わらないなとも思ってしまう、音楽を聴くのはすこぶる個人的な行為なのでこういう時もある。ともかく春だ。

バロックの弦のさざめき音見えてホールを埋める春の到来


アクロス弦楽合奏団メンバー:
[コンサートマスター]
景山誠治(桐朋学園大学教授)

[ヴァイオリン]
山本友重(東京都交響楽団コンサートマスター、名古屋フィルハーモニー交響楽団特別客演コンサートマスター)
川田知子(ヴァイオリン奏者)
瀬﨑明日香(ヴァイオリン奏者)
佐藤仁美(九州交響楽団奏者、*)
宮川奈々(NHK交響楽団奏者)
福崎雄也(藝大フィルハーモニア管弦楽団奏者、*)
奥野玄宜(ヴァイオリン奏者、*)
松本さくら(ヴァイオリン奏者、*)
山下大樹(九州交響楽団第2ヴァイオリン首席奏者、*)
落合真子(東京芸術大学大学院1年在籍中、*)
木村美宇(桐朋学園大学大学院1年在籍中、*)
目野奈々子(桐朋学園大学音楽部4年在籍中、*)
新戸琳子(桐朋学園大学音楽部3年在籍中、*)
*:アクロス福岡ヴァイオリンセミナー修了生

[ヴィオラ]
須田祥子(東京フィルハーモニー交響楽団首席奏者、日本センチュリー交響楽団首席客演奏者、SDA48主宰)
山下典道(元 九州交響楽団奏者、アルト・クレフ大濠代表)
田辺元和(九州交響楽団奏者)
田中 茜(ヴィオラ奏者)
長石篤志(ヴィオラ奏者)

[チェロ]
田中雅弘(元東京都交響楽団首席奏者)
菊地知也(日本フィルハーモニー交響楽団ソロ・チェリスト)
市 寛也(NHK交響楽団奏者)
山本直輝(九州交響楽団首席奏者)

[コントラバス]
吉田 秀(NHK交響楽団首席奏者)
皆川直輝(九州交響楽団奏者)

[チェンバロ]
占部由美子(ミュンヘン音楽大学教授、クローンベルクアカデミー公式ピアニスト)

曲目
ヴィヴァルディ:
2つのヴァイオリンのための協奏曲 イ短調 Op.3, No.8,RV 522
3つのヴァイオリンのための協奏曲 へ長調 RV 551

J.S.バッハ:
3つのヴァイオリンのための協奏曲 二長調 BWV 1064R

テレマン:
3つのヴァイオリンのための協奏曲 へ長調 TWV 53:F1
ターフェルムジーク(食卓の音楽) 第2部より

ブリテン:
フランク・ブリッジの主題による変奏曲 Op.10


アンコール
グリーグ:ホルベルク組曲 op.40より 第1曲 プレリュード

 

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2025年2月17日 (月)

九響2月定期演奏会の準メルクルにちょっとびっくり

2月7日に九州交響楽団の定期演奏会がアクロス福岡であったのを聴きに行った、もう10日もたってしまったが感じたことを忘れないよう残しておきたくて書いている。コンサートでKyukyou202502 その時発せられた音はたちまち時空の中に飛び去っていき取り戻すことができない、本を読むのや絵画を見るのとは大きく違う、少しでもその痕跡を自分の中にとどめ置くにはどこかに書いておくよりほかはない。この日のコンサートの記憶ももはや次第に薄れていっていく、どうしようもない、それが音楽だ。
この日は大雪の騒ぎが日本中を駆け巡っていた時分の丁度一休みのような日で晴れてはいないが雪はたぶんなしで済みそうな日だった。タイヤを新しくオールシーズンタイヤに変えたこともあって多少の雪には不安はないのだが、この地では冬用タイヤにこまめに履き替える人がそんなにはいないようで駐車場は天神の土曜日という日にしてはガラガラだった。
指揮者は準メルクルという人で、名前は初めて知った、名前に漢字が入っていて?と思う、が父親がドイツ人母親が日本人ということのようだ。経歴を見ると世界的に活躍している経験豊かな指揮者のようではある。席はいつもの一階が取れずに2階の左袖となった。ともかく始まる。最初はワーグナーのトリスタンとイゾルデの前奏曲だ、何だかオケの音がよく出ている、大きくてメリハリがある。そういう曲なのかもしれないと思いつつ次のマーラー5番第4楽章に移る。この曲はヴィスコンティンの映画「ヴェニスに死す」で効果的に使われていて、その映画の舞台となったヴェニス・リド島のそのホテルに宿泊したこともあり、記憶によく残っている、アクロス弦楽合奏団の演奏を7年前にこのホールで聴いたことも蘇ってきた。今回の演奏は今まで聞いた演奏に比べ際立ってメリハリがつけてある、大きい音は本当に大きく小さい音はエッと思うくらい小さい、ちょっとやりすぎのようにも聞こえてしまう。いつもの九響とは違って指揮者の考えが色濃く出ている感じだ、個人的にはちょっと趣味が違うがこんなのもありなのだろう。最後はブラームス1番だった、これはあまり聞いた記憶がない曲て比較のしようもないが前の印象が後びいてしまう、いつもの重いブラームスという感じがなくて何だか賑やかなブラームスになっている。それはそれで面白い気もするが。終わるとブラボーの声が多く飛び交う、こういう演奏が受ける時代になっているのかなあとも思ってしまう。音楽を聴くのはすこぶる個人的なことなので色々感じるところが異なるのは当たり前のことなのだろう。でも生の演奏は感じることが多くてやはり楽しい。
9時過ぎに終わる、雪は結局降らずじまいで路面凍結も大丈夫そうだと戻る、それにしてもいつもと比べてタクシーの割合がずいぶん多い気がする、雪に慣れない福岡という街の現実なのだろう、これも面白い。

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2025年2月 2日 (日)

村上春樹が

図書館に1週間に一度は行って本を借りてくる生活をここ10年くらいは送っている。宇都宮にいたころも似たようなサイクルでもあったので図書館とはずいぶん長い付き合いではあるようだ。1月の初めころ図書館でたまたま見つけた村上春樹の「意味がなければスイングはない」という文庫本を読んでいて、さすが、とImiga 思ってしまった。ジャズ評論と言っていい書きものなのだがジャズ評論家としても一流のよく掘り下げた、よく書き込んだ文だ、ここまで書くには相当にのめり込まないとできない。見直してしまった。そもそもどういう経歴だったっけとwikipediaで村上春樹のところを見てみて、ちょっと驚いた。まずは、同学年だった、村上春樹はいわゆる早生まれで自分より8か月くらい遅れて生まれているが同学年だ。まさかそうとは思っていなかった。西宮市で育ち高校は神戸高校に通っていたという。ニアミスだ。自分は中学の終わりころに父の関西転勤が突然決まり急遽関西の高校を受験することになった、まずは神戸市東灘にある私立の難関校を受けここに落ちたら神戸高校を受けるという手はずだった。幸運にも、と当時思っていたが、難関校のほうにパスしたので神戸高校には行かなかったがそうなっていたかもしれない自分がいた。西宮市の山の手に住み時々ジャズコンサートを聴きに行ったこともある、ジョンコルトレーンが神戸国際会館で来日公演した演奏会はよく覚えている、どこかですれ違っていたかもしれない。嵐のように大学闘争が吹き荒れる時代を東京で過ごした、ここも同じだ。最初に読んだのは「羊をめぐる冒険」だった、高校のころはSFが好きだったのもあり何か通ずるところがあって、そのあと新作が出るたびに読み続けた。フーンそうだったのか、と何かが解けた思いがする。Wikiに載っていたイスラエルでの授賞式とその講演の話はよく覚えていないこともあり、スピーチ全文が掲載されているという文芸春秋2009年4月号を図書館から借りだして読んでみた。2009年あたりでもイスラエルはガザ地区住民に対して集団殺人を行っていた、何度でもやるようだ、狂っている。そんなイスラエルに出かけて大統領も含む聴衆の前で何を言ったのだろう。小説家らしい言葉で、我々は国籍や人種や宗教を超えて一人一人の人間として、脆い殻をもった卵として、高く硬く冷ややかなシステムという壁に立ち向かっている、我々に勝ち目があるとすればそれはお互いの温かみを寄せ合うことから生じてくるものだ、私は常に卵の側に立つ、と語っている。当然のように共感を覚える。我々の世代にまだできることは残されているのだろうか。

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2025年1月30日 (木)

確定申告も終わって久しぶりにMDを聴こうとしてトラブる

年が明けてもやることは多い。いつもは放送大学の下期の試験が1月にあっていろいろ気ぜわしいのだが、今年度下期はオンラインの講座を選択したため試験がレポート提出となり昨年中にすべて提出し終わって、この部分の忙しさはない。一番重荷を感じるのが確定申告だ。株配当金にかかる税金は確定申告するとほぼ戻る、やらぬ手はない、毎年パソコンでやっているが、やり方が少しずつ変わってきてるようで毎年これどうすのかなという所に1度や2度は行き当たる。今年も国税局に電話をかけてわかりにくいところをクリヤしたが、官僚的な表記は何とかならないものかといつも思う。とにかく終わった。

一段落となったこともありしばらくほっていたMDでも聴いてみるかとの気になった。
MDのコレクションがだいぶ手元に残っていて、マイルスデイビスの演奏の録音が多いのだが、久しぶりに聞いてみるかと動かそうとしたが動かない。MZ-NH1というMDウオークマンの出力をアンプにつないでスピーカーから音を出していたのだが、MDを聞く手段は手元にはこれしかない、困った、といろいろ調べてみるとどうやらMDウオークマンをセットしているスタンドの電源供給部分のどこかが断線したようだと察しが付く。スタンドの電源線を切っていけばたどり着けるかもしれないが内部の方だと厄介だ、ここは新たな電源を購入しようと、代替品をネットで探す純正部品はとうに販売終了だ。3.5mm6V端子のアダプターにセットできるpowseed12Wマルチ電圧ACアダプターというのが1400円弱でAmazonに出ていたのですぐに発注する。4-5日で手元に届き、つないでみると問題なく動き出した。MDプレーヤーそのものは供給が止まっているせいだろう、ネットで探してもSony0130ab エッという高い値段で売られているばかりで今持っているものをとにかく使い続けねばMDの音源はまともに聞くことができないようだ。規格が使用途中でなくなるというのも厄介だ、ソニーはエルカセットというオープンリールテープのカセット規格を一時推進していたが3年持たずに撤退した歴史があり、MDはまだ持った方なのだろう。今年になってブルーレイディスクからの撤退も発表しており、そもそも音響ビデオ規格の寿命は長くないということのように思えてくる。録り溜めするより今その場で楽しむということが大事なようだ。クルマのオーディオも少し前まで乗っていたクルマはMDで今のクルマはSDカードとCDの組み合わせになっている、クルマを替えたときは随分不便な思いだった、あらゆるものは変わり続ける、これはどうしようもないことだ。
人類はその知恵を記録して後続に伝えることにより前へ進んできた、これから未来に残す記録媒体はどうすべきなのだろう。不安になってしまう。
どこかでアナログバックアップが脚光を浴びるかもしれないが、ないかもしれない。

結局人類は衰退していく運命を刻み込まれているのかな、そんな気もしだしている。

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2025年1月27日 (月)

今年の芥川賞「ゲーテはすべてを言った」を読んで、これが芥川賞?と感じる

今年も芥川賞が発表される季節となり、1月15日に芥川賞及び直木賞の受賞作が発表された。何とか読んでみたいと受賞作の掲載誌や出版された本の予約を図書館に入れてみるが、入れたのが少し遅かったからか、もうびっしりと予約が入っている。安堂ホセの「DTOPIA」の載っている文藝 2024年秋号 は数人待ちでTripperx21 ひと月くらい待てば読めそうだが鈴木結生の「ゲーテはすべてを言った」掲載の小説トリッパー2024年秋季号は数か月は優に待ちそうで、直木賞の「藍を継ぐ海 」に至っては数年単位の待ち行列だ。これは買うしかないかと後の2つについてはネットで発注した。まあしょうがない。それにしても小説トリッパーなる雑誌は聞いたことがないなと思 っていたら朝日新聞の小説誌で週刊朝日別冊として1995年創刊とある、知らなかっただけのようだ。認知度が低いせいか福岡市の図書館には本館分館すべてを合わせても1冊しかなく待ち行列も長くなるわけだと思ってしまう。
先に来た小説トリッパー2024年秋季号「ゲーテはすべてを言った」から見始める。80数ページでこれはすぐにも読めそうだと読み始めるが、少々手ごわい。まずは登場人物の名前がよみづらい。博把(ひろば)だの、芸亭(うんてい)だの、然(しかり)といった名字や綴喜(つづき)、徳歌(のりか),義子(あきこ)といった名前はルビなしではとても読めない。統一(とういち)という主人公の名前もなじみにくい、統一教会かGoethex2 ?などとも思ってしまう。読みだしてすぐにファウストの一節の引用で乾杯する場面があるがここではドイツ語のまま表記されていて訳文はない、(Trauben trägt Weinstock!/Hörner der Ziegenbock/......といった塩梅)エッと思ってしまう。紅茶のタグに書かれたミルトンの言葉も英文のまま翻訳なしで挿入される、英文ならば分からなくはないがあってるだろうかと思ってしまう。なんという小説なのだろうか、これくらいは俺の読者ならわかるはずだ、と浴びせかけられているような気になっていい気持がしない。一方では、ゲーテという現実の文豪のゲーテ全集の「西東詩集」の巻は全編登場人物の芸亭學が訳したことになっている、現実にももちろんゲーテ全集の翻訳版は出版されていて「西東詩集」の巻を担当した翻訳者が現実にいるわけだがそれを超越してこの小説を進めている。こんなことしていいのだろうか、と疑問になってしまう。小説としての筋立ては比較的単純でそこには特に感動もないのだがそれを取り巻く小宇宙のような記述の海がこの作品の特徴のようだ、そこの出来栄えが新しい時代を開く小説として受賞したのだろうが、その小宇宙は作者の知識のひけらかしのようでなんだかなあという感じもする、読後感が良くない。ほかにいい作品が候補になかったのだろうか、文学の不作の時代に入りつつあるのだろうか、いろいろ考えてしまう。「DTOPIA」の方はどうなんだろうか。

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2025年1月12日 (日)

九響ニューイヤーコンサート2025を聴く

このところ毎年年末には第九、年始にはニューイヤーコンサートでシュトラウスを聴くことが自分にとっての恒例行事になっている。今年は本家ウイーンからウイーンフィルが来て福岡でニューイヤーを演ずるとあったが、やっぱり地元のオケで新年を楽しみたいという気持ちが強くいつもの九響の方を選んだ、むろんチケット代は数倍違うNewyear2025q ということもあるが恒例行事はやっぱりな、と思ってしまう。今年はソプラノの歌が入って新年らしい華やかさがある。指揮者太田弦の語りが入りながら曲目が進む。若い指揮者らしいやや淡白な演奏でシュトラウスはもっとアクの強い方が好きだなと思ってみたりもするが、後半になるとそんな印象も消えてこれもなかなかいいじゃないかと思ったりする。太田の語りで頭に残っているのは、ソプラノの小川栞奈とは大学同期で九響の演奏メンバーにも同期が2-3人いると言っていたところだ、一緒に何かをなしていく時に同時代のつながりは心強いものがあるというのは時々感じることだ。若い指揮者が入るということは若い世代を引き連れて代変わりしていくということでもあるな、と思ってしまう。
ソプラノのアンコールはプッチーニの私のお父さんだった、好きな素敵な歌だ。

新しい時代に動いて行くのを感じる、新年らしいいいコンサートだ。今年はどんな年になるだろうか。

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2024年12月23日 (月)

九響の第九を今年も聴く、毎年違うことを思う

今年も終わりが近づいた。12月は決まり事でやることが結構あって忙しい。墓の掃除やカレンダーつくり、年賀状作成投函、できる範囲の掃除、等々、たちまち時は過ぎ下旬になって冬至が来る。今年は冬至に九州交響楽団の第九がセットされていて、10月ころに忘れず切符を買っておいた。師走の土曜日おまけに天気は荒模様とあって天神の駐車場は満ばかりのようだ、クルマは危険すぎてバスと電車にし、ほぼ予定通り開演の25分前に入場する、席は完売とあり、人が多い。Daiku2024
始まる。毎年この時期に聴いているが毎年思うことは違う。今年は聞きながら曲そのものにのめり込む。この響きはあのベートーヴェンの頭の中でまず響きあったのだ、そのことが途方もないことのように思えてしまう。木管の穏やかさ、コントラバスのざわめき、4人のソリストの重なり合う詠唱、その響きを彼が頭の中でまず鳴らした、そのことのすごさばかりを感じる。こんな音楽を創り出す世界はもうどうやっても自分には味わうことができないだろう、持ち時間がもうない。
完成度の高い演奏にただただ感謝してホールを出る。いつもの年に比べてもいいコンサートだったように思う。クリスマスマーケットをのぞいたり簡単な食事をしたりして丁度来たバスで帰宅する。いい年の瀬のような気がしてきた。

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2024年11月30日 (土)

作曲家藤井凡大さんのことを思い出して

先日の九州交響楽団の定期演奏会で和楽器との共演を聴いた後そういえば幼いころ住んでた家の隣に作曲家・指揮者となった藤井凡大さん(1931-1994)が住んでいたことを思い出した。幼かったのもありその姿の記憶は残っていないが九大で造船工学を学んでいた凡大さんが造った船の模型をもらい受Bondai2 けて風呂に浮かべて遊んでいた記憶はある、しっかり作られた模型だった。隣の家のご両親は家で三味線・琴・お謡いを教えていて、和楽の音が漂っているそんな地域だった。もう随分前の話だ、現在は、数年前訪れてみるとまとめて地上げされたあとに通信制の高校が建っている、流れつづける時の流れには身を任せるほかない。
凡大さんの曲をまともに聞いたことがないような気がしてネットで探してみると代表作の一つ「東洋の楽器による交響曲・西遊記」のCDが売られてるのをみつけて早速発注してみた。藤井凡大指揮でレコードとして発売され昭和42年度のレコード部門の芸Bondai1 術祭賞を受賞している。
聴いてみると、音楽というより音そのものが面白い。シルクロードの楽器多数から構成される演奏でそれを組み上げて40分を超える大曲にしている、大河の流れのようでもありス トーリーのある構成だがエンドレスに聴いていられる気がしてくる。アジアに対する何かが込められているような気もして楽器を揃られるかが大変だろうがこの先も演奏し続けられるべき曲のように思えてしまう。生で聞いてみたい。
もう一度これを今演奏するとすれば、九響の太田弦ならできるかもしれない、そんなことをつらつら思ってしまう、期待してしまう。

所詮平均余命がも   はや11年しか残っていない身には生で聞くことはもう無理かもしれないけれど。

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2024年11月12日 (火)

九響の定期演奏会で太田弦とむきあう

もう5日もたってしまったが11月7日の九州交響楽団の定期演奏会がいまだに心に残っている。
曲目の組み合わせがどういうことなのだろうという位ぼやけた印象でコンサートに臨んだ。切符は10月5日にネットで買っておいたのだがそのことをすっかり忘れていてその20日くらい後Qkyou426

にまたネットで買ってしまった。10月5日の段階で1階席後方のいつも聞く辺りは完売で2階席の右袖のあたりを買っておいたのだが2回目にミスで買った席はその続きの席だった、こんなこともあるのかと2重に不思議な感覚に襲われた。とにかく買ってしまったものはどうしようもないので古くからの友人に進呈した。幸い受けてくれてとにかく無駄にはならなかったのがせめてもの救いだ。

今年から首席指揮者となった太田弦の指揮だ。プレトークとして開園10分前に太田からプログラムの簡単な説明がある。最初の曲 プッチーニの「4声のミサ」は彼が若いころに聞いて感動しいずれはこの曲を演奏したいと思った曲だという。2曲目「博多ラプソディ」は4年前に九響が委嘱・初演した曲、最後の「モノプリズム」では和太鼓の音圧が圧倒的で前の方の席では覚悟が必要、との話もある。ともかく太田がやってみたいという音がそろえられているようだ。

始まる。「4声のミサ曲」はとにかく長い。宗教曲だが言葉が解らない、言葉で伝わってくるものがない、軽く居眠りをしてしまうほどだった、自分には感動は伝わらない、しょうがない。音楽を聴いているとこういう経験をすることが時々ある、音楽は個人的なものだ。

休憩を挟んでの「博多ラプソディ」、どんたくと山笠がモチーフになっているという。しゃもじを叩いたりするところあって、これがそうかと聴く。個人的には山笠はそのスピード感、迫りくる迫力だが、そんな雰囲気は響いてこない、どちらかというとスタティックな曲作りだ。もっと走ってほしいなあ、そればかりを感じていた。
最後の「モノプリズム」、これはすごい。弦の音がかすんでしまう太鼓の響きだ。リズムだけでなくメロディがある太鼓だ。弦楽奏者が可哀そうに思えるほどだ。いいものを聴いた、ただただそう感じる。

いい演奏会だった、思うがままの太田弦を思うがままに聴けた、太田弦もなかなかやる。 

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