2018年1月28日 (日)

古事記と万葉集を学ぶ

古事記と万葉集という講義を放送大学で受講している、というかもう試験も終わったので受講していたというべきなのだろう。ラジオで聴取する形で、教科書とラジオ録音がすべてだ。15回の講義で1回あたり800円弱の受講料を前もって払っておく必要がある。高いといえば高い。資格を取るといった明確な目標を抱いて学ぶ人には妥当なのだろうが面白そうだから学ぶというには費用が少々大きい。まあしかしこんなものだろう。

古事記から入る。古事記は713年に完成し天皇に献上されたとされている。
古事記は漢文体の日本書紀に対比させられる音訓交用表記であり、中の歌謡は一音一字の音読みの所謂万葉仮名表記,神の名前は殆どが訓読み表記となって文体に苦心の

Kumo1a

跡がうかがえる。
中国文化を日本文化に取り込み咀嚼した漢字かな交じり文の原型が作られたのが古事記ということになるのだろう。
太安万侶の序文は表記の苦心を述べているがこの序文自体は漢文であり、公式文書はやはり漢文という当時の感覚も感じる。

古事記はともかく伝えられている国の歴史を物語と歌謡としてそのまま内向けの言葉で書き下すところに力点が置かれたと感じられる。

万葉集の巻一巻二は古事記とほぼ同時代に編纂され、古事記の続き すなわち舒明天皇以降の歴史書としての側面を課せられていたように考えられるという。
古事記では雄略天皇までが事績の記述が書き込まれていてその後の推古までは系譜のみとなるが日本書紀は持統までの事跡が淡々と記されていて対外的な歴史書の体裁をとっているようだ。
古事記+万葉集が所謂人間史、日本書紀が正史とういうことになるように思える。

古事記以降の人間的な歴史の記述を担わされたのが万葉集の一側面ということになるものの、万葉にあげられている古い時代の歌はその後の時代に造られた歌がそのように言い伝えられて残ったともみられるところがあり(即ちまつわる物語が創られていて)、混乱があるところがかえって生々しい。

例えば16代仁徳天皇皇后の磐姫が作ったとされる短歌四首が万葉集に載せられているが(巻二)、古事記の記述では19代允恭天皇の軽太子のところに出てくる衣通王(そとほしのおほきみ)の歌がこの四首のうちの一つとほぼ同一で、どちらが創ったとするのが正しいのか、どちらも怪しいのかわからない。巻二は古事記の編纂された十年位後の720年代にはほとんど出来上がっていたと思われているようだ。

古事記の軽太子のところに出てくる長歌は万葉集巻十三相聞歌に出てくる軽太子にまつわる長歌とほぼ等しいものの、この万葉仮名表記は古事記の方では1字1音を守っているが万葉集では漢字万葉仮名混じり文のように万葉仮名を使っていて明らかに万葉集編纂者は古事記を見ながら編纂し、編纂時の世間で語られていたことに引きずられて漢字万葉仮名混じり文にしているといると感じられる。
*)注。
先にあげた古事記で衣通王の歌とある短歌については古事記が時代的に先だけに衣通王の作とするのが正しそうに見えるが、一方で万葉集で磐姫の歌とされる四首は第四十一代持統天皇(在位690-697年)(藤原不比等の時代)のころに連作としてまとめられたようだという見方もあり、やや奇々怪々の印象を受ける。

藤原氏の勢力がゆるぎないものとなったのは当時の慣例を破り皇統でない藤原氏出身の光明皇后を仁徳天皇の皇后として立后(729年)したところにあるとの見方が有り、この立后の僅かな前例が同じく皇統でなかった皇后磐姫だったというところに磐姫を巡る記述の危うさがあるようでもある。古事記での磐姫の記述は極めて嫉妬深い女性として描かれ印象が今一つよくないところを改めるべく、磐姫を立派な歌を詠んだ姫とのいい印象を与える後付け証拠としてよくできた4首が集められこれが磐姫の連作のように万葉集に載せられたのではないのか、藤原氏の強い意向が入っているのではないか、どうにもそのように思えてしかたがない。

この衣通王は、柿本人麻呂・山部赤人とともに和歌三神と呼ばれるほどに和歌に優れた才能を示したとされているようだ。もっとも和歌三神としては幾つかの挙げ方が古来よりあり、玉津島明神と住吉明神、柿本人麻呂を挙げるのがむしろ普通ではあるようだが玉津島明神とは衣通王のことを指しているとされるため、いずれにせよ衣通王は古来より和歌三神の一柱だったということのようだ。それにしては残された歌が僅かしかない。衣通王の伝説が先にあって紀の国に伝えられておりそれをひきずったのが古事記の記述であるのかもしれない、古に優れた女性歌人がいた、そこが伝説の始まりかもしれない、そんなことも思ってしまう。すべてが架空のものがたりであり、歌だけが残ってきたという気がしてくる。

古事記と万葉集を見て行くと漠とした上代の雰囲気が感じられてくるばかりで、不確定性原理のようなその漠とした存在の仕方が日本の文化の原点そのものであるように思えてくる。そんなことを感じるようになっただけでも改めて学んだ価値があったように思う。学ぶことはやはり楽しい。
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*)例えば
隠(こも)り国(く)の 泊瀬(はつせ)の河の 上つ瀬に 斎杭(いくひ)を打ち
という長歌の始めの方の表記を比較すると

古事記允恭天皇90:
許母理久能 波都勢能賀波能 加美都勢爾 伊久比袁宇知

万葉集巻十三3263:
己母理久乃 泊瀬之河之 上瀬尓 伊杭乎打

と万葉仮名表記でも随分違う、万葉集は漢字で纏められるところは纏めている。

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2017年12月18日 (月)

「神聖ローマ帝国 皇帝ルドルフ2世の驚異の世界展」を見る

寒くなった。寒い時には屋内を巡るに限る。
福岡市博物館の出し物が気になっていたところへ、タダ券が手に入って勇んで出かけた。
神聖ローマ帝国 皇帝ルドルフ2世の驚異の世界展 という展示だ。12月24日まで福岡で開催し来年1月9日からは渋谷Bunkamuraで、そのあとは3月21日から滋賀の佐
川美術館へと巡回するという。

西洋近代美術館のアルチンボルドの展示会の様子がテレビで何回か放映されていててっきりこれが福岡に回ってきたのかと思っていたが、まったく違っていた。

Zou


神聖ローマ帝国の皇帝ルドルフ2世が収集した森羅万象の事物の展示で、これが思った以上に面白い。
ドライにいうとハプスブルグ家による博物学的収集の一覧ということになる。
欧州の博物学というと百科事典派というのがあった気がして調べてみると、百科全書派というのが正し
くて、18世紀フランスでフランス革命直前に編纂された百科全書の作成に関わったディドロ、ダランベール、ヴォルテール、ルソー等が該当する。しかこのルドルフ2世とは時代が200年位違うようだ。
ルドルフ2世は日本でいえば戦
国時代、高山右近と同い年というから16世紀末から17世紀初めの時代となる。大航海時代で世界中には思いもよらないものがあると認識されるに至った時代だ。
錬金術師や画家や科
学者を多く抱えケプラーの法則(惑星軌道の面積速度一定の法則)で有名なケプラーも庇護し この時代のの文化を支えた存在だったようだ。動物園や植物園まで持っていたという。首都をウイーンからプラハへ移したことでも知られ現在のプラハに流れる文化的香りを創り出したのがこの皇帝とされるようだ。

Rudoluf2

見ていくと天体観測用のアストロラーペや精巧な細工の時計など今見ても極めて興味深いものが次々に現れる。

 

 

 



アルチンボルドの絵も面白い。
展示されているアルチンボルドによる絵は皇帝ルドルフ2世の肖像の1枚のみだ。しかし、これに似た手法で人物を描いた他の画家の絵が何点か展示されていたがアルチンボルドの方が数倍優れているのは一目瞭然だ、一枚で十分に迫力がある。

 

Rittai2



これを立体にした現代作家フィリップ・ハースの作品も並べられている、こんな作家がいるというのも面白い。

アルチンボルドの、詳細な植物の描写そのものをデフォルメせずに組み合わせだけで肖像を実現するというアイディアが、結局は全ての物はほんの100くらいの元素の組み合わせからできているだけなのだ、という今では誰もが知る事実につながる道を示しているようでもある。事物の真実を突いているところに多くの人が惹かれ
続けているのかもしれない。

 

Hana



  
ブリューゲル(父)の描いた花の静物画もあってこのように花瓶に入れた花を描くやり方はこの絵が始まりだったと聞くとこんなものにも歴史があるということ自体に気が付かされる。ルドルフの植物園で咲かせていたと思われる様々な種類の花を図鑑のように丹念に描き蝶や虫がついているところまで細かく描きこまれているのにも驚く。
現代にも流れる博物学的な知識の源流がこのあたりにあったのかとも認識させられる。確かに博物館で開くのに誠にふさわしい展示だ。

幻の鳥ともいわれるドードーもルドルフ2世の動物園で飼われていたらしくその絵がサーフェリーの絵などに僅かに残されている。

Tori

全ての珍しいものを残そうとするルドルフの努力が当時評価されていたか知る由もないが今となってはタイムマシンのようにその時代の痕跡に接することができる極めて貴重な仕事をしたと思えてくる。ルドルフ2世は政治的には愚鈍な王とされていたようで最後は弟によって力ずくで退位させられている、しかし後世までその名が残ったのはルドルフ2世の方だった。そんなものなのだろう。

なかなかいい展示企画だった。ふと東北震災の花は咲くの歌を思い出していた、今は何を残せているのだろうか。

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2017年10月 8日 (日)

カズオイシグロのノーベル賞

そういえば今日はノーベル賞の文学賞発表の日だったと、見ていたipadをアベマTV

Kishiguro

に合わせるとliveが入ってくる。スェーデンからの中継で背の高い女性がイシグロと言っている。ムラカミではないが日本人のようだ、しかし聞いたことがない名だ、同時通訳がないので本当に受賞者の名前を言ったんではないのではないか、とも思ってしまう。でも雰囲気からはどうもイシグロという人がやっぱり受賞したようだ、すぐにテレビに速報テロップが出る。

カズオ・イシグロという日系イギリス人が受賞したとのニュースだ。日系ということなら国際結婚の子息だろうかどうして英語名が混じらないのだろうかとまだよくわからない。

ネットのニュースや情報をつぶさに見ていって漸く解ってきた。両親共日本人で英国に帰化したという。誰が入れたのかwikipediaのカズオイシグロのところはもう2017ノーベル賞受賞としっかり入っている。日本出身の人がとにかく受賞したということになる。目出度いというべきだろう。村上春樹はちょっと無理かなと騎士団長殺しを読んで思っていた。
不勉強だがカズオ・イシグロという人はイギリスではかなり有名な作家となっているらしい。

翌日になってこれは矢張り読んでみなくてはと思い始めてamazonで著作を探るが全て売り切れで古書には早速法外の値がついている。勿論市立図書館の蔵書もネットで当たったが予想通りあっという間に待ち行列ができており暫くはどの本も借りだせない、とにかく片っ端から予約だけは入れておく。

こんなことかと落胆したが、落ち着いてamazonの画面を見直すと電子書籍になったのがありこれは勿論すぐに買える。これしかないかとkindleで1冊購入してさっそく読もうとするがインストール済みのkindleアプリではエラーが出て開けない。電子本は600円ほどの価格だが払っても読めないのでは少々頭にくる。ネットで調べて色々やってみるが効果なく万策尽きてamazonのカスタマーサービスに電話する。正確にはamazonのサービスで電話を選択して自分の番号を入力するとすぐさま電話が鳴り受付順番待ちとなる。混んでるようだ。やっとつながったところで症状を話すとアプリを消去して再ダウンロードしてください、とくる。電話口でそのとおりにやって開きなおすとめでたく読めるようになった。理由は解らない。

とにかく読み始める。「日の名残り」(The remains of the day)という作品だ。イギリスで賞をもらっているようなので代表作の一つだろうくらいの考えで選んだ本だ。
英国のとある執事がご主人様の貴族が亡くなって邸が新たな米国人の所有者に売却され執事もその新たな所有者に仕え始めた、その時期に過去を思い出しながら一人で初めてのドライブ旅行に出かけるという設定だ。執事の独白から成り立つ私小説のような小説になっている。
シーンの多くが歴史的事象を背景にした追想であり、しみじみとした語り口だが、しみじみしすぎている感は否めない。いかにもイギリスらしいというべきなのだろう。設定といい何だかイギリスローカルの小説のように思えて仕方がない、川端康成の日本文学が受賞したようにノーベル文学賞はグローバルというよりむしろローカルな心情の掘り下げを書き込んだ作品が受賞しやすいのかもしれない、そんなことも思ってしまった。

でも昨年のボブディランよりは遥かに文学賞らしい。ボブディラン受賞の方が刺激的だったが今回のも別の次元での刺激がある。世界の広がりを思い知らされる。

個人的には電子ブックの有難さを初めて感じたところもあり、様々な意味で刺激を世界中に与えるところがノーベル賞の素晴らしさ面白さなのだろう。それにしても文学賞はどういう基準でどうやって選ばれているのだろうか、やはり知りたくなる、調べてみなくては。

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2017年8月15日 (火)

大ピラミッド展

エジプトにもいつかは行かねばと思っていたところへ、早稲田隊の吉村作治さんが企画・監修した大ピラミッド展という展示会が福岡に巡回してきた。2年位国内のあちこちを巡回

Entry

してきたらしい。これとは別だが昔宇都宮で、やはり吉村さんがセットした古代エジプトの展示会を見たのを覚えている。発掘資金集めの一環かな、観に行けば支援にもなってそれもいいか、とついふらふらと見にいってしまった。



この間みたラスコーの洞窟壁画は2万年前、こちらは5千年前だから、この間の変化が人類文明の進歩というとになるが、この1万5千年の間にピラミッドような超大工事を正確にやれるようになっていた、ということに尽きるようだ。

Miira

文字を使い、王国を築き、数々の工芸品を残すに至った姿からは一気に前に進んだ勢いを感じることができる。

しかし考えてみれば、縄文の始まりから現代までがおよそ1万年5千年だから1万5千年でこれ位の進歩というのはそう不思議でもない。進歩というのは所謂クオンタムリープ(量子的飛躍)の繰り返しだから、飛躍の度合いをきめる天才がどれくらい優れているかどの位いるかで進歩の速度は決まってしまうような気がする、古代エジプトでは天才の数が限られていたのだろう、まだ人類の総数が少なかったということかもしれない。氷河期でそれどころではない時代が続いていたということかもしれない。

展示品で感じるのはその色の華やかさだ、3000年前の木製のミイラカバーは鮮やかな色彩の細かい絵で埋め尽くされている。ミイラを作る技術とともに物を保存する技術も磨かれたのだろう。勿論乾燥した地域の地下で厳重に封印され続けてきたということもある。

Menk

日本のたった1500年前位の古墳から出土する木製品はこんな姿では到底ない。

展示品にはカイロ博物館の重要な収蔵品が多く含まれていて国内でこれほどの古代エジプトの出土品がカイロ博物館から出展されるのは初めてではないかと思われる。メンカウラー王のトリアード(添付写真)は思いのほか小さいが顔の細工も細やかでリアリティがある。これは。。と思わせる迫力がある。

日用品ではエジプト・アラバスターと呼ばれる半透明の石を加工してつくられていた水差しの巧みな技が印象的だった。今使ってもおかしくない、美しい。
目玉となっているアメンエムオペト王の黄金のマスクも立派だが金だけに古びたところがなくてそれがかえってこんなものかと、感慨がどこか薄い。

しかし並べられている展示品はほぼすべてが墳墓から出土したものだ、言わば墓荒らしの成果をみているようでどこかうしろめたさがある。そうはいっても大規模な建造物を除けば墓しか残っていない。ピラミッドもギザにある3つのピラミッド以降は総てがかなり崩れているようだ。
戦乱や大規模な自然災害を潜り抜けては洞窟か墓か或いは余程の大建造物しか残らない、結局そういうことだろうか。今後も5千年や1万年のスケールでは大震災だって核戦争だってあるだろう、これからでもそういうことかもしれない。ちょっと空しくなる。

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2017年7月17日 (月)

感性工学の講義が

放送大学で感性工学というオンライン講座を取ってみた。感性というキーワードが引っかかっていた。自分の関心がある部分と重なるところが多々ありそうに思えていた。オンライン講座はテレビ・ラジオ

Kansei

講座のようには公開されていないので内容を知るにはきちんと学生になってサイトにアクセスするしかない。オンラインである分時間に制約がないので毎回講義のほかに1時間に及ぶインタビューが主任講師によって行われているあたりが特色でもある。インタビュー対象は感性工学に関わる有力な方々で感性工学のそもそもの提唱者である長町三生広島大名誉教授も含まれる。インタビューが中核の講座のようにも思える。

講師から最初にある通り感性は何かというところで定まっていない、定まっていないままで教えようとしているところが面白いといえば面白い。インタビューでは感性とは何だと思うかという問いが毎回投げかけられる。

 心の働きにおいて、理屈で理解する部分が理性、感覚で感じる部分が感性という至極普通の分け方、カントの著書純正理性批判でもそのような記述になっている様に思うが、これで何がまずいのだろうか、それが解らない。カントの使っている感性で別に構わないのではないか、どこが不満で新たな定義を持ち込む羽目になったのか、その説明はどのインタビューからも感じ取れない。

感性とは何かという言葉の定義がそれほど気になるのは結局は感性の商業利用の方向を強く考え始めたところからではないのかと思ってしまう。長町の感性工学はマツダのクルマの開発に長町が関わったところから始まっているという、そういうことなのだろう。

感性という言葉の受け取り方そのものの変化がすこぶる興味深い奥行きを持っているようにも思える。
恐らく感性というものと感性工学というものは全く違うものなのだろう。長町のインタビューからも感じられることだが感性工学はユーザー目線でプロダクトをつくるという至極当たり前のことを追求しているに過ぎない。ユーザーの感じている求めていることをユーザーアンケート等に基づいて設計パラメータにどうやって落としていくか、そのプロセスがキーのような学問に思える。具体的にはユーザーアンケートの因子分析を行う、その結果に基づきユーザーの求めるプロダクトの設計パラメータ(アイテム・カテゴリー)を数量化理論1類を使って求める、というのが骨子の様だ。
講義では手法の詳細が細かく説明されるかと思えばそうでもない。具体的解析は、それぞれのソフトを使って求めればいいということだろうか。確かに検索すれば因子分析のフリーソフトは探せるし数量化理論1類の具体的な手法も出てくる。

勿論手法さえ身に付ければ直ぐに展開できるものではない。ユーザーの求めるいい感じのもの、という感じを理解するにはカワイイも
び寂びもきちんと受け止められなくてはならない、広範な美術的音楽的なバックグラウンドも必要となるだろう、感性工学が泳いでいる世界はそんな世界なんだということがなんとなくわかってくる。
しかし「アートと設計の接点は殆ど無いといっていいでしょう」 という耳を疑うような説明を公言するような講義だ、未だに中途半端な技術と中途半端な考え方しか頭にない人達の学問なのだろう、そんな風にも思ってしまう。講義を振り返ってみると、ここに未来はない、ブレークスルーは無い、そういう確信が湧いてくるようでもあった。なかなか整理のつけられない講義だ。

グルグルととりとめもなく考えが巡る。こんなことを改めて考えさせてくれただけで十分すぎるほどの価値がこの講座にはあったようにも思う。放送大学はやはり面白い。

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2017年7月 6日 (木)

アクロスランチタイムコンサートが良くて

アクロス福岡で平日の昼時の短めのコンサートとしてランチタイムコンサートという名の演奏会が時々ある、切符代も低く抑えられていて気楽に行けるので 時々聴いている。こん

Masudaguitar

な時間帯だから女性やリタイヤ組が圧倒的に多い。昨日も台風3号の嵐の中出かけた。今回の出し物はギターと弦楽のアンサンブルでギターは益田正洋、アンサンブルはアクロス弦楽四重奏団で技量は十分すぎるメンツだ。

益田正洋というギタリストはよく知らなかったが、いかにもクラッシックというきっちりした演奏がいい。うまい。曲は ヴィヴァルディのギター協奏曲、モンティのチャルダーシュ、パガニーニのセレナータ、ハイドンの四重奏曲、テデスコのギター五重奏曲 それにアンコール1曲(何だっかメモ忘れ)。ギターと弦楽のアンサンブルというのは初めて聞いたが、それぞれの楽器の特徴がよく出ていて面白い。ビオラの自在な音の変化をギターの正確な弦の響きが支える、ギターが表に出れば心地よい緩やかさでアンサンブルがギターを支える、これはいい。現代作家であるテデスコの五重奏曲はなじみにくいせいか今一つ聞いていて乗り切れないところがあるが他の曲目は素直に楽しめる。

いいコンサートだった。少し調べると、このコンサートはアクロス福岡と交流のある所沢ミューズでアクロスの協力により今年の4月に今回と全く同じメンバー同じ曲目でワンコインコンサートとして開かれていた。アクロスの社会活動の一つかもしれない。素晴らしい活動だ。

天気が荒れようがこんなコンサートを聴いていると、なかなかいい日々だと思う。いつまでこんな楽な日々が過ごせるだろうか、やっぱりそんなことも思ってしまう。

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2017年6月22日 (木)

何かが凝縮した街東京

東京で同期会が2つあって、おまけに気象予報士総会のシンポジウムも聞いたりして久しぶりに2泊3日を東京で過ごした。折角だからとモノレール羽田線沿いのコアジサシを途中下車でみたり、皇居東御苑のアヤメを見たり、旧古河庭園のバラを見たり東京をあちこち動き回ってもみた。

何とか時間を作って東京駅近くで開かれるダビンチ・ミケランジェロ展もみようと計画したが結局疲れて力尽きて辿り着けず旧古河邸での歌曲のミニコンサートを心安らかに聴いていた。歌の翼がバラ園の中空に拡がっているようでゆるく流れる時のうねりが心地よかった。
東京はストレートな生き方がし易いかもしれない、そんなことを思っていた。


旧古河庭園にバラの時期かと見に行ったのは、東京には旧華族や財閥の邸宅がいくつか残されていてそれが東京ならではの見どころのように思っていることがあった。
旧古河財閥の迎賓館であった旧古河庭園は北区にあり京浜東北線の田端の次の駅上中里で降りて10分足らずで到着する。泊まっていたホテルは人形町駅の近くだから日比谷線で上野まで出てJRに乗り換えればいいという塩梅で複雑な地下鉄乗換もなくて気軽にアプローチできる。

日曜だからなるべく早めでないとと人出が気になって9時の開館直後に入る。洋館の見学は10時半からだが当日申し込みは少し早めに行って並ぶ必要があるらしいというのもあった。
Furukawagarden
バラは殆どの木にはまだたくさん蕾をつけていて1番花は過ぎているものの2番花が十分に楽しめる時期だった。2番花などという言い方はここのホームページで初めて知ったが言って見るといかにも詳しそうな雰囲気になって面白い。丁寧に手入れされていて、見ている間もずっと手入れの人が手を動かし続けている。話しかけたくなって、バラのムシ対策は?と聞いてみる、基本的に1週間に1回の薬剤散布でムシは防げているという。ふーんそんなもんでいいんだという感じだ、話すことが面白い。

洋式庭園の作庭は邸宅の設計者ジョサイア・コンドルによるものという。いかにもヨーロッパの庭園だ。
連日の飲み会で疲れていたのもあって日本庭園につながるところの木陰のベンチで鳥の声を聴きながらスケ
Baraen_2ッチを始めた。描くべきものがたくさんある景観だから十分に時間が使えて気兼ねなく休憩できる。
鳥の声は大抵がヒ
ヨドリで時々コゲラの声がするそれくらいだ、しかし何故か品がいいヒヨドリでいやみがない。ゆったりした時の流れに身を任せる。
いくら何でも洋館見学時間が迫ってきたので切り上げて急ぎ日本庭園を見て回る。茶室が点在しこのままのんびりしようとすれば幾らでも居られる雰囲気の庭だ。いいところだ。

Furukawagarden2 洋館に辿り着くと当日見学の列ができ始めているが十分定員内だ、ほどなく見学が始まる。写真撮影は禁止という。写真を撮ることにしか興味のない人はご遠慮願いたいという管理者側の気持ちが伝わってくる気がする。

建物は進駐軍に接収された後暫くは放置されてお化け屋敷状態にあったというが今は綺麗に維持されている。こういう風に整備され始めたのが戦後の終わりを示しているともいえるだろう。

2階の洋式ホールのドアの裏側に襖があって和室が作られていたりする、和室の床の間や違い棚も含めて全てジョサイア・コンドルの設計という所がまた面白い。明治期の招聘外国技術者で鹿鳴館等を設計した人だ。東大で辰野金吾他多くの建築家を育て、個人的にも日本画や日本舞踊まで習い日本舞踊で知り合った日本人の妻をめとって67歳で日本で没している。ロンドン生まれの英国人だ。デレーケ等も含めて明治初期の日本には人生を日本に捧げた優れた外国人が来てくれているのには感謝を覚えるばかりだ。
一回りした後、1階ホールで3人の女性声楽家によるミニコンサートがあるというのでもう東京で回るところは終わりにしようとコーヒーとケーキを味わいながらその歌声を楽しむ。菩提樹にからんで訳詞の近藤朔風を少し調べたところだったので同じ訳詞家の手になる野ばらの歌唱になにか因縁を感じる、歌の翼がバラ園の空に響くさまは何とも言えない安らぎがある。
東京という街もさすがに素晴らしい、そう思えてくる。何かが凝縮している。

上中里駅から浜松町経由で雨が降り始めた羽田に出て午後の便で福岡へ戻る。博多駅前でバスを待っていても人の多さの圧力を感じない、やはり東京の人の厚みは疲れるかな、歳をとるとすかすかしている福岡位の街が丁度いいかな、そんな風にあれこれ思いながら家路についた。この街らしい乾いた風が吹き抜けていた。

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2017年6月15日 (木)

菩提樹、言葉と事物

いつものようにテレビをぼんやり見ていたら菩提樹の花が満開ですとにこやかに笑うアナウンサーの姿が出てくる。フーンと思いながらも見にいくのもいいかもしれないと思う。理屈をつけて出かけるようにしないと特に梅雨場は動きが鈍くなる、精神に良く無い。
恵光院という寺だという、調べて見ると筥崎宮のすぐ側だ、一応駐車場はある事になっている、特に問題もないようなので直ぐに出かけることにする。例によってナビはそうかなあという街中突破の道順を指し示す、面倒なのでナビにとりあえずは従ってみる。走り出すと案の定渋滞ありリルートしますが次々に出てその度にリルートに従うと細い道をうねうね走らされる。後悔しながら筥崎宮までたどり着くと恵光院の駐車場が分からずぐるぐるまわることになって、諦めて筥崎宮の門前のコインパークに入れる。参道を歩いて行くと確かに恵光院の駐車場はあるが筥崎宮の参道から曲がりこむところが進入禁止になっていて普通に考えると駐車出来ない。しかし既に1台駐車している、どこから、と思っていると次の一台が現れた、参道の歩道部分を少し走って進入禁止の立て札の裏側から曲がり込んでいる。知っている人はこうするらしい。

Bodaijyu 門をくぐってやや進むと目当ての菩提樹が現れる。なんとも言えない香りを漂わせて小さな黄色い花が鈴なりに垂れている。本堂には涅槃図のご開帳もある。仏門の信者ではないが形ばかりのお参りをして、花の写真をあれこれ撮る。置いてあったベンチに腰掛けてのんびり眺めたりもする。確かに心が和らぐ木だ。
釈迦が悟りをひらいたのも菩提樹の下とされる。一方で菩提樹といえばリンデンバウムだ、シューベルトの冬の旅の中の有名な歌曲でもある。
眺めているとシューベルトと釈迦は本当に菩提樹でつなBodaijyu1 がっているのだろうかと思えてくる、何だかピッとこない、歌詞を思い起こすと同じ木だとは思えない。
戻ってネットであれこれ調べると、フーンという話が色々出てくる。
まずは釈迦が修行した菩提樹はインドボダイジュと現在呼ばれている木で、クワ科イチジク属の木であり、恵光院の菩提樹は和名ボダイジュでシナノキ科シナノキ属で全く違う木とわかる。シューベルトのリンデンバウムのほうもまた違うセイヨウシナノキと呼ばれる木だがこちらはシナノキ科シナノキ属でボダイジュとは近しい関係にはある。

なんでインドボダイジュでないボダイジュがお寺にあるのかというと、もとは約800年前に中国から伝わったものであのお茶を伝えた栄西が中国に渡った際にこれも持ち帰ったという。正確には頼んで日本に送ってもらったという事らしい。送り先は博多で香椎宮のそばにまずは植えられたという。その後日本に戻った栄西の手によって株分けされたボダイジュが全国の寺院に配られて日本に根を下ろしたという事らしい。東大寺の菩提樹にはその経緯が残されており栄西が伝えた木の子孫であることが明記されているようだ。香椎宮の元の木は戦国時代に焼失しその場所には今は東大寺から株分けした木が植えられているという。恵光院の菩提樹は樹齢200年とされるばかりで由来の説明がないがたどれば栄西の木にたどりつくのだろう。
栄西の伝えた菩提樹が日本国内で大事にされてきたのはその木の出す雰囲気があったからだろうが、そもそも何で中国でインドボダイジュが菩提樹とされずシナノキの仲間が菩提樹とよばれるようになったか。これについてはインドボダイジュが熱帯性の木で温帯には適合できないため近しい木として今のボダイジュが選ばれたとの説明があるようだ。しかし本当にそうなのかどうか、解らない。現在通販でもインドボダイジュは売られており日本国内で育てている人も多数いるようではある。おおらかなところが大乗仏教らしいといえばそうだ。
シューベルトの菩提樹の歌だが歌詞はドイツの詩人ヴィルヘルム・ミュラーのドイツ語で勿論菩提樹の言葉は訳者が選んだ言葉だ。訳詞は明治の終わりから大正の初めに活躍した近藤朔風の手によるもので、同じシューベルトの野ばらもこの人が訳出したものだった。「菩提樹」は重ぐるしい歌曲冬の旅の中でほっとする気持ちを与える名曲だ、菩提樹という和名は名前はまさにそのような効果を曲とともにもたらしているように感じる。原文のリンデンバウムは植物学的には、セイヨウシナノキというべきなのだろうがそれでは歌にならない、近い種類のボダイジュを当てたのは正しいと思える。
調べると色々な思いが菩提樹ボダイジュという言葉からにじみ出てくる。
言葉と事物の繋がりの保証が容易く崩れ、崩れたとしてもまた新たな時空を生み出していく深みのある関係に思いが至る。
こういうう風にして世界は成り立っているのだ、また思ってしまった。

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2017年6月 6日 (火)

タイ特別展を見る

心に引っかかって気になっていた展示会がついに最終日になったというのでとにかく見に行った。近頃はPoster日程をコントロールする力が弱まっていて、きっちり予定をくんでおかないと何もできなくなるような恐ろしさが自分の周りに漂っている。ここで終わりという日には何をさておいても動くしかない。
観に行ったのは 日タイ修好130周年記念 特別展 「タイ-- 仏の国の輝き--」という九州国立博物館の出し物だ。東南アジアには訪れたことがなく知らなすぎるという引け目とどのくらいの文化だったのだろうかという純粋な好奇心のないまぜがたわいもなく心に引っ掛かりを作っていた。
 九州国立博物館は放送大学で学んでいると半額で入場できるということもある、行かねば損との気にもさせていた。

午前の早めに入場したが最終日の日曜日ということもあり混んでいる。駐車場も既に大分埋まっている。いつもは平日に訪れているせいか子供の姿が多く思える。
見始める。時代順に日本では法隆寺の時代に当たる頃の仏像から始まる。不思議P03 な形の仏像が並ぶ、ともかく顔の形が日本でみる仏像と全く違う、唇が随分厚いし口 が大きい。人種的には近いはずだが文化が違うとこうなるかとの印象を受ける。最初にどう作られたかで違ってきたのだろうか。勿論ここにも特有の美しさがある、力がある。
タイ語の文字も並んでいる。漢字文化とは全く違う。戻って調べると、インドの文化圏のようで、タイ文字はアショカ王時代にも使われたインドのブラーフミー文字というのがその源流にあるようだ。梵字などとも近しい文字らしい。タイに仏教が根強く生きているのもそんなことが関係してもいるのだろう。
文字がしっかりしていると文化も古くからしっかりと開花していく、メナム川(チャオプラヤー川)下流に栄えたドヴァーラヴァティー王国の7-8世紀の仏像や工芸品も並べられているがいずれも素晴らしい美術品だし精巧な細工だ。インド文化圏とも称せられる文化圏と中国を中心とする漢字文化圏の2つの有力な文化圏が厳然とアジアに存在し続けていたことを改めて知らされる。ちなみにベトナムは中国漢字文化圏の南端、タイはインド文化圏のヘリで 挟まるカンボジアは微妙な位置に昔からあったということになる、現代史が透けて見えるようでもある。学ぶことが多い。

15-6世紀の日本の戦国時代には多くの日本人がシャム(タイ)に進出していた。当然それなりの航海術が発達していて、立派な海図が残されている。これもここで見ることができる。むろん世界地図もあるが、特にロシア北岸の海岸線が良く描かれていることに改めて驚く。当時既に北極近くまでの地理的知識が世界的には蓄積されていたようだ。世界は広がっていた、鎖国がなければ全く違うアジアでの日本の広がりというものがあったに違いない、鎖国で安全は保てたが失ったものも相当に大きかったように思える。

予想していた通り気になっていた通りタイには日本と明らかに異なる優れた文明があった、リスペクトする心、それは知ることから始まるのだろうな、当たり前のことをまた教えられた気がする

まだまだ学ばねばならないことは果てしない。

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2017年5月10日 (水)

博多どんたくに出る

5月の連休の催しで人が集まる筆頭は博多どんたくとされて久しい。今年も主催者発表で200万人を超える人出があったことになるがいつもほんとうかい、と思ってしまう。各所のステージの観客、ドンタクパレード観客・出場者の総計ではそういうことになるらしい。延べだからパレードの分は1日当たりの倍だしステージは前夜祭も入れれば2.5倍くらいになるのだろう。それにしても多いカウントだ。
見て回るといってもステージではどこで何をやるか直前までわからない、適当に見るしかない。パレードも立ち尽くして見続けるのは少々つらくなる。どう楽しむのがいいのだろうか、毎年何かずれを感じていた。

そもそもどんたくの始まりは平安末期の平家の時代とされているようだが現存する記録として残っているのは小早川秀秋が名島城城主となった1695年、博多の町人が松Kobayakawa 囃子を仕立て年賀挨拶として行ったことがもっとも古いものとされている。小早川秀秋といえば秀吉の親戚でありながらこの5年後関が原で家康側に寝返って勝敗の行方を決めたその人ということになる、どこか軽さがあったのだろう、町人も気楽に挨拶に行けたのだろう。歴史はこんなところが面白い。

江戸時代になって黒田の殿様に年賀挨拶する行事として定着し、松囃子の後ろに趣向を凝らした出し物が続いた、これが現在のどんたくパレードの原型とされる。博多側から福岡側にパレードが繰り出すというのはその時の形が残ったのだろう。今も残るお祝いの掛け声「いをーたー」というのが古いどんたくの雰囲気を一番よく伝えているような気がする、要するに無礼講のお祝い行列が主体ということだろう。

確かに面白い歴史があるが、パレードに参加するというのが元来の楽しみ方というものだろう。そう思って、今年は公募の博多町屋ふるさと館隊に応募してパレード参加した。
Zontag
パレード参加すると見物人としてパレードを眺めるわけにはいかない、楽しみ方が随分変わる。とにかく「ぼんちかわいや」ともう一曲、振りを直前に教わってパレードを踊りながら進む。すぐに慣れてそれらしく形ができて、群衆の視線を浴びるのが心地よい。
曲の切れ目で「いをーたー」の掛け声を掛けたりするとつい愉快になる。
呉服町から天神の市役所前まで1kmほどのパレードだが、ゆっくりと景観が流れていき十分に楽しめる。
確かに参加するとこんな祭りが盛大に数百年もの間毎年続くのもなんとなく解る。

前日の突然の雷雨はこの日は免れた。予期せぬことが起こる非日常の祭りというところが本物の祭りらしくていい。

解散後、まだ祭りのざわめきが満ちている街中をゆっくりそぞろ歩いた。春もそろそろ終わりなのだろうか。

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