2017年6月22日 (木)

何かが凝縮した街東京

東京で同期会が2つあって、おまけに気象予報士総会のシンポジウムも聞いたりして久しぶりに2泊3日を東京で過ごした。折角だからとモノレール羽田線沿いのコアジサシを途中下車でみたり、皇居東御苑のアヤメを見たり、旧古河庭園のバラを見たり東京をあちこち動き回ってもみた。

何とか時間を作って東京駅近くで開かれるダビンチ・ミケランジェロ展もみようと計画したが結局疲れて力尽きて辿り着けず旧古河邸での歌曲のミニコンサートを心安らかに聴いていた。歌の翼がバラ園の中空に拡がっているようでゆるく流れる時のうねりが心地よかった。
東京はストレートな生き方がし易いかもしれない、そんなことを思っていた。


旧古河庭園にバラの時期かと見に行ったのは、東京には旧華族や財閥の邸宅がいくつか残されていてそれが東京ならではの見どころのように思っていることがあった。
旧古河財閥の迎賓館であった旧古河庭園は北区にあり京浜東北線の田端の次の駅上中里で降りて10分足らずで到着する。泊まっていたホテルは人形町駅の近くだから日比谷線で上野まで出てJRに乗り換えればいいという塩梅で複雑な地下鉄乗換もなくて気軽にアプローチできる。

日曜だからなるべく早めでないとと人出が気になって9時の開館直後に入る。洋館の見学は10時半からだが当日申し込みは少し早めに行って並ぶ必要があるらしいというのもあった。
Furukawagarden
バラは殆どの木にはまだたくさん蕾をつけていて1番花は過ぎているものの2番花が十分に楽しめる時期だった。2番花などという言い方はここのホームページで初めて知ったが言って見るといかにも詳しそうな雰囲気になって面白い。丁寧に手入れされていて、見ている間もずっと手入れの人が手を動かし続けている。話しかけたくなって、バラのムシ対策は?と聞いてみる、基本的に1週間に1回の薬剤散布でムシは防げているという。ふーんそんなもんでいいんだという感じだ、話すことが面白い。

洋式庭園の作庭は邸宅の設計者ジョサイア・コンドルによるものという。いかにもヨーロッパの庭園だ。
連日の飲み会で疲れていたのもあって日本庭園につながるところの木陰のベンチで鳥の声を聴きながらスケ
Baraen_2ッチを始めた。描くべきものがたくさんある景観だから十分に時間が使えて気兼ねなく休憩できる。
鳥の声は大抵がヒ
ヨドリで時々コゲラの声がするそれくらいだ、しかし何故か品がいいヒヨドリでいやみがない。ゆったりした時の流れに身を任せる。
いくら何でも洋館見学時間が迫ってきたので切り上げて急ぎ日本庭園を見て回る。茶室が点在しこのままのんびりしようとすれば幾らでも居られる雰囲気の庭だ。いいところだ。

Furukawagarden2 洋館に辿り着くと当日見学の列ができ始めているが十分定員内だ、ほどなく見学が始まる。写真撮影は禁止という。写真を撮ることにしか興味のない人はご遠慮願いたいという管理者側の気持ちが伝わってくる気がする。

建物は進駐軍に接収された後暫くは放置されてお化け屋敷状態にあったというが今は綺麗に維持されている。こういう風に整備され始めたのが戦後の終わりを示しているともいえるだろう。

2階の洋式ホールのドアの裏側に襖があって和室が作られていたりする、和室の床の間や違い棚も含めて全てジョサイア・コンドルの設計という所がまた面白い。明治期の招聘外国技術者で鹿鳴館等を設計した人だ。東大で辰野金吾他多くの建築家を育て、個人的にも日本画や日本舞踊まで習い日本舞踊で知り合った日本人の妻をめとって67歳で日本で没している。ロンドン生まれの英国人だ。デレーケ等も含めて明治初期の日本には人生を日本に捧げた優れた外国人が来てくれているのには感謝を覚えるばかりだ。
一回りした後、1階ホールで3人の女性声楽家によるミニコンサートがあるというのでもう東京で回るところは終わりにしようとコーヒーとケーキを味わいながらその歌声を楽しむ。菩提樹にからんで訳詞の近藤朔風を少し調べたところだったので同じ訳詞家の手になる野ばらの歌唱になにか因縁を感じる、歌の翼がバラ園の空に響くさまは何とも言えない安らぎがある。
東京という街もさすがに素晴らしい、そう思えてくる。何かが凝縮している。

上中里駅から浜松町経由で雨が降り始めた羽田に出て午後の便で福岡へ戻る。博多駅前でバスを待っていても人の多さの圧力を感じない、やはり東京の人の厚みは疲れるかな、歳をとるとすかすかしている福岡位の街が丁度いいかな、そんな風にあれこれ思いながら家路についた。この街らしい乾いた風が吹き抜けていた。

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2017年5月29日 (月)

ミヤマキリシマを見に

ミヤマキリシマを見に阿蘇まで出かけた。ちょっと遠いが車も新しくなったことだし新車で遠乗りの感触もいいかなということもある。

行くのはいいが熊本地震で阿蘇大橋周辺の道路が通行不能になっており阿蘇山に向かう道はどうなっているのだろうか、ネットで事前にあれこれ調べる。ミルクロードと称される県道339号線を使うのが熊本から阿蘇へ向かう現在のルートになっている ようだ。復旧の器材等がこのルートを使って運ばれているようで、国交省のページでは途中には臨時トイレが何か所も設置してあるという。そう大変な道でもなさそうだ。
阿蘇でミヤマキリシマが見られるところはロープウエー駅付近のいわゆる阿蘇山上と仙酔峡がポイントだが仙酔峡のほうは通行止めだらけで現在は全くアクセス不能だ、見られるのは阿蘇山上しかない。
阿蘇カルデラ内の道路で阿蘇山ロープウエー駅に向かう道は1本のみが昼間に限って通行可で枝道は通れないようだ。一応ルートは開いてはいる。


とにかく出かける。福岡から九州道を熊本インターで降り、阿蘇に向かう57号線を途Asosannjyoua 中の大津でミルクロードに折れて不通個所を迂回して阿蘇までたどり着く。天気は予想通りの低い雲で時折弱い雨がぱらつく。
一先ず草千里はやり過ごしてロープウエー駅に向かう。勿論ロープウエーは動いていない、架線も外されているが駅の売店や食堂・トイレは開いていて観光客を受け
入れている。いずれにせよ火口に向かう遊歩道も閉鎖されている、ここまでだ
歩ける場所はないものかと探すと山上有料駐車場から火口と反対側にに向かって出ている遊歩道が見つかりこれを少し歩く。ミヤマキリシマ群落の中を歩く遊歩道だ。
花はないわけではないが白く枯れた枝が目立つ。火山
Asomapの噴煙でやられたようだ。
生き残った枝は必死の思いで花をつけている。地中からわずかに伸びた小さな枝にも花をつけている。遠くの方を見ると枯れた白い枝と僅かな緑と花の赤が微妙にまじりあってむしろ上品な花の景観が見渡す限り広がっている。めいっぱいの満開もいいがこの光景も別の顔を見るようで味わい深いものを感じる。訴えかけるものが多い。
事前に阿
蘇市の観光課に開花状況を問い合わせると阿蘇山上は一分咲きとあり、草千里のレストハウスに問い合わせると草千里は3分咲きといういずれも申し訳なさそうな答えが返ってきMiyamakirsim2ていた。満開を毎年見慣れた目には不甲斐ない情けない花の状況と映ってしまうのだろう。しかしこの景色もいい、花は盛りのみをや、との徒然草の一節が浮かぶ、むしろこの景観のほうがやまと心の趣があるといってもいいような感じさえする。
山上の有料駐車場には僅か2台のクルマしか止まっていなかった、ロープエー沿いの散策路は閉鎖されていてこちらの遊歩道に気が付かないで引き返すだけなのだろう。遊歩道の存在を示す案内板もない、勿体ない。

Miyamakirsim草千里のレストハウスでゆっくり昼食をとってくじゅうに向かう。ほとんど止んでいた雨が降り出した。レストハウスには観光バスが何台も来ており草千里の遊歩道を雨具を付けて歩く姿も散見できる。小雨にけぶる眺めも落ち着いていい感じだ。
阿蘇一宮町から県道11号「やまなみハイウェイ」でくじゅうへと走る。この道も途中片側通行などがあって被災からまだ完全には戻っていない。クルマも少ない。
1時間半くらいで長者原に着く。まだ雨だ。ビジターセンターの下の階から傘をさして歩きだす。風はなくて雨も大したことはない。湿原ではサワオグルマの黄色い花が見ごろでサクラソウもまだ咲いたりする。雨はほぼ上がってきて セッカが飛び回ったりホオジロ、ホオアカ、カッコウ、モズなどが姿を見せたり声を聞かせてくれたりする、何時来てもいい湿原だ。

帰りは片側通行だらけだがとにかく通行できるようになった九酔渓を経由して九重ICから大分道に乗って戻る。新しい車の自動追従モードをできるだけ使って走ると散策した後の長いドライブも足がつるようなこともなくて安全に楽に走れる。

いい時代になった、体がしだいに衰えていくのを技術の進歩がカバーしてくれる。どちらが早いか、いいとこ勝負かな、まだまだ遊べるかな、そんなこと思いながらもう夏のように明るい夕べの博多の街へと車を走らせた。

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2017年5月19日 (金)

東西合同同窓会

高校の東西合同同窓会があるというので神戸まで出かけた。今振り返ると何かが詰まった旅だった気がする、昔暮らした街だが旅全体がそれらしい小さな驚きに満ちていた。忘れないうちに書き留めておこうと思う。

神戸を訪れるのは半世紀ぶりのような気がしている。宇都宮にいたころは宇都宮と福岡を何度もクルマで往復したが神戸は通り過ぎるだけだった。クルマで神戸まで行く、もうそんな元気はない。
同窓会翌日はゴルフをやろうというプランも用意されていたがゴルフはついに人に付き合えるほどにもならなかったなあと、やらずに帰ることにして、夜行バスで帰りを予約しておく。セパレート3列の座席のバスというから眠れそうな気がする。泊まるのは何か大げさで夜行バスで帰るくらいが安くてどこか感じがあっている。
行きは新幹線だがこれも安い買い方を調べてJR西日本のe5489という予約システムでお得とされる切符を事前購入した、10270円(普通に買うと14990円)で随分安い。ちなみに5489とは「ごよやく」の語呂合わせの電話番号でこの番号で予約を受けていたものをネット予約にしたのがe5489ということらしい。初めて見るとやや不気味な暗号のように見えてしまう、こんな言い方を使い続けていることへの疑問が湧いてこないところが旧国鉄らしいともいえる。でも旅らしい始まりだ。
切符の引き取りは 乗車当日JR西日本の券売機で「予約切符受け取り」を押して予約の時に登録していたクレジットカードを差し込み予約時登録電話番号下4桁を入力すればすぐに発券される。1度やってみると難しくなくて便利だ。とにかくみどりの窓口で並んで買うことからは解放されていていい。

新神戸の駅に着く、本来の神戸・三ノ宮駅からは結構離れていて歩いてはいけない。神戸市内の最終目的地までJRを使うなら途中下車となる計らいがあって、それ用の改札機が出口の左の方にある。切符を通すとハンコを押されて出てきて先でまた使えるという仕掛けだ、こういうところでケチりたくなる、それが出来るというのがいかにもJRの旅という感じがする。

新神戸駅のにぎやかなのには少々驚かされるがそのまま地下鉄で三ノ宮に向かう、一駅だ。高校にいたころはまだ新神戸などという駅はできておらず当然こんな地下鉄もなかった、新しい世界に来たような感じがする、半世紀という時の流れは偉大だ。

三ノ宮の地下鉄駅から阪急、JRと地下を抜けてサンチカに入る、やたら人が多いしDscn3171 なんだか店も多い。半世紀前はサンチカが出来たばかりでここまでの賑わいではなかった、歩いているとどこにいるかわからなくなって地上に出る、ほっとする、弱い雨が時折降りかかる。

センター街はどうなったのだろうと覗いてみる。勿論店は入れ替わっているようだが商店街としての姿は昔とあまり変わらない感じがする。震災でもアーケードは壊滅しなかったようだ。元町の途中まで行ったところでそろそろ今日の行事の一番目の母校見学の時間かな、と切り上げてせめてもの神戸土産にと たまたま目についたにしむら珈琲店で粗挽きの珈琲缶を買っていく。土産として手頃感と神戸らしさがある。

JRまで戻ってくだんの切符を改札機に入れると問題なく受け付けてくれる、これで幾ばくかは助かった。
住吉で降りて国道2号沿いを歩く。昔は国道電車と称する路面電車が走っていたがむろん今はその姿はない、昔の通学路だが風景はまるで変っている。住吉川まで来るとポートライナーの線が頭上を走り川底の昔ダンプの走っていた道は立派な遊歩道となってランニングしている人の姿が見える。六甲山はここから見た風景は変わらないがポートアイランドのために削られた小山が裏の方にあるのだろう、僅かに山を動かして街を広げる、そんなことを神戸市は半世紀も前からやってきた。
歩いていると 震災があったからだろう、新しい建物ばかりのように見える。

母校の正門のところに来る、見た感じ昔と同じようだ。きれいにはなっている。案内に従って集合場所に至り見学が始まる。集まった顔を見渡すとかろうじてそうかなと思う名前が2人くらい浮かんであとは誰が誰やらわからない。半世紀ぶりではこんなものだろう。
建物は震災でも持ちこたえてそのまま残ったが老朽化とやや人数が増えたことで改修増築されて中身は昔とだいぶ変わっている。プールからは高飛び込みの飛び込み台も消えて、代わりにというべきか校舎の屋上には天体観測ドームが設置されている。剛からスマートへのシフトがそこここにある。普通のことだろうし思ったほどには変わっていない気もする。

Dscn3225 母校見学会の後は同窓会となる、会場はトアロードの突き当りの洋館の一つという触れ込みだったが、行ってみると新しい建物のように見える。しかし格式がある、雰囲気がある、神戸らしい。
知らない顔が少しずつ解けてくる、様々な人生が交錯する。まだ働いている人もいる。

それぞれの顔からはどこかもう脂ぎったところが消えて全体がセピア色に変わりつつある、平和な眺めだ。
穏やかな談笑の続く2次会を適当に切り上げて夜行バスの集合所へ向かう、PMPTビルという三ノ宮の飲み屋街のただなかにある建物だ。入口の飲食店の客寄せかと見まごうばかりの係員にバスの出発予定時間を告げて待合室に入る。年代層が随分若い。若者の世界に足を踏み入れた感がある。出発10分前にバスのところまで誘導されて列をなして飲み屋街を歩く。
眠れるだろうかと悩む間もなく眠りに落ちる。歩きまわって疲れたのと酒が回ったのとある。丁度いい。山口県まで走ったところで休憩があり目を覚ましてバスの外に出てみる。夜行バスが何台も止まっている。どよーんとした感じが旅らしい。
やっぱり少々窮屈なところがある。ゆっくり眠れたとの感触はない。

でもコンパクトな旅だった、目的と交通手段がマッチした旅のように思えた。時を旅する。時が流れる。人が流れる。世代が流れる。

自分の座標がまた一つ確認できたような気がする。
今年は同窓会が続く、次は小学校の同窓会だ、振り返るばかりではもう先がないことへのあきらめと認めているようで、同窓会も変わるべきなのだろうけれども。

五月の緑がまぶしい。

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2017年3月 2日 (木)

梅と歴史

梅の季節になった。

少し変わった梅を今年は観てみようと、大牟田 普光寺の臥竜梅というのを見に行った。およそ見ごろになったらしい。

車で現地に近づくと手前に駐車場があったがもっと先にも停められそうなので細い道をそのまま上がっていく。ここまでかという所に予想通り駐車場があり平日ということもあって十分停められる。先ずは行けるだけ行ってみて、というのがよくわからないときの正しい駐車場所探しだといつも思う。
歩道沿いにも梅がきれいに咲いておりメジロが花をつつき遠くからはウグイスの囀りも聞こえる、今年初めて聞いたがよれてなくて一応聞ける。いいところだ。
観梅料300Garyubai 円を払って境内を歩く。色々な梅があり種類豊富だ。上がっていくと目指す臥竜梅が姿を現す。

一本が地を這うような枝を繰り出しているのかと想像していたがそうではなくて数本に分かれている。元は一本だったのかもしれない。樹齢400年くらいらしい。8分咲き位だが十分美しい。見たことのない梅の種類のように思える。地を這うようだから臥竜梅と呼ばれるくらいの説明しか書いていない。古い歴史を持つ木ならもっと逸話や言い伝えがありそうだがそんなものは伝わっていないのだろうか。
十分堪能した後帰って調べてみると、全国に臥竜梅という梅の名所は幾つもあり、臥竜梅というのは梅の種類だと明記しているところもある。いずれも樹齢400年位となっている。仙台にある「伊達政宗公の臥竜梅」の記載に行き当たってこれを読むと400年前とはそういうことだったかとなんとなくわかった。朝鮮出兵で持ち帰った朝鮮種の梅の苗を植えて育てたのが伊達政宗公の臥竜梅だったとあったのだ。全国の臥竜梅もいずれも400年前の朝鮮出兵で持ち帰った梅を大事に育てていった梅だったのだろう。
梅一本にも歴史が刻み込まれている。

せっかくだからもう一か所梅の名所を、と、久留米の将軍梅というのがあるらしいと出がけにネットで調べておいたのに従って久留米に向かった。宮の陣という電車の駅の近くにある神社(宮ノ陣神社)の境内だ。ナビに従って近くまで来るがあまりに道Syogunbai が細い。本当にこんなところに梅の名所があるのだろうか、と思いつつ車一台しか通れない路地を進んでいくと確かにたどり着いた。ナビにはいつも感謝する。
遅咲きの梅と書いてあったが確かにまだ蕾だ。
ここで大きな戦があった1359年に征西将軍宮懐良親王(かねながしんのう)がお手植えされた梅であるとの説明がある。そばを見るとなんと大正天皇が皇太子時代にこの地を訪れてお手植えした松というのもある。こんな住宅地の中にある小さな神社に戦前皇太子が。。と不思議な合点のいかない気持ちを抑えられない。
将軍梅は固い蕾だったが周りには見ごろの梅がいくつも植えられていて、梅見としては全くの空Miyanojins 振りと云わけでもない、こんなものかと帰途に就いた。
こちらも帰ってからいろいろ調べる。懐良親王とは後醍醐天皇の
子で南朝の九州攻略の長の立場でこの地に遣わされたとある。九州の菊池氏ほかの武将を集め北朝・足利幕府の軍と対峙、この地で陣を張り「大原の合戦(筑後川の戦い)」という10万の兵が入り乱れる大きな合戦を戦って何とかこれに勝利したということのようだ。今に残る宮の陣という地名はこれを伝えているとされている。古い地名は貴重だ。
南北朝時代の歴史の大きな刻印がこの地に残されていたとは全く知らなかった、不明を恥じるべきなのだろう。

それにしても何故大正天皇が、と気になる。南北朝のいずれが正統かを巡っては古くから議論が絶えないようだ。現在の天皇家の系統は南北朝が再合同した後を引き継いでいるとはいえ基本的に北朝の系統にあるということのようで、難しい議論になるが、水戸光圀のまとめた大日本史では南朝側に正統性があるとしており、維新の志士たちもこの影響を強く受けたようだ。
明治に入っては南朝を正統とみる史観が勢いを増したようで、ついに明治44年に明治天皇が南朝が正統だったと裁断したのが歴史的事実だという。足利尊氏は朝敵になってしまったのが戦前の史観だったということになる。
その意味では南朝の親王が北朝・足利軍を打ち破ったというこの地は神聖な地であったということになるのだろう。明治時代に皇太子が訪れても確かにおかしくない。
各地の楠木正成の銅像が金属徴用を潜り抜けて幾つも戦後まで残っているのもこんな事情があったのかとも思い知る。
梅一本とはいえやはり歴史が重い。


こんな風に考えさせられる歴史を伝えていると知るだけでも梅見物は面白い。九州という地はどこも歴史だらけの様だ。

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2017年1月31日 (火)

トランプ旋風と文化遺産と

トランプ旋風が吹き止まない。これまでのアメリカが持っていた、善意を押し付けるようにして力を振りまくその姿を捨て去ろうとしているようだ。

メキシコ、カナダを従えた北米の王者がメキシコ、カナダに怯えて壁を作り自由貿易をやめるという、縮こまろうとしている。そんなに情けない国になることをアメリカ国民が選択したのだからしょうがないといえばそうだ。これまでの姿が保てなくなったら捨て去るほかないということだろう。そうするにふさわしい田舎者を選んだのだろう。


先日、筑後川中流の原鶴温泉を訪れたついでに浮羽付近の文化財は、と少し回ってUkihachizu みた。古い街だ。

浮羽の地名の由来は日本書紀に記されていて、この地への第12代景行天皇巡幸の折の逸話に基づくとされている。恐ろしく古い。少なくとも日本書紀がまとめられた8世紀以前に街が形成されていたのは明らかなようだ。
江戸時代、天領日田と久留米を結ぶ街道が筑後街道と称され筑後吉井や浮羽を通っていた。日田から更に東へは中津に抜ける日田往還で瀬戸内に出ている。

日本書紀にうきはの名が出てくることから考えてYosii1 も、ずっと昔から有明海沿岸地方と近畿を結ぶにはこのルートが用いられていたと考えることができそうだ。

筑後吉井には街道沿いの塗家造の街並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

塗家造とは蔵屋敷ほど壁は厚くないが外壁を土塗りの白漆喰仕上げとして木部を覆い耐火的といわれる町屋建築で近世初頭から用いられた様式という。
訪れると、想像した以上に白壁の建物が続く。関東では栃木の街の白壁の景観が知られているが、ここはそれよりはるかに白壁の家の数が多い。
明治初期の大火で街が焼けそのあと塗家造りの丈夫な家立てられるようになって白壁の街が形成されることになったとの説明がある。通りはいまだに主要な道になっているのYosii2 でクルマの交通量が多く、立派な街並みだがゆっくり散策という風情でもない。ちょっとおしい。
公開されている2つの屋敷の内部も見て回る。鏡田屋敷といわれる江戸末期から明治にかけてつくられた屋敷では、よく見る旧家の形だが2階から見える入り組んだ屋根瓦の景観が重層的でいい。

確かに木造の並ぶ日本の街道の風景は、150年くらいもてば立派でそれ以上は火事で焼けたり朽ち果てたりで、石造りのヨーロッパの古い町並み景観のようにはどうしてもいかない。しかし今残せるようにしておけば100年後200年後には重々しく歴史を伝える景観となるのだろう。そう思えば進行形の歴史保存を眺めるというのも意味があるような気がする。

もう一つ近くに国指定重要伝統的建造物群保存地区とし新川田篭(たごもり)が指定Tagomori1 されているのでこちらにも足を延ばす。こちらは筑後街道から南にそれた筑後川支流隈上川沿いに展開している。

クルマで走っていくと途中に説明板があってそれとわかるが普通の山村・農村風景のように見える。棚田が石造りなのは立派だが、どこが国指定の建造物群かと思ってしまう。更に走ると三連の茅葺農家が現れこれがこの建物群の中で重文指定となっている平川家住宅のようだ。立派な造りでこれは確かに重要文化財という気がする。室内照明が落とされていて引き戸を閉めると暗くHiyabayashi1 てよく見えないが、そもそもがこんな明かりの家だったのだろう、かえって雰囲気が出る。古代より人は長く薄暗がりの中で生き延びてきたという歴史を感じる。
それにしても平川住宅よりほかは印象に薄い建物群だ。白壁通りとは好対照だ。
棚田のつづく山間の普通の集落が貴重な文化遺産として保護される、そんな時代になったのだ、そう思う。普通のように見える景色が次々と時の流れで消されていHiyabayashi2 く、そんな時代への危機感がこの集落の文化財指定を生んだのだろう。


何を残して何を捨て去るか、どこへ行ってもいつになっても、その決断から人は逃れられないのかもしれない。そんなことばかりを心に刻む日々が過ぎる。

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2017年1月25日 (水)

朝倉が邪馬台国かもしれない

寒い朝だ。予定より幾分寒い。中国地方よりも九州が寒い、大隅半島まで‐6℃だ、こんな寒さは珍しい。午前3時のsynopから日本近傍の地上の気象データを図にしてみるとなんとなくわかってくる。朝鮮半島からの寒気が地表を這うように九州に出っ張ってきているようだ(左の図)。5000ftの温度図(右の図)ではその感じはにじんでこない。
やはり九州の気象は朝鮮半島の影響が大きい、また感じてしまった。

2017012503 20170125031500







先週、正月も中旬となってどこか温泉にでもと、朝倉の原鶴温泉に出かけた。福岡市から高速で行くには近すぎるということもあって太宰府から朝倉街道を走ってみる。何とはなしに歴史を感じる道だ。
邪馬台国朝倉説というのがある。走っていると確かに何と読むのだろうと思う古そうな地名が目に付く。
Asakuramap





Chimeiyamato Chimeiyasu帰って
邪馬台国=甘木・朝倉説の安本美典氏の文をnetで探して読んでみる。

朝倉周辺の地名は風土記などにもあるようで古くからの地名が残されていることは間違いないようだ更に大和盆地の地名と朝倉周辺の地名に繋がりが読める。(添付は安本美典氏のシンポジウム資料より転載)。

氏は古事記に記載された高天原こそ邪馬台国であり九州の朝倉付近であったとしており、高天原の安河を朝倉の夜須川とみる、現地を走るとさらにはこれを現在の筑後川とみなしても成り立つようにも思える。

大和に似た地形、吉野ケ里にも近く、鉄器も多く出土し、弥生時代からここに文化の集積があった、それが東へ移動して神武の東征になったと考えるのは自然な考えのような気がしてくる。
耕作可能な平野の広さといい、交易にも都合がよく、海から適当に離れれていて侵略に一定の安全性が保たれる点といい、九州で国の中心となるほどに条件の揃ったところといえばこの辺りから吉野ケ里くらいまでに広がる有明海北部沿岸一帯の平野となるように思われる。九州に邪馬台国があったのならここらだろう。もう少しこのあたりを調べてみようかとの気がしてくる。

古事記にあるイザナギ・イザナミが大八島の次の6島の国つくりで最後に作ったは五島列島の南にある男女群島と比定されている。古事記が書かれた昔から九州の西の端のこんな小島が注目を浴びていた、読み直してみると驚きが多い。九州の古代文化の更に向こうには朝鮮半島や中国があったのだろう。

いずれにしても日本書紀・古事記に出てくる九州の記述の多さは隠しようもない。


原鶴温泉のホテルには韓国のツアーが少なくとも3つ来ていた。温泉で福岡から近くキャパシティもあるがやや旧式化したホテルにとってはこれがビジネスを大きく支えているのだろう。

そういう位置関係なんだ、韓国とも、中国ともうまく和解できるだろうか、トランプが(はからずも)そのように導いてくれるだろうか。トランプの話題ばかりのCNNを流して見るともはなしに眺めていると、今年どうなるか見ものになってきたようにも思えている。

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2016年9月30日 (金)

慶良間は遠くて

貯まったマイルが消えていくのが惜しくて沖縄に遊びに行くことにした、毎年この時期に南の島に出かけるサイクルにはまっているようだ。
台風シーズンではあるがこれまで何とかなってきたので今年も何とかなるだろうくらいの気持ちだったが、今年はそうはいかなかった。
慶良間諸島には行ったことがないので座間味でシュノーケリングなんかがよさそうだとばかり座間味2泊那覇1泊の計画で宿を確保したりと計画を進めていた。少し調べると慶良間諸島は台風の接近があれば波が高くなって高速船やフェリーがすぐに欠航となるところで、ネットの書き込みも台風に振り回された話が幾つも見つかる。今年は7月半ば以降立て続けに台風が発生しこれは危ないと感じて途中からせっかくとれた座間味の宿をキャンセルして那覇から日帰りで慶良間の渡嘉敷で遊ぶというプランに変更した。今回はおともdeマイルで行くことにしたので飛行機便の変更は一切効かない。
座間味の代わりの宿泊地は沖縄本島から陸続きの伊計島として少しでも離島の雰囲気をとした。台風が直撃すれば伊計島につながる海中道路は通行止めになりこれでも安全なプランとは言えないが、そこまで心配すると旅が成り立たない。
出発予定が近づいてくると恐れていた通り台風17号がフィリピンの東に姿を現すようになって波と風を沖縄に送ってくる。直撃ではないが予定の日には座間味航路は全便欠航となった、予定を変更しておいて一応救われたが、沖縄本島でも10mくらいの風が吹いて波風
Samitが高く波浪警報が出て浜で遊ぶのは無理だ。

初日はこれまで訪 れたことのない 沖縄サミット会場跡や海中展望塔、万座毛などを見て回る、それぞれに見ごたえがあるがどこも中国人を中心に人が多い、同じように海で遊べなくて行けるところに人が出ている風情だ。

風下のサンゴ礁の海は見た目では波も大したことはなく泳ぐのに差し支えなさそうだが遊泳禁止になってグラスBeach2ボートすら出ない。波浪警報では機械的に禁止する浜 が大半のようだ。
海中道路の波風も気になって早めに宿に向かうが10mくらいの風では海中道路は全く問題ない。平安座島の石油備蓄基地を支える道路だけのことはある。
何もできなくて宿でのんびりするがこれもなかなかリゾートらしくていい。
次の日も風は収まらず10m位吹いていて波浪注意報が出ている。伊計島の風下側の伊計ビーチは開いているKaicyuu ようなので行ってみるが岩場に近いあたりは遊泳禁止で浜辺でシュノーケリングでは何も見えない、こんなものかと思うが海で遊べるだけいい。
近くのヒルギ林や勝連城などものんびり見て回る、時間を持て余すくらいがリゾートらしくていいような気がしてくる。
その翌日は渡嘉敷へ日帰りで遊びに行くようフェリーなどの予約を入れておいた日で、もう波も大丈夫だろうと朝一番で宿を出て那覇泊港へ向かった。渋滞を抜けてやっとのことでたどり着くとこの日も全便欠航という。何ということだろう。とまりんの切符売り場には途方に暮れる姿のグループがそこここに集っている。台風の背面の南風では慶良間ー沖縄本島間は直接南からの波を受け海はなかなか収まらないようだ。ここまでとは予想しなかった。今回の旅の目玉のはずの慶良間はあっさりと消えてしまった。自然にはかなわない。
Syurijyo1_2 諦めてその翌日に予定していた南部の首里城巡りと玉泉洞見物に出かける。ずっと以前海洋博寸前の時期に守礼の門付近は観たことがあるが、その後立派に首里城が復元整備されたらしいとあって見ておかねばと思っていた。時間はたっぷりあるので丁寧にみる。米軍の攻撃で破壊された建造物が美しく再現されている、沖縄サミットに合わせたようだ。これそのものが歴史だ。

やはり中国人の姿が多い。
最終日は少しは風も収まってきたが海で遊ぶほどに時間は残っていない。旧海軍司令部あとの立派な洞窟を見た後南岸の浜の様子を見に行く。知念海洋レジャーセンターというのがネットなどに出ているが行ってみると倒産したようで機能していない。サンゴ礁Beach の海なのにと、右回りに海沿いを走って良さそうなところを水際まで行ってみる。穏やかないい浜だが設備がなくリゾートとしては捨て去られたような浜が目に付く。ハワイの浜のように簡単で清潔な公共の設備がありさえすればと思う。

浜のうら寂しさに比べひめゆりの塔の混雑ぶりは対称的だ、決められたコース以外との差が際立つ。なんだか違和感がある。

観光を柱にしようとしてもそうとばかりもいかない沖縄本島。難しさばかりが目についてしまう。だから離島に行きたくなるのかもしれない。学ぶことが多い。

風の吹きすさぶ沖縄と向き合う、こんな旅も悪くもない。

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2016年6月26日 (日)

多様な価値と変わらないものなどない世界

英国がEUから離脱することになって騒ぎのようだ、それでどうした、とも思う、英国の没落が決定的になっただけではないか、それを国民自らが選択しただけではないか。栄えたものは自律的に滅んでいくというしかるべき歴史の歯車が進んだだけのように思える。


6月の中旬に宮崎に日帰りで行ってきたのが幾つか感じさせるところがあって、書き残しておこうと思う。宮崎へ行ったのは高校の修学旅行以来だ。
今回の目的は、当日午後に催される気象のミーティングと見学会への出席だった。新田原基地の気象設備見学というのが目玉で滅多にない機会だからと出かけた。

集合場所は宮崎県庁前となっていた。福岡からどうやって行けばいいのかとネットで調べると、飛行機を使う、新幹線で八代まで行って駅前から高速バスに乗る、福岡から高速バスに乗る、の3つが出てくる。列車だけで福岡から宮崎まで行くというプランは高くて遅く選択肢には入ってこないようだ。九州の鉄道網はそんなものなんだと改めて思う。ななつ星プロジェクトが成功を収めているのは、遅くて高い鉄道を、開き直って更にその方向へ目一杯突き詰めたところに魅力的な世界があったということなのだろう。便利さとは違う価値を切り拓いたということなのだろう。
ともかく、それぞれの費用と時間が気になるところだが、航空機使用で(一番安いチケットを使ったとして)8:10頃自宅発11:51目的地着で約12000円、新幹線+高速バスで7:42発12:23着で9880円、高速バスのみで7:16発12:26着で3900円となる。バスは遅れを考えて1便前にすると6:44発として飛行機より1時間半早く出なければならない。が、1/3の費用となるバスは本数も多くて魅力的に思える。当然のようにバスを選択した。飛行機かバスかという選択が現実的に出てくるところも九州の面白さともいえる気がする。

Miyaz3 当日になって実際に宮崎行の高速バスに乗る、満席だ、しかし窮屈でもない。熊本地震の影響がまだあって、長く通行止めだった高速道路の熊本・益城近辺では今も片側1車線の対面交通で路面も波打っていて渋滞する。しかしその他は普通に走れる。

東北大震災のような津波で根こそぎやられた風景は無いが、屋根のブルーシートが続いて痛々しい。
全ての乗客が宮崎まで行くのではなく、えびの高原から東に曲がったところの小林やその先の都城で結構降りる。ここらは高速バスが主要な日常的交通機関になっているようだ。鉄道網の発達した関東や関西とちょっと違う感覚がここにはある。
時間を気にしながら予定より20分遅れで宮崎に到着した。集合時間のおよそ7-8分前には集合場所へたどり着けて丁度よく見学会に合流できたがヒヤヒヤものだ。バスならではだが見方を変えれば遅く高いところに別の価値が見いだされた鉄道のように
このヒヤヒヤ感にも価値があるのかもしれない。

Miyaz2 宮崎県庁の前は大きなクスノキが街路樹に用いられている楠通りで日差しが強くても気持ちのいい通りとなっている。南国らしい配慮なのだろう。県庁は1933年に建てられた戦前の建築がそのまま使われており県庁としては全国で4番目の古さという。なかなか趣がある。財政難で建て替えが難しいということのようだが観光都市としての得難い景観の価値は十分に発揮しているように思える。
微かに記憶にあったフェニックスの並ぶ通りも健在で街そのものが他とは違うところをいくつも抱えているようだ、また落ち着いてゆっくり来たい気がする。多様な価値の姿を宮崎への旅では感じてしまう。

Miyaz1a 17時過ぎに会合が終わって宮崎駅前から帰りの高速バスに乗る。今度はガラガラだ。土曜の夜便というとこうなのだろうか。
途中でまた熊本で地震があったとの知らせが運転手に入ったようで、運転手から新たな地震による交通への影響が出始める前に出来るだけ早く移動したく最後の休憩場所は直ぐの出発としたいとの説明有り、これに乗客は協力して帰路を急ぐ。
地震の終息がまだ見通せないうちは熊本地震の震源近くを通る高速バスの乗務員にはいつも緊張が強いられているようだ。地震国でインフラの維持を必死の思いで担っている人たちが居ればこそこの国は平静を装うことができているのだろう。いつかはこの努力が限界に来る日が来るに違いない、そうやってこの国は変わっていくのだろう。


そもそもこの国はいつまで形を保てるだろうか、時々そう思う、精神的な意味ばかりでなく物理的地形的な意味でもそう思う。一億年の人類の時代があるものならばそんなものは直ぐにくるに決まっていると思うことにしている。長いスパンで見ると変わらないものなどない。大陸は移動を続け次の超大陸が生まれる姿がすでに合理的に予測されている。そんなものなのだろう。変わらないものなどない。

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2016年4月30日 (土)

修学院離宮で感じる

4月の20日頃京都に遊びに行った小旅行が教訓が多くて忘れないように書き留めておかねばと思っている。
2日目の午前は修学院離宮に行った。修学院離宮と桂離宮を同じ日に訪れるように見学許可を得ることができてそのように日程を組んだのだが、許可が出て改めてその場所を確認してみると京都の右上と左やや下に位置していて結構離れている、そのうえにいずれも最寄りの公共交通機関からは10分以上くらいは歩かねばならない。
雨降りになるのが心配だ。
気象庁のGSM11日予測データを京都付近で切り出して毎日見ていた。8日前の時点では当日は低気圧が紀伊半島付近を通過し終日雨の予想でこれはどうしたものか案じていたが6日前の時点まで近づくと南の大気の張り出しが弱く低気圧は腰砕けで南の海上に押しやられてしまうという予想となり現実にその日がやってくると晴れ上がった好天となった。
南と北の大気が日本付近で入り乱れる春の天気は前もってはなかなか予想の精度が上がらない。悪い予想は大体当たるものだがそうならないこともある、天は公平だ。

ともかく当日は計画通り京都駅前から地下鉄で国際会館前まで行きバスで修学院離宮道まで戻ってそこから歩く。10分位のゆったりとした散歩のような歩みで入り口に到達する、のんびりしたところだ。久蔵の描いた桜図によく似た八重桜が丁度咲いているのを道すがら見たりもする。
修学院離宮は江戸時代、桂離宮より僅かに後の頃に後水尾天上皇により造られている。後水尾上皇は非常にこの離宮を好んで亡くなるまでに70数回も訪れたとされている。上皇は桂離宮にも訪れていて上皇を迎えるために新御殿が造られておりその意味Syugakuin2 では桂離宮の完成にも深く影響を与えたと言える、一つの文化的頂点を実現した人ともいえるだろう。徳川家康の圧力で後陽成天皇は(桂離宮を作った)弟の智仁親王に皇位を譲ることができず息子に譲りこれが後水尾天皇となった。皇室と徳川家がせめぎあっていた時期でもあったようで、自然あふれる修学院離宮に格別の愛着を持っていたのもそんな息苦しい時代背景
があったためかとも推察される。

修学院離宮は桂離宮のように巧みな技を方々に埋め込んだというようでもなく周囲の自然とのどかな農村風景をうまく取り込んだところが秀逸な印象を与える。
例えば途中の松並木は人工的に低く抑えられており辺りを見渡しながら歩ける、こんな松並木は世界的にも見たことがない。
結構な上り下りの見学
Syugakuin1路を歩いて行くが忙しいというほどでもない。桂離宮の見切れない感はここにはない

東の東照宮と京の修学院離宮・桂離宮は確かに当時の文化的先端の両面を具現していと思える。こうであったことが日本の文化に深みと立体感を与えられたのだろう、二つの軸を持つ歴史そのものが日本の文化的バックボーンであり続けたのだろう、今更ながらそんなことを考えてしまう。

京都は大分見たかな、と思うがそれでもまだまだ学ぶところが多いようだ。こんな学びは楽でいいなとも思うし、また来たくなるそんな所のようにも思ってしまう。

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2016年3月31日 (木)

ギリシャを旅する4-----エーゲ海1日クルーズ

ツアーの中にエーゲ海1日クルーズというのが含まれていて少しはエーゲ海の雰囲気を味わえるかと期待Egeseaしていた。
エーゲ海といってもそのうちのサロニコス湾と呼ばれるペルポネス半島とアテネのあるギリシャ本土に囲まれ
た海域で、クレタ島などのある東地中海をさしてよく使われるエーゲ海という響きからはややずれることにはなる。

双胴船で安定が良い上に波がとりわけ静かで滑らかな航海が始まる。
アテネのピレウス港を出港するところから岬の上まで白い Egesea6a 箱型の家で埋まった景色が現れエーゲ海の雰囲気となる。カモメが近くに見えるが足が黄色いもののウミネコではない、日本に帰って調べるとYellow-legged gullというカモメのようだ。日本付近にはいない種類で、海もカ
モメも同じようだがちょっと違うところが地中海らしい。

アテネ港を出たあたりがサラミスの海戦があったところに近いは ずだが、なんでこんなところでペルシャ軍は海戦をするに至ったのだろうと思ってしまう。アテネ側がうまく仕掛けて海戦に引き込んで勝利に至ったのだろう。しかし静かな海だ。

イドラ島、ボロス島、エギナ島と順に回る。どれだったか、島に近づくと35ftから
Egesea240ftくらいのクルーザーが2隻のんびりでてくる。こんな海ならいかにも遊べる海だ。正直こEgesea4 んな海でヨットで遊んでみたい。
島の港は観光客相手でにぎわっている。 海の水は港近くで見ると透明でキラキラしているが航行中はサンゴ礁のような明るい海ではない、当たり前のことだが、海を見るだけなら宮Egesea5 古島の海がやはり綺麗だ。
Egesea3 食事が出たり踊りがあったりと前にハワイで乗ったホエールウオッチング&ディナークルーズに少しは似ているが、ツアーに完全に組み込まれていると何となく開放感が今一つの感じがしてしまう。そういうものなのだろう。何かを得ようとすれば何かを失う。ツアーで楽をしようとすると開放感が減ってくる、どうしようもないことだ。
エギナ島ではアフェア神殿を見に行く。パルテノンとポセイドンの両神殿と正三角形の位置にあり高さも同じに合わせていると船の中で説明される。本当だろうかと帰って検証してみる。9egesea 地図を見るとすぐわかるのだが明らかに正三角形ではない、しかしパルテノン=アフェアを底辺とする2等辺三角形ではあるようだ。少し大きな地図で見るとデルフィから南東に向かう大きな矢印となっているように見え、矢印の向かう先にはミノス文明よりさらに古いキクラデス文明(BC30世紀)を生んだキクラデス諸島が認められる。地球のへそといわれたデルフィとキクラデス文明をつなぐ何かを壮大に示し ているようで極めて興味深い。エーゲ海には人類文明の源が確かにあるような気がしてくる。

アフェア神殿はEgesea7小島の神殿とは思えない堂々とした作りだった。資材は本土から運び丘の上まで持ち上げて建造している、目にしている遺跡は紀元前5世紀で最初の神殿はもっと遡るのだろう。
エーゲ海クルーズは終盤となりギリシアダンスが始まる、喧騒から逃れて落ちゆく夕日をぼんやり眺めていた。
何も考えずに眼前の光景に向き合うとそこにはすべての 歴史が凝縮して流れていくようで、我々は古を繰り返しているだけではないのか、すべての答えがここにあるのでhないか、そんな
Egesea8_3気がしてきて時間の壁のない茫洋とした感じに浸るに至る、そんな感覚を味わうのにふさわしいのがエーゲ海の船旅かもしれない。

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