2021年3月29日 (月)

53年後の「男と女」を見たりコンサートにでかけたり

ブルーレイの録画を整理して、一段落したのでテレビ番組をみてみるとwowowで53年後の「男と女」をやっている(邦題:男と女 人生最良の日々 )。途中からだがリリックでちょっといい。見ながらipadで調べると、昔の「男と女」と同じスタッフとキャストで53年後を撮ったものという。昔の「男と女」で主役Otokotoonna だったトランティニャンとアヌク・エーメはもとより子役の二人もそのまま成長した子どもとして出演しているというから徹底している。勿論監督・音楽も同じクロードルルーシュとフランシスレイだ。もしかしたら最初撮影した時から50年後にこんな続編を作ってみたいという願望がルルーシュの胸にあったのかもしれない。ジャン=ルイ・トランティニャンは 役名でもジャン=ルイだ。ドキュメンタリーとフィクションの境界がぼやけていて面白い。同じ時間が観ている自分の中にも流れていったのを感じる、自分にとってのドキュメントのようにさえ思えてしまう。こんな映画は一生に一度くらいしか撮れないだろう、見ていると話の焦点がどこかボケているような気がするのもかえって生々しい。ジャン=ルイ・トランティニャンは今90歳アヌーク・エーメは間もなく89歳という。映画の中でアヌークエーメに向かってジャンルイが、若く見える、というところがあるが誰もがそう思うセリフだ、実際に再会した時こんな会話があったのだろう、女性の方が老けにくいのかもしれない、こんなところにもリアルさがある。いい映画だった。

月に1-2回クラシックのコンサートに出かけるのをまだ続けている。惰性というのでもないが続けてやっていることが身の回りに目についてきて歳をとったと感じる。
Acrosugassou 先週はアクロス合奏団の公演にでかけた。昨年夏の公演のはずがコロナでここまで繰り延べにされている。アクロス会員の延長がこの夏からのアクロス一時閉館のため効かなくなってしまったのもあって、2階の少し安い席とした。音響はいい会場だから聞くぶんには問題ないが姿をじかに見るにはちと遠い。
曲目はコレルリとテレマンのバロック、及びチャイコフスキーだ。
(コレッリ:合奏協奏曲 第8番 ト短調「クリスマス協奏曲」 Op.6-8
テレマン:4つのヴァイオリンのための協奏曲 ト長調 TWV40:201
チャイコフスキー:弦楽合奏のためのセレナード ハ長調 作品48)
バロックは感情を抑えた表現で教会音楽から派生したと思わせるところから、淡々としている。2つ目のテレマンの4つのバイオリンのための協奏曲などは、フラットで、お稽古発表会とすら思えてしまう。淡々として胸に迫るというのは結構難しいようだ。
これに比べてチャイコフスキーは抑揚が十分にあってサービス精神に満ちていて、聴きやすい、楽に聴ける。クラッシクという音楽全体を流れる時間の流れを感じてしまう、総じていいコンサートだった。

こんな風におやと思う映画を観たり、コンサートを聴いたり、散歩したりの日々が過ぎていく、どうということもない時が限りなく過ぎていく。

過ぎていく時の流れを感じることそのものが生きているというリアルではないか、そう思っている。

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2020年11月15日 (日)

映画「羅生門」を見直す

放送大学の講座の課題になっているということもあって久しぶりに黒沢の映画「羅生門」を見た。Amazon primeに入っていたのをタブレットで見たのだが小さい画面でも雨にけぶる壊れかけた羅生門の映像が美しい。それにしても昔の映画を見ようとすると色々探ればレンタル屋に行かずとも見れる方法に行き当たることが多くなっているような気がする。図書館のライブラリには無かったがそのうちこれも補強され、作者に対する敬意を保ちつつ映像作品を社会で永久共有するという形に向かって流れていくように思える。

Rasyomon1 この映画は芥川龍之介の小説「藪の中」を元に作られたとされているが、小説もこの際読んでみると、映画らしく構成が作り替えられていることが解る。
旅の武家夫婦が山中で多襄丸という盗人に襲われ夫である武弘が死体で発見される、何があったのか、捕えられた多襄丸と襲われた武家の妻、及び死体となった武弘も巫女の口を借りながらそれぞれに検非違使の庭で証言するが、それぞれに己を美化した異なった話にして語る。死んだものまでが都合のいい話を語る、真実とは何なのだろうか、真実と思っていることの裏側はこんな話と同じではないのか、本当は作り上げられた話を人は真実と思い込んでいるだけなのではないか。最も近くにいた人も真実を語るとは限らない。真実らしい話の集合体で世の中は動いているだけで真実は少し違うところにあるかもしれない、すべてをそう見るべきではないか、そんなところがこの話のテーマのようだ。
小説は3人の証言を並列して記すにとどめ、本当は何なんだろうとの想いばかりが残って少々もどかしい。映画ではこのところを第4の証言として、全部を第3者的に目撃していた杣売りの話を最後に加える。そのためだろう、映画では破れた羅生門でたまたま雨宿りする下人と旅の僧とに語る杣売りという形をベースに設定しこれをこの物語全体の骨組みとしている。杣売りの目撃談は本当らしい。しかしこの杣売りの話にも小さな嘘が隠されていることを下人が見破る。誰もが本当のことはしゃべらない、常に疑っていくほかないこの世の中というものを映画では小説よりも強く表現しているようだ。

この映画は確かに虚実のあいまいさという真実を突いているように見えるところが面白い。しかし考えてみれば実はそのことそのもの、本当らしい話でも真実は別のところにあるという見方そのものすらも、疑ってみるべきことのように思えてくる。全てはつかみ取ることのできない砂の上にある様だ。そんなことを思いめぐらさせてくれるこの映画は確かに名作なのだろう。

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2020年5月17日 (日)

今村昌平の人間蒸発を観る

コロナで家に居る時間が長くなりゴロゴロしているがそれはそれで面白いことにも行き当たる。

借りていたニューズウィーク日本版を読んでいたらドキュメンタリー監督のコラムに、昔ドキュメンタリ―映画の世界に入って行った時これは見るべきだといわれたのが今村昌平の人間蒸発だったという下りがあって、読むとドキュメントのようなドラマのような見ているものにそれを委ねるような撮り方Ningenjht をしているらしい。確かずいぶん昔に人間蒸発というタイトルの映画があったことは薄っすら記憶にあるが観ていない、これは何とか見たいものだと探し始める。wowowでやったりしないかとネットで調べてみるが、wowowには無くてブログの映画評が幾つか引っかかる、かなり面白そうだ。その内人間蒸発youtubeというのに行き当たる、何と映画全編がyoutubeにアップされている。何という時代になってしまったのだろうか。これはパソコン画面で見るのはつらいので光BOX+で ネットを使う を選択してテレビ画面に映して 見始める。画像はハイビジョンにはならないようだがそこそこ見れる、十分だ。とにかく基本的に無料で見れることになる、不思議な時代だ。
確かに出てくる人は失踪した人もこれを探す人もみな実在の人で実名の様だ、俳優も自分の名前で自分自身として写される、監督の今村昌平までもこの映画の監督として出てきて、全体がドキュメントとして写される。ところが後半、盛り上がってきた室内でのシーンが突然セットであることが披露されて、これは何という映画だろう、と解らなくなる。
本当のこととは何なのか、当事者さえも次第に解らなくなっていく、その雰囲気が巧みに捉えられていて、面白い映画だ。
でもこの話で一番面白かったのはYoutubeでタダで観れたというところだ、それでも映画の面白さが十分伝わってきたというところだ。
作品が埋もれてしまう位ならタダでも人の目に触れ訴えかけ続けられるほうがいい、という時代に入りつつある様だ。そういう社会的な仕掛けが成立しようとしているようにみえる。もっと突き詰めていえば、ボランティアで人助けをするということからお金を払ってでもボランティアをする、つまり、お金を出してでも働くということが社会的に成り立つ時代に差し掛かろうとしている、ということのように思える。

この先どのように展開していくだろうか、100年先1000年先にはどんな社会が存在しているだろうか、思いめぐらしていくだけで、十分に楽しい。こんな風に時間を過ごしているとコロナ騒ぎもまだまだ耐えられそうだ。

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2019年2月24日 (日)

アラビアのロレンスの「知恵の七柱」を読んでいる

映画アラビアのロレンスのモデルとなったTEロレンスの著作を読んでいる。
この間まで放送大学の「現代の国際政治」というのを学んでいたのもあって、争いの絶え

Lawrence

ない中東の近代の歴史が気になっていた。
第一次大戦でそれまで中東を支配していたオスマントルコがドイツ側として戦って敗戦しアラブ民族の世界が戦勝国イギリスやフランスに操られながらも一気に国として現れてきたというあたりから面白くて、そうか、「アラビアのロレンス」はそこをついた話だから多くの人の記憶に残る映画になったのかと勝手に合点していた。
TEロレンスはその後オートバイ事故で亡くなったが、亡くなるまでにアラビアで経験した戦いの記録を詳細に本にまとめていた。その本が「アラビアのロレンス」の映画の元になったと何かで読んで(多分ネットで)その元の本というのを読んでみたくなった。「知恵の七柱」及びこのダイジェスト版ともいえる「砂漠の反乱」がその本に当たる。
先ずは「知恵の七柱」からと読み始める。軍人の残した戦記だからポキポキした文体で事実を箇条書きのように書いたものではと思っていたが、図書館から借り出して読み始めてみると全く違う。情景描写が詳細で、おまけに背景となった政治情勢やアラビア人の気質アラビアの風土をよく見て書き残している。国際政治の記録としても社会学の記述としても興味深い本だ。ロレンスの人間としての能力の高さを感じてしまうが、冗長ともいえるくらい書き込んでいる。暫く読んでいくと読み疲れて進まなくなる。「知恵の七柱」は途中でお休みして「砂漠の反乱」のほうに移ってみる。こちらは事態の展開を淡々と描いている風があってとにかく読み進めれば終わりまで到達する。
第一印象は映画アラビアのロレンスの物語と全くといっていいほど違っているということだ。勿論アラブ人を率いて砂漠を越えアカバに攻め入る更にダマスカスに入城するという大筋の部分は変わらない、しかしその時に展開する人としての物語は全く違う。訳者の解説を色々読んでみると映画は脚本家が描いたといってよいくらいでロレンスの著作との共通部分は数パーセントしかないといっている評論家の話が紹介されたりしていて皆同じような感想を持つようだと感じてしまう。
少し立ち入るとそもそも「知恵の七柱」についても完全版というのとそうでない版の2種類が同じ東洋文庫から出ていて、ややこしい。翻訳版がというより原本がこの2種類あるという。ロレンスは戦場から戻ってメモや記録をもとに「知恵の七柱」の最初の原稿を書き上げたが程なく盗難にあい原稿の大半を失ってしまった。直ぐにも書き直すべきだとの友人の勧めもあってもう一度書いた。これをまずは校正のために7冊刷ってもらったのが完全版になった原稿という。ロレンスは読み直して長いと感じ3割ほど圧縮したものを又作ったこれが後に簡略版と俗称され最初に出版された「知恵の七柱」となった。ロレンスは完全版出版の意思はなく、死後簡略版の著作権が切れたところで研究家が元の原稿を用いて出版したのが完全本と称されている。
両方を読んだ人は殆どが完全本がいいと言っているようだ。簡略版では人に気兼ねして削ったり表現を替えたりもしているようだ。そこまで読むと、これは完全本を借り読んでみなくてはなるまいとこれも図書館から借りだし読み始めた。最初に読みかけたのは簡略版の訳本だった。読み始めるとこちらの方が解りやすい。訳者も違って新しいだけに読みやすいということもあるのかもしれない。

結構印象が違う。まずは完全本の頭の部分にある詩が簡略本にはない。ここらからその違いが直ぐに感じられるようになる、完全本の方が叙情的だ。章立ては初めの1章はだいぶ削って、章を2章と合体するようなことをやっていて進むと大体完全本の章の2つ遅れが簡略版の章となる。まだ読み比べているのは初めの方だけだがそんな違いだ。
完全版は訳本で5巻まである、最後まで読めるかどうかわからないが、ゆったりと読んでいる。活字の海に浸ることそのものが心地いいそんな気もしている。
近頃は時間をあまり気にしなくなった。昔親しく言葉を交わしていた友人が病に倒れた亡くなったとの話がこのところまたかと続くようになってきて寿命に限りがあることがリアルに感じられてきた、あきらめの境地になってきたのかなと思う。
やれることには限りがある、瞬間瞬間だけが生きている実態のようで焦ることはもうどこにもないと今は思っている。

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2016年8月 6日 (土)

都会の野生とアナログと

このところこれという鳥に会わないような気がしている。
Araht 余りに日差しがきつく出かけないせいもある。しかし今年はアオバズクは見ずじまいにこの季節が過ぎていく。那珂川町の神社に7月下旬ころ出かけたがもう姿がない。巣立って間をおかず飛び去ったのだろうか。こう暑くてはこの地にとどまる理由などないのかもしれない。
去年外れだった有明海三池島のベニアジサシを今年こそと出かけたがこちらも姿なくまたしても外れとなった、7月13日の大雨で巣が水没し卵が腐ってしまってこちらもここにいる 理由がなくなったということのようだ。来年来てくれるだろうか。以前鬼怒川中流に毎年できていたコアジサシのコロニーが洪水で流された
Miikejim1時は翌年からもうコアジサシは来なくなってしまったのが思い起こされる。
野生の生き物は見れて有難いと思うべ
きなのだろう、いつでも出会えるものではとてもない、そうだから見つける楽しみがあるというものでもある。

毎朝近くの三つの池を一めぐりしているが、トンボが気になる。真っ赤な小ぶりのトンボがいつもいてナツアカネかなと思うが羽の付け根部が黄色くなっていてショウジョウトンボの特徴もある。ショウジョウトンボはもう少し大きいとあるSyoujyoutmb から困ってしまう。解らないので毎日のように一応写真を撮っている。とにかく今のところ居るのはショウジョウトンボかなと思っている。他にはチョウトンボ、シオカラトンボ、コシアキトンボがいるのが解る、ギンヤンマもいそうではあるがまだ確信できない。

一巡りしながら勿論鳥もみている。カワセミがいつも出る池(市楽池)もこのところの日照りで水が汚く少なくなってからは姿を見ない。樋井川あたりに出かけているのだろうか。
小さいアオサギや小さいチュウダイサギなどが出Sagisi てくるとああどこかで巣立ったなと思う。バンのヒナが1羽親鳥について現れるようになると旨く育つだろうかと気になる。ネコかカラスにやられそうだ。昨日は散歩中にサギがやられてカラスにむしられているのを見た。木の上で襲われて落下したのだろうか、現場はサギが現れる場所でもない。街中でも野生を見る。いいというべきなのだろうか。
このあたりで巣立ったらしいマガモの3羽家族が暑さにうたれて池のほとりでぼんやりしていたりもする。
大通りに面した空き店舗の軒先でツバメが2回目の巣立ちを無事果たしたと思ったら10羽位になったツバメ家族は1日で姿を消した。新たなねぐらとなる河原にでも移ったのだろう。ヒナが巣立てば街中に居る理由もない。

暑い市街地でも野生が駆け抜ける。毎日のように見ているとそれがなじむ気がしている。


市の美術館に思いついて出かけた。こう暑くては家に閉じこもることが多くてそれもつまらない。
Gozra ゴジラ展をやっている。夏休みのこども向けかと思えば、見ているのは殆どがいい歳の大人だ、確かに説明書きも大人向けだ、ゴジラに親しんだ世代を来場者の中心と想定するとそういうことになるのだろう。
ゴジラ関係者に福岡出身の人が多いようだ、そういう訳もあって福岡でゴジラ展を開いたようにも思える。
ラドンが福岡市市街地を襲い岩田屋や体育館を壊すシーンを覚えている。当時の撮影用ミニチュアを撮った写真と当時の実際の風景が比較されて展示されているが、よく細部まで再現している(後に美術監督となる井上泰幸の手による。この人も福岡出身)。それにしても昔の福岡市中心部の3次元的な画像が幾つも残されているのに興味を惹かれる。西鉄電車と岩田屋の関Tokyost1 係はそういえばこんなだった、まだ1階に駅がつながっていた、昔なじんでいた風景が立体的に結び合わさって、リアルに思い出される。なんだかデジタルな映像では感じられない心地よさがある。

ローカルの催しだが撮影に使ったゴジラの着ぐるみや絵コンテなどあれやこれやよく集めたと感じ入る。ゴジラに壊された東京駅の模型も展示してある。よくできている。CG以前の特撮が関わる人を中心に特殊な世界を形作っていたことが伝わる。アナログの世界だ。ほっとするアナログの世界だ。


都会の野生とアナログ、個人の思いと世界とはこんな風につながっているのだ、ふとそう思った。暑い夏は続く。

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2016年4月12日 (火)

テレビはつまらないと思っていたが

テレビはつまらない番組ばかりが目立って放送大学を始めてみた。大学院の一科目のみ履修という形だ。
テレビで授業が流されてくるのを見て送られてきたテキストを併用して勉強するのだが、1科目のみではどう考えても高い、入学料+1単位授業料で25000円もする。そもそも大学院なのだから研究テーマを決めて研究するのが本筋で授業のみ受けるというのはちょっと変なのだがどうしようもない。学部向けの放送よりはちょっと講師の偏見の色がついた掘り下げた内容になるのが面白いと言えばそうだ。

選択した講義とは別の講義も勿論みられるし、学生のみの権利として大学院の放送は開始と同時に15回分すべてを自由にネットで見ることができる。放送をいちいち録画しなくてもあるいは放送日まで待つこともなくどれでも見られるところはいい。
地球史というのが面白そうなのでこれを履修することにしたが他では脳の働きと芸術にかOngakuno かわる講義が面白くてどんどん見ていく。
人間に快感を与える音はどのように形成されるかのところで一つカチンと引っかかった。12音音楽は人間の生理学的に快感を与えないのですたれてしまった、という下りだ。そこまで言うかと思う、講師が高く評価するガムラン音楽が何故マイナーのままなのかも説明して欲しいものだ。どうも講師は12音音楽が好みでないようだ。

音階から離れて12音音階として自由に演奏してみると頗る心地がいい。他人の演奏を聞く分には快感がないのかもしれないが音階や約束ごとに全くとらわれず自分で気ままに引く分には気持ちが自由に解き放れて幾らでも弾ける。そんな音楽もあるのだろう。

確かにずっと昔来日したコルトレーンの演奏が前衛に走りすぎ全く伝わらなくて音楽的高揚も何もあったものではないと理解しがたい気持ちに襲われていたが、演奏家にとっては陶酔できる音楽だったのかもしれない。共感というところを捨てると音楽は全く機能が違ってくるように思える。
こんな風に講師の独善的なところが教育として放送されるところがまた面白い。

地球史の方ではCO2は今後減っていき生き物は衰退する(勿論億年単位での時間スケールだが)、人類の生み出した自己増殖する人工生命体が時空を超えて宇宙へ拡散し人類の役割は終わるだろうとの未来も予測している。
地球のCO2は地球誕生以来大気中からマントルに移送され固着されて減ってきたのが地球の歴史でこれが今後も続いて植物の生育に適さないレベルにまでCO2が減ってしまう未来があるというのだ。
根拠となる考え方の提示が十分とは思えず受け入れていいものかどうか判断がつかないが公共放送の教育として流されるところが頗る面白い。近年の人類活動由来のCO2増加による地球温暖化議論など完全に吹き飛んでしまう。

誰にでも受け入れられる口当たりのいい語り口ばかりではテレビも衰退するのかなとの予感がある。カチンと来ることを主張し始めて、初めて面白いテレビが蘇るのではないか、そんな風にも思っている。

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2013年9月12日 (木)

原発事故についての特別講義

目を片目ずつ手術していて困るのは暫くクルマに乗れなくなってしまったことだ。勿論予想はしていてバスに乗って出かければいいやくらいに思っていた。現実にそうなるとバスで行けるところは知れている、思い付きでは動けない、気になるところへ思いついたら直ぐに出かけるクルマのある生活に慣れきっている自分を感じる。もう40年くらいそんな生活を続けている、そう簡単には変えられない。
テレビを見る時間がどうしても長くなる、この間パソコンをいじりながら放送大学をなんとなく流していたら福島の原発事故についての特別講義が始まった。最初が報道番組風だったのでよくあるドキュメンタリーの解説くらいかと思っていたらそうではない、事故がどういう具合にTanabe5 起こってどこが壊れて行ったか、メルトダウン、水素爆発や各地の放射能の増え方はどう関連付けられるのかを実測に独自の推定や計算を交えて説明してくれる。こんなよく分かる解説は初めてだ。次第に引き込まれていく。講師は田辺という人だ、かなり詳しい。考えてみれば今まで見たテレビの原発事故の解説は公表された事実をテレビ局の責任であたりさわりなく取りまとめたものでこのようなシステム全体の進行を専門家の視点から説明者の責任において読み解かしてくれるものではなかった。放送大学では講師の考えで講義内容を自由に組み立てることができる、確かにこんな形なら思い切ったこともいえる。話は次第に核心に入る、今後どうすべきかというところだ、想定外の事態に対処できるほど原発はハード的にも運用システム的にもできていない、これではだめだ、原発はもうやめるべきだ、としている。正論だ。
原発再開の流れができかかっているところでのこのような主張が公共放送から流されるというのは新鮮なものがある。ヒステリックにあるいは情緒的に動く“反原発村”の声でないところに説得力がある。
放送大学の理事長が4代続いた文部官僚出身から3.11後に現在の元私学学長に代わったこともあるのかもしれない。放送大学は形としては国からの補助が多い私立大学となっている、大学としての自由度は制度的には維持された形となっているようだ。

録画もしていないのでネットで何か出ているかと調べたらもともと5月に放送された講義だった、講義のネット録画が http://vimeo.com/66684623 に残されていて早速ダウンロードした。ネット上では田辺氏の主張には“反原発村”からの批判もあったりして昔の新左翼の内ゲバ風のところが出てきたりもしている。そんな風景はまたかと思わせて嫌になるが、講義そのものは見直してみても立派だ。放送大学という仕組みを見直してしまった。

政治状況や感情に振り回されず事実と向き合う、これが基本なのだろう。こんな冷静な議論が尖閣や竹島や北方四島についてもなされていけば世界はもっと住みやすくなるかもしれない、そんな風にも思っている。

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