2023年5月 6日 (土)

手元にあった牧野富太郎の野外植物図譜を見たり

牧野富太郎の生涯が朝ドラ化されて毎朝のように見ているが、そういえば牧野富太郎著の植物図鑑があったはずと本棚を探したら出てきた。原色野外植物図譜 学生版 と表紙に書かれた古い本だ。50数年前に東京のどこかの古本屋で買った覚えがある。昭和10年11月30日発行 昭和16年6月15日再版発行 定価弐圓弐拾銭 と後ろにあり、牧野の著者印も無論ある。戦前の出版だ。野草の名前を書いた図鑑を古本屋で探したらスミレ16種から始まるこの本に出会って丁度いい本として買ったような気がする。戦前の本にしてはカラー版が豊富で、フーンと思った、戦前のカラー印刷というと着色した絵葉書くらいしか当時見たことがなく、色に誇張の無いきちんとしたカラー写真だったことに少し驚いた。700種位の身近にありそうな植物を小さい本で紹介している、今見ても役に立ちそうに思える。

自宅玄関の前に花の鉢をいくつか並べているが、結構雑草が出てくる。雑草という名の草はない、というのは牧野の言葉だが、昭和天皇もたびたび口にしていたようで、昭和天皇の言葉としても伝えられる、しかしこの地では雑草は厄介だ、雑草は雑草だと抜いては捨てていた。中に小さな花をつけたものがあり、抜かずに写真に撮ってネットで調べてみるとすぐ名前がわかった、最近は写真検索で結構よく当たる、ハキダメギクという植物だ。 説明はWikipediaに出ていてこれを読むと日本での発見者は牧野富太郎で世田谷の掃きだめで発見してハキダメギクと名付けたとある。ちょっとあんまりな名だ。英名はshaggy soldier(毛むくじゃらの兵士)といってこれもあまりいい名ではないがハキダメよりははるかにましだ。ハキダメでは如何にも雑草ですと言っているようでもある。
気になって牧野の野外植物図譜を調べてみるが載ってはいない、1920年代には発見していたはずだからこの本の出版時には間に合っている、雑草のような植物と小ばかにしていたのだろうか。牧野の姿がリアルに感じられて面白い。

それにしても牧野富太郎はマニアックな人だ。戦前という時代はこだわりの塊の人たちで動いていたのかもしれない、今はどんな時代なのだろうか。

添付写真は手元にある 原色野外植物図譜学生版 と 自宅の鉢で花をつけるハキダメギク。

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2023年3月20日 (月)

今年の芥川賞を読む

今年も芥川賞が発表される季節となって、どんな作品だろうと、掲載される文藝春秋3月号を予約可能となる日の朝一番に図書館にネット予約した。予約順は1番ではなく2番だったもののすぐに順番が回ってくる、さっそく読んでみた。今回(第168回、令和4年度下半期)受賞したのは井戸川射子「この世の喜びよ」と佐藤厚志「荒地の家族」の2作品でいずれもそれほど長い小説でもなく、1週間もあれば2つとも楽に読めてしまう。
「荒地の家族」から読み始めた、3.11の震災被Arechinokazoku 害者の直面した生活を描いている。非常にリアルな感じがする、楽しい場面は殆どなくてこれでもかとつらい現実が展開され続けていくが、とても誇張と思えないリアルさだ。重い。しかし情景がよく描写されていて、文章そのものがいい。作者の力量を感じる、さすが芥川賞だ。
「この世の喜びよ」はこれとは随分違っている、読後感として最初に感じたのが物語の無さだ、これは小説というものなのか、と感じてしまう。ショッピングモールの一角にある喪服店の店員という主人公の周りに流れていく日常の描写のみではないかと思ってしまう。2人称で描かれていて主人公をあなたと呼んでいる視点で読んでいくことになるのだが、なじめない、勿論面白い試みではあるがなじめなさはどうしようもない。小説の描いている世界へ引き込まれていく感覚をどうしても抱けない。こういう小説が賞をもらう時代になったのだ、ついてこれるかな、と言われているような気さえしてくる。

小説を読んで絵空事の世界に時々身を置くという疑似体験が自分としては精神的にいいような気がしてこれまで時々小説を読んでいたが、精神の活性化に必ずしもつながらない小説が出てき始めてるような気がしてきた。そういう時代なのだろう、映画を時折見る方に切り替えた方がよくなってきたか、そんなことも考え始めている。

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2022年10月17日 (月)

今年のノーベル文学賞アニーエルノーの「凍りついた女」も読んでみる

10日くらい前にノーベル賞の文学賞がフランスのアニーエルノーに授与されることに決まったと発表されて、いったい誰なんだろう、と思ってしまった。ネットで調べてもピンとこない、とりあえずは読んでみるかと市立図書館の蔵書を調べてエイッと3冊予約する。「凍りついた女」「ある女」「戸外の日記」の3冊だ、「ある女」「戸外の日記」はもう順番待ちの列が結構長そうだが「凍りついた女」の方は列が短く早そうだと思っていたら、1週間も待たずに借り出すことができてさっそく読み始めた。日

Koorituitaonna 本での出版は1995年でもう30年近く前の本だ。読み始めるとすぐにこれは手ごわいと思ってしまう。びっしり文字で埋められて会話が殆どない、読みづらい、とどうしても思ってしまう。読み進むのに抵抗感があったが初めの方は速読に徹するとなんとか突破できた。内容はほぼ自伝のようだが、自伝にありがちな自慢やひけらかしとは対極にあるような内 面のさらけ出しだ。少女時代から学生結婚、出産育児、教師の資格取得、教師として働く2児の母となるまでの間の、本当はどう感じどう思って生きてきたかを内面の心の動きを中心にリアルに描いている。非常にリアルといってもいい、こんなのは読んだことがない。作者の最もフェミニズム的な作品という評もあるようで、ほかの著作も読んでみないととは思うが、この本からは確かにノーベル賞に値する普遍性を感じてしまう。

Koorituitaonna2また一つ世界が開けたような読後感がある、これは小説ではないのかもしれないが、小説を読むという行為は幾つになってもやはり続けるべきと思ってしまっている。

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2022年10月11日 (火)

芥川賞「おいしいご飯が食べられますように」を読んでみる

今年上期の芥川賞は何うだろうと、発表された文藝春秋9月号を図書館に予約していたらそんなに待たずに順番が回ってきた。予約を入れたタイミングがよかったのだろう。早速受賞作;高瀬準子作おいしいご飯が食べられますように を読み始める。端的に言えば会社人間模様小説で会社の狭い世界を舞台にして描いている、読んでいて楽しさがない、読Akugawap2022 後感が何か足りない。ただただ視点を変えながら書いている。リアルというのだろうか。こんな小説が受賞とはとも思ってしまう。よく書いている文章ではある、技があってとても自分には書けない文章だ、作者は小さいころからひたすら小説を書いてきたようで、今後も職業的に書き続けることになるのだろう。
今回の芥川賞の最終選考に残った5作品はすべて女性作家の手になるものだったという。そういう年もあるのだろうが、小説を書くという作業ができてしまうのは男性よりも女性の方が多いそういう社会に日本はなってきたのかなとも思ってしまう。社会の特質のようなものを何か表しているような気もする、平安時代に戻っているのかもしれない。

そんなことを考えていると今年のノーベル賞の文学賞がちょうど発表された、アニーエルノーというフランスの女性作家だ。ここでも女性か、どんな人なんだろうと、早速数冊の著作を図書館に予約した。楽しみではある。

小説を読むのは心の健康にいい、もうだいぶ以前からそう思い続けている。頭の回路が現実に密着しなくて済むそういう時間が貴重のように思っている。

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2021年11月23日 (火)

コロナ自粛からそう直ぐには抜けられない

このところ出不精になっていて本を読んだりテレビを見たりする時間が長くなっている。コロナ自粛からそう直ぐには抜けられないということだろうがこんな生活でいいのだろうかと思ったりもする。

堀文子の自伝を読んでいた話は前に書いたが、自伝の最後の方でクラゲの寿命は1億年以上というところがあったのが引っかかっていて、少し調べた。2007年に書かれた本だが、今までそんな話は聞いたことがない、と、Umi0609 ネットで少し調べると、今でも結構話題になっているようだ。ベニクラゲという1cm位の小さなクラゲが不老不死だというのは明らかな事実のようだ。クラゲとしての生殖行為を行った後親クラゲは水底に沈んで殆ど死んだような状態(肉団子状態)になる、肉団子状態になった後普通のクラゲなら水に溶けてしまうところをこのベニクラゲは溶けずに膜で体が覆われるようになり何かに付着した状態で幼生時代に戻ってポリプとなりここから蘇ってしまうというのだ。人間なら胎児にまた戻るということなのだろう。フーンという感じだ。
つい昨日クルマで走りながらラジオを聴いていると、子供電話相談室の公開版があっている中でこのベニクラゲの再生について質問した子供がいたのにはちょっと驚かされた。その場にいた他の子供たちは誰もそんな話は知らないという、そうだろう、それにしても、ベニクラゲの不老不死は結構知られた話になっているようだ。
確かにこれは不老不死だろう、しかしクラゲに記憶があるかは知らないがもしあったとしても幼生にまた戻ってしまってはそんなものは消し飛んでしまうだろう、DNAに残された記憶はまた再生するがそれは(生殖、子孫誕生-親の死)を繰り返す他の生物でもDNAは伝わっていくのだから、これが不老不死なら大抵の生物も不老不死と同等ということになるように思える。DNAの伝搬の研究も近頃思いもよらない結果をもたらしたりもしているようだ(帯刀益夫著「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」、この本も面白い)。中央アジア在住の人のDNAを調べたところこの地域の男性のうち1600万人はジンギスカンの末裔なのだそうだ。調査対象の8%のY染色体DNAに同じパターンが認められこれを手繰ると約1000年前の一人の男性にたどり着く、これはその時代に多くの子孫を残せたジンギスカンということになる、というのだ。1600万の中にジンギスカンの遺伝子がリアルに伝わっていて今後も伝わり続けていくというのならこういう不老不死もあるといってもいいのかもしれない。
たらたらと読書をしていくと思わぬものに当たり続ける。テレビで放映される最近の映画を見ることも多くなったがここでも知らなかった世界やそうだったのかと思うことに出くわす(例えば今年のアカデミー賞映画「ノマドランド」や韓国の朴大統領暗殺の内幕を描いた「KCIA 南山の部長たち」など)。本の中でも映画の中でも新しいことに出会い続ける、こんな風に時間を過ごしていくというのも悪くないと思い始めている。

つまらない生き方などどこにもないのだろう。

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2021年8月17日 (火)

「夕日と拳銃」を読んでみる

檀一雄の「夕陽と拳銃」を暫く読んでいたがやっと読み終えた。
檀一雄と言えば「リツ子その愛、その死」や「火宅の人」以外では割合と「夕日と拳銃」というタイトルが出てくるのが多いような気がして、一度読んでみるかと思ったのが読み始めたきっかけだ。読み始めてこんな文章が檀の一面なのかと少し驚いた、紙芝居という劇画がというか、講談本のようだ。暫く読み進んだところで、壇は何でこんな小説を書き始めたのだろうと気になって下巻の終わりにある解説のところを読んでみる、そういうことかと少しは合点がいった。解説は細川忠雄という読売新聞の元文化部長が書いているのだが、この「夕陽と拳銃」は彼の構想で読売新聞の夕刊の連載小説として檀に依頼して書かれたものだった。「夕陽と拳銃」というタイトルも細川が決めている。檀は軍隊経験があり中国で除隊後そのImg_0932 まま1年余り満州近辺を放浪している、満州に対するカンがあり思い入れがある、そのあたりのところから依頼が檀に行ったようだ。昭和30年から31年にかけての連載だったという。細川はその前にも火野葦平にその両親の自伝的小説「花と龍」を新聞小説として昭和27年頃に書かせ成功したという成功体験があった、また、ということだったようだ。壇もすでに直木賞作家という名の知れた作家ではあったが毎日確実に多くの人の目に触れる新聞小説という形は魅力的だったのだろう。
話の骨格は伊達政宗の末裔である伊達順之介という実在の人物が満州馬賊として戦前戦時中と満州を舞台に活動し日本軍の先鋒ともなって中国国民党軍等と渡り合ったという実話に基づいている。伊達は終戦後中国軍に捕らえられて刑死したという、その最後まで書き込んでいる。
新聞小説だけに話がブツブツと切れて場面が次々と流れていく、読み慣れてくると却ってそのテンポがいい。
活劇のような小説だけあって連載が終えるとすぐに映画化され、連続テレビドラマとしてもその後放映されている、そういうこともあって壇の代表作の一つとして扱われているのだろう。
商品としての小説、そんな言葉が浮かんでくる小説だ。
連載された昭和30年という時期の、戦後十年も経てば戦争の時代を活劇を見るように追想できていたという読者たる国民の姿というのも興味深い。却って今の時代のほうがこの様な小説を新聞に連載するのはためらわれるだろう、この小説には戦争に対する反省の心は殆んど見いだせない。米軍占領を脱し戦後復興を曲がりなりにも遂げ前へ前へと進んでいた時代というものがにじみ出ている。

読み終えると小説の内容を越えた様々な感慨がある、小説を読むという行為の面白さを味わう。

今という時代はどういう時代なのだろうか、そんなことをふっと思ってしまった。

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2021年7月25日 (日)

蜜蜂と遠雷

「蜜蜂と遠雷」を読んでみた。。しばらく前のベストセラーだが、映画になり芝居にもなって博多座に公演が来たりしてまだ人気があるようで少し気になって読んでみようかと図書館に予約した。長い待ち行列の後ろに着いた形で当分回って来まいと思っていたらコロナで1月以上閉館になったのを機に諦めた人が多く出たのか突然のように番が回って来た。
借りてくると本はもう随分傷んでいる。殆ど外れていて挟まっていHachimituenrai るだけという数ページがあって少々驚く。厚い本だ、直木賞と本屋大賞を同時に受けて爆発的人気となったようだがこんな厚い本が百万部も売れると出版社はたまらないだろう。順番待ちの列はまだ後ろへ伸びているので貸し出し延長は出来ない、急いで読み始める。
浜松の国際ピアノコンクールを下敷きにしたと思われるピアノコンクールに挑戦する若い音楽家達の群像というのが骨組みだが、小説らしく無い。場面の展開が如何にもお話のようで、まるで劇画を読んでいるような気がする。よく調べられていて設定はリアルだが人物がどれも少々現実離れしている。しかし受賞するだけあって話は面白い、言葉もやさしいのでズンズン読めてしまう。
途中から結末がなんとなく見えてきてその通りになるので興を削がれなくも無いが、まあ劇画だ、と思って気になるほどでもない。
今様の小説の一つの典型がここら辺りにあるのかもしれない、そう思ってしまう。今という時を表しているようだ。


コロナのワクチンは2週間以上前に2回目を打ち終えたのもあってひと頃ほどには気を使わなくてもいいのだが、第5波到来と騒がしいのもあって散歩と図書館から本を借り出して読むといった日々が続く。それに加えてオリンピックが昨日から本格的に始まったので今や本当に巣ごもりの日々に浸りきっている。
コロナ禍の当初は刺激的なところもあったが、結局のところあまりいい日々ではないな、今更のようにそう思い始めている。終わりは当分きそうにない。

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2021年7月 5日 (月)

ジョンダワーの「敗北を抱きしめて」を読む

日本の戦後に、極東裁判とは別に日本国民として自身の戦争責任を議論することなく戦争被害者の視点から戦争を捉える声が高々と叫ばれるのはどいうことなのだろう、あまりにも勝手ではないかと長い間思っていた。特にマスコミの無責任さに腹立たしい気持ちを抱いていた、おまえはその時何をしていたのだ、と。
ドイツと日本の戦後の戦争のとらえ方の違いを書いたイアンブルマの「戦争の記憶」なPhoto_20210705202601 んかを読んでみるが、どうにも断定的で、そうだろうかと、どこか違うような気がした、全体が捉えられていない。ほかにはと探しているうちに、もっと事実に基づき踏み込んだとされる本が書かれていることを知った、ジョンダワーの「敗北を抱きしめて」だ。増補版でも2004年初版だから新しい本ではない。

上下2巻に分かれた厚い本だがやっと読み終えた。確かによく調べている。
日本に対する感情がにじみ出ているがそれは優しくない、的外れもある、これだけ調べたのだ、どうだ、というところがあって謙虚さがない。評価が難しい。しかし戦後の7年位のGHQ支配の分かりにくい時代の記録としては便利だ、そういうことだったのかと思うところが幾つもある。天皇の責任を問わないとマッカーサー/GHQが決意してそれに反する報道や記事を検閲で容赦なくつぶした、朝日新聞が終戦直後に日本自身で戦犯を裁くべきだと主張し同様の声が幾つも上がったがこれもGHQの方針に反するとして潰されていった、明白な証拠が残っていて疑いようがないようだ。天皇は軍部の暴走の被害者というGHQによるシナリオがそのまま国民の意識にも影響し国民自身が軍部の被害者だという認識形成に至ったという分析は、確かにそうかもしれないと思わせる。加害者というべき行動が多々あったのではないかと思われるがそれを消し去ってしまったということのようだ。しかしこの本に記述されたことすべてを鵜呑みにはできないのは勿論だ。
後に映画監督となった小林正樹は終戦を獄で過ごした。出てくると世の中は全く変わっていないと感じたという。日本軍がGHQに代わっただけで超政府の機関が指示することに国民を上げて賛同しているという図式は同じということのようだ、という彼の体験もこの本では紹介している。確かに多くの色々の人の見方を拾い上げている,そこは貴重だ。
 この時期のベストセラーにも記述が細かい、驚くばかりだ。戦後史を立体的に細かく俯瞰している。よく調べ書き込まれていることには脱帽する思いだ。

読み終わってよく考えてみると、占領米軍の意図は初めから明らかで武装解除し更に今後とも日本が米国の脅威にならないようにするという点にあったように思える。非武装の憲法の国家として米軍に頼り続けざるを得なくし、米国に従属し続ける国とした、と考えざるを得ない。吉田茂はGHQが撤退すれば憲法を変えればいいと思っていたがそう簡単ではなかったと後に述解している。マッカーサーの言葉通り12歳の少年のように無邪気でありそれがそのまま引き継がれていったということのようだ。米軍駐留は容易なことでは無くならないだろう、それをある意味支えているのが左翼と呼ばれる人たちであることも一種の皮肉とさえ思えてくる。何か起これば米軍が日本政府を越えて事態をコントロールしようとする動きはこれを福島原発事故の際に米軍が見せたとする最近の文藝春秋記事(当時の陸幕幹部及びアメリカ太平洋軍幹部の証言に基づく)にも符合するところがある。

色々考えさせられる本だ。新型コロナで図書館が1か月以上閉館になり丁度借りていたこの本をゆっくり読めたということもある、この先何が起こっていくのだろう、転がりゆく時間を眺め続けるのが面白くもある。

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2021年5月28日 (金)

「推し、燃ゆ」が

今年の芥川賞は何だったんだろうと、ちょっと気になって掲載されている文芸春秋三月号を図書館で予約、順番待ちしたが程なく借り出すことがでOshimoyu きた。返却日の前に福岡に緊急事態宣言が出て図書館は5月31日まで閉館となり、返却期限も自動的に1か月ほど延びた。これで気が緩んで暫く読み出さなかったが、そういつまでも、と思い直して読み始めた。
受賞作は「推し、燃ゆ」という、昔で言う追っかけ少女の物語だ。作者は 宇佐美りん、21歳の現役女子大生という。新人のみが受賞の権利のある芥川賞の本領発揮という感が強いような気がしてくる。
とにかく読みにかかるが、自分の生きてきた或いは生きている世界とはあまりに違う世界でちょっと読み続けるのが苦しい。しかし読みながら思う、共感できないが組み立てと言い場面の雰囲気のディテールといい良く書けている、文学的表現に満ちている、こんな文はたやすくは書けない。読み進むと渦巻に吸い込まれるような感覚に陥る。
結局、どうしても共感できないまま読み終えてしまう。何が書いてあったか、とても人には説明困難だ、不思議な感触だけが残る。こんな経験も初めてだ。

何か新しいものがここには確かにある。まだまだ小説も捨てたものではない、芥川賞もなかなかやる、素直にそう思った。

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2021年4月30日 (金)

モームの「赤毛」とポーズするアオサギと

コロナでちょっと重苦しい日々が続いている。

何かしら小説を読んでいた方が頭の働きがいいように思って、最近モームの「雨」を図書館から借りてきて読み直すことがあった。文庫本のそのあとに入っている「赤毛」もついでにと読んでみると、どこかで最近こんなような話を見たなと思って思い返していた。そうか、(53年後Akage の)男と女だ、と思った(映画「 男と女 人生最良の日々 」) 。深く愛し合ったカップルが別れて長い年月を経たのちまた出会う、こういう設定はヨーロッパ好みなのかもしれない。
モームの書き方は冷たい、作品の視点は船長とともにあったはずがまんまと読者は騙されてしまう。船長本人が、会いに行った相手の男が語る妻の昔の恋人レッドだった、という展開は実は何の面白さもない、作者モームが面白がっているだけだ。書き方にもちょっと無理がある。
文豪といわれる人の後世に残る作品の一つがこんなものかと思ってしまう。これでは、53年後の男と女のほうがよっぽど味わい深いし、作者から裏切られることもない、読者と同時に流れる時間を感じるこころよい作品といえる。色んなことが少しづつ分かってくるようだ。

 

毎日のように散歩しながら鳥を見ている。結構面白いことにも気づく。今はアオサギが面白い。図書館の帰りにいつも寄って歩く溜池があるが、そこに1羽のアオサギが居ついている。少し前までは、安全だからだろうか水門のところの柵の中に入りこんで佇んでいることが多かったが近頃では池の水辺で様々なポーズをとる。どうも写真に撮られることをわかっているようで、わざと面白そうなポーズをとって見せるようだ。座り込んだポーズがこのところお気に入りだったが、この前は池のカワウが羽を広げるポーズにカメラが向くことを学んだのか、カメラを向けると あらよ とばかり羽を広げて見せる。たまたまそうなのかという気もして、見計らって又ぱっとカメラを向けるとすかさず翼をさっAosagipose と広げる、明らかにカメラポーズだ。面白い。昨日は、池の入り口近くにいたがあまり様にならないので水辺に咲いているキショウブを撮ったりしていたらアオサギは別のキショウブの群落まで飛んで行って背景がキショウブになる様にポーズをとる、なかなか決まっている、これは撮らざるを得ない。この日のインスタ投稿はこれにした。

遠出することもなく本を読んだり映画を見たり鳥を見たりの生活はまだまだ続きそうだ、ひょっとしたらもう元には戻らないのかもしれない、それでも毎日おやということに出会い続けられれば、それはそれで面白い時間の過ごし方のように今は思えている。
全てを受け入れること、それが肝心なようだ。

 

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