2023年2月14日 (火)

フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」の後で

フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」の後で を読んでいる。
冬は本を読む時間を取りやすい。適当に何冊かを読んでいた時この本を引用していたり紹介していたりする場面に幾度か出くわしてこれは読んだ方がいいかと図書館の予約の列に並んでみた。先週やっと順番が回ってきて読んでいる。マチルデ・ファスティングというノルウェーの経済思想家の質問に答える形で進んでいく。フクヤマは何冊もの本を書いており、質問者はそれらを取り上げながら問いを発し続けていくので、フクヤマが全体として言いたいこと考えていることが直接的に語られていて手間が省けるという気がしてくる。
まずは「歴史の終わり」とは何かRekisinoowari 、これは簡単で、自由民主主義(liberal democracy)がこれからも含めた人類の歴史の中で最後の政治体制となる、ということだという。一昔前は左派のインテリは共産主義が最後の形と考えていたが今そう考えるものは誰もいない、というわけだ。なーんだという感じだ。
では、世界の色々な国が自由民主主義になかなか到達できないのは何故か、ということになる。それを何回も形を変えて質疑応答している。自由民主主義が根付くにはナショナル・アイデンティティに基づく国民国家と強固な制度を固める体制が必要で、歴史的には権威主義などの形を経て最後に到達できるもの、と答えているようだ。
ナショナル・アイデンティティという言葉が曲者で、これはフクヤマがニューヨークという街で育ったということが大きく関係しているように思える。この地ではアメリカ人とはアメリカとしての共通の理念を共有する人という考えが強く人種や出身国、宗教などの重みはほとんど感じられないという、このイメージがナショナル・アイデンティティということなのだろう。偏狭なナショナリズムとは明らかに違うものだが、かなり近いところにあるような気もする。ナショナル・アイデンティティがあってのその基盤の上での自由民主主義ということのようだ。
更に腐敗を抑え込む体制というのが重要と何度も述べているように見える。権威主義が倒されてさあ自由主義だとなると、不正が横行し体制を私物化しようとする動きが現れてくる、これを排除しなくてはうまくいかない、としている、確かにそうだ。ここでつまずく国が多いような気がするし、もう大丈夫となってもまた腐敗が頭をもたげるようにも思える。
 
自由民主主義に対する脅威としてはポピュリズムの拡散をあげている、偏狭なナショナリズムなどで多数の支持を得て権力を握ると権力を私物化し制度や司法を破壊していく、というのがその特徴としている。現代の社会の仕組みを、そうみればいいのか、と説明してくれるところが、読んでいて気持ちがいい。
EUのような各国をまとめて統合していく方向に未来があるという見方には否定的で、ナショナル・アイデンティティが曖昧な形となってうまくいかないだろう、としているようだ。EUの人々がフランス人やドイツ人でなくヨーロッパ人という意識を強く共有できるとは思えない、ということのようだが、この本はウクライナの戦争が始まる寸前に書かれており、現在ではヨーロッパ対ロシアという形が明瞭になってきて、この戦争がEUの理念を強めてきているように思えている。今フクヤマに聞けば別の答えが返ってくるかもしれない。
また、経済学という学問では経済的利益最大化で行動する個人というモデルの上で学問が組み立てられているがそれは正しくない、個人の行動の原理には、個人の価値や尊厳への承認要求を満たすという個人の魂が大きく関わっている、(これをテューモスというプラトンの表現で表している)、これを考慮に入れない規制緩和などを軸とする新自由主義経済は、富の集中・格差の増大などの社会的歪を生み、うまくいかなくなる、ともいう。
なかなか面白い本だ、フクヤマは非常に多くの本を読み込んでいると感じられ社会の仕組みや出来事のなりたちによく考えが廻る、知の巨人という言葉がふさわしい人のように感じられてくる。
それにしても最近感じる、日々の買い物に顔を出す店の小さなごまかし、政府の広報の小さなインチキ、通産官僚によるコロナ補助金不正受給、自衛隊員が闇バイトで強盗一味に加担、といった今までは目にしたことのなかった社会のほころびが、そうか、これがフクヤマのいう腐敗の始まりか、こういう風にして自由民主主義体制は崩れはじめていくのかもしれない、と頗るリアルに感じられてくる。
いい本だ。

 

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2022年12月20日 (火)

日本の知、どこへ を読んでみたが

少し前に共同通信の「日本の知、どこへ どうすれば大学と科学研究の凋落を止められるか?」という本を図書館から借りて読んだが、読後感がよくない。
2000年ころまでは日本は世界の未来だったように思う。Nihonnochi それが今では輝きを失ったかに見える。何故なのか。引っかかっているところへこの本がどこかで宣伝されているのを見てとにかく図書館の順番待ちに並んだ。
ざっと読んで、何かが抜けている感じがする。あのつくば博が開かれ前へ前へと進んでいたものがこうも急に先が見えなくなったのは何故か、それには答えてくれない。文部官僚が予算の犠牲になったというシナリオを追いかけるだけだ。そうなのだろうか。違う、取材の仕方が根本的に違うのではないか。
2001年の省庁再編でそれまで大臣を抱き科学技術行政の中心的働きをしていた科学技術庁が内閣府と文部科学省に吸収されて、外から見て科学技術に力を入れていた日本政府の姿がぼやけてきたように映った。言い方はいくらでもあるだろうが科学技術庁の名が消えてどうしてもそう見えてしまう。この時期を分岐点とするかのようにずるずると後退していく日本の姿が現出していったと思えてしまう。そこをつく分析が実は必要の様な気がしてしまう。何でこんな科学技術庁をバラバラにするようなことになってしまったのかそこに突っ込むレポートが必要の様な気がしている。
文部官僚があるいは文部族議員が日本の科学技術を高めることができるのだろうか。そこだと思う。

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2022年7月27日 (水)

元首相の銃撃が

20日ほど前のことだった、アオバズクを見に午前に那珂川の現人神社に行った後戻って庭に水まきしていると家内が出てきて安倍さんが撃たれたという。兎に角驚く。どういうことだろうかとそれからテレビにくぎ付けとなる。その日の日記メモには「 暗殺なら韓国関係かと邪推するが、どうやらガンマニアのよう。造った手製銃で人を撃ちたかったよう。たまたま自宅近くに来た安倍を襲ったよう。」と記している。

次第に事件のあらましが明らかになってきた。現場で取り押さえられた狙撃犯人は旧統一教会に家庭・人生を破壊された恨みがあった、全人生をかけてもいいと思うほどの恨みがあった、統一教会とつながる政界の頂点が安倍と思っての銃撃だったということのようだ。
その後の政界と統一教会の繋がりが次第に明らかにされつつあるのを見て、大学時代のことを思い出してきた。全共闘が学内封鎖する直前の時代、講義が終わると待っていたかのように原理研究会と称する一団が演壇にあらわれ統一原理なるものを説き始める、しつこい、ほとんどすべての学生はあほらしくて教室を後にしてもっと本質的な宇宙の原理を語ってくれればいいのだが、などとぼやいていたことを思い出す。原理研究会は反共運動である勝共連合の別動隊であり、勝共連合を60年安保で学生運動に手を焼いていた岸元首相が後押しをしていたというのはいかにもありそうな時代だったと今から振り返ると思える。
勝共連合が更に統一教会の別動隊だったとは多くの人が知らなかったように思う。冷戦の終結で反共もしぼみ統一教会が世界的に展開する宗教活動の財源確保に日本での活動の軸足が移ったのだろう。それに政界とのコネクションが利用され続けたのだろう。
ともかく安倍が射殺されるに至った元をたどると60年・70年安保闘争の時代の政治情勢に行きつくようだ。更には朝鮮戦争にまで辿れるのかもしれない。

このあたりで半世紀以上引きずってきた古臭い対立軸を基盤とする動きに終止符を打つべき時代になってきたように思える。ウクライナの戦争もそういうことかもしれない。それができないところでとんでもないことが起こるようだ。

平和な平成が終わり争いの令和に、時代はサイクルで巡っている、次は何が。

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2022年3月30日 (水)

冷蔵庫を買いに行って

冷蔵庫がまともに冷えなくなりいよいよ末期的になってしまったようだ。14年位使っていてもう買い換えしかなかろうと福岡のヨドバシに出かけた。ネットショッピングも無論できるが物理的な大きさや感じがあるので実物を見たり触ったりして買いたい。
久し振りに行くので駐車場が気になった。2車線の道に面していて右折では入れないかと懸念していたが信号で右折した小道から入れるようになっていてどちらからきても問題なく駐車場に入れる。クルマを置いて冷蔵庫売り場に向かい店員に声をかけていくつか見ていく。今のは買い物便利なところに住む2人暮らしにはちょっと大きく、ひとまわり小さくて機能がしっかりしているものと思っていたが、少し小さくても見た目洒落ているのを選んでしまう。見て買うとどうしてもそうなる。手配の手続きを待っていると店員が別の話をし始めた、携帯のキャリアをソフトバンクに替えないか、現行機種をそのまま使うなら冷蔵庫代を安くできる、月々の支払いもドコモより安くなるというのだ。よく見ると店員の着ているはっぴにはソフトバンクと書いてあり携帯が本業のようだ。ドコモの携帯料金が高いかなと思っていたところなのでこの際換えるのもいいかと話に乗る。キャリヤ乗り換えは携帯は無料だがwifi部分が1万円の解約金をとられるもののその分値引きするという。切り替えの手続きに入るとまずドコモから予約番号を取得してくれと言われる、これは使用者本人しかできない。店員にうながされて151に電話して始めるのだがこれがすんなりは行かない。まず151番が非常に混んでいてなかなかつながらない。やっと出ると解約手続きとしてドコモのこれまでの特典がなくなることへの確認が延々と続く。Dポイントの処置をどうするかもあったり、いちいち考えて答える必要があり売り場の騒がしい環境でこれをやっていくと体力を消耗する。続いて家内のもある、家内がすらすら対応できるようにも思えない、固定電話/wifi回線の切り替えもある、考えていくと疲れ果てて途中で乗り換えを断念する。ドコモの引き留め策の術中にはまったようだ。これは冷蔵庫を買いに来てついでに思いついたようにできることではない、やり方を考えておいて、それに沿って強い意志で立ち向かうことが求められているようだ。政府主導の携帯料金の引き下げがこんな事態を引き起こしているようでもある、確かに安くなるすべはあるがたやすくはない。

冷蔵庫を買いに来て思わぬ携帯の商戦の現場を見てしまった思いだ。不満はあるがそれはそれで現代の切り口を見ているようで面白くもある。

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2022年2月25日 (金)

ウクライナ侵攻が

ロシアがウクライナに侵攻したニュースは驚くべきものだった。おおよその専門家と称する人の事前の予想は東部のロシア派地域の住民が迫害されておりこれを保護するためにロシア軍が東から入ってくるだろう、広がるとドンバス地方全体に及ぶかも知れないという規模のものだったと思う。現実に起こっているのは北からも南からも東からも一斉に侵攻が始まっている、全面侵攻で今のところウクライナ政府を壊滅しロシア寄りの傀儡政府を樹立して支配下に収めることを目指していると思われる。
気になるのはプーチンが我々は核兵器を持っていUkuraina る、外部からの干渉をするものは歴史上直面したどの結果よりも大きな結果に直面することになる、と核兵器の使用をほのめかす脅しを使っていることだ(プーチンの開戦の演説)。また侵攻の理由として、プーチンは(ウクライナに於ける)ロシア語を話す人々に対する大量虐殺を防ごうとしていると述べ、「ウクライナの非軍事化と非ナチ化」が目的とも述べている。
CNNとBBCを交互に見ているがどちらかでロシア政府の立場のロシア政府要人とみられる人の、「ウクライナ政府のビルの中で大量虐殺が行われている」との発言がそのまま流されていて驚いた。ロシア軍は侵攻後この証拠つくりの大量虐殺を自らの手で行う気かもしれない、まだまだ恐ろしいことが起こりそうな気がしてきた。
ロシア国内の反対意見はどれくらいなのだろうか、正直な世論調査をしても半数以上がプーチン支持ということはあり得る。弱体化したソ連=ロシアに不満を感じている国民が相当数いるのではないか、そうでなければここまでのことはやりそうにない。ナチスもワイマール憲法下で民主的に国民の支持を得て第1党になった、同じようなことが再現されているような気がする。冷戦に敗れたソ連、第1次戦争に敗れたドイツ、打ちひしがれた国民が次の強い指導者を求め他国に攻撃的になっていく。民主主義の限界かもしれない、国民意思の総意が善だとは限らない。

どこまでいくだろうか。プーチンは(極東軍事裁判のように)裁判で罰されることがあるだろうか。本来ならそうあるべきなのだろう、そういう社会を作るべきなのだろう。

(添付図はソ連崩壊前の地球儀。ウクライナとロシアは分かち難い、戦さするほどのことがあるのかとどうしても思ってしまう)

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2021年10月31日 (日)

政治の季節が

今回の衆院選挙は難しい。共産党と組んだ立憲はとても支持できない。共産党という党は党内民主化が未だ進んでいるように見えない、執行部を選ぶプロセスや党内の異論をどう処理しているのか、透明性がない、結局は中国共産党と同じ独裁体質を持っているのではないか、その疑いをどうしても晴らすことができない、意思決定プロセスが不透明な政党にはどうしても信頼感を持てない。自民は安倍のもりかけや桜スキャンダルがどう見てもクリアに処理されていない、それを岸田が引き継ぐのであればやはり信頼は置けない。維新もベーシックインカムの現実的成立性を示さないままばらまき傾向を強めている割には財政規律に固執しているところがあったりして支離滅裂の印象がある。政党それぞれがどういう立ち位置を取ればいいのか手探り状態で、この方向に進むべしという確たる信念がないように見えてしまう。支持政党が無しというより支持できる政党がないという状態だ、なんとかしてほしいといいたくなる。

政治のことは難しい。このところ日本国憲法が気になって、その成立経緯を少し調べてみている。明らかなことはGHQ独裁下でGHQから示された草稿に沿って現憲法ができていることだ。政府のホームページにある現憲法の英訳とGHQ草稿との英語表現が随所で一致していることは驚くばかりだ。例えば前文では、
現憲法の英訳:We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, do proclaim that sovereign power resides with the people and do firmly establish this Constitution.
GHQ草稿:We, the Japanese People, acting through our duly elected representatives in the National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, do proclaim the sovereignty of the people's will and do ordain and establish this Constitution,...
殆どコピー・アンド・ペーストといってもいいくらいGHQ草稿に忠実だ。ちなみに日本語では
現憲法:日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

日本語版が草稿を越えて更に走っているところもある。例えば
労働の権利のところではGHQ草稿では権利のみを定めていたが、成立した憲法ではさらに進めてすべての国民には労働の義務があると規定している、
現憲法の英訳:Article 27. All people shall have the right and the obligation to work.
Standards for wages, hours, rest and other working conditions shall be fixed by law.
Children shall not be exploited.
GHQ草稿:Article XXV. All men have the right to work.
現憲法:第二十七条
すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
② 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
③ 児童は、これを酷使してはならない。

そのまま読めば、余生をのんびり送ることも否定して死ぬまで働けそれが義務だと読める、そうでないものは非国民ということになる、こんな憲法を放置していいとはとても思えない。こんな憲法が他にあるのだろうか。

GHQ占領下でその了解を取り付けながら成立した憲法だ、本来は一から作り直すべきなのだろう、しかしできない。現実には党利党略が入り乱れ憲法を国民の手で作り直すことを国民の立場から正確に実行できる社会的機関が存在しないということの様だ、それをまず作る必要がある。

憲法改正を頭ごなしに反対する政治集団はどういう頭の構造なのだろうか、どうしても疑問を感じてしまう。etc.etc.etc....


政治の季節なのだろう、終わりのない問いが頭をぐるぐる駆け巡る。

 

 

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2021年7月 5日 (月)

ジョンダワーの「敗北を抱きしめて」を読む

日本の戦後に、極東裁判とは別に日本国民として自身の戦争責任を議論することなく戦争被害者の視点から戦争を捉える声が高々と叫ばれるのはどいうことなのだろう、あまりにも勝手ではないかと長い間思っていた。特にマスコミの無責任さに腹立たしい気持ちを抱いていた、おまえはその時何をしていたのだ、と。
ドイツと日本の戦後の戦争のとらえ方の違いを書いたイアンブルマの「戦争の記憶」なPhoto_20210705202601 んかを読んでみるが、どうにも断定的で、そうだろうかと、どこか違うような気がした、全体が捉えられていない。ほかにはと探しているうちに、もっと事実に基づき踏み込んだとされる本が書かれていることを知った、ジョンダワーの「敗北を抱きしめて」だ。増補版でも2004年初版だから新しい本ではない。

上下2巻に分かれた厚い本だがやっと読み終えた。確かによく調べている。
日本に対する感情がにじみ出ているがそれは優しくない、的外れもある、これだけ調べたのだ、どうだ、というところがあって謙虚さがない。評価が難しい。しかし戦後の7年位のGHQ支配の分かりにくい時代の記録としては便利だ、そういうことだったのかと思うところが幾つもある。天皇の責任を問わないとマッカーサー/GHQが決意してそれに反する報道や記事を検閲で容赦なくつぶした、朝日新聞が終戦直後に日本自身で戦犯を裁くべきだと主張し同様の声が幾つも上がったがこれもGHQの方針に反するとして潰されていった、明白な証拠が残っていて疑いようがないようだ。天皇は軍部の暴走の被害者というGHQによるシナリオがそのまま国民の意識にも影響し国民自身が軍部の被害者だという認識形成に至ったという分析は、確かにそうかもしれないと思わせる。加害者というべき行動が多々あったのではないかと思われるがそれを消し去ってしまったということのようだ。しかしこの本に記述されたことすべてを鵜呑みにはできないのは勿論だ。
後に映画監督となった小林正樹は終戦を獄で過ごした。出てくると世の中は全く変わっていないと感じたという。日本軍がGHQに代わっただけで超政府の機関が指示することに国民を上げて賛同しているという図式は同じということのようだ、という彼の体験もこの本では紹介している。確かに多くの色々の人の見方を拾い上げている,そこは貴重だ。
 この時期のベストセラーにも記述が細かい、驚くばかりだ。戦後史を立体的に細かく俯瞰している。よく調べ書き込まれていることには脱帽する思いだ。

読み終わってよく考えてみると、占領米軍の意図は初めから明らかで武装解除し更に今後とも日本が米国の脅威にならないようにするという点にあったように思える。非武装の憲法の国家として米軍に頼り続けざるを得なくし、米国に従属し続ける国とした、と考えざるを得ない。吉田茂はGHQが撤退すれば憲法を変えればいいと思っていたがそう簡単ではなかったと後に述解している。マッカーサーの言葉通り12歳の少年のように無邪気でありそれがそのまま引き継がれていったということのようだ。米軍駐留は容易なことでは無くならないだろう、それをある意味支えているのが左翼と呼ばれる人たちであることも一種の皮肉とさえ思えてくる。何か起これば米軍が日本政府を越えて事態をコントロールしようとする動きはこれを福島原発事故の際に米軍が見せたとする最近の文藝春秋記事(当時の陸幕幹部及びアメリカ太平洋軍幹部の証言に基づく)にも符合するところがある。

色々考えさせられる本だ。新型コロナで図書館が1か月以上閉館になり丁度借りていたこの本をゆっくり読めたということもある、この先何が起こっていくのだろう、転がりゆく時間を眺め続けるのが面白くもある。

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2021年5月12日 (水)

コロナの本質は何なんだろうかとつらつら思う

コロナのことを何でも書き残そうとまた書いてみる。

図書館も今日から今月一杯コロナで閉館となった。閉まる前の図書館でふと見つけた「世界一周恐怖航海記」という本を今読んでいる。車谷長吉という作家が著したクルーズ船旅行記ということになが、車谷という作家はよく知らないというか全く知らなかった。知ってる人は知ってるようで、20年くらい前に直木賞をとった作家らしい。
15年くらい前の旅行記で、コロナの時代となった今の視点で見ると古き良きクルーズ船旅行の時代の道中記と映る。
実名で関係者の名前が次々に出てくる。個人情報に敏感な今から見ると何だかわきが甘い。そう思って今に至る時代を振り返って見ると、インターネットで個人が大量の情報に簡単にアクセスできるようになった辺りから、人と人の結びつき方が次第に形を変えてきたように思う。
葉書や手紙でなくメールやラインのやり取りが増えた、それだけ情報が拡散しやすくなった、匿名で攻撃することも容易にもなってきてしまった、その結果と言うべきか、電話帳が個人情報リストとして役に立たなくなってしまった、同窓会名簿がクローズになってきた、小さな会でも住所録リストは勿論会員名簿も会員内にも公開されないようになってしまった、年賀状も減少の一途だ。何らかの形でつながりのある知ってる人としか通信できないような社会形態になりつつある気がする。意見を同じくする人のみが固く結ばれ他者との接触がクローズされたサークルが形成されやすくなってきたようだ。社会を形づくっていた個と個との結ばり方が切れやすくなってきたようでもある。そこへコロナだ。
コロナはこの流れを決定づけた。知らない人とは距離を置く、が拡がり、個がバラバラにさせられてきた。これは今まで高まってきた潮流を決定的に後押ししているに過ぎないように思えてしまう。人類はバラバラにされれば生き残れなくなっていく。弱くなる。争いも起こる。
コロナウイルスの騒ぎが始まったころはDNAの特異な形からこれは人工的に作られたウイルスとしか考えられない、といった主張がいくつかの研究者から提示されていたがそれは政治的にはあまりにも危ない表現となるせいか、このところ言われなくなってしまった。しかし、真実を突いていたのではなかろうか、未だにそう思っている。敵を弱らせるにはこんな風に人の繋がりをバラバラにしていくウイルスが有効なのではないか、といった研究が実は各国でやられていてその故に対策ワクチンがするすると米英ロ中という、いわばきな臭い国々からたちまち大量供給されるようになったということではなかろうか。生物兵器の専門家は誰もが知っているだけにこの舞台のからくりを語ろうとしないようにも思えてくる。
もう随分前から人間社会は見えざる手に導かれて自らが滅びの選択をしてしまっているのではないか、と思ってしまう。突然のように見えるコロナ騒ぎもその脈絡の上に乗っているだけなのではなかろうか。

旅行記の方は、何だか行間に滲み出る自慢話を読まされているような気がしてきて読むのが辛くなり途中でやめてしまった。

今は緊急事態宣言下の梅雨をどうやってやり過ごそうか、そればかりが頭を占める。
本当にどこへ向かっているのだろうか、我々は。

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2020年5月 3日 (日)

コロナ感染の嵐が収まらない

どうしてこんなに収まりにくいのか、ここ数日ネットであれこれ読んでいて自分なりにすこしづつ分かった気がしてきた。玉石混交の情報が飛び交っているが、信頼できそうな山中伸弥教授のサイトを主に見ている。

思いつくままにに今そうか、と思っていることを書いていくと:

1.唾液にウィルスが多数出てきている、くしゃみというより喋ることで唾液を浴びて感染する様だということ
 山中教授のサイトに有益な論文が多数紹介されていて勉強になる。唾液感染については数か国から論文が出ていて本当らしく思える。PCR検査を唾液を用いて行っても鼻の奥の粘液で行っても結果は変わらなかったという。ウイルスの濃度は唾液の方が濃いという論文もある様だ。マスクは重要ということになる。当初米国ではマスクは感染防止に殆ど役立たないという見解が米CDCから出されていたがあれは間違いだったようだ。こんな間違いが幾つかあって爆発的感染が起こっているのだろう。

2.未発症の感染者は感染力があり発症寸前で感染力は最大となる。
これも論文が出ている。発症後は感染力はむしろ次第に下がってくるという。日本のPCR検査は発症後それも症状がかなり進まないと検査を受け付けていない。感染力の強い未発症者の把握には全く役立っていない。従って誰が未発症の感染者であるかは全く分からない、もしかして自分もそうかもしれない、こんな状態で感染を抑えるには人に接触しない、人と話さない、人前で声を出さないということに尽きる。3密でなければいいということにはならない。未発症の感染者を把握分離する努力がなされない限り終息の目途はないだろう、ひたすら今の自粛を続けるしかないだろう。これでは経済が潰れてしまう。恐ろしいばかりの政治のミスが行われているようだ。政治の言うことを聞かない厚生官僚のミスといってもいいのかもしれない。

3.握手するハグするキスするという欧米の生活様式は感染拡大に極めて都合がいい 
これが欧米の爆発的感染を生んだものと推定される。このような感染はMERSでも起こっていてその経験がある韓国では検査を網羅的に行うことの重要性が身に染みていて今回の適切な対応となっているとも推察される。日本では検査を一気に拡大しようとする国の方針が全く見えず追加の補正予算にも含まれていない。厚生官僚にその気が全くないように思えてしまう。

全体に感じることは、森友事件で明らかになった官僚指導部の驚くべき質の低下がここでも明らかになってきたように思えることだ。官僚組織をあるべき姿に改めるにはどうすればいいのか、暗澹たる気持ちとなる。根底からひっくり返さねばこれはダメかもしれない。そんな風にさえ思ってしまう。
このコロナ感染は日本を全く変えてしまうことになるかもしれない。

 

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2020年4月23日 (木)

「アフガン・緑の大地計画」を読む

 

コロナ騒ぎで近くの市立図書館の分館も閉館になってしまって2週間前くらいたつ。手持ち無沙汰の日々が続いている。
勿論家にいてもやることはいくらでもある。時々料理を手伝ったり、家や庭の手入れをしたりが大半ではある
。 庭の松の剪定は眼も大体よくなったのでまた続けているがなかなか終えられない、伸びすぎだ、結構疲れる、合間にやはり本を読んでいる。

Afgan1 図書館から借り出してきていた本は暫く返さなくてもよくなったのでのんびり読んでいるがその中に非業の死を遂げた中村哲の「アフガン・緑の大地計画」というのがあって少々圧倒される。
市立図書館の中村哲の著作の中でもこの本は人気が高く3ヵ月くらい順番待ちしてやっと貸し出し順が周ってきた本だ。ちょうど貸し出しとなった翌日から突然のコロナ閉館となって、普通は2週間の返却期限のところが6週間も借りられることになりゆっくりと読んでいる。
読みやすい本だ。医療支援の記載は一切なくて治水工事の全容の記述に徹している。実行された事業を細かな数値や写真や表を用いて報告書として書いたもので、今後も具体的に作業を進めるにあたっての便利な手引き書として役立つように書いたとしている、実用書といってもいい。著者が土木工事の実際の専門的手順を自ら学びこれに江戸時代の治水技術の粋といってもいい筑後川山田堰の調査研究を加えて洪水と干ばつを繰り返すアフガンの河に適した治水工事を設計、施工指導している。医術ではもはやできない、水を引き大地を変えるという治療を、計画を立て図面を引き資金を集め多くの現地の人を動かし時には自らブルトーザを動かして実現している。それがリアルな写真と数表で示される。驚くべき本だ。人気が高いわけだ。
その役割がたとえ巡ってきたとしても自分にはこんなことはできなかったな、と生き方を振り返ってしまう、その馬力と頭脳に脱帽してしまう。

山田堰もこれは見てみなくてはいけない。外出自粛の折そうポンポンと見に出かけられないが折を見て訪れてみAfgan2 よう、せっかく福岡にいるのだから。

 

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