コロナでコンサートや歌舞伎の有難さが身に沁みる
コロナの緊急事態宣言はまだ続いているが、不要不急の活動はどこまではいいのか分からない、誰にもわからないのだろうと思い、今のところ県外には出ない、遠出も控えて10km圏内くらいで過ごしている。コンサートや観劇はダメという訳でもないのでルールに従って適宜鑑賞することにしている。今月は今のところアクロスに1回と博多座に一回出かけてみた。
アクロスは13日の拡大ランチタイムコンサートと銘打った公演で、ふかわりょう司会の気楽なクラシックコンサートだった。座席は1つおき、入場時自分で半券ちぎり、体温非接触計測、クロークなし、喫食は無し、飲水は決められた場所のみ可、ブラボー等の発声なし、くらいがコロナ対策で、もはやそんなに違和感はない。歯抜けの座席配置では舞台が前の人の頭で遮られることもなく、かえって見やすくていい位だ。肝心の演奏は、メゾソプラノ、チェロ、ビオラ、ヴァイオリン、ピアノ、の気ままとも思える合奏で、歌声と楽器の響きがゆるく心地よく流れる。久しぶりにいい時間が過ごせた思いだ。3時に帰宅。のんびりした午後に潤う。
博多座のほうは19日11時半開演の2月花形歌舞伎昼の部を見に行った。こちらも自分で半券を切って入場、体温非接触計測がある。昼食は売られている弁当を買って、休憩時間に1階フロアに開設されている休憩エリアで食べる。そんなに混んでもいなくて、問題はない。座席はこちらも一つ置き、但し水は座席で飲める。掛け声禁止、位でこちらも違和感ないような気がしていたが、歌舞伎で見えを切るところでどこからも掛け声がないのはやはりふにゃふにゃしていてよくない。掛け声は歌舞伎の一部のようになっていると改めて感じる。
舞台そのものは綺麗で伝統的な美しさがあって、世界に誇れる芸能を感じさせた。はじめの「正札附根元草摺」は勉強不足で何の舞踏か筋書きが解らずじまい。でも女形の女らしさが出色だ。後方の長唄、三味線などは黒い舞台用のマスクをしているところが如何にも現在を表していて面白い。話の筋について戻ってネットで調べるといわゆる曽我ものの有名な舞踏と判る。これ位は知っていないといけないようだ。次の「松浦の太鼓」は語りについていけて楽しめる。赤穂浪士の討ち入った吉良邸の隣にあった松浦邸の話だ。山鹿流の陣太鼓が鳴り響くのだが、そういえば山鹿流は松浦に伝えられた流派だったと思い出す。後で調べると山鹿素行と吉良、松浦との交流の歴史が討ち入り事件の背景にあったようにも思われ面白い。ともかく舞台に引き入られていくとコロナの白々とした世界が色を取り戻したようにも感じられていい。
エンターテインメントの世界はコロナで散々な目にあっているように見えるが、こんな状況になると却ってそれらが不要不急では決してないことが身にしみてわかる。
コロナでは世界中の人々が同時に貴重なことを学びつつある、そんな風にも思えてきた。全てのことには無駄ということがないようだ。