俳句をだらだらと作っている。
一応現代俳句協会のインターネット会員だ。毎月20日までに5句を投句、集まった作者名は伏せられた会員の投句千句位が送り返されてきてこれから5句を選句して再び送り返す、これが集計されてその月の結果として発表されるという繰り返しを行っている。
投句は31文字よりは少なければ受け付ける、季語は問わない、という自由なスタイルだ。
毎月1票くらいは自分の句どれかに票が入る。
例えば先月は
旅の終わり疾走する闇の深さ
に1票入った。
千句のうちからこれと思って選んでくれる人が一人いるだけでうれしくなる。誰かの心には確かに届いたという証拠が力を与えてくれる。
17文字ではとても足りないといつも思うが時々17文字さえ埋まらない広すぎる世界を感じることがある。少ない文字に広い世界を内包するというところに日本文化の形があるのだろう。
選句していると嫌になる時がある、その匂いが臭くてもう読みたくないと思う時がある、詠んでいる人のしたり顔を想像してしまう。でもルールだ、と続ける。多様な俳句があり多様な人がいることは受け入れなければならない、それが人の世を生きるということだと思っている。それが面白い世の中をつくっているのだと思っている、
半旬程前にモーターショーに出かけた、といっても福岡で開かれた”巡業”だ。本場所の東京モーターショーに比べると随分簡素だ、展示されている車の数が少ないし技術展示がほとんどない。その分魅力が少ないためか空いていてゆっくり見れるのがいいと言えばいい。
展示してある車には順番待ちしなくても大抵運転席にすぐ座れる。昔より少し広くなった運転席は各社確かに新しい。メーターが機械式でなくディスプレイ
式のも結構ある。家電に近づいているような気がする。
奇妙なのはサイドブレーキだ。サイドに位置するハンドブレーキという形を守っているのは外車くらいで、ボタン式のが目に付く。説明員に聞いてもその場所が明確にわからない車もある、サイドブレーキがである。驚いてしまう。
座席の調整は会社によって方式が違い未だに解りにくい、これくらいは何とか統一することができないものかと思う。
踏み間違い防止ということだろうかブレーキペダルとアクセルペダルを思いっきり離したクルマもあるし、操縦性重視のためかかなり近いクルマもある。
基本部分の仕様は統一する、あるいは統一したクラスを作る方向が必要なようにも感じられるが、当面はこんなばらつきは多様性として受けいるねばならないのだろう。好みの問題と安全の問題とをうまく折り合わせねばならない。
それにしても技術展示がない。自動運転は?とトヨタのところで聞くとニッサンのところに映像があるようです、と言ってくれたりする、”地方巡業”では技術展示してもしょうがないということだろうか
、あきれるばかりだ。
外国車は目を引く女性コンパニオンを各社起用していて華やかさがある、いかにもモーターショーという雰囲気がある。
ランボルギーニの派手なクルマがあってお値段は?と聞くと色々入れてざっと6000万円という答えが返ってきて
耳を疑う。九州でも結構売れているというからさらに驚きだ。
確かに福岡の街中はヨーロッパの外車が目に付く。福岡人は見栄っ張りが多いのだろう。
それにしても展示された外車はすべて右ハンドルだった、当たり前に売り込んできている。国産車よりも外国メーカー各社に力が入っている印象が強い。
国産車は海外市場を考えてじりじりサイズを大きくしていっているようで、本当の国内向けは軽自動車位しか残らないのかもしれないとも思わせる。
国産車の国内市場を見る目のトーンダウン、海外各社の日本への売り込みの強まり、モーターショーはグローバル化していく経済を目の当たりに見るようで面白い。
俳句も外国人で作る人が結構いるようになって、国内・外国の敷居が低くなってきているのを感じる。俳句に流れる小さくまとめる中に広がりを持たせるという日本文化のコアの部分が自動車にも流れていて世界の多様な人がいつかは小ぶりの日本国内向けのようなクルマに価値を見出すようになるのかもしれない。
この先どうなっていくのだろうか、そんなことを考えさせてくれるだけでモーターショーも俳句も面白い。