2015年12月23日 (水)

俳句とモーターショーと

俳句をだらだらと作っている。

一応現代俳句協会のインターネット会員だ。毎月20日までに5句を投句、集まった作者名は伏せられた会員の投句千句位が送り返されてきてこれから5句を選句して再び送り返す、これが集計されてその月の結果として発表されるという繰り返しを行っている。

投句は31文字よりは少なければ受け付ける、季語は問わない、という自由なスタイルだ。

毎月1票くらいは自分の句どれかに票が入る。

例えば先月は 

旅の終わり疾走する闇の深さ 

に1票入った。

千句のうちからこれと思って選んでくれる人が一人いるだけでうれしくなる。誰かの心には確かに届いたという証拠が力を与えてくれる。

17文字ではとても足りないといつも思うが時々17文字さえ埋まらない広すぎる世界を感じることがある。少ない文字に広い世界を内包するというところに日本文化の形があるのだろう。


選句していると嫌になる時がある、その匂いが臭くてもう読みたくないと思う時がある、詠んでいる人のしたり顔を想像してしまう。でもルールだ、と続ける。多様な俳句があり多様な人がいることは受け入れなければならない、それが人の世を生きるということだと思っている。それが面白い世の中をつくっているのだと思っている、


半旬程前にモーターショーに出かけた、といっても福岡で開かれた”巡業”だ。本場所の東京モーターショーに比べると随分簡素だ、展示されている車の数が少ないし技術展示がほとんどない。その分魅力が少ないためか空いていてゆっくり見れるのがいいと言えばいい。

展示してある車には順番待ちしなくても大抵運転席にすぐ座れる。昔より少し広くなった運転席は各社確かに新しい。メーターが機械式でなくディスプレイMotorshow15b 式のも結構ある。家電に近づいているような気がする。

奇妙なのはサイドブレーキだ。サイドに位置するハンドブレーキという形を守っているのは外車くらいで、ボタン式のが目に付く。説明員に聞いてもその場所が明確にわからない車もある、サイドブレーキがである。驚いてしまう。

座席の調整は会社によって方式が違い未だに解りにくい、これくらいは何とか統一することができないものかと思う。

踏み間違い防止ということだろうかブレーキペダルとアクセルペダルを思いっきり離したクルマもあるし、操縦性重視のためかかなり近いクルマもある。

基本部分の仕様は統一する、あるいは統一したクラスを作る方向が必要なようにも感じられるが、当面はこんなばらつきは多様性として受けいるねばならないのだろう。好みの問題と安全の問題とをうまく折り合わせねばならない。


それにしても技術展示がない。自動運転は?とトヨタのところで聞くとニッサンのところに映像があるようです、と言ってくれたりする、”地方巡業”では技術展示してもしょうがないということだろうか
Motorshow15、あきれるばかりだ。

外国車は目を引く女性コンパニオンを各社起用していて華やかさがある、いかにもモーターショーという雰囲気がある。

ランボルギーニの派手なクルマがあってお値段は?と聞くと色々入れてざっと6000万円という答えが返ってきてMotorshow15a 耳を疑う。九州でも結構売れているというからさらに驚きだ。

確かに福岡の街中はヨーロッパの外車が目に付く。福岡人は見栄っ張りが多いのだろう。

それにしても展示された外車はすべて右ハンドルだった、当たり前に売り込んできている。国産車よりも外国メーカー各社に力が入っている印象が強い。

国産車は海外市場を考えてじりじりサイズを大きくしていっているようで、本当の国内向けは軽自動車位しか残らないのかもしれないとも思わせる。


国産車の国内市場を見る目のトーンダウン、海外各社の日本への売り込みの強まり、モーターショーはグローバル化していく経済を目の当たりに見るようで面白い。

俳句も外国人で作る人が結構いるようになって、国内・外国の敷居が低くなってきているのを感じる。俳句に流れる小さくまとめる中に広がりを持たせるという日本文化のコアの部分が自動車にも流れていて世界の多様な人がいつかは小ぶりの日本国内向けのようなクルマに価値を見出すようになるのかもしれない。


この先どうなっていくのだろうか、そんなことを考えさせてくれるだけでモーターショーも
俳句も面白い。

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2014年1月 6日 (月)

正月が来て

年が明けた。午年ということになっている。午とは正午の午にあたりピークであり衰弱の兆しが現れる様ということらしい、転換の年とみることもできる。馬はあとでくっ付けられただけで馬が午というわけではないようだ。経済ではジュグラー循環という設備投資に起因する景気波動の周期がおよそ10年で十二支の周期にやや近い、最近の景気変動は大きくはジュグPhoto ラーの倍の20年から24年くらいの周期になっているので確かに1990年のバブル崩壊から数えると転換点に達している年にはなりそうだ、衰弱の兆しというとデフレの衰弱ということになるのだろうか。十二支も馬鹿にはできない。

年賀状がくる、ワープロソフトで書かれた表書きが続くが時々全く同じフォントがある。毛筆を模しているだけに全く同じフォントが出てくるとやや興ざめの思いがするものの去年までは気がつかなかったのは生活を変えてどこかゆとりができてきたのかもしれないとも思ってしまう。新しいフォントのようSama な気がして何だろうと調べてみる、自宅にあるパソコンには入っていないフォントだ。ネットの検索でフォントを沢山出して眺めていくとじきに見つかる、C&G流麗行書体というフォントだ。これを使うソフトはと、更に調べて行くと「筆まめ」だ、なーんだ、ということになる。思い直して去年の年賀状も調べ直してみると幾つもこのフォントが見つかる、気がつかなかっただけということの様だ。去年一年かけて細かなところまで自分の生活の変化が及んでいっている様を感じる。正月らしい。

こんな風にしてまた新しい年が始まる。緩い暖かい新年だ。どんな年になるのだろうか、未来を見渡すのはいつも気持ちがいい。

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2013年12月29日 (日)

時代の変わり目が来たようだ

髪がうるさくなってきたので散髪に行った。カットだけの1000円床屋だがチェーン店になって いて合理的にできている。税込み1000円の料金の範囲で十分丁寧だ。2日ほど前に髪を切ってもらった帰りに来年4月からは1080円になりますといわれた。ああ消費税アップだなしようがないと思って店を出たが、歩いていて消費税のアップ分は3%のはずだがと気がつく。
要するに便乗値上げということになる。しかしこれまでは内税表示が政府から義務付けられていたのもあって内税で1000円だったのがこれから8%10%と消費税が上がって行くとなれば1000円の看板は税無しで1000円とせざるをえまい、何しろ1000円というのがキャッチコピーなのだから このせりふは変えられない。内税5%から外税で8%とする増税以上の値上げも致し方ないのかもしれない。

こんなことが方々であるのか今年10月からは内税表記でなくとも可とする特例措置法が施行された、政府が便乗値上げしろといっているにも等しい。来年の4月からは予想以上の値上げラッシュとなりそうな予感がする。

ジャブジャブに緩められた資金供給に消費税増税という形で政府がインフレに直接火をつけようとしている。
制御されたインフレというものは財務官僚の幻想に過ぎない、来年はどうインフレが暴走していくかを眺める年となりそうだ。

XPのサポートが来年3月で終了するという、そろそろ何か対策しなくてはと買い替え用パソコンのラインアップをネットで調べていて少々驚いた、一時よりは2割くらい価格が上がっていAspire1 るように見える、以前は4万以下でも高性能のパソコンが色々あった、いまはそんなことはない。更にAcerのAspire-1の代替となるような9インチ以下で性能も価格もそこそこのパソコンがほぼ無くなっている、このクラスはipadに席巻された形のようだ。
しかし気象の計算のような作業は普通のパソコン仕様でないと全くできない、旅行に有用な小さなパソコンを持っていくことができなくなるのだろうか。時代は後退しているようにも思えてくる。

後退ではないのだろう、断絶する時代、時代の変わり目で起こるような感触がここにある。
何かスタティックだった時代が終わり目くるめく時代となる予感が漂っている。

どうなっていくだろう、全てのことはまず受け入れる、ただただそう思って生きている。

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2013年8月 8日 (木)

医療はデフレに向かう

Mukuge 次第に年をとってくると病院や検査との付き合いが避けられなくなる。
ヨットを始めて3回くらいのときヨットを陸揚げするスロープの苔で滑って後頭部をしたたか打ったことがあって大事をとって家の近くの脳神経外科で診て貰った。すぐにCTスキャンを撮りましょうとなってこんな街の医者にもCTスキャンがあるのかと驚きを覚えつつ台に乗るとやや小ぶりの装置が頭にかぶってきてすぐに終了する。程なく医者が頭の断面写真を見ながらなんともないようです、と言ってくれた。すぐに結果が眼に見えてこれは安心感がある。6000円取られたのは痛いが便利な世の中になった。
今回は肺だ。地区の肺がん検診というのを無料でやってくれるというので近くの公民館まで出かけてレントゲンを撮ってもらったら、暫くして現像したフィルムが手違いでぐちゃぐちゃになったので
り直したいと連絡が入った。しょうがないかと出かけると今度はデジタルだという。今度は大丈夫だろうと結果を待っていると要精密検査という知らせが郵送されてくる。結節状陰影疑だという。ここ数十年そんな所見は見たことがない、本当かと電話で念のため確認するとそのようなものが見えるので検査してほしいという、ともかく映像をDVDに焼いて送ってもらう、またレントゲンの撮り直しでは被曝上気持ちよくない。数日して送られてきた画像を見てもそれらしい影は見えない。素人だから見えなくてもそんなことも有るかとクルマで10数分のところにある日赤病院まで出かけて診て貰う。ひどく混んでいたが、DVDの映像を出すと普通のノートパソコンで医師が眺めてくれてたぶん大丈夫だが細かく見るためCTスキャンを撮っては、とくる、勿論同意してやってもらう。
今度は胴体で頭のときより少し大きい装置だ、2回息を15秒くらい止めてスキャンする。2スキャンするのが手順のようだが立体にするためだろうか。暫く待っているとまた呼ばれて医師の前のディスプレイに今度は胸の断面が上の方から順に見えてくる。肺のヘリのところに古い病の痕跡が見えるがたぶん風邪をひいた時のものだろう、特に問題ない、肺本体には何もない、と説明してくれる。よく解るし安心できる。やはり検査機関は僅かなことでも精密検査にまわすようだ、これでは病院が混むわけだ。また6000円とられる。この辺りの判定を検査機関のレベルでもう少しきちんとやるだけで医療費は大分減りそうだし病院の混雑も軽減されそうな気がする。CT機器も競争が進み知恵を出せば更にコストの低い機器が登場しうるようにも思える。
技術がもう少し進めばもっと鮮明な画像が手軽に取れるようになるだろう、それだけで医療の無駄な検査の繰り返しは軽減され患者も少しは気楽な生活ができるようになるだろう、医療費もいくらか下がるだろう。技術が進歩して医療のコストを下げ医療のデフレを引き起こす必要があるのだろう。供給過剰気味の医院には倒産の圧力がさらに加わることになるかもしれないが。
デフレといわれようと倒産が増えようと無駄を省きコストを下げる努力はこの国には必須のことに思える。それを望ましいことと扱えない経済学ならそれは経済学の遅れというべきものなのだろう。まだまだ技術も経済学も、そればかりか学問という学問はすべからく未熟の塊なのだろう。
それだけ創造する喜びが人類の前途には広々と広がっているということのようで考えをめぐらしていくと楽しくなる。

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2013年6月19日 (水)

携帯を洗濯した梅雨の日も

ぬるま湯のような空気が早朝からあたりを満たしている。梅雨前線尾南側に入っているようだ。北関東ではこんな生ぬるい夜明けはなかったような気がしている。南はぬるい。

この間 携帯電話を洗濯してしまった。もう何度目かになる。近くのドコモ店に散歩がてら歩いていって何か手頃な機種は無いかと相談してみる、スマートフォンはどれも重くて持つ気がしない、Foma携帯も厚ぼったくて嫌な感じだ。水につけてしまった携帯は三菱の最後の機種D705iμだ、前にも踏んづけて液晶を壊して同じ機種の2代目だったが小型で軽く胸のポケットに難なく収まっていた、今回もなかなかいい代わりが見つからない。軽い機種としてドコモの店員が出してきたのはなんとブラックベリーだった。こんな時代遅れの機種を出してくるとはドコモもおいつめられているのだろうか。軽くてシンプルな携帯は需要があるはずなのにドコモは作ろうとしない。スマートフォンでは嫌だという顧客を見捨てているような気がしてならない。まだまだ携帯には面白い未来がありそうに違いないのに、と思って虚しく店を出る。やはりネットのオークションで同じ機種の中古品を買うしかない、結局かなり傷んだ中古品を3100円で競り落とす、ちょっと高いかもしれないが競合者がいたのでしょうがない。程なく送られてきたが予想通りで機能は問題ないがキズやらさびやらが多くて気持ちよくない、手Keitaix 垢にまみれているようでもある。液晶ガラスのキズを取ろうと試しに磨き粉を使ったら傷を深めてしまってこれはいけないと磨きクロスをネットで発注して磨き始めるがフラットに磨くことができず表面の大きなうねりが痛ましく残る。しかし手垢にまみれた部分はなくなったのでまあよしとする。キーの部分のアルミがへこんでいるのをアルミテープで隠したりと手を入れていくとやっと自分の携帯の気がしてきた。これでまた暫く持ちこたえられそうだ。大きくて重くてお財布ケータイ機能もなく維持費の高いスマートフォンを嫌がる顧客に応える機種をドコモはその内出してくれるだろうか。そうでもしなければドコモは沈み行くのみなのではなかろうか。どうなっていくのだろうか。
携帯の不振、家電の不振が日本経済の低迷の主要な部分でもあるような気がしている、この時代に生きる人にとってのいいものという漂流する価値のスケールにあったものが作り出せなくなったのが不振の主因のようにも思えている。

円高も戻って株も下げてアベノミクスは思った程楽観的な未来をもたらしてはくれないようだ。本質的に技術の進歩は物価を下げる、そのことを忘れたかのように物価目標を掲げる経済政策とは如何なものだろうか、デフレの尺度は昔と同じでいいのだろうか、ずっと思ってきた。良いものを安く作るという考え方が松下幸之助以来の日本の製造業のバックボーンだった、見方を変えればデフレそのものだ、これを否定しながら経済運営を旧式の経済学に頼るのは無理筋のように思えている。物価が上がらないのならば輪転機でお札をすればいいのじゃないか、と揶揄している海外論調もあるようだ。もしかしたらそういうことかもしれない、いいものを安くし続ければその真の価値に見合う通貨の量を増やさなければ釣り合わないのかもしれない。

ぬるい空気に浸りながらとり止めも無く考えを遊ばせている。梅雨の雨はこんな遊びももたらしてくれて楽しい。

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2013年1月29日 (火)

アレクサンダー・ハミルトンに行き当たる

米国の財政の崖は議会でもめた末結局高額所得者への減税取り止めと歳出自動削減開始期限の3ヶ月延長で問題が先へ延ばされた。米国債発行上限問題も同様に3ヶ月先へ延ばされ当面の危機的状況は回避されたが 議会もどの道歳出を削減しなければならないことそのものは避けがたいとの認識は共有しているように見えて、何処かに着地点があるのは明らかの様だ。債務上限問題でも、上限を定めることそのものが憲法修正14条の4項に抵触しているとの指摘が議会の民主党に根強くあるようでどうも憲法論からいけば解はありそうにみえる。オバマが政策として憲法論議はしないとしているだけで、いかようにでも処置可能な問題にみえてしまう。オバマによるタクティクスとしての危機の創出との雰囲気がなくもない、政治の世界だ。
アメリカのこんな財政のごたごたの記事をいくつか読んでいくと時折ハミルトンの名が出てくる、独立戦争時代のアレクサンダー・ハミルトンだ。ネットや図書館から本を借りてきて少し調べてみる。硬い話にはネットはやや頼りない。
調べ直してみるとこの人は天才としか言いようが無い、合衆国憲法の多くはこの人の手になっている。独立戦争でも勝利を決めたヨークタウンの戦いを指揮して軍人としても優秀だったようだが、財務大臣として破綻状態にあった各州の負債の全てを連邦政府が肩代わりし連邦債を発行して独立戦争の戦費の重い負担から経済を開放した、また連邦銀行の創出、違憲立法審査権による法の支配を確立、そのほかその後の世界の自由主義国家の運営の基礎となった手法を次々と編み出している。革命をプラクティカルな社会の仕組みに落とし込むのにことのほか才能があったようだ。

最近でもギリシア危機にともなうユーロ債の発行に当たってハミルトンが独立戦争後に州政府の赤字債権を全て肩代わりして連邦債を発行した手法が良い手本として見直されるに至っており現代にもその知恵を及ぼしている。現代に至るアメリカの具体的な仕組みを作り出した人と言ってもいいようだ。先の憲法修正14条4項もハミルトンが “政府はその仕事としてゆだねられた目的を達成するためには、公共善と国民感情以外のいかなる制約からも自由でなければならない” と(「フェデラリスト」に)述べた、その精神を具現化したもののように思える。

ハミルトンは没落したイギリス移民の子で10代の初めに両親をなくしたものの偶然のようにしてその才能を発揮しうる機会を次々に得て人生を送った、そして最後は決闘で命を失った。時代は必要なタイミングで必要な資質の人物に光を当てて活躍の場を与える、不思議なばかりだ。こんなのを見ていくと結局人類の歴史は個人の才能をつないだものでしかないと思えてくる。
ハミルトンは基本的には殆どの人間には徳などないと語っており、所謂性悪説でアメリカの民主主義社会の仕組みを作り出しているようだ。確固たる民主主義の社会はそうでなければ持ちこたえることができないのだろう。今起こっている、アラブの春の連鎖が思わぬ挫折に至りそうなのもハミルトンのようなプラクティカルな見方が革命のような時には特に重要ということを示しているようにみえる。また、アメリカの銃社会も元を辿れば 人は何も信用できない自分の身は自分で守るしかない、という性悪の考え方に行き着くような気がしてくる。
そろそろ終りが来てもいいはずのアメリカの時代がしぶとく続いているのも、こんな風に仕組まれた民主社会に勝る仕組みをまだ人類は考え出すに至っていないからなのだろうか。
新たな天才を必要とするそこまで歪がたまってはいないというのが今のこの世界なのだろうか。幸せでもあり物足りなくもあるということだろうか。危機が演出される今の状況では まだステップが進むまでは大分かかりそうだ。

こんな風に考えを廻らせて遊んでいると、外では暖かい日差しが心地よくなってきて、そろそろ寒い冬もおわりのようだ。季節には何の演出も無い。

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2012年2月22日 (水)

デフレの終わり

予定通り暖かくなった。北関東特有の切り込むような乾燥した寒さにやっと終りが来た。終わらない冬はない。明けない夜はない。
日銀が突然インフレターゲット1%を発表した。やっとデフレの終焉に向かう努力が真面目に行われる。
ともかく今はデフレといわれる、消費者物価指数の計算を追うと、この6ヶ月で前年同月比のマイナスが最も大きい去年11月のデータは-0.5%となっている、変動の大きい生鮮野菜を除くとマイナスに最も寄与しているのは教養娯楽費の-0.46%で、このうちの殆どがテレビの値下がりだ。
デフレになっている要因の大きな理由に技術の急速な進歩があるということになる。パソコンは高性能で安くなり液晶テレビは予想外のスピードで安くなった。貨幣の量とは関係ないところでデフレが作られている。本来は喜ぶべきことなのだろう。インターネットは物価を下げている、これも貨幣の量とも中国の賃金とも関係ない。勿論日銀がこんな動きを弱められるとはとても思えないし弱めるべきでもない。テレビやパソコンやカメラのようなものを除いた物価の計算でデフレを議論するべきなのだろう。
日銀の通貨政策で物価が上がるとすれば資産・不動産に行くのだろう。しかしこれは一旦動き始めると日銀のコントロールできる代物ではないような気がする。また怪しげな地上げ屋が跋扈する時代になるのだろうか。
暖かな春は見る見る過ぎてまた熱い空気が満ちる夏が直ぐにやってきそうだ、季節は巡るしかし同じ夏は2度とは来ない。今度はどんな夏になるのだろうか。

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2011年10月19日 (水)

ウオール街を占拠せよが解らない経済専門家

村上龍のメルマガを見ていたらウオール街を占拠せよ運動の解釈を経済の専門家があれこれ書いているがどうにも解り難い運動という表現に行き当たった、分析も何だか的を外れている。しかし普通に生きている目線から見れば、企業の業績を上げるためにレイオフが横行、失業率が高止まりしているが、人を切って業績を上げることを要求しているのはウオール街であり、これで恩恵を受けているのはほんの一握りの経営陣と金融街でしかない、多くの失業者の上に企業の繁栄が成り立っている、これはおかしい、という全くストレートで解りやすい運動と思える。盛り上がりを見せているのはもはや耐えうる限界を超えているということなのだろう、こんなことを感じない経済の専門家というのもなんだかどうしようもない人種に思えてくる。
日本でもどこでも行政の赤字削減でも 人を減らして(業績を)改善するという発想が行き渡っている、これは根本的に変だ、何のための経済の活動なのか、人の生活を良くするためではなかったのか、という疑問なのだろう、警報なのだろう。こんなことをしていては消費がふえるはずもなく、特に消費への依存が高いアメリカ経済は簡単に立ち直れるわけも無い。

警報が発せられるのにこれを感じない、津波の逃げ遅れのようだ。

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2010年8月21日 (土)

心拍計その2

ジョギングに使う心拍計を買って1年がたつが突然作動しなくなった。販売元に状況を伝えて現品を送ると電池の接触が悪いようだ、蓋と電池の間にスペーサとして紙をかませればいいようだ、と送り返してくる、ともかくその様にして数回トレーニングに使ってみるがまた動かなくなる、よく見るとベルト送信部の接着が剥がれてきている。これ以上手を入れてももはや無理との感触だ、買いなおそうとネットで心拍計の検索を始めて驚いた、1年前に較べ随分と商品がヒットする、それも安いものから順にバラエティに富んできているし全体としても低価格化している、ここに市場があると見て色々参入してきた図式だ、どうやら健康機器Solus に需要が動いているようだ、そんな時代なんだ。ともかく最もシンプルで価格も手頃なSOLUSの腕時計タイプをAmazonで発注するとすぐに届く、中国製らしい、で大丈夫かと早速トレーニングしている健康の森で施設の心拍計を借りて比較しながら運動してみる、機能はまともで値もいい、使えそうだ。ネットでもう少し調べるとSOLUSという腕時計ブランドは心拍機能で勝負しようとしているらしい、そこそこのものの感じがする。
こんな風にしてデフレが進行しているのかもしれない、とふと思う。壊れて買いなおすと同じ程度の機能であれば大抵安くなっている、それを当然のように受け止める。価格検索サイトでも大体が時と共に価格は下がってくる。デフレでは借金の重みが次第に増していき投資意欲を損ない経済が縮小均衡に向かう、資本主義社会では始末に悪いというのが教科書的な見方だが、製造品に限れば いいものを安くとの技術が進みそのようなことは常に起こる、一方で価格でなく消費する財のトータル価値は上がり続けている。考えてみれば随分前からそうだったのが古典的な需要ー供給のアンバランスのもたらすインフレで覆い隠されていただけで バランスが取れてくると本来的な価格低下が隠しようもなくなったとの気がしてくる。経済のものさしを変えねばならなくない時代にさしかかっているようだ、GDPでなく、幸せの尺度を使わねばならない時代なのだろう、考えてみるとノーマルな時代になってきたようだ。
物が壊れると時代を読めてくる、落胆からどこかわくわくする感じに変わっていく、その気持ちの移ろいが面白くもある。

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2010年7月 8日 (木)

難しい時代は

ラフマニノフのピアノ協奏曲2番が流れている、頭が動かない時に何故か丁度いい感じがする、あまり考えなくていい曲のような気がしている。
経済の回復の滞りが世界のあちこちで起こっているようだ。アメリカの金融バブル崩壊以後、需要の急落で企業はとにかく人件費を削ってリストラして経営を立て直した。巷には失業や低賃金が溢れ奇妙にも企業だけがあだ花のような繁栄を取り戻したかに見えた、しかし雇用が戻らなくては消費が戻らない、そんなに旨くことは運ばない。人件費削減の持つ一つの結末を長引く需要の低迷として今目の前で見ている思いだ。因果は巡る。以前より企業は在庫を持Imgp1466 たないスリムな経営こそが善だとしてこぞってジャストインタイムや1個流しに走っていた、需要の激しい変動の波がダイレクトに製造ラインやサプライヤーの稼動に伝わる、振れが大きくなるのを少ない人員で立ち向かう、無理が来る、アウトソーシングでの変動の吸収に頼るしかなくなる。不調になれば派遣切りが横行し失業が増えて需要の山谷は増幅される。ここでも因果は巡る。日本では こんなサイクルにはまってもがいていた企業に政府・官僚は派遣法に改正を重ね、派遣はやめろ とにかく雇用しろと迫る、経済のダイナミズムを変えずに出口で無理につじつまを合わせようとする、なんだか無茶だ、企業の力が衰えていく、官製不況の一面も明らかにある。30年以上前の古典的労働形態に戻れといっているようだ、世界に対抗してそれでは持たない、セーフティーネットの徹底した整備が本当は必要なのだろう。欧州もモデルになるほど旨くはいっていない、政治家やマスコミは怪しげな北欧モデルに幻想を抱く、が どこにもトータルとしての手本は無い、ともかく全体システムの力学を尊重しなくては支えられない。これは暫く難しい経済の状況が続きそうだ、しかし100年もすれば少しはカタがついているだろう、どういう形であれ。
流れている曲はラフマニノフ自身が1929年に演奏したものの録音だという。演奏するには難しいといわれるラフマニノフも作曲者自らの手によるとあっては聴く分には頗る心地がよい、難しい時代はただただ聴き手としてやりすごすしかないようだ。

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