2013年4月25日 (木)

アジアで地震が続く

このところアジアで地震が続いている。イラン、パキスタンの地震はアラビアプレートがユーラシアプレートを押し込んでいる地点で起こっているし、四川の地震はインドオーストラリアプレートがユーラシアプレートを押して圧力がチベットの反対側に伝わって生じたようにみえPureto る、三宅島の地震はフィリピンプレートが北米プレートを押し込むあたりだし、東日本大震災とそれに続く地震は太平洋プレートが北米プレートを押し込んだところで起こっている、なんとはなしに海側のプレートが押す圧力を強めて地殻がパリパリと割れていっているように感じる。ユーラシアプレートや北米プレートという陸のプレートがこうも押し込まれている理由は何なのだろうか。普通に考えればマントル対流が活発化していることになる。それはなぜか、少し調べてみる。マントルは上部と下部に660km深さ辺りを境にして物理的に分かれており、流動性がより高い上部マントルがプレートの運動を支配しているようだ、マントルが上昇してくる中心は太平洋とアフリカの2カ所で柱状に上がってきているらしい。
イラン、パキスタンの地震はアフリカのマントル上昇が関係しているようであり日本、中国四川省の地震は太平洋のマントル上昇がもたらしているようにみえる。しかし同時期に2つのマントル上昇が同期するというより、これはユーラシアプレートの沈降が引き金となっているとすると考えやすい。調べていくとどうやらプレートの沈み込みで生ずる冷たいスラブが深さ660kmのマントル境界に相当溜まっているようだ、これがそろそろ一杯になってきたのかもしれない。4400万年前に起こったらしいマントル境界を突き抜けての沈下、上昇であるスーパープリュームが今おこりかけているというのは大げさかもしれないがミニサイズの類似のマントル変動が始まろうとMantoru しているような気がする。4400万年前はブレートの移動方向が大きく変わる、一部のプレートの消失する、などの大きな異変が起こっているようだ。時間スケールが途方もない現象だから今それが始まるというのも何だか軽薄な感じがするが、冷たいスラブがユーラシアプレートの下に相当溜まっているのは事実だから(添付図は深尾良夫氏による)そこらあたりが何かを引き起こし始めると考えるのはおかしくはない気がする。
しばらくは陸のプレートの縁で大きな地震が繰返されそうだ。あきらめて身構えるほかない、数万年はそんな時代が続くのだろうか、もっとだろうか。なんとかならないかと思うが、マントルのこの大きな運動は人間の手に負えるものではない。地球に付着している人類というカビのような存在はとても地球の物理学を変えることなどできないだろう。一方でマントル対流によってプレートが移動し大陸が分散し変化に富んだ地表の環境が生まれたともいえる。地殻の変形による地震におびえ続ける、こんなどうしようもない不安はこの緑の地表、宇宙に浮かぶ奇跡のような星地球に住む代償のようにも思えてくる。全てを受け入れる心が大事なのだろう。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月 4日 (金)

次々にブラックボックスが破裂している

時々10年前は何をしていたのだろうと思う。1999年の12月。思い出さない。過去がこんなに軽いとは思わなかった。
11月の終りにチュウヒも もう来ているだろうと渡良瀬遊水池に鳥を見に行った。ハート型の池には鴨はまだ少なくて,他には頭の黒いカンムリカイツブリが遠くに居るくらいだ,今年の渡りは遅いのだろうか。鷹見台に回るがオオタカとチュウヒが一羽くらいでこれも少ない。風が弱いとチュウヒもあまり出てこないような気がするがそれにしてもひっそりしている。夕刻のねぐらいりは期待できるだろうか、と危ぶみながら陽が沈む頃ゴルフ場に通じる道の入り口付近まで来る、見ると駐車の列ができている。遠くから来ているクルマもいるようだ。駐車の列に続いて、葦原を見始めると次々にハイイロチュウヒが現れる、ついには見事にも美しいオスが葦原にダイブする様をスコープでつぶさに見る、こんなに良く見るのは3年ぶりではないか。ちゃんと渡ってきてくれる、いい場所なのだろう。3年前の記憶は昨日のことのようによみがえり眼前の光景と重なる。
しかし、10年前か、遠い、この10年で世界は大きな幅で揺れ始めたように思える。

最近気になるのはクライメイトゲートだ。クライメイトゲートという呼称となった温暖化データ捏造暴露事件は、捏造した(trick)と10年前にメールに書いた問題の所長が辞任して米国議会も動き出しますます深まりを見せているが国内メディアは奇妙なほどの沈黙だ、まるで報道規制がかかっているようだ。こちらのほうが怖い。温暖化が本当は怪しいかもしれないという事実の暴露はもはや殆どの人にとって困る事態になっているような気がする。温暖化対策として多くの研究費が支出され電気自動車や風力発電のような事業が数多く起こされている、今更違ってましたでは立場を失う、勿論メディアも温暖化は大きな問題との立場で報道してきた。これを覆すような事態に対し日本の報道機関はクールに伝えることができなくなっているのではないか。かねがねファシズムが起き上がる時は誤った理念が大多数の支持の上に形成されていくという歴史的事実があって不思議に思えていたが、ファッショとはこんな形をして人々を襲うのではないか、と思いが至る。この捏造問題の不気味なところは幾つかあるが最も気になるところは、暴露されたメールで関わっている第一級の研究者達が国を越えて口裏合わせをしているのだが基本的に一般の人を馬鹿にしてどうせ理解できない、自分たちで操れるという感覚がにじみ出ている、そして結局世界中の人々を本当に操ることができていたことにある。同じ感覚が報道機関にも流れ、予算獲得に走り回る研究者にもどこか流れているようにも思える。それを感じてしまう。
数百年に及ぶ世界の平均気温の推移が1度以下での幅で示されてこれを問題にしているということ自体もっと疑ってかかるべきだったのだろう。Briffa3 最もわかりやすい木の年輪による世界の平均気温の推定が実は近年の温度計による計測と繫がっていない、つまり基礎データとして使うにはまだまだ議論が必要という事実がこの捏造で隠されていた。 温暖化の議論はスパコンの計算に多くを拠っているがそもそもスパコンの計算の妥当性を検証している計測データが怪しいのではスパコンの計算の信頼性も揺らいでくる。
専門家の議論に任せてブラックボックスとして結果だけを受け取る、このことのあまりの危険性をつい最近サブプライムローンの破綻として全世界の人は思い知らされたはずだった、また出てきてしまった。平易な言葉で誰もが意見を言える場にこんなことは晒さなければならない。事業仕分けが多くの人の支持を得たのはその感覚が流れているからなのだろう。ノーベル賞受賞の科学者が揃って事業仕分けはおかしいという的外れな意見を陳情する、そういう科学者は人々を馬鹿にしているのが透けて見える、何も解っていない、ブラックボックスの中でうごめいている人は一旦下がってほしいのだ。

次々にブラックボックスが破裂している。
後10年でどう変わるだろうか。どこか世界は持ちこたえられなくなってきているのが気がかりだ。

| | コメント (0)

2009年11月12日 (木)

ノースウエスト188便

最近の航空機を巡るトラブルでちょっとした話題を呼んでいるのが10月21日にノースウMine エスト188便が起こしたミネアポリス空港通過事件だ。サンディエゴ発ミネアポリス行きのA320は離陸後巡航飛行に入ってまもなく管制や会社の再三の交信にも全く応答しなくなり、地上ではハイジャックかと戦闘機が待機した、着陸予定時刻の5分前になっても降下の気配が無いことから客室乗務員がインターコムで着陸予定時刻を催促してやっとパイロットはミネアポリス上空を通過していたのに気がついた、という事態だ。飛行自体は150マイル程行き過ぎていたのを引き返して無事着陸したのだが、2人ともが居眠りをしていたのではないかと騒ぎになった。飛行中のパイロットが居眠りをすることは知られた事実で一時期NASAが真面目にその影響を調査した、その結果眠いのに無理して起きて操縦するより巡航中短い間居眠りをしたほうがむしろパイロットは判断が迅速にできるようになり安全、というものでNASA NAPともいわれた。米国ではパイロットの居眠りは禁じられているが米国以外では容認している国もある。しかしこれはあくまでも1人は起きているのが前提で2人とも寝てしまうのは論外だ。
  ところが調べが進むとこの188便は居眠りではなく両操縦士がデルタとノースウエストの合併の結果生じている新しいフライトスケジュールについて私用ノートパソコンを見ながら白熱した議論を続けていて熱中のあまり管制の呼びかけにも全く応じなかった、ということが明らかになった。きついフライトでの過労のための居眠りであれば同情の余地もあるが、職務放棄では容赦ない、たちどころに両パイロットはクビとなり更に怒ったFAAはパイロット資格の剥奪までに及んだ。パイロットの質の低下が議会でも問題としてクローズアップされるに至っている。

背景には明らかに航空機操縦の自動化が高度になっているという事実がある。特にフライバイワイヤになって通常の飛行もやさしくなることでパイロットのスキル低下や緊張感の低下が当A320co初から懸念されていた、やはり避けようが無いということのようだ。巡航に入るとパイロットは暇になる、退屈になる。

ハイジャックなどは滅多に無いおおらかな時代には巡航に入ると希望すれば飛行中に操縦席を見せてくれていた。随分以前、カナダで移動中に就航したばかりのA320に乗ることがありフライバイワイヤ、サイドスティックのコクピットを見たくなって、スチワーデスに頼んだら簡単にOKが出た。案内されてコクピットに行くと先客の子供が見てはしゃいでいる、おおらかなものだ。パイロットと話しているととっても操縦がやさしいといってそのうち自動操縦を切ってみようと言い出した、ほら切ってもこんなに安定している、とやりだす。巡航中は退屈なんで興味ある人とおしゃべりするのが楽しいという風情だった。いまやコクピットのドアは厳重にロックされて飛行中は客室乗務員も立ち入れない、密室となってその弊害が出てきたように見える。ハイジャック対策は万全でも操縦する人間の気持ちの部分にまで配慮が及んでいないと思える。

航空機事故の主要な原因はパイロットミスと古くからいわれ 技術はそれを無くすべく人の手による職人技的操縦をできるだけ機械へ置き換える方向に推し進められた、進みすぎたのだろうか、いやいやまだまだという気がする、今や機械を使っている人そのものの気持ちに細やかに及ぶ人間的な技術がことさら重要になってきているように思える、そこにはマン・マシン・インターフェイスという固い言葉を越えた、機械と人間との関係の新しい次元が開けているような予感がする。まだまだ道は続く。

| | コメント (0)

2009年8月23日 (日)

幸せを与える度合い

この夏はどうしたはずみか岩木山と美ケ原の2つの百名山を登った、登ったというほどの登山ではない、とにかく2つクリアしたというべきなのだろう、別に百名山登山を追いかけているわけではないがやっと1/3ほど登ったくらいだ。今回の2つはどちらも印象深かったが美ケ原は思った以上だった。深田久弥のころは勿論ふもとから急な登りをつめた後に広がる天上の楽園だったのだろうがいまは高原状の台地まで立派な道がつき観光の気楽なスタイルが行きかうリゾート地の感がある。そうはいっても駐車場から最高ポイントである王ヶ頭(おうがとう、おおきにありがとう と言い慣れてしまうが)まで4-50分高原歩きをすKujyakuる、マツムシソウをはじめとする高山植物がずっと続いて丁度開いた色とりどりの花が素晴らしい。リゾート施設の作られる前の質素な山小屋だけの時代ではどれほど印象深かったろうか。花が豊かなら蝶も色々飛び回る、やっと写真に取れただけでもクジャクチョウなど6種その他アサギマダラやキベリタテハ他数種みかけた、僅か2時間ばかりの間だ。
植物の写真は後で図鑑で見ても解らないのが幾つか出てくる、とにかく種類が多い。美ケ原の名はどこか押し付けがましい気恥ずかしさがあって観光のための名前のような気がしていたが訪れてみると真に名前のとおり美しい、名前で馬鹿にしてはいけない。
それにしても簡単に到達できる場所になったが施設が色々作られ素晴らしさが半減してトータル人々に幸せを与える度合いが増えたのだろうか減ったのだろうか。人の手が入りアクセスができるようになってあるところまではトータルとして与える幸せは増えていくがそれ以上に開発が進むと減っていくように思える。美ケ原は残念ながら少々減ったところに現在の状況があるように見える。どこで抑えるべきか、今までそんな議論をやって物事が決められて来たのだろうか、少なくとも失われる価値が過小に評価されてきたように思える。しかし考えるべき時期に来ている。考える尺度を変える時にきている。視点を対立的なポジションからより調和のとれた見方に変えることも求められているように思う。どうやって誰もが認識を共有できるように幸せを与える度合いを数値化するか、それがキーのような気がしている、難しいが。

| | コメント (0)

2009年8月11日 (火)

白神山地にて

一度は行くべきか、と思うところが幾つかある、白神山地というのも気になっていた一つだ。選挙のおかげか8月は高速代が木曜から1000円となる週が設定されて これを使わない手は無いと出かけることにした。白神といっても漠然としている、インターネットや図書館で事前に調べても今ひとつ白神らしい白神はどこで感じられるのか解らない,時間切れでそのまま出かけるはめになった。解りにくいのは考えてみれば当然のようにも思える、人手に触れられていないブナの森の広がりが世界遺産の理由だしそこに魅力の中心がある、今から人手で痛めるわけにはいかない、だから白神の核心部を 訪れる多くの人に触れさせるわけにいかない、しかし地元は何とか多くの人に来てもらいたいしビジネスにもつなげたい、不確定性原理のような堂々巡りの難題だ。

訪れてみると、懸念していたように、世界遺産指定地域の緩衝部にあって最大の売りといわれる 暗門の滝は深い感動を与えてくれるほどでもなかった、いい滝ではあるが 滝に至る道もどこか吹き割の滝遊歩道を思わせるようで‘手付かずの自然’とは感じ難いし、滝としては尾瀬の三条の滝の方が遥かに迫力がある、また、近くの樹齢400年のブナのマザーツリーも観光の手垢にまみれているように見えてしまう、どこかずれている。

しかし白神ラインの途中にある核心部でShirkmも緩衝部でもない奥赤石遺伝資源保存林に踏み入れてみると手つかずのブナの原生林そのものを感じることができる、次々に色んなフェーズのブナが姿を見せる、キノコ、カラ類のような鳥の声、風、光、素直に森が感じられる。来たかいがあると思わせるに十分なものがある。十二湖の鶏頭場の池で思いがけずしっかりした8月のアカショウビンの声をきくのもまた来たかいがあったと感じさせる、深さがあって緩やかな時間を感じ取ることが出来る森だ、確かにいい森だ。

次の日は予定外の岩木Iwaki 山に登ることにした。リフトで9合目まで上がってつめるだけだから散歩のようなもの、とタカをくくっていたが、さすがに100名山、ひたすら急勾配を手も使いながら登る、ついでに登るというのにはちょっときつい。この日は天候が崩れる予定の日で山頂からの眺望は望めないが時折雲の切れ間から北海道も見えるような気がする。岩木山は単純でいい、岩がありお花畑があり山頂があり眺望がある、なんだか素直だ。白神のもやもやしたところがちょっとばかり吹っ切れた感じがする。
強いられた雰囲気のある感動ではなく素直な気持ちで自然に向かう、結構難しいところがある、もしかしたら地元にとっても重いものを背負わされているのかもしれない、西目屋にある広大な環境省のビジターセンターの建物を思い起こしながらながらそんな風にも感じている。白神は難しい。

| | コメント (0)

2009年7月30日 (木)

またイランで航空事故

またイランで航空事故だ、今度は7月24 日アリア航空のIl-62MがイMashhad ラン北東部の都市Mashhadで着陸失敗、オーバーランして壁に激突した。ついこの間7月15日にカスピアン航空のTu-154Mがテヘラン北方で巡航中に墜落したばかりだ。この立て続けてのイランの事故はどうしてもイランへの禁輸政策の影響を考えざるを得ない。イランは米国からテロ支援国家として指定され旅客機を西欧から買うことが出来ない、部品も買えない、古いソ連製の機体を使い続けるしかない、安全のレベルは毎年下がっていきいつかは破綻する。Tu-154Mは22年使った機体だしIl-62Mは恐らくもっと古い機体だろう。カザフスタンからのリース機で乗員もカザフスタン人が多かったらしい、航空需要はあるが機体がないというイランの状況を如実に表している。イランは石油産出国で資金を持っているから最新のボーイングやエアバスの機体を買えない訳がない、ここまで締め付けてよいのだろうかと思ってしまう、敵意を醸成しているだけではないのか。国連の言うことを聞かないイスラエルには制裁はなく占領地に移住を続けている、国境線の武力による変更は認められていないにも関わらずだ。明らかなイスラエル偏重の米国の政策が世界を歪めている。
トーマスフリードマンの「グリーン革命」を読んでいるが、同じ作者の「フラット化する世界」ほど迫力がない。イスラムに原油を牛耳られており巨額の富がイスラム国家に流れていることがテロが勢いづいている源だ、だから脱石油が必要なんだと滔々と説うている、これはおかしい。アメリカのやっていることに反省はないのか、と思ってしまう、加害者としての自覚がない、被害者意識が漂っている。中東は西欧の力でどうにでもなるという意識がアラビアのロレンス時代のイギリスによる詐欺的な外交や パレスチナ人を追い払っての強引なイスラエル建国に見えてしまう。辺境の北方4島が占領されて60年たってもロシアと日本がいがみ合っていることを思えば強引なイスラエルの建国はどれほど不快な傷を中東諸国に与えたのだろうか、パレスチナはナチスによるユダヤ迫害とは何のかかわりもないというのに。フリードマンがユダヤ系であることが見方を歪めているのかもしれない、ジャーナリストならもっと事態の根源に迫らなくてはならないように思えてしまう。イスラエル偏重の米国の姿勢の歪みがテロに正当性を与え不幸を連鎖的に引き起こしているように見えてしまう。なんとか不幸のチェーンを絶つべきなのだが少々のことでは先は見えてこない、気の遠くなるくらいの時間が必要なのだろう。
今年は航空機事故が続く、それぞれの事故が地政学的背景を抱いていて深いものがあるようだ。航空事故からは学ぶところが多い。

| | コメント (0)

2009年2月16日 (月)

Dash8が墜落して

バッファローでボンバルディアのDash8が墜落した、伝えられる話からは明らかに氷結による失速・墜落のように見える。航空機の着氷は気温が単純に低ければ起こるというものではない、零度以下でも水が凍らない過冷却の水滴が浮かぶ雲に航空機が突っ込み水滴が翼や胴体に当たって流れながら凍りつく状態で起こる、雪やあられの固体が降っている状況では着氷は問題にならない。米国では五大湖地方が着氷の名所だ、気温の低い割に空気Dash8 中の過冷却の水滴の割合(Liquid water content)が高くなりやすい。みぞれが降っていたといわれる今回の気象はまさにヘビイな着氷がおこりそうな状況だ。この機体のシリーズはそもそもが高級な高揚力装置を付けて短い滑走路の運行を可能にするというのをセールスポイントに開発された、部品点数が多くてコストが上がりがちな素性の機体だったものを、世界中の安い下請け引き受け手を捜して成り立たせている、そんな機体だ。フラップを下げたところで着氷すれば強力なフラップの効きを前提に速度を十分下げていたところへの着氷でフラップの効きが大きく失われて失速に入りやすい、それも急激にそんな事態に陥る。着氷は基本は目で見るしかない、Dash8のような翼の着氷を割るタイプの空気式の除氷ブーツでは気がついてからでの対応では間に合わない、高度も低ければ失速から回復もできない、墜落大破にいたった情景が目に見えるようだ。ルールに従った機体でルールに従った運行をしていて乗客の命が失われる。米航空局は対応を迫られるだろう。こうやってまた航空機は安全になる,命が失われないと安全になれないのも情けないが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月28日 (水)

グローバルなルール変更

最近エッと思った話題に、いまの新自由主義的改革、すなわち、規制緩和、小さい政府、市場に任せればうまくいく、の考え方を1995年から2000年頃政府の中枢で先頭で進めて Nakaya_2きた経済学者中谷巌が、間違ってました、という懺悔の書を出版したという話がある。東洋経済のネット版に中谷のインタビュー記事が出ていたが、そのとおりの発言で、この期に及んでそれはない、といいたくなる。正直に告白したのは格差社会が進行して多くの人が不幸になった、日本社会のよさが確実に失われた、その原因を主導して作った重みに耐えられなくなったためだろうか。
江戸末期から明治の初めに海外から日本に訪れた外国人の目には日本は競争のない奇跡のような優しい国だった、誰もが働けるように喧嘩せず話し合って仕事を分け合っていた。談合という言葉の響きが良くないが、弱者を蹴落とす競争を話し合いで止める社会だった、そこに日本の平等志向の原型があったように思う。競争で奪い合う社会から思いやって分け合う社会へねじを戻さなくてはならなくなったようだ。ワークシェアリングというカタカナで有難がる仕組みではない、日本が元から持っていた原風景だ。
資本主義を野放しにしてはだめだ、というのが前の恐慌の教訓だったのではなかろうか、それがいつしか緩んできて、またおかしくなった。
資本主義の欠点は個人の欲求に基づく市場の暴走にある、個人レベルの倫理観では解決できない、同じ状況下では世代の違う個人は同じ判断をして同じことが繰り返される、変えたければ公的機関による規制とコントロールのしくみが必要になる。当然のことだが肝に銘じておかねばならない。個人レベルでは世代を越えては決して学習しない、小さい政府では暴走は止められない。
中谷巌が懺悔するのも個人的心情として分かるような気もするが、当時は失われた10年の閉塞感を打ち破りたいとの意識から、新資本主義的な小さな政府の考え方にはそれなりの魅力や説得力があったように思う。むしろ何故多くの人はそのような状況で後から考えると少しばかりおかしいと思うことを嬉々として受け入れたのか、と見た方が真実に近づける。今回は明らかにグローバリズムが前面にある。共通のルールで戦わなければ敗退する、との考えが根底にあるように思う。

競争から分かち合いへのグローバルなルール変更が見出されるまで同じことが繰り返されるだろう。新しいルールとはなんだろうか。世界政府が主導する適度な規制だろうか、なんだか息が詰まりそうだ、難しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月12日 (月)

あちこちでブラックボックス化がはびこっている

寒さが厳しくなっている、北極振動指数を見ると今はプラス側で世界的には寒波が北極から降り来る形でもないのだが、ローカルには極東側の極渦が弱くなってきて寒気が北極から流れ出ている。去年も1月中旬は極東と米東海岸に寒波がきておりこのころの波動はこうなのだろう。景気が悪くてこう寒い日が続くと地球温暖化してくれないかと思いたくなる、経済活動が停滞すればCO2の出方も抑えられてしまう。もっともCO2の増大は地球Co2kion の気温上昇にわずかに遅れているという観測結果(添付図、Keeling,1989 による)を見るとCO2が本当に今起こっている気温上昇の原因なのだろうか、と疑ってしまう。ともかく温暖化問題は全体にすこぶる政治的になっていて、温暖化の本当の理由をブラックボックス化して単純化して政治問題としているように見える。こういうブラックボックスは怖い。
マニュアル主義の行き詰まりということを最近よく感じるようになった。どこかの先進的スーパーでマニュアルを止めて仕事がうまくいくようになったというのを読んだこともある。
効率よく手順を理解し また人に伝えるにはマニュアルというのは便利な道具だ、しかしどこか安直になっている、考えることを止めているように思う。作業マニュアルは考えることの停止を暗に求め機械的な動作とすることで品質を保とうとしている,そういうことが必要な場面も確かに多々ある、変に考え込むと先へ進まなくなる、しかし思考がいる場面での思考停止は危ない。
更に進むとマニュアルがあるがために複雑な手順を容認していく、マニュアルが厚くなる、どこかでそれが破綻してシステムの停止が起こる。ISOの認証も結局は手順をマニュアルに類する煩雑な手順文書に落とし文書化することで品質が保たれたことにしている、しかし依然として不具合は起こる。
身近では家電のマニュアルがPL訴訟対策でほとんど誰からも見られない注意書きでいたずらにページ数を増している、責任逃れの有害な風景にみえる。
マニュアルの殆どないやり方を追求すべきなのだろう。
テレビ番組がつまらなくなっているのもきっとどこかにマニュアルに類するものがあって思考停止の番組つくりが行われているのではないかと思う。
マニュアルは言葉を重ねることで考えるべき何かをブラックボックス化している。
あちこちでブラックボックス化がはびこっている、サブプライムローンの証券化は最近の最も甚大な被害を及ぼしたブラックボックス化の事件だ、まだまだ続くだろう。この恐慌にも似た突然の世界同時不況で世の中が少しまともな方向へ動くものなら、ブラックボックス化をゆり戻すような向きに向かないか、と期待してしまう、なにしろ世の中が変わるのはこんな時しかないのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月21日 (土)

事件が起こると

事件が起こるとテレビは事件で埋まる、無理にでも埋められる。秋葉原の事件が不可解08syaknga で、連日報道される解釈がどうにもピントがあっていないようでニュースをみるのが嫌になっていたところへの地震だ。北米プレートが南に延びた半島のようになった真ん中で起こっている、両側から押されて表面の殻が割れたように思える、北日本にかぶる北米プレートは細長くて変な形をしていていかにも圧力に翻弄されそうな感じがする。四川地震もプレートの真ん中で起こっていてプレートの縁で起こった中越沖地震などとは明らかに違う、このあたりのユーラシアプレートがまわりのプレートから圧力を受けて真ん中へんの殻がわれたような感じだ。地球の東アジアあたりのプレートを押す圧力が何故か高まっているようで、2つの地震も何か関連しているようにも思える。地震や火山の噴火の説明は100万年に1度といった確率の議論ではなくもう少しそれぞれの地震や火山活動を関連付けるものであって欲しいと思う、とにかく自分で考えたくなる。
秋葉原の事件は日本の自殺率が旧ソ連を除けば世界一高いというのと関連しているのではないかとの見方があって一つの核心を突いているように思える。自殺に向かう、もう終わりにしようというエネルギーが外に向かった、ということになるのだろうか、そんな気もする。近頃のネットによる集団自殺や硫化水素自殺の騒ぎそれにいつもの人身事故による電車の乱れ、確かに息苦しさがにじみ出ている。統計では自殺は平成10年から急増している。気になって自殺率の国際比較を調べてみるとWHOにデータがあって日本は10万人中24.6人で確かに高い、低いのはエジプトやシリアだ、低緯度の国やイスラム圏は概して低い、緯度と宗教の強さとが自殺には関係があるようにみえる、旧ソ連が高いのも、緯度が高くて、ロシア正教が復活するまでソ連は無宗教が基本だったのと関係があるように思える。そうであれば中国の自殺率も高いはずだと思うがWHOのデータでは思ったほど高くない、少し調べていくと中国の衛生局がことし2月に開いた自殺フォーラムで中国の専門家が出してきた10万人あたり23人という数字があった、日本と同程度だ。こちらの方がもっともらしい、やはり宗教と関係があるように見える。統計のほうも難しいところがある。ともかく日本の自殺率がこのところ高いのは、素地があるところへ格差社会が持ち込まれておかしくなってきたということか。秋葉原のような事件は気を緩めると起こる土壌があるというべきかもしれない。かといって宗教の力が増すのもどうかと思うが。

地震にせよ事件にせよ起こっていることの理由を知りたくなる、理由をひねりだしたくなる、しかしどうしても無理がある。起こったことは素直にあるがままを受け止めるべきなのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧