2024年7月 3日 (水)

ポール・オースターの「ガラスの街」を読んでみる

先月の初め頃Newsweekを読んでいたら、アメリカの作家ポール・オースターががんで亡くなったという記事に遭遇した。これは読んだ方がいいかもしれないと直感的に感じた。ポール・オースターという人は全く知らなかったが、いったいどういう作家なのだろうと図書館に「ガラスの街」という作品があるとわかったので早速予約を入れて借り出した。240ページ位の文庫本なので、まあ読める。
読むと最後に私という視点が出てくるがさらにポール・オースターという名前の作家が登場し主人公であるクインはポール・オースターという名前をかたって依頼人の依頼を受けるといGarasunomachi う不思議ないれこ構造になっている、作家本人の名前が物語のキーにもなっているというところが面白くて、何なんだこれはと思ってしまう。ニューヨークの街で繰り広げられる解決されない、されることに意味がないミステリーという仕立てだが、枝葉のように書き込まれているニューヨークの街角の連なり、締まりのない会話全体が経験したことのない読後感をもたらす。確かにこれは特別だ、読まないとわからない。知らない世界を少しでも開きたい、そんな気持ちに図らずも答えてくれる作家のような気もしている。ニューヨーク三部作の一つがこのガラスの街だが他の2つも読んでみようという気になっている。

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2024年3月21日 (木)

今年の芥川賞、九段理江の「東京都同情塔」を読んでみた

1月17日に第170回芥川賞は九段理江さんの「東京都同情塔」が授賞作に決まりましたと発表があり、その日のうちに掲載誌の「新潮」/2023年12月号を図書館に予約した。すでに数人の予約が入っている、2か月近く待ってやっと順番が回ってきて3月16日に借り出して読み始めた。「新潮」で66ページほどの作品なのですぐにも読めるだろうと読み始めたがなかなか進めない、会話の部分が少なくびっしり字でページが埋まっているせいもあるようだ。ザハ案の新国立競技場がZaha0 キャンセルされずに姿を現している2026-2030年の東京が舞台のパラレルワールド物といってもいい。設定が面白い。ザハさんが2016年3月に亡くなったその8か月前の2015年7月に安倍首相によりザハ案はキャンセルとなっている、今から見てもザハ案(添付図)は未来的で魅力的だ、確かにこれが予定通り作られた世界というものを想像したくなる。東京都同情塔とはザハ案の新国立競技場と対をなすようにオリンピック後に新宿御苑に建てられた未来的ないわゆる刑務所のことだ。ザハ・ハディッド・アーキテクツと対をなすようなサラ・マキナ・アーキテクツを率いる建築家牧名沙羅によって設計される、それにまつわる物語の形だが勿論人物伝では全くない、新しい時空間を描き出しToukyotodojyo ている、確かにこれは未来に向かった小説のようだ、新しい、芥川賞にふさわしい。
いい本を久しぶりに読んだ、そんな気持ちを抱かせる小説だった、勿論きわめて個人的な感想だが。

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2024年1月 5日 (金)

オーウェルの「1984」を読んでみる

メディア論という放送大学の科目を受講しているがその中でオーウェルの小説「1984」の紹介があって、まだ読んではいなかったこともあり、この機会にと図書館から借りだして読んでみた(1984 ジョージ・オーウェル著 / 田内志文 訳  KADOKAWA文庫)。
文庫本とはいえ字がびっしりで450ページ位ある本なので読破にはそれなりの努力がいる、頭の方を読んでしばらく棚上げにしていたら予約が入って貸し出し延長がで き1984 なくなりそれではと気合を入れて2日がかりで読み終えた。なかなか面白い本だ。 予想していたより恋愛小説的なところが大分あっておやという感じを抱いたが、読み進むといかにも完全監視の管理社会らしいタッチの場面が色濃くなる。監視の主役はテレスクリーンという双方向テレビでそれがメディア論でこの本が紹介される理由の一つになっている。この1984が書かれた1948年にはテレビ放送という形態は世界でやっと始まってきた時期だったがその個人生活に入り込む危険性をオーウエルは感じていたのだろう。この小説の描く世界はスターリンの独裁が一つのモデルだったといわれているようだ。当時ソ連に現実化しつつあった状況ともいえるのだろう。また小説の中では1950年代の核兵器を使った戦争の後世界は オセアニア(アメリカとイギリス)、ユーラシア(ロシア主導の欧州)、イースタシア(中国、日本他の東アジア)の3つの国に分割されそれぞれが似たような独裁体制となり互いに戦争状態を続ける、という設定でこれは現在のイギリスのEU離脱/米英豪のオーカス、米中対立、ロシアの西進/ウクライナ戦争、などの図式を予見しているともいえる気がしてくる。どちらかというと1984の世界に向かって現実の世界が動いていっている気さえする。中国の政府による監視カメラだらけの世界が現実になっているのを伝え聞くと完全監視社会というのはすでに現実味を帯びているようにも思える。AIの進化がそれを加速する近未来というものがすぐそこにあるような気がしている。
1984は各種陰謀論の源流にあるのかもしれないが、どうやったらこの不吉な予測から逃れられるのだろうか、考え続けなければならないようだ。

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2023年11月26日 (日)

最初に出た43年前の「街とその不確かな壁」を読んでみる

村上春樹の最近出た小説「街とその不確かな壁」を読んだら著者のあとがきがあって、おやと思ったが、そこにこの小説はだいぶ以前に一度同名の小説として発表したものを大幅に書き直したものだとあった。そんなことならその元の小説も読んでみなくてはと思ったが雑誌に発表したものの単行本としては出ずじまいになってるというので兎に角最初に発表された雑誌を調べる、図書館にあるだろうから借り出して読めばいい。ネットで検索すると文学界の19Machito 80年9月号がその雑誌とわかる、便利な世の中だ。福岡市の図書館にあることを確かめて早速予約する。同じように探し出した人が他にもいるようで既に貸し出し中となっていて順番待ちの列に並ぶ。1か月くらいして順番が回って来たとの連絡が入って勇躍図書館を訪れる。借り出して見ると、確かに古い感じが漂う雑誌だ、43年前というとこんな感じだったんだそのことにまず感慨を覚えてしまう。ページの縁が弱くなってちぎれそうに見える。この間に自分の中にも流れてきた時間というものを感じてしまう。内容は壁の中の世界がほぼ全てで外の世界ははじめと最後に少し出てくるだけ、最近の書き直しとはつくりが大分違う、が、同じ設定だ。こちらの方がシンプルだ、リリックだ、それだけに確かに街から脱出したその先は?、と感じてしまう。
同時にこれはこれでよかったのではとも思う、敢えて書き直したのはやはりホルヘ・ルイス・ボルヘスの言葉ー作家は限られた数のモチーフを手を変え品を変え様々な形に書き換えていくだけだーということなのだろうか、持っているモチーフには限りがあるからなのだろうか。

作家とは難しい職業だ

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2023年10月22日 (日)

村上春樹の「街とその不確かな壁」 を読む ノーベル賞は無理かな

今年2023年の4月に久し振りの村上春樹の長編が出版されてすぐに図書館に予約を入れておいたのだが、長い待ち行列ができていてつい1週間前にやっと順番が回ってきて借り出した。6か月かかったということになる。珍しくも著者あとがきのある小説だ。めったにみない。ちょっと頭の方を見た後あとがきを読んでみる。何と「羊をめぐる1_20231022230301 冒険」」より前に書き上げた同名の中編小説(文学界1980年9月号掲載)の大幅焼き直しとある。読み始めた感じが昔懐かしい春樹スタイルだという印象を受けたのはそういうことかと合点する。架空の世界をすかすか感のある書き方で書いている。乾いている。先ほど読み終えたが、パラレルワールドものという言い方で分類したくなる小説だ、プラトンの洞窟の比喩というより、SFの世界では時々現れる形式のような気がしてしまう。今回の本は655頁の長編だが普通に読んで6日で読み終えた、すらすら読める。読了直後の印象は、読んでいて引き込まれる小説だがこれはノーベル賞には無理かな、というものだった。ノーベル文学賞はその文学がオーバーに言えば世界史的な意義があるものかという基準で授与されているような気がしているが村上春樹はもはやその段階は通り過ぎたような感じがしてしまう、特別感がしない。あとがきに引用されているホルヘ・ルイス・ボルヘスの言葉ー作家は限られた数のモチーフを手を変え品を変え様々な形に書き換えていくだけだーというのが一番生々しい記述のように感じてしまう。
色々感じるが読みやすくて面白い小説であることには違いない。秋の夜長はやはり読書に限るのだろう。

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2023年8月 2日 (水)

今年の芥川賞、市川沙央の「ハンチバック」を読む

7月19日に芥川賞受賞の発Hanchbackx1 表のニュースを見て直ぐこれは読まねばと、図書館に掲載誌;文学界5月号を予約した。単行本もすでに出ているがこちらは予約順番が200人以上で当分回ってこない、文学界の方は数人待ちですぐにも廻って来そうだ。7月27日に近くの館に届いたとネットで表示があり早速借り出した。文学界のページ数で28ページと短いのであっという間に読めそうな気がしたが、読み始めると文体が凝っていたり知らない世界の内側の描写ということもあって思ったより読了に時間がかかる。
テレビ報道で見た本人の重度障碍者の姿からはこの濃い文体の文章を描き出していく様が容易くは浮かばない、しかし明らかにこの受賞はハンディがある下駄をはいた受賞ではない、読めばすぐわかる、新しい視点・時代を切り開いている、どう見ても受賞にふさわしい作品で力量も十分感じさせる。あらゆる文には書き手がいる、そこを仕事とするこの作品の障碍者の姿はどう見ても作者本人の姿だ。話の展開には創作が骨になっているのだろうがディテールは本人の実体験と思える、重度障碍者のリアルな視点がこんななのかと新鮮な思いに包まれる。エロ雑文書きのアルバイトをするというのも作者の実体験が入っているように思えてくる、そうでなかったとしてもそう思わせる筆致がある。不思議な世の中になった、障碍者がネットを駆使して稼ぎながら生きていける世界。重度の障碍者の視点というものが重くもあるが新鮮だ。確かにこれは芥川賞だ、自らが時代を切り開いている姿がここにある。

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2023年3月20日 (月)

今年の芥川賞を読む

今年も芥川賞が発表される季節となって、どんな作品だろうと、掲載される文藝春秋3月号を予約可能となる日の朝一番に図書館にネット予約した。予約順は1番ではなく2番だったもののすぐに順番が回ってくる、さっそく読んでみた。今回(第168回、令和4年度下半期)受賞したのは井戸川射子「この世の喜びよ」と佐藤厚志「荒地の家族」の2作品でいずれもそれほど長い小説でもなく、1週間もあれば2つとも楽に読めてしまう。
「荒地の家族」から読み始めた、3.11の震災被Arechinokazoku 害者の直面した生活を描いている。非常にリアルな感じがする、楽しい場面は殆どなくてこれでもかとつらい現実が展開され続けていくが、とても誇張と思えないリアルさだ。重い。しかし情景がよく描写されていて、文章そのものがいい。作者の力量を感じる、さすが芥川賞だ。
「この世の喜びよ」はこれとは随分違っている、読後感として最初に感じたのが物語の無さだ、これは小説というものなのか、と感じてしまう。ショッピングモールの一角にある喪服店の店員という主人公の周りに流れていく日常の描写のみではないかと思ってしまう。2人称で描かれていて主人公をあなたと呼んでいる視点で読んでいくことになるのだが、なじめない、勿論面白い試みではあるがなじめなさはどうしようもない。小説の描いている世界へ引き込まれていく感覚をどうしても抱けない。こういう小説が賞をもらう時代になったのだ、ついてこれるかな、と言われているような気さえしてくる。

小説を読んで絵空事の世界に時々身を置くという疑似体験が自分としては精神的にいいような気がしてこれまで時々小説を読んでいたが、精神の活性化に必ずしもつながらない小説が出てき始めてるような気がしてきた。そういう時代なのだろう、映画を時折見る方に切り替えた方がよくなってきたか、そんなことも考え始めている。

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2022年11月30日 (水)

川端の自殺を扱った小説「事故のてんまつ」を読んでみる

三島由紀夫が市ヶ谷で割腹自殺してこの25日で52年になった。そんなこともあるのかWowowで「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」という2020年につくられたドキュメント映画が放映されたりしていた。もうそんなに時が過ぎ去ったのかと思う、その場に観客としていた当時のことを思い出しなJikonotenmatu がら見ていたが、そういえば三島と川端康成は三島が学生の頃川端のところへ押しかけて以来師弟のような間柄で交際が続いていた、川端の自殺は何だったんだろうか、と思い至った。少し調べると川端の自殺に至った経緯を 事故のてんまつ という小説にして臼井吉見が書いている、と引っかかる。言われてみれば 事故のてんまつ の名前は薄っすら記憶にある。市の図書館の蔵書を調べると借り出せることが分かって早速借り出して読んでいた。この小説の主人公となる語り手は安曇野の植木屋の娘縫子(仮名)で川端に見込まれてお手伝いさんとして川端家に6か月の約束で出向いていた。川端は縫子を運転手として重宝に使っていて手放したがらなかったが縫子は嫌で延長をきっぱり断った、落胆した川端はその日の夕方に自殺している。殆どが事実のように書かれていて主人公の縫子やその周りの人は仮名だが川端など名の知れた人はすべて実名で登場してくる。何で臼井吉見がこんな小説を、と思うが調べると臼井は安曇野の出身で、安曇野をめぐる事件に並々ならぬ関心を寄せたものと思われる。もしかしたら件の植木屋も縫子も知っていたのかもしれない。あとがきには貴重な資料を得たことが執筆のきっかけと書いていて、縫子から日記のようなものを渡されたことをにおわせているが、どこまでが真実かわからない。
日付を逆に追っていくと

1972年(昭和47年)4月16日に川端康成自殺
1971年11月* 縫子、6か月間の約束でお手伝いとして川端家に来る(1972年4月一杯までの約束とみられる)
1971年(昭和46年)4月11日に投開票された東京都知事選挙で川端は美濃部に対抗する秦野を支援、応援演説も行っている。
1971年(昭和46年)1月24日、川端は築地本願寺で行われた三島由紀夫葬儀・告別式の葬儀委員長を務める
1970年(昭和45年)11月25日 三島由紀夫割腹自殺、直後川端現場を訪れる
1970年(昭和45年)5月12日 川端とその誘いで東山魁夷、井上靖 の3巨頭が、安曇野を訪れる。この時に件の植木屋に寄ったと事故のてんまつに記されている。

1969年(昭和45年)5月13日 東大駒場キャンパスの900番教室 三島由紀夫vs全共闘の討論

1968年(昭和43年)10月17日、川端の日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定した。

(* wikipediaの記述では縫子が川端家にお手伝いとして行ったのは1970年11月からとあるが、1971年の間違いと思われる。事故のてんまつの記載でも3巨頭の安曇野訪問の同じ年に川端家に行ったことになっているが、都知事選挙の後とも書いており、事故のてんまつの日付の記載もおかしなところがある。全体を整合的に見るなら1971年としか考えられない。)

結局川端の自死と三島の自死との関連は解らない。三島葬儀の後に行われた都議選でも急に秦野の応援演説を引き受けるなど、それまでの行動よりも政治的な動きになっていたようにも感じられるが自死までに至るとは考えにくいような気がする。お気に入りのお手伝いさんが延長依頼を拒絶した件は直接の引き金になった可能性があるようにも思えるが、底流に死に向かうものがあったればこそ、の感がする。それは何だったのだろうか


やはり自殺の理由はわからないというしか言いようがない、そう思えてしかたがない。

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2022年11月11日 (金)

事物の連鎖による理解

このところぼんやりと時の流れるままに過ごしているが、一つ一つの事象がつながって見えたりする時があって面白い。今は平野啓一郎だ。

図書館から何かの拍子で借り出していた平野啓一郎の芥川賞作品「日蝕」の返却期限が迫り急いで読む、ということが最近あった。読み始めると、15世紀末のヨーロッパが舞台となっていてそれをルビ付きの旧漢字がちNissyoku1 りばめられている見たことのない文体で書かれている。よく書かれていて学生が書いたものとはとても思えない。結構面白い。確かに才能がある。読み始めて直ぐは、文体のこれみよがしのようなひけらかしは気に入らない、と思うが読み進むとすぐに慣れて、中世の終わりルネサンスの始まりの時代の雰囲気が感じられるようにもなってくる。結構すらすらと読める。それにしても何故こんな作品を書くに至ったのかが伝わっては来ない。錬金術への興味からか。両性具有者を登場させる背景?。解らないまま読み終える。

数日後三島由紀夫vs全共闘のドキュメント映画をWowowで流しているので見ていると平野啓一郎が解説のような立場で出てくる、もちろん現代の、過去を振りかえっMisima1 て解説する立場だ。三島由紀夫の再来というキャッチフレーズがまだ有効なのだろうか。認識論の討論のようになっている場面で、こんな議論に強いということだろうか、そんなものかと見ているが今一つしっくりこない。今や遠くに過ぎ去った過去だが、今現在の時代の有り様に違う次元から関わってきている事件ととらえるべきなのかもしれない。

更に通日後、九州国立博物館で開かれているポンペイPonpei1 展を見る。数多くの発掘品の中に裸体の彫像もいくつかある、両性具有者ではないが男性器の誇示を感じる。現代とは何か感じ方が違うようだ。そしてその晩にはリアルな世界で皆既月食が出現する。 何だか「日蝕」の扱っていたキリスト教以前の世界とつながる錬金術のあやしい世界の雰囲気を感じてしまう。
ポンペイには今から見ても現代的とみえる生活の痕跡がリアルに残されている、中世の時代の人がこれを見たらどう思っただろうか。ポンペイ遺跡の発見は18世紀とされるが痕跡の一部は中世からルネサンス期にもみつけられていたのではなかろうか。それらが錬金術のようなキリスト教世界とGessyoku1 は違う認識体系を支えたのではなかろうか。

幾つかの疑問は解けないままだが、偶然につながって表れてきた時空が、感覚としてそうかもしれないという雰囲気を伝えてくれるような気がしている。事物の理解は連鎖の中にあるのだろう。

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2022年10月17日 (月)

今年のノーベル文学賞アニーエルノーの「凍りついた女」も読んでみる

10日くらい前にノーベル賞の文学賞がフランスのアニーエルノーに授与されることに決まったと発表されて、いったい誰なんだろう、と思ってしまった。ネットで調べてもピンとこない、とりあえずは読んでみるかと市立図書館の蔵書を調べてエイッと3冊予約する。「凍りついた女」「ある女」「戸外の日記」の3冊だ、「ある女」「戸外の日記」はもう順番待ちの列が結構長そうだが「凍りついた女」の方は列が短く早そうだと思っていたら、1週間も待たずに借り出すことができてさっそく読み始めた。日

Koorituitaonna 本での出版は1995年でもう30年近く前の本だ。読み始めるとすぐにこれは手ごわいと思ってしまう。びっしり文字で埋められて会話が殆どない、読みづらい、とどうしても思ってしまう。読み進むのに抵抗感があったが初めの方は速読に徹するとなんとか突破できた。内容はほぼ自伝のようだが、自伝にありがちな自慢やひけらかしとは対極にあるような内 面のさらけ出しだ。少女時代から学生結婚、出産育児、教師の資格取得、教師として働く2児の母となるまでの間の、本当はどう感じどう思って生きてきたかを内面の心の動きを中心にリアルに描いている。非常にリアルといってもいい、こんなのは読んだことがない。作者の最もフェミニズム的な作品という評もあるようで、ほかの著作も読んでみないととは思うが、この本からは確かにノーベル賞に値する普遍性を感じてしまう。

Koorituitaonna2また一つ世界が開けたような読後感がある、これは小説ではないのかもしれないが、小説を読むという行為は幾つになってもやはり続けるべきと思ってしまっている。

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