2016年5月30日 (月)

「天才」を読む

石原慎太郎が田中角栄の生涯を一人称で書いた小説「天才」という本を友人が貸してくTensai れたので読んでみたが、読後感があまり良くない。

事実を寄せ集めただけに近いようで創作の香りが乏しく慎太郎らしくない印象をまず受ける。小説といえるのかと引っかかりを感じる書き物だ。慎太郎本人や複数の愛人も実名で登場するところなど、実名でこんな風に多くの人を書いていいのだろうかと思ってしまう。

「天才」というタイトルについてもしっくりこない、本文ではなく長い後書きからつけられたのだろうか、本文を読んだだけではどこが天才との感じがする。

読むこと自体が石原慎太郎の政治活動に付き合わされているだけではないか、との気もしてくる。折り重なるような感じの悪さが残ってしまう。

田中角栄がアメリカという国に潰されたのはだれの目にも明らかだ。それに手を貸した国内の共犯者をしっかりと慎太郎には追及してもらいたい気がする。マスコミが誰の意図でどのように誘導されたか、解きほぐす努力をしてもらわねばと思う。
今現在でも随分矮小化された形で舛添知事の追及が全マスコミを挙げて進んでいるように見える、誰の意図で誰が誘導してこんな事態が現出しているのか、手口が真似されているような気がしてならない。そこらあたりも、とも思う。
天才という小説はそんな思いを引き起こしてくれるだけでも、力を持っているといえるのかもしれない、そこが慎太郎の作品らしいと言えばそうかもしれない。政治的な本という意味なら確かに面白い本と言えるだろう。


5月もそろそろ終わり、時がごろりと動いていく感じがして、何かふさわしいものを読んだというような気持になっている。政治はいつも生臭い。

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2015年8月28日 (金)

8月も過ぎていく

「火花」を読んだ
しつこいようなタッチで心理的な場面が繰り返される。
Hibana いかにも作者周辺にモデルが居そうな感じがしてくる。
この作家は自分を巡る世界を抜け出した作品を書けるのだろうか
そんなことも考えてしまう。ヘミングウエイだって身の回りの話ばかりを描いていた、それでもいいのだろう。
何か懐かしい小説らしい小説との雰囲気がする、そんなところが受賞した要因かもしれない。
どこでこんな描き方を体得したのだろうか


台風が来てひたすら篭っていた
福岡市のやや西を通ると思っていて南風の強風に備えていた、南向きのガラス戸が多い家だ。が、やや東側通過で北東風メインとなって大した被害も出なかった、家の北側には小山があってこれが風を和らげてくれる。
それでも台風らしく暴風雨がいっときあたりを制圧していたが8時少し前になると急に風が収まり雨も殆どやんできた。眼らしい。気象庁の発表では飯塚市付近に中心ということだが眼が大きいのだろうか、それとも気象庁の発表が少し東にずれているのだろうか。
キジバトがいつものように元気に鳴き始めた。
見ればアサガオも花開いている。生き物はAsagwo 天気の変化に敏感に反応する。

その内吹き返しが来るだろうと思っていた、しかし待てど大した風は吹いてこない、それではと台風対策で横倒しにしていた植木鉢を立て直したりする。

しかしやっぱり吹き返しは昼前頃にやってきて次第に激しくなる、眼の来る前より激しいくらいだ。植木鉢は恐れていた通り倒れてしまう、どうなっているのだろう、随分遅い吹き返しだ。

地形の影響を受けてこうなるのだろうか、台風は単純に熱上昇風の渦だから熱源が絶たれて積乱雲が弱まれば弱くなる、上陸して雨を降らせれば自ら大地を冷やして熱源を絶ってしまう、福岡市を北上し海上に出て海からのエネルギー補給を得てまた強まったのだろうか。海水温は台風来襲前で27度位はあった、十分だ。


8月もこんなふうにして終わろうとしている。時の過ぎるのがただただ面白い。

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2014年9月19日 (金)

リツ子その愛・リツ子その死

壇一雄のリツ子その愛・リツ子その死を暫く寝がけにに読んでいて1週間ほど前に読み終わった。
殆ど日記だ。佐藤春夫、芳賀檀との会話や太宰治等も実名で出てくる、勿論妻のリツ子、長男の太郎もそのままだ。その死ではその愛に書かれたことの細かいところに事実とは少し違っていたと訂正まで入れている。恐れ入る。
福岡の松崎の家に暫く居たようだが松崎とはどこだろうと調べると福岡県小郡市のことだった、久留米のすぐ北に位置する。
Kamome1 松崎から唐泊の小田というところに転居してここでリツ子は亡くなるのだが、確かに今も小田という地名を今津の北の地図に拾うことができる。無性に生々しい。
舞台となった2階屋はもうとうに取り壊されて跡形も無いらしい。ネットを手繰っていくとこの2階屋のおばさんの親戚という方の文まで出てくる。(東洋医学史研究家宇田明男氏の義父の叔母がこのおばさんという)。事実で埋められている小説だ。
壇一雄はリツ子その愛その死でその名をゆるぎないものとしたように思っているが、それが日記としか言いようがない文だった、作家とは恐ろしい稼業だ。生身を削らねば感動を与えられないのだろうか。

遺作となった「火宅の人」も実際の話に沿っているという心象が話に迫力を与えているように思う。
檀一雄という人の生涯そのものが作品のように思えてくる。

夜が長くなってくると小説でも読むかとの気分になる。人は季節の移ろいに絡み取られているような心地がして自然に身を任せるのがいいような気がしている。

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2014年1月15日 (水)

野鳥を見たり本を読んだりして今年も始まっていく

冬らしい日が続いている。冬は野鳥を見るにはいいのだが寒いとどうしてもおっくうになる。それにデCoolpixs31ジスコに使っていたニコンのコンデジカメラの調子が悪くなりせっかく作ったデジスコキットが使えなくなっていた。代わりに購入した防水タイプのCoolpixs-S31ではとても取り付 かない、遠い干潟の写真は半ばあきら めていた。

Kurotura140107 年初めに今津浜にクロツラヘラサギを見に行った時、思い直して昔やっていたようにスコープの接眼にカメラを押し付けて撮ればと試してみたら思いのほかうまく撮れた、なーんだ暫くはこれでいくかと思ってしまっている。

写真が撮れそうだとなると和白浜にも久しぶりに行ってみようとの気にもなる、写真のための鳥見はするものではないとは思っていたが心が動かされるのはどうしようもない。

丁度野鳥の会の観察会もあり和白浜に行ってみるとミヤコドリが8羽くらい来ている。ツクシガモも相変わらず美しい姿を見せる。押し付けデジ スコでは写真を撮るのMiyakodr140113はどうしても時間がかかるがとにかく何かしら撮れて後で反芻できるのがいい。ハマシギやミユビシギ、シロチドリが遠くの砂州に昆虫のように動き回る。ミサゴがじっと杭にとまっている。スズガモの大群やカンムリカイツブリも遠く望める。下げ潮でどんどん波打ち際が遠のいていくが鳥は思いのほか多くて面白い。

予想通り次第に冷たい西風が吹き込むようになって寒さはどうしようもないが冬の干潟は見ていて飽きない、しかし重いスコープを抱えて駐車場所から遠くはなれて歩き回るのは体には良くない、膝が重くなる。

140113daisyakusgそれにしても一週間ほど前に行った今津浜ではコハクチョウが3羽来ていた、こうも寒いと本州どまりの渡り鳥も九州まで来てしまうのだろうか。総じて冬鳥は多いような気がしている。もっとあちこち出かけてみたくなる。

村上春樹の「色彩の無い多崎つくる・・」の本の順番がやっと回ってきたとの連絡が図書館からあって直ぐにピックアップに行く。読み始めると村上春樹は例によってスラスラ読み進んでしまう、今度は亜次元空間が登場しない普通の小説に仕立てられている。個Tukusigm140113a人的には亜次元空間が現れる村上春樹の方が好きなのだけれどもこれも面白い。しかしノーベル賞は無理かもとも思ってしまう。

本も小説ばかりでなく九州王朝説がちょっと刺激的でリアリティがこの地では感じられて書かれたものを幾つか読んでいる、あれこれ興味は尽きない。

やるべきと思うことを書き連ねると直ぐに紙2枚にはなる、どうしようか。今年はどんな年になるのだろうか、だんだん動けな くなっていくような気がして不安もかすめるが、それはそれで受け入れればいいだけさと気軽に考えて動くことにしている。もう1月も半ばだ。

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2012年8月25日 (土)

小説 海峡

ネットで探し物をしていると時々そうだったのかということに行き当たる。この間も何かを調べようとネットを漂っていたら、それが何だったかはもはや忘れてしまったのだが、蒲Kaikyo2谷さんをモデルにした海峡という小説を井上靖が書いている、との一文に突き当たった。井上靖と蒲谷鶴彦、20歳ほど年が違う、どこで出会ったのだろうか。海峡は井上靖が昭和32年頃週刊読売に連載していた、その最後の部分の取材を 雪の下北半島紀行  という一文にしたためている、井上靖と蒲谷さん、雑誌記者、それに挿絵画家の4人の旅だ、これはネットで読むことができる。小説の舞台となった雑誌編集の世界に井上靖の見慣れた風景があるのだろう、そこから切り離された別世界の野鳥を取り巻くミクロコスモスに井上靖の憧憬のようなものを感じてしまう。

海峡を早速図書館へ予約して借り出してくる。昭和33年9月20日の再版本だが9月10日が初版とある、恐ろしく売れたようだ。蒲谷さんをモデルにした庄司という人物がすぐに登場する、やたらと鳥の名前が出てきて、井上靖は結構鳥が好きだったのではないかと思えてくる。あとがきに 小説を書くのは苦しいのだがこの連載は楽しかったと記している。野鳥を求めてフィールドを歩きその声に耳を澄ますことそのものが刺激的でもあり癒されもしたのだろう。小説の庄司と言う人物は現実の蒲谷さんよりもう少しばかり人間世界に寄っている気がする、しかし当時30歳位にあたるのでこれ位かもしれないとも思う。流れてきた時を感じてしまう。

小説の最後の部分が下北半島の突端から北へ渡るアカエリヒレアシシギの録音シーンとなるのだが、この部分を 雪の下北半島紀行 という現実の紀行記と読み合わせてみると面白い。描写が重なっていて、台詞もそのまま現実の蒲谷さんが語った言葉が小説の庄司が語った言葉になっている。細かくメモを取りながら旅を続けたのだろうし現地の旅館でも書き続けていたのだろう、何しろ週刊誌への連載だ。現実に体験する世界を小説という別の世界に落とし込んでいく或いは貼り付けていく、小説家とはこんな手法で書いているのかと少しばかり驚かされる、 そうなのか と感じさせるものがある。これは大変な仕事だ。

正直に言えば個人的には井上靖の文体はあまり好きでない、しかし細かなことは置いておいてストーリで押してくるところが読みやすい。勿論自分では書けはしないのに人の文体をどうのこうのとはとても言えないのだが。

海峡という本は読むべき本だった。どうしてこんな本があることを知らなかったのだろうか。点と点を線で結ぶ生き方にネットがある面を用意してくれる、有難い世の中になったがこの面のどこか深みのなさもいつか破らなければならないのだろう、そうでなければ人は更に新しい地点に到達できなくなるのではないか、そんな気がしている。

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2012年2月19日 (日)

春は巡る

次第に春めいてきている。今朝の寒さはこの冬一番で宇都宮でも-7度を記録したがここらが底のようだ。後は波打つように気温が振れながら上昇していく、寒さの冬ももう終わりだ。
一時賑やかだった芥川賞を巡る話題も一渡りして冷めてきて、ふと芥川は賞のタイトルになるほどそんなにうまかったのだろうか、とたまたま見つけた短編集を借りてきて読んでいる、改めて読むとこれがさすがにうまい。自分の生活とは全く違う世界を緻密に書き出している、非常にプロフェッショナルだ、例えばツルゲーネフとトルストイ家族が猟に出かけてシギを撃つ話がある、山鴫という短編だ。見てきたかのように細かく、微妙な心理の動きの描写もそれらしく面白い、響くものがある。うまいとしかいいようがない。これを越えるうまさをまだ見たことがないような気Imgp0743_800x530がしている。死に様はどうあれ作品は長く命を持って残るのだろう。

また日光彫の塗りあがったものが2点出来てきた。渡良瀬のコミミズクと自宅のシャクナゲ だ。小さいシャクナゲの盆のほうは菓子盆としてすぐに使い始める。なかなかいい。この地で生活したという証のような気もしている。
しかし自分で使うのはいいがこんなものではあとに残るというものでもあるまい、死んでしまった後はいずれ消えてしまうに相違ない。それでも構うことはないと思っている、何かにしがみつくことなくそのままの世界を受け止めて生きる、Nikkoubori1_800x530 それで充分ではなかろうか。

明るく暖かい春は今年もまた巡ってくる

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2011年10月12日 (水)

小説月山

月山・羽黒山・湯殿山からの旅から戻ってそのどろどろとした宗教的な雰囲気がなかなか抜けず、森敦の月山を読み返し始めた。舞台は湯殿山の西裾にある注連寺という寺だがここへは今回行っていPhotoない、小説では じさま が一人いるだけの破れ寺となっているが今は立派な寺になっているらしくHomePageが開設されている。次の機会に湯殿山を訪れる時は行ってみなくてはなるまい、いつになるか。小説月山は芥川賞を受賞した時に文芸春秋で読んだきりで、セロファン菊という言葉くらいしか蘇って来ない。戦後間もない昭和26年に作者がひと冬をこの寺で過ごした体験をもとに書かれている。月山は死の世界の象徴という語りは未だ心に響いてこないが庄内の方言のリズムと主人公の標準語のリズムが2つの世界の存在を際立たせている、作者が向かう世界には宗教の世界の整理されたロジックはそこにはなくどろどろとした生きる力があるだけだ、月山は牛のようにどっしりした置き物でしかない。実際に月山に向かうと羽黒山や湯殿山の渦巻くような宗教の世界をはるかに超えてただただそこにあるという重さが感じられた、思い返せばその雰囲気は小説にはよく出ているようにも思える。作者の意図とはずれているかもしれない、しかしどうしようもなく動かない月山がある。月山を登ったあと山裾に沿って湯殿山の入り口にまわってみたが途中は殆ど人家の無い山道で未だに不便なところだった、翌日羽黒山の宿から高速に乗るまでの集落を抜けていく普通の農村風景の道筋にもガソリン給油所も全く見当たらない場所でもあった。生きぬくことをいつもきちんと心に留めておかねば生きていけない、小説月山に漂うそんな雰囲気が今も感じられる、しかしちょっと重い。

また行けるだろうか、鳥海山に登りに来れば帰りに寄ることもあるだろうか、そんなことを暫くは考えていたが、次第に薄らいできた。解き放たれるように生きていく、それが実は性に合っているように思えている。

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2010年8月23日 (月)

キリマンジャロの雪

この間カナダの氷河を見て圧倒されるもの感じて、氷河が少しばかり気になっている、そういうわけでもないが、図書館で棚を眺めていたら キリマンジャロの雪のタイトルが目に入った、ヘミングウエイだ。昔一度読んだような気もするが、始めのところのキリマンジャロ山頂には豹の死体があるという書き出しだけしか覚えていない、読み直してみるかと、借りてきて読み始めた。短編だからすぐ読めてしまう。これは何と言う小説なのだろうか自虐的な悔悟の気持ちをたどる著者自身のドキュメンタリーのような雰囲気だ、ストーリーで押していく小説ではない。こんな小説だとは思っていなかった。少し調べると、著者自身、描かれているのと同様、裕福な妻の身内の支援でアフリカにサファリに行き急な病で病院へ小型機で搬送されている、この時に空中からキリマンジャロを見たのだろう、キリマンジャロが死と結び付けられて感じたのだろう。いい文章とも思えないが不思議なリアリティーがある。ヘミングウエイの著作は多くが自身の経験からさほど離れていないところを描いている。欧州で著作を続けた後米国に戻ったのは取り巻く人々を次々にモデルとして作品に登場させ居づらくなってしまったためとも言われる。書きたくて書いたというより作家として生きていくためにとにかく書いていたという面がどうしても感じられる。作家という職業が重かったのかもしれない。
家系に鬱病の気質が遺伝的にあったらしく,父親は自殺、本人も61歳で自殺、孫娘のマーゴもヘミングウエイの死後35年目の命日に自殺している。
根本的に内省的で難しい人だ,それだけに感じる力があったのだろう。
カナダで見た氷河の風景は日本の柔らかな風景と違い人の存在を超越する力を感じさせるものだった、氷河には死の世界を想起するものがある、そうかもしれない、風景に力がある。
キリマンジャロの氷河は最近では氷河後退が顕著に観測されていることでも注目されている、タンザニア気象庁のレポートを読むと、単純に地球温暖化だから、ともいえないようで、乾燥化による昇華、低降水化、火山の地熱の影響、太陽放射の増加、等が重なり合って起こっているのが現実のようだ。ともかくヘミングウエイが見た1930年代でもかなり急速に氷河はその面積を縮退しつつあって、グラフからは2020年まで持たないように見える。氷河自身の死に至る姿がそこにはある。

風景は見る人の心と響きあって存在の意味を発しているようだ

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2010年7月19日 (月)

1Q84Book3

梅雨が開けた。今年は蝉が現れない、あまりに雨が続くと羽化が遅れるのだろうか。ともかく暑い。
村上春樹の小説1Q84の続きとなるBook3が4月に出て、図書館に貸出予約を入れていたら今頃になってやっと順番が回ってきた。買わずに済ませる人が多くなっているようだ、1q87b3_2 自分も同じで不平も言えない。ともかく急いで読み始める。なんだか説明的になっている、ふかえりの描く世界がなんだか手垢にまみれている、Book3は必要だったのだろうか、Book2まででも十分完結していたのではないだろうか、そんな気がしてくる。まあ、話は面白いので文句は言えない、作家の勝手だ。とにかく3日で読み終えた。多くの事柄は完結するのだが、気になっていた天吾の書きかけの小説は遂に明らかにされない、青豆は天吾によって書きかけの小説の中で作られた人格ではないかと疑っていたがそうではなかった、もっとシンプルな当たり前の構成だった。それにしても余韻が少ない、どこかビジネスとしての小説との香りが残る、そんなところもあるのだろう。既にBook2までは韓国、中国、台湾、オランダ、で翻訳出版されている、英語版は来年秋らしい、ともかく世界的なビジネスというのも視野のどこかにあるような気もする。村上春樹はそこいら辺りに面白さを感じているのかもしれない。
暑い夏は昼間は出かける気がしない、涼しい部屋でのんびり小説でも読むのがいいようだ。

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2010年6月 4日 (金)

プロは厳しくなって

Iwaym なにげなく借りてきた三島由紀夫の「夜会服」という小説を読んでいたら三島の作品には珍しくハッピーエンドになってどうしたのだろうと思ってしまった。余韻というものが無い。1966年から67年に雑誌マドモアゼルに連載とあるのでそこを感じて書かれたのかとも思うが、どうしようもなく古い娯楽本のような感じが漂っている、稼ぐために書いたのだろうか、そんなこともなりわいとしての小説家には必要になる。三島も当時 短い時間でも濃密な経験をすればこれを何倍にも薄めて色々小説が書ける、とどこかで語っていた、これは大分薄まった小説のようだ。まあしょうがない。

iPadがはやりそうだ。昔から感じていたアップルの“なじむ”感じがそのままのようだ。以前アップルがアイコンとマウスを打ち出した後のWindowsのパクリには唖然としたが今回はもうそんなわけには行くまい。しかしフラッシュを排除するなどアクの強さは健在で 昔で言うなんやら大鵬たまご焼きの世界とは隔絶しているようだ、パソコンを席巻し尽くす恐れがないところがまだいい。電子書籍が普通の本のように読めるため書店で本が売れなくなると書店の業界が警戒しているらしい。ともかく自費出版の本を電子書籍で出すのはひどく手軽になりそうだ、作製ソフトも色々出てくるだろう、小説を書くこともはやってきそうな予感がする。
Netによって個人が打って出る機会が随分と増えてきている、別に小説を書くといった大げさなことでなくてもオークションの売り買いといった、以前は出て行くのにどうやればいいのか分からなかったことが、どうということもなく出来るようになってきている、素人とプロの垣根が薄らいでいる。更には 調べ物は百科事典よりNetに聞くのが一番で、新しい情報があって調べるのも早いが、そのデータはwikipediaにしろ結局プロではない個人の趣味の努力が支えている、鳥や植物の色んな角度や場所での写真は全て個人が支えて図鑑の限られた図版から抜け出せている。プロで生きていくことは厳しくなってきているようにも感じる。

三島のように、プロらしい薄めた小説で稼ぐというような手は次第に難しくなるのかもしれない。この先どうなるのだろうか。プロは技を深め取り巻くセミプロも更なる深まりをみせ、純朴なアマチュアの世界と際立っていくのだろうか、セミプロの数がやたら多くなるのかもしれない、どうなるだろうか、解らない。

どうでもいいことのようだが、それにしても誰が動かしているともいえないどこへ向かっているかも分からない「時代」そのものが面白くもある。

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