2025年3月15日 (土)

地下鉄サリンから30年

3月20日で 地下鉄サリンから30年たったことになる。思い立ってまだ読んでいなかった村上春樹の被害者及びオウム信者へのインタビュー作品「アンダーグラウンド」と「約束された場所で」を読んでみる。文章の大半がインタビューを受ける人の語りなのでいつもの小説とはずいぶん違う。でも報道されたこととは違う景色が見えてくる、知らなかったことが随分あるなあと思ってしまい読みだすと対象者一人分は一気に読んでしまう。まだ完全に読み終えたわけではないが今のところ印象に残る一つがインタビューを受けたオウム信者は全員がオウムに入った時のことをポジティブに語って いることだ、現世の息詰まり感は 出家により 洗われた 、良い時間を過ごせていたと事件の全容を知った今でも感じていることだ 。何も洗脳されているという次元でないことは読めば響いてくる。彼らがオウム信者となるに至Yakusokuった息の詰まるような社会構造は解消されたとはとUndergrても言えない。またか、という事件が起こることになるような気がする、もちろんオウム信者がということではなく同じように行き場を失ったと思い詰める人々がまた何かをやりだすことになるだろうとどうしても思えてくる。闇バイト事件や特殊詐欺集団も部分的には同じところがあるような気もする。どうすればいいのか未だ解決の方法は見つけ出されていないようだ。

地下鉄サリン で被害を受けた人の側の視点もはっとさせられるものがある。 地下鉄で事件に遭遇しやっとの思いで 地上に出るとあたりは多くの人がたおれ込み、苦しむ 地獄だった 、さらに驚くべきはサリンにやられて人が苦しみ横たわり吐いたりしている 、そのすぐ先を 日常が何もないかのように流れ続けていく、誰も立ち止まって手を差し伸べたりしない、すぐ近くの官庁の守衛も何も反応しないという異様な光景 .こんな有様はどのマスコミからも報じられなかった。

そこに何かの真実があるようだ。平日午前8時過ぎの地下鉄霞ヶ関駅、機械のような官僚社会が図らずも現出したように思えてしまう。

我々は何か歪んだ社会を作り続けている、その思いは多くの人で共有されるべきものだと思わずはいられない。我々は一体どこへ向かっているのだろうか。

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2025年2月 2日 (日)

村上春樹が

図書館に1週間に一度は行って本を借りてくる生活をここ10年くらいは送っている。宇都宮にいたころも似たようなサイクルでもあったので図書館とはずいぶん長い付き合いではあるようだ。1月の初めころ図書館でたまたま見つけた村上春樹の「意味がなければスイングはない」という文庫本を読んでいて、さすが、とImiga 思ってしまった。ジャズ評論と言っていい書きものなのだがジャズ評論家としても一流のよく掘り下げた、よく書き込んだ文だ、ここまで書くには相当にのめり込まないとできない。見直してしまった。そもそもどういう経歴だったっけとwikipediaで村上春樹のところを見てみて、ちょっと驚いた。まずは、同学年だった、村上春樹はいわゆる早生まれで自分より8か月くらい遅れて生まれているが同学年だ。まさかそうとは思っていなかった。西宮市で育ち高校は神戸高校に通っていたという。ニアミスだ。自分は中学の終わりころに父の関西転勤が突然決まり急遽関西の高校を受験することになった、まずは神戸市東灘にある私立の難関校を受けここに落ちたら神戸高校を受けるという手はずだった。幸運にも、と当時思っていたが、難関校のほうにパスしたので神戸高校には行かなかったがそうなっていたかもしれない自分がいた。西宮市の山の手に住み時々ジャズコンサートを聴きに行ったこともある、ジョンコルトレーンが神戸国際会館で来日公演した演奏会はよく覚えている、どこかですれ違っていたかもしれない。嵐のように大学闘争が吹き荒れる時代を東京で過ごした、ここも同じだ。最初に読んだのは「羊をめぐる冒険」だった、高校のころはSFが好きだったのもあり何か通ずるところがあって、そのあと新作が出るたびに読み続けた。フーンそうだったのか、と何かが解けた思いがする。Wikiに載っていたイスラエルでの授賞式とその講演の話はよく覚えていないこともあり、スピーチ全文が掲載されているという文芸春秋2009年4月号を図書館から借りだして読んでみた。2009年あたりでもイスラエルはガザ地区住民に対して集団殺人を行っていた、何度でもやるようだ、狂っている。そんなイスラエルに出かけて大統領も含む聴衆の前で何を言ったのだろう。小説家らしい言葉で、我々は国籍や人種や宗教を超えて一人一人の人間として、脆い殻をもった卵として、高く硬く冷ややかなシステムという壁に立ち向かっている、我々に勝ち目があるとすればそれはお互いの温かみを寄せ合うことから生じてくるものだ、私は常に卵の側に立つ、と語っている。当然のように共感を覚える。我々の世代にまだできることは残されているのだろうか。

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2024年10月 1日 (火)

もう一つの芥川賞作品「バリ山行」も読んでみた、六甲山という山を思い出してきた

「サンショウウオの四十九日」があまりといえばあまりの設定だったこともあり、もう一つの受賞作「バリ山行」も読んでみた。紹介文では六甲山の山行が軸になってBarisannkou いるような作品というのも気になった、というのも50年以上前阪神間で高校生活を送っていた時登山部の一員として六甲山はしばしば登っていた記憶が今でも体の一部に染み付いたままの気がしているからだろう。当時甲陽園のあたりに住んでいたが、この作品にも甲陽園の駅で降りて山にとりつく場面が描かれているところにぶつかると遠い昔の日々を思い出したりもした。東おたふく山、油こぶし、西谷谷、水晶谷、、どこか頭に残っている名前が次々に文字として出てくる、もはやどこだったのかわからずネットの地図で確認していく、少なくともここに描かれたバリエーションルートの山行はやった記憶がないが、六甲山という山の山としての豊かさが記憶にある。山に登らない人からは六甲山登山と聞いてケーブルで行けばすぐ着くのに、こんなの登山というの、という反応が返ってくることが結構あった、足で登らない人には解らないかな、という感じが今でもしている。読むと作者の六甲山に対する強い思い入れがこの小説のベースにあるような気がしているが、確かにそんな山だ。
小説自体は「サンショウウオ。。」のような不可思議なところはない、普通の小説だ。濃密な描写の連続が新しさを選者に印象づけたのだろうか、読んでみて新しいタイプの小説との印象は強くはない。こんな芥川賞もあるということなのだろう。
小説を読むと頭の動いていない部分が久しぶりに動いたようでいい、夜も長くなってきたし溜まっている読みかけの本をそろそろ読了していこうか、そんなことも考えている。

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2024年9月12日 (木)

芥川賞の「サンショウウオの四十九日」を読んでみたら

芥川賞が決まってその日のうちに掲載誌を図書館に予約したがもう5か月待ち位の長い行列だ。少し待ってみたが待ち行列の進み具合は遅々としていて、しょうがないと今回は受賞作が掲載される文芸春秋九月号をヨドバシに発注して入手した。とにかく配達してくれてポイント分だけ少しは安く買えるのがいい。程なSansyouo0912a く届いて、のんびりと「サンショウウオの四十九日」から読み始めた。すぐに何だこの小説は、と思ってしまう、何しろ生まれた赤ん坊の中に赤ん坊が宿っていて成長してくるというとんでもない情景が描かれる。1年後に第2の赤ん坊は第1の赤ん坊から取りだされて、立派に成長した後この物語の主人公である一体となった双子姉妹杏と瞬の父となるという設定だ。一体となった双子とは見た目は一人だが概ね二人分の臓器が内側にあって意識は別の二人という設定だ。出生届も2人分提出してもめた末受け付けられるという設定でもある。現実にはとてもありそうにない、共感性が全くと言っていいほど湧いてこない小説だ、そうだよなあ、と思うところがどこにもない。読んでいて結構つらい。こんな小説は確かに書かれたことはない、新しい世界を描いていると言えばそうだ、かといって芥川賞というのはちょっと、と思ってしまう。著者の朝比奈秋は現役の医者という、外科手術を行ったりもしているともある。解剖学的には人の意識は見ることはできない、リアルな臓器と意識は別物だという感覚を抱いて書き始められた小説のように読んでいると思える。でもその部分もそうかなあと思ってしまうところがある。こういう小説が書かれそれが芥川賞を取る、そのことそのものが新しい時代の始まりを示しているのかもしれない、そんな風にも思い始めている。確かに時代は動いている。

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2024年9月 5日 (木)

オードリー・タンのことを書いた「オードリー・タンの思考 IQよりも大切なこと」を読んでいたら

台湾のトランスジェンダーの元デジタル大臣オードリー・タンのことを記した「オードリー・タンの思考 IQよりも大切なこと」を図書館から借りてきて暫く読んでいた。類まれな人のようで日本では堀江貴文が少し近いのかなと思ったりもした。読んでいて少し気になったのはしきりに出てくる「ハッカー」という言葉だ。この本の中ではプラス側、積極的に改革を行う側の「善い人」との表し方で書かれていて、台湾では「ハッカー」というとITプロPhoto_20240905162301 グラム能力にたけたIT時代をけん引する能力を発揮している人のような扱いであるらしいと読み取れる。著者は台湾に在住する日本人だ。日本で普通に使うときはそんな風には扱わないと思う、ハッキングというとITを使った情報の窃盗だしハッキングを平気で行う犯罪者がハッカーと扱われているように思う。キーワードのハッカーという言葉の定義をこの本の初めの方でしてくれないととても読み続けられない気がしてくる。言葉が気になりだすと伝わるべきことも伝わらなくなるような気もしている。
最近の言葉、表現の気になる話はそういえばそのほかにもあって、気象関連でもいくつかある。一つが線状降水帯という言葉だ。最近よく気象庁が使うが、これが線状降水帯であるという定義が伝えられていないというかまともに伝える気がない上から目線というか、その辺りもかなり気になる。文字通り線状の降水帯というだけならいくらでもある、前線は基本的に線状の降水帯を伴う、線状降水帯という淡々とした表現ではその危機感がにじまない、仲間内の符牒のような言葉という印象がある。こんな時は世界ではどう言い表しているかをみると手っ取り早い。英語の表現では、trainingという言葉が使われる、訓練のトレーニングと混同されそうだがちょっと違う。こちらは列車が雨雲を運んでくるような有様を表現しているようで列をなした雨雲が次々に襲ってくる有様が言葉から感じられる。日本語の線状降水帯からはこの列をなして次々に襲ってくる動きが伝わってこない、もっと言えば危機感がにじまない。この言葉を公に使い始める時にその辺りの考えが欠落したのかな、そういう組織なんだ気象庁はとも思えてくる、どこか独りよがりな信頼のなさを感じてしまう。列状降水帯とでもすればまだましだったような気がする、理学の鈍感ということかもしれない。
こんな風に行政府のやり方に言いたいことをいう、これがもっとオープンに議論できる場が用意されればな、と思ったりもする、それがオードリータンの世界なのだろうと思っている。

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2024年9月 1日 (日)

伊藤比呂美の「いつか死ぬそれまで生きるわたしのお経」を読む

伊藤比呂美の「いつか死ぬそれまで生きるわたしのお経」を読んでみた。そもそもは伊藤比呂美の歌を文藝春秋か何かで読んでいい詩を書く人だと思って図書館の蔵書を検索したらこの本が出てきて予約したのがこの本に出合った経緯ということになる、予約してみて待ち行列の長いのに驚いた、随分な人気だ。何ヶ月も待ってもうどうでもよくなった頃順番が回ってきた、パスするのもあんまりなので取り敢えず借りることにして図書館に出向いたが、付録にCDが付いていて窓口のOkyouyy 人がこれも借りますかと念押しする、付録だから借りないという選択肢はなさそうに思うのだがと怪訝な思いで、借りますと答えて借りてきた、まだ聞いていない、自作の朗読のようだ。変わった本だ。
とにかく本の文の方を読みだした。
人生相談的な文が現れるかと思いきや本当にお経の現代語訳を自身で書いて次々に出して来る。信心など全くないと書いているがずいぶんな探究心を仏教に注いでいる。確かに坊主の唱えるお経は一体何と言っているのだろうとの疑問はいつもあった。般若心経は学生の頃お寺に泊まってグライダーを飛ばす合宿をやったことがあって何かのご縁ですからと朝のお勤めで毎日読経した記憶がある、一通りは内容の説明を受けたがもうすっかり忘れている。そのほかのお経はその内容に仮初めでも向き合ったことがない。わからないんでいいんだといった空気があるように思える。聖書やマホメットの言葉を誰もが理解しこれを拠り所にするキリスト教やイスラム教とは大違いだ。仏教経典であるお経は一体どういう内容なのだろうというのは長年知りたいことではあった。
般若心経の他には阿弥陀経や法華経のこれはという所が現代語訳されて出てくるが、何とはなしに死への向き合い方やブッダが教えを広めることの尊さを謳い上げるばかりのように見えて教えそのものに踏み込んでいかないもどかしさを感じてしまう。最後にブッダが死の直前に弟子たちに残した仏遺教経の現代語訳が出てきてやっとこういう風に生きなさいという教えが示される。なかなか立派な教えだが眠りをむさぼるなというあたりは要するになるだけ眠るなと読めてちょっと非人間的だとか、怒るなのところはそうなのだろうけれど余りに不当な仕打ちを受けても怒らないというのはこれも非人間的なように思えてしまう。歴史的には僧兵という組織があって僧が暴力をふるうことがあったがこれは全く教えを無視していたのだろうかとも思えてくる、仏教とは仏教の集団とは一体どの範囲までを指すのだろうかとの疑問が湧いてきたりもする。
読後感は、そういうことなのか?、ふーん、というものだった、何だか違和感がある。合間合間に著者の身の回りのエッセイが挟まれるがこれが生き生きしていていい、ということで全体としてはまあいい本かな、という気がしている。

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2024年8月22日 (木)

ポールオースターの「幽霊たち」を読む、無駄な時間を過ごした

今年の4月に亡くなったポールオースターのニューヨーク3部作の内未読の「幽霊たち」を図書館から借りて読んでいた。120ページ位の文庫本なのですぐに読めるだろうと気楽に読み始めると、これは何だというくらい何だか読みにくい。物語らしい活動が展開されない。筋を端的に言うとPhoto_20240822002601 見張りの依頼を変装した依頼人から受けた探偵が 指定された相手を46時中見張り続ける、きちんと報酬は払われるが1年以上もこれが続く、探偵にとって大変な努力だ、結局指定された相手は依頼人自身だったとわかる、怒った探偵は相手を死ぬほど殴って話は終わる、これだけだ。多分依頼人は作家で作者自身の投影なのだろう、誰かに見られ続けることを願っている、見られ無くなれば存在しないも同然だそういう存在ということなのだろう、最後まで読んで振り返ればそうかなあと思う位で、読んでる最中はいったいこれは何なのだいつかは物語が展開し始めるのだろう、と我慢して読むことになる。読後感が全く良くない、無駄な時間を過ごしてしまったと感じてしまう。多分共感性に乏しいのだろう。確かにこんな形の小説は読んだことがない、でも、だからといってこれは貴重だとも思えてこない。
ポールオースターは不思議な作家だった、それだけはいえるだろう。思えばそれだけでも作者にとって十分なのかもしれない。

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2024年7月 3日 (水)

ポール・オースターの「ガラスの街」を読んでみる

先月の初め頃Newsweekを読んでいたら、アメリカの作家ポール・オースターががんで亡くなったという記事に遭遇した。これは読んだ方がいいかもしれないと直感的に感じた。ポール・オースターという人は全く知らなかったが、いったいどういう作家なのだろうと図書館に「ガラスの街」という作品があるとわかったので早速予約を入れて借り出した。240ページ位の文庫本なので、まあ読める。
読むと最後に私という視点が出てくるがさらにポール・オースターという名前の作家が登場し主人公であるクインはポール・オースターという名前をかたって依頼人の依頼を受けるといGarasunomachi う不思議ないれこ構造になっている、作家本人の名前が物語のキーにもなっているというところが面白くて、何なんだこれはと思ってしまう。ニューヨークの街で繰り広げられる解決されない、されることに意味がないミステリーという仕立てだが、枝葉のように書き込まれているニューヨークの街角の連なり、締まりのない会話全体が経験したことのない読後感をもたらす。確かにこれは特別だ、読まないとわからない。知らない世界を少しでも開きたい、そんな気持ちに図らずも答えてくれる作家のような気もしている。ニューヨーク三部作の一つがこのガラスの街だが他の2つも読んでみようという気になっている。

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2024年4月12日 (金)

マイケルグリーンの「アメリカのアジア戦略史・上」を読んでみたが

マイケル・グリーンのアメリカのアジア戦略史 上 建国期から21世紀まで という本を借りてこのところ読んでいたが2週間の貸し出し制限がきつくやっと読み終えてそのまま返却した。アメリカという国は太平洋を越えた西にあるアジアとどう向き合ってきたかという視点からの書物で、こういう見方から書かれた本Photo_20240412103601 は初めてで新鮮な思いがした。誰がどう政策決定に関わってきたかを人名を中心に細かく書き記している。屈折しながらジグザグと進んできたアメリカの状況がそれなりに分かる気がする。書かれていることは多分本当なのだろうが、読み終えて感じることは幾つか肝心のところが書かれていない、意図的にか逃げているように感じるところがあるのが気になる。狂信的な愛国者からのトラブルを避けるためアメリカにまずいことは書かないようにしているのかもしれないと感じてしまう。一つはハワイ王国滅亡に対するアメリカ政府のかかわりのところだ。植民地化-併合のプロセスでは手を汚していないかのような書き方に終始しているというかきちんと書いていない。第2次大戦後の植民地の民族自決をアメリカがリードしたというところはきっちり書いているのに自らはハワイ王国を簒奪し併合している(住民の7割が反対したといわれる)という歴史的事実に向き合っていない、キレイキレイに書いている、そういうことなら他にもそんなところがあるかもしれないと内容が疑わしく思えてくる。日本との開戦に至るいきさつもたとえばハルノートのような動きはまるで書かれていない、というより開戦直前直後の米政府内部の動きについては一切書かれていない。何かまずいことがあるのかもしれないと思う、真珠湾はだまし討ちだというローズベルトの主張は米国の失態を覆い隠し利用するプロパガンダだったのかもしれないと思ってしまう。

色々あるが米国が建国以来太平洋を西へ西へと押し続けているという歴史・現状は事実に即して素直な目で眺め続けなければならないのだろう。思った以上に米中対立は簡単には終わりそうにもない、そうも感じる。

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2024年3月16日 (土)

「新しい戦前」を読んでみて別のことを想った

「新しい戦前」」という本が話題らしいので図書館の予約の列に並んで借りてみた。どうも著者の内田という人は全共闘時代の生き残りのような感じで当時の活動の残滓を引きづっているように感 じる。もう一人の著者の白井という人はよく解らないが新しい全共闘時代という感じがしないでもない、古い言葉だが新左翼という言葉をどこか思い浮かべてしまAtarasiisenzn う、勿論今や全く左翼ではないが。両者の対話が内容のすべてだが、対話という形が、堅苦しく独善的になりがちな内容をそうさせないでいるせいか読みやすい。米軍の占領が今も続いているとみるべき対米追従に対する指摘など全くそう思っていたと共感するところは多々あるが、読み終えると、それで、と思ってしまう。対談の中に出てくる破壊はたやすいが作り出すことは簡単ではないという言葉のとおりで、破壊的な主張がこの本の内容の多くをカバーしており、それでどうする、というところが見えにくい。まあそれでもこんな視点を打ち出すことは大事なことだとは思う。
つらつら考えるに、反共、というコンセプトで戦後はずっと進んできてソ連崩壊とともに、形が見えにくくなったが、考えてみれば東アジアに限ってみれば、中国、北朝鮮と、いまだに頑張り続けている共産主義体制が健在でそこに過度の対米追従の必要性があったとも思われてくる。ここへきてロシアが独裁制を確立しそうで、それが中国、北朝鮮の旧態依然の共産党独裁の落としどころになると両国が気づき始めているような気がしている。反共ではなく反独裁の塊のリーダーとしての米国に追従すべき存在価値があるということが今の形態を引きずっている大きなドライブになっているのかもしれない。ところがトランプの登場で米国にも独裁的振る舞いのリーダーを求める勢力が多数となりつつある時代になってきて、さあ日本はどうする、というのが今の時代と見ることできるのではないか。民主主義が行き詰まり国連主義が行き詰っているのがこの世の姿でそれに対する回答が得られないままに進んでいってしまっているというのが今のこの世なのではあるまいか。
日本に残る強さは天皇制というところに最後行き着くのかもしれないという気がしている。独裁ではないが完全な民主主義でもない形態の可能性がそこに残されているというのが日本の強さなのではなかろうか。

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