2023年3月20日 (月)

今年の芥川賞を読む

今年も芥川賞が発表される季節となって、どんな作品だろうと、掲載される文藝春秋3月号を予約可能となる日の朝一番に図書館にネット予約した。予約順は1番ではなく2番だったもののすぐに順番が回ってくる、さっそく読んでみた。今回(第168回、令和4年度下半期)受賞したのは井戸川射子「この世の喜びよ」と佐藤厚志「荒地の家族」の2作品でいずれもそれほど長い小説でもなく、1週間もあれば2つとも楽に読めてしまう。
「荒地の家族」から読み始めた、3.11の震災被Arechinokazoku 害者の直面した生活を描いている。非常にリアルな感じがする、楽しい場面は殆どなくてこれでもかとつらい現実が展開され続けていくが、とても誇張と思えないリアルさだ。重い。しかし情景がよく描写されていて、文章そのものがいい。作者の力量を感じる、さすが芥川賞だ。
「この世の喜びよ」はこれとは随分違っている、読後感として最初に感じたのが物語の無さだ、これは小説というものなのか、と感じてしまう。ショッピングモールの一角にある喪服店の店員という主人公の周りに流れていく日常の描写のみではないかと思ってしまう。2人称で描かれていて主人公をあなたと呼んでいる視点で読んでいくことになるのだが、なじめない、勿論面白い試みではあるがなじめなさはどうしようもない。小説の描いている世界へ引き込まれていく感覚をどうしても抱けない。こういう小説が賞をもらう時代になったのだ、ついてこれるかな、と言われているような気さえしてくる。

小説を読んで絵空事の世界に時々身を置くという疑似体験が自分としては精神的にいいような気がしてこれまで時々小説を読んでいたが、精神の活性化に必ずしもつながらない小説が出てき始めてるような気がしてきた。そういう時代なのだろう、映画を時折見る方に切り替えた方がよくなってきたか、そんなことも考え始めている。

| | コメント (0)

2023年2月14日 (火)

フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」の後で

フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」の後で を読んでいる。
冬は本を読む時間を取りやすい。適当に何冊かを読んでいた時この本を引用していたり紹介していたりする場面に幾度か出くわしてこれは読んだ方がいいかと図書館の予約の列に並んでみた。先週やっと順番が回ってきて読んでいる。マチルデ・ファスティングというノルウェーの経済思想家の質問に答える形で進んでいく。フクヤマは何冊もの本を書いており、質問者はそれらを取り上げながら問いを発し続けていくので、フクヤマが全体として言いたいこと考えていることが直接的に語られていて手間が省けるという気がしてくる。
まずは「歴史の終わり」とは何かRekisinoowari 、これは簡単で、自由民主主義(liberal democracy)がこれからも含めた人類の歴史の中で最後の政治体制となる、ということだという。一昔前は左派のインテリは共産主義が最後の形と考えていたが今そう考えるものは誰もいない、というわけだ。なーんだという感じだ。
では、世界の色々な国が自由民主主義になかなか到達できないのは何故か、ということになる。それを何回も形を変えて質疑応答している。自由民主主義が根付くにはナショナル・アイデンティティに基づく国民国家と強固な制度を固める体制が必要で、歴史的には権威主義などの形を経て最後に到達できるもの、と答えているようだ。
ナショナル・アイデンティティという言葉が曲者で、これはフクヤマがニューヨークという街で育ったということが大きく関係しているように思える。この地ではアメリカ人とはアメリカとしての共通の理念を共有する人という考えが強く人種や出身国、宗教などの重みはほとんど感じられないという、このイメージがナショナル・アイデンティティということなのだろう。偏狭なナショナリズムとは明らかに違うものだが、かなり近いところにあるような気もする。ナショナル・アイデンティティがあってのその基盤の上での自由民主主義ということのようだ。
更に腐敗を抑え込む体制というのが重要と何度も述べているように見える。権威主義が倒されてさあ自由主義だとなると、不正が横行し体制を私物化しようとする動きが現れてくる、これを排除しなくてはうまくいかない、としている、確かにそうだ。ここでつまずく国が多いような気がするし、もう大丈夫となってもまた腐敗が頭をもたげるようにも思える。
 
自由民主主義に対する脅威としてはポピュリズムの拡散をあげている、偏狭なナショナリズムなどで多数の支持を得て権力を握ると権力を私物化し制度や司法を破壊していく、というのがその特徴としている。現代の社会の仕組みを、そうみればいいのか、と説明してくれるところが、読んでいて気持ちがいい。
EUのような各国をまとめて統合していく方向に未来があるという見方には否定的で、ナショナル・アイデンティティが曖昧な形となってうまくいかないだろう、としているようだ。EUの人々がフランス人やドイツ人でなくヨーロッパ人という意識を強く共有できるとは思えない、ということのようだが、この本はウクライナの戦争が始まる寸前に書かれており、現在ではヨーロッパ対ロシアという形が明瞭になってきて、この戦争がEUの理念を強めてきているように思えている。今フクヤマに聞けば別の答えが返ってくるかもしれない。
また、経済学という学問では経済的利益最大化で行動する個人というモデルの上で学問が組み立てられているがそれは正しくない、個人の行動の原理には、個人の価値や尊厳への承認要求を満たすという個人の魂が大きく関わっている、(これをテューモスというプラトンの表現で表している)、これを考慮に入れない規制緩和などを軸とする新自由主義経済は、富の集中・格差の増大などの社会的歪を生み、うまくいかなくなる、ともいう。
なかなか面白い本だ、フクヤマは非常に多くの本を読み込んでいると感じられ社会の仕組みや出来事のなりたちによく考えが廻る、知の巨人という言葉がふさわしい人のように感じられてくる。
それにしても最近感じる、日々の買い物に顔を出す店の小さなごまかし、政府の広報の小さなインチキ、通産官僚によるコロナ補助金不正受給、自衛隊員が闇バイトで強盗一味に加担、といった今までは目にしたことのなかった社会のほころびが、そうか、これがフクヤマのいう腐敗の始まりか、こういう風にして自由民主主義体制は崩れはじめていくのかもしれない、と頗るリアルに感じられてくる。
いい本だ。

 

| | コメント (0)

2023年1月22日 (日)

アニーエルノーの「戸外の日記」を読んでみると

ノーベル文学賞受賞のアニーエルノーの著作をいくつか図書館に予約して順番がき次第読んでいるが、今日は「戸外の日記」という作品を読み終えた。これはすらすら読めた。
1990年前後の日記のようで普通の日記とは違って、例えば電車の中でたまたま遭遇した人々の聞こえてきた会話あるいはしぐさなどを書き記した作品だ。勿論著者の感慨も入ってはいるが抑制された表現で情景の写生の様な記述が殆どだ。小説を書くための断片を集めたメモの集まりのようにも思える、結構面白い。そKogainikkiの時の社会の雰囲気がそのまま保存されているような気がする。
1990年頃はベルリンの壁が崩壊し、日本ではバブルが崩壊し始め、世の中が崩れるように動いていた時期だ、この時自分は何をし何を見ていただろうとも思う。
今からでも遅くないこんなスケッチの様な文を書いてみようかと思ったりもするが、そういえばこのところ人が雑談している場に居合わせていないという気がしてくる、年齢もあるがコロナの影響が大きいのだろう。人が生きていく過程では何かができやすい時期というものがそれぞれにあるようだ、今は何ができやすいのだろうか、そちらを考えた方がいいような気がしている。きっと何かあるに違いない。

| | コメント (0)

2022年12月20日 (火)

日本の知、どこへ を読んでみたが

少し前に共同通信の「日本の知、どこへ どうすれば大学と科学研究の凋落を止められるか?」という本を図書館から借りて読んだが、読後感がよくない。
2000年ころまでは日本は世界の未来だったように思う。Nihonnochi それが今では輝きを失ったかに見える。何故なのか。引っかかっているところへこの本がどこかで宣伝されているのを見てとにかく図書館の順番待ちに並んだ。
ざっと読んで、何かが抜けている感じがする。あのつくば博が開かれ前へ前へと進んでいたものがこうも急に先が見えなくなったのは何故か、それには答えてくれない。文部官僚が予算の犠牲になったというシナリオを追いかけるだけだ。そうなのだろうか。違う、取材の仕方が根本的に違うのではないか。
2001年の省庁再編でそれまで大臣を抱き科学技術行政の中心的働きをしていた科学技術庁が内閣府と文部科学省に吸収されて、外から見て科学技術に力を入れていた日本政府の姿がぼやけてきたように映った。言い方はいくらでもあるだろうが科学技術庁の名が消えてどうしてもそう見えてしまう。この時期を分岐点とするかのようにずるずると後退していく日本の姿が現出していったと思えてしまう。そこをつく分析が実は必要の様な気がしてしまう。何でこんな科学技術庁をバラバラにするようなことになってしまったのかそこに突っ込むレポートが必要の様な気がしている。
文部官僚があるいは文部族議員が日本の科学技術を高めることができるのだろうか。そこだと思う。

| | コメント (0)

2022年12月15日 (木)

量子物理学を放送大学で学んでいるが

冬至は12月22日だが日の入りの最も早い日は12月6日でもうじりじりと日の入りは遅れ始めている。
日の出の最も遅い日はこの冬は1月8日だから冬至をはさんだ一月ほどが地球の運航からはもっとも冬らしい日々ということになるのだろう。
日も短いしコロナも収まりきらないと本を読んだりテレビを見たりが多くなるが、この冬は放送大学で量子物理学をとっていてこの理解にこのところ暫く四苦八苦している。教科書とテレビ講義だけではどうにもついていけない。一体何が困ってこんなことを言い出したのだろうか、その時多くの学者はついていけたのだろうかという疑問がわいてくる。何かいい本はないかと、ディラックの教科書量子力学を図書館から借り出してきて眺めて見たり買うのもいいかと価格の安い古本を取り寄せて見たり、朝永の量子力学と私を読み返してみたりしていたが丁度そこへ山本義孝、あの全共闘議長の彼が書いたという量子力学の歴史のよRyousiyamamotoうな本が新聞で紹介されているのを見てさっそく図書館に購入依頼を出した。検討中の表示が暫く表示されていたがついに購入され貸し出し可能となってさっそく読んでいる(「ボーアとアインシュタインに量子を読む」)。厚い本で貸出期間の2週間では読み切るということがほぼ不可能だ。とにかく読む。
読んでいくと歴史的には1900年のプランクによるプランク定数の発見に続くアインシュタインによる光量子仮説の提唱のあたりから欧州の物理学会で量子の概念が飛び交いだしたように思える。光量子仮説は光が波の性質と粒子の性質の両方を備え持っているという考え方だ。熱輻射に関する定式化がその根底にある。しかし1909年ころの欧州の物理学会の世界では光量子の考えを支持する人が殆どなかったとある。やっぱりそうかと思う。そんなこともあってアインシュタインは量子への熱意を失っていったようだ(1912年頃)。
その後量子物理の考え方で水素のスペクトルがうまく説明できたりその他の実測結果をうまく説明できることが分かってきて支持されるようになってきたのだが、アインシュタインはその後ボーア等の確立した量子力学は不完全だといい始め亡くなるまでその論争は続いた。「神はサイコロを振らない」とアインシュタインが言ったと伝えられたことから彼が素粒子の確率的存在の仕方というそのものに疑義を抱いているように思っていたが、この本に書かれている論争の具体的中身を見ると、現在言われている「量子もつれ」のようなことが起こることになるがそんなことはあるはずがない、というのがアインシュタインの最後まで抱き続けた疑問であり主張のようだ。現在の主流は「量子もつれ」は起こるということのようだから、歴史的にはアインシュタインの論点は否定されているが、このような指摘があったればこそ「量子もつれ」を利用しようという方向が生まれたとも思える。

難解な量子力学の世界は一筋縄では納得できない、どう理解したらいいのだろうということで満ちているがそれがこの世のすべてのものの存在の根源にあるという自然の仕組みのどうしようもない不思議さに圧倒される日々だ。

| | コメント (0)

2022年11月30日 (水)

川端の自殺を扱った小説「事故のてんまつ」を読んでみる

三島由紀夫が市ヶ谷で割腹自殺してこの25日で52年になった。そんなこともあるのかWowowで「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」という2020年につくられたドキュメント映画が放映されたりしていた。もうそんなに時が過ぎ去ったのかと思う、その場に観客としていた当時のことを思い出しなJikonotenmatu がら見ていたが、そういえば三島と川端康成は三島が学生の頃川端のところへ押しかけて以来師弟のような間柄で交際が続いていた、川端の自殺は何だったんだろうか、と思い至った。少し調べると川端の自殺に至った経緯を 事故のてんまつ という小説にして臼井吉見が書いている、と引っかかる。言われてみれば 事故のてんまつ の名前は薄っすら記憶にある。市の図書館の蔵書を調べると借り出せることが分かって早速借り出して読んでいた。この小説の主人公となる語り手は安曇野の植木屋の娘縫子(仮名)で川端に見込まれてお手伝いさんとして川端家に6か月の約束で出向いていた。川端は縫子を運転手として重宝に使っていて手放したがらなかったが縫子は嫌で延長をきっぱり断った、落胆した川端はその日の夕方に自殺している。殆どが事実のように書かれていて主人公の縫子やその周りの人は仮名だが川端など名の知れた人はすべて実名で登場してくる。何で臼井吉見がこんな小説を、と思うが調べると臼井は安曇野の出身で、安曇野をめぐる事件に並々ならぬ関心を寄せたものと思われる。もしかしたら件の植木屋も縫子も知っていたのかもしれない。あとがきには貴重な資料を得たことが執筆のきっかけと書いていて、縫子から日記のようなものを渡されたことをにおわせているが、どこまでが真実かわからない。
日付を逆に追っていくと

1972年(昭和47年)4月16日に川端康成自殺
1971年11月* 縫子、6か月間の約束でお手伝いとして川端家に来る(1972年4月一杯までの約束とみられる)
1971年(昭和46年)4月11日に投開票された東京都知事選挙で川端は美濃部に対抗する秦野を支援、応援演説も行っている。
1971年(昭和46年)1月24日、川端は築地本願寺で行われた三島由紀夫葬儀・告別式の葬儀委員長を務める
1970年(昭和45年)11月25日 三島由紀夫割腹自殺、直後川端現場を訪れる
1970年(昭和45年)5月12日 川端とその誘いで東山魁夷、井上靖 の3巨頭が、安曇野を訪れる。この時に件の植木屋に寄ったと事故のてんまつに記されている。

1969年(昭和45年)5月13日 東大駒場キャンパスの900番教室 三島由紀夫vs全共闘の討論

1968年(昭和43年)10月17日、川端の日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定した。

(* wikipediaの記述では縫子が川端家にお手伝いとして行ったのは1970年11月からとあるが、1971年の間違いと思われる。事故のてんまつの記載でも3巨頭の安曇野訪問の同じ年に川端家に行ったことになっているが、都知事選挙の後とも書いており、事故のてんまつの日付の記載もおかしなところがある。全体を整合的に見るなら1971年としか考えられない。)

結局川端の自死と三島の自死との関連は解らない。三島葬儀の後に行われた都議選でも急に秦野の応援演説を引き受けるなど、それまでの行動よりも政治的な動きになっていたようにも感じられるが自死までに至るとは考えにくいような気がする。お気に入りのお手伝いさんが延長依頼を拒絶した件は直接の引き金になった可能性があるようにも思えるが、底流に死に向かうものがあったればこそ、の感がする。それは何だったのだろうか


やはり自殺の理由はわからないというしか言いようがない、そう思えてしかたがない。

| | コメント (0)

2022年11月11日 (金)

事物の連鎖による理解

このところぼんやりと時の流れるままに過ごしているが、一つ一つの事象がつながって見えたりする時があって面白い。今は平野啓一郎だ。

図書館から何かの拍子で借り出していた平野啓一郎の芥川賞作品「日蝕」の返却期限が迫り急いで読む、ということが最近あった。読み始めると、15世紀末のヨーロッパが舞台となっていてそれをルビ付きの旧漢字がちNissyoku1 りばめられている見たことのない文体で書かれている。よく書かれていて学生が書いたものとはとても思えない。結構面白い。確かに才能がある。読み始めて直ぐは、文体のこれみよがしのようなひけらかしは気に入らない、と思うが読み進むとすぐに慣れて、中世の終わりルネサンスの始まりの時代の雰囲気が感じられるようにもなってくる。結構すらすらと読める。それにしても何故こんな作品を書くに至ったのかが伝わっては来ない。錬金術への興味からか。両性具有者を登場させる背景?。解らないまま読み終える。

数日後三島由紀夫vs全共闘のドキュメント映画をWowowで流しているので見ていると平野啓一郎が解説のような立場で出てくる、もちろん現代の、過去を振りかえっMisima1 て解説する立場だ。三島由紀夫の再来というキャッチフレーズがまだ有効なのだろうか。認識論の討論のようになっている場面で、こんな議論に強いということだろうか、そんなものかと見ているが今一つしっくりこない。今や遠くに過ぎ去った過去だが、今現在の時代の有り様に違う次元から関わってきている事件ととらえるべきなのかもしれない。

更に通日後、九州国立博物館で開かれているポンペイPonpei1 展を見る。数多くの発掘品の中に裸体の彫像もいくつかある、両性具有者ではないが男性器の誇示を感じる。現代とは何か感じ方が違うようだ。そしてその晩にはリアルな世界で皆既月食が出現する。 何だか「日蝕」の扱っていたキリスト教以前の世界とつながる錬金術のあやしい世界の雰囲気を感じてしまう。
ポンペイには今から見ても現代的とみえる生活の痕跡がリアルに残されている、中世の時代の人がこれを見たらどう思っただろうか。ポンペイ遺跡の発見は18世紀とされるが痕跡の一部は中世からルネサンス期にもみつけられていたのではなかろうか。それらが錬金術のようなキリスト教世界とGessyoku1 は違う認識体系を支えたのではなかろうか。

幾つかの疑問は解けないままだが、偶然につながって表れてきた時空が、感覚としてそうかもしれないという雰囲気を伝えてくれるような気がしている。事物の理解は連鎖の中にあるのだろう。

| | コメント (0)

2022年10月27日 (木)

写真展「祈り・藤原新也」を見る

藤原新也という写真家がどうにも気になっていた。東京漂流という本がでたあたりから、自分の活動範囲の中に引っかかってくる写真や文が幾つもあるような気がしていた、少し前まで日本野鳥の会が発行していた『Toriino』にもレギュラーとして写真と文を毎回載せていたのもある、何かがある。
北九州で「祈り・藤原新也」という写真展が開かれていてもうそろそInori1ろ終わりそうだというので思い立って出かけた。小倉には殆ど行ったことがなくとにかく車で走って近くの駐車場に入れればいいのだろうと走り出した。リバーウオークというビルの5階の北九州美術館分館および近くの北九州文学館に分かれて開催されている、ちょっと厄介な気もしていた。道が混んでいて予想した1時間半では着かず2時間弱かかってしまったがとにかく安そうなコインパークを見つけて車を置いて会場に入る。それほど混んではいない。分館の方は写真撮影可で、これはというものをパチリパチリ撮りながら進む。
始めのインドの写真から厳しい写真だ、もちろん手持ちでピンが緩かったりは問題にならない。路上で書も書いている。多才だ。よくこんな生き方の世界に入り込めたと思う。最初のインド行は朝日新聞のプラン募集に応募したのがきっかけだったとどこかで読んだ。それがすべての始まりだったのだろうが、芸大油絵に初めての受験で合格するあたりから何かが起こっていたとも思える。とにかく持っている人だ。北九州という土地が生んだ松本清張や火野葦平とどこか通ずるところがあるような気もしてくる。博多にはないまじめさというか。フワフワしたところがない。深く突っ込む。最初のインド行では自分のカメラを持っておらずお兄さんのペンタックスSPを借りて旅立ったともどこかで読んだ。その写真を当時のアサヒグラフが特集したのはその見方視点の故だろう、テクニックから写真入る人にはないものを持っていたということなのだろう。
帰って東京漂流を図書館から借り出して読んでみる、思っていたより写真がない、ほぼ文字の本だ、読んだことがない文章だとも思ってしまう、東京漂流から転載された写真を見て印象に強く残っていたということだろうか、でも、感じるところの多い本だ。

いい写真展だった。流れるように生きてきた空間は過ぎ去っていく、見たいものを見、感じたいところで感じる、こんな生き方を続けていくだけなのだろう。

| | コメント (0)

2022年10月17日 (月)

今年のノーベル文学賞アニーエルノーの「凍りついた女」も読んでみる

10日くらい前にノーベル賞の文学賞がフランスのアニーエルノーに授与されることに決まったと発表されて、いったい誰なんだろう、と思ってしまった。ネットで調べてもピンとこない、とりあえずは読んでみるかと市立図書館の蔵書を調べてエイッと3冊予約する。「凍りついた女」「ある女」「戸外の日記」の3冊だ、「ある女」「戸外の日記」はもう順番待ちの列が結構長そうだが「凍りついた女」の方は列が短く早そうだと思っていたら、1週間も待たずに借り出すことができてさっそく読み始めた。日

Koorituitaonna 本での出版は1995年でもう30年近く前の本だ。読み始めるとすぐにこれは手ごわいと思ってしまう。びっしり文字で埋められて会話が殆どない、読みづらい、とどうしても思ってしまう。読み進むのに抵抗感があったが初めの方は速読に徹するとなんとか突破できた。内容はほぼ自伝のようだが、自伝にありがちな自慢やひけらかしとは対極にあるような内 面のさらけ出しだ。少女時代から学生結婚、出産育児、教師の資格取得、教師として働く2児の母となるまでの間の、本当はどう感じどう思って生きてきたかを内面の心の動きを中心にリアルに描いている。非常にリアルといってもいい、こんなのは読んだことがない。作者の最もフェミニズム的な作品という評もあるようで、ほかの著作も読んでみないととは思うが、この本からは確かにノーベル賞に値する普遍性を感じてしまう。

Koorituitaonna2また一つ世界が開けたような読後感がある、これは小説ではないのかもしれないが、小説を読むという行為は幾つになってもやはり続けるべきと思ってしまっている。

| | コメント (0)

2022年10月11日 (火)

芥川賞「おいしいご飯が食べられますように」を読んでみる

今年上期の芥川賞は何うだろうと、発表された文藝春秋9月号を図書館に予約していたらそんなに待たずに順番が回ってきた。予約を入れたタイミングがよかったのだろう。早速受賞作;高瀬準子作おいしいご飯が食べられますように を読み始める。端的に言えば会社人間模様小説で会社の狭い世界を舞台にして描いている、読んでいて楽しさがない、読Akugawap2022 後感が何か足りない。ただただ視点を変えながら書いている。リアルというのだろうか。こんな小説が受賞とはとも思ってしまう。よく書いている文章ではある、技があってとても自分には書けない文章だ、作者は小さいころからひたすら小説を書いてきたようで、今後も職業的に書き続けることになるのだろう。
今回の芥川賞の最終選考に残った5作品はすべて女性作家の手になるものだったという。そういう年もあるのだろうが、小説を書くという作業ができてしまうのは男性よりも女性の方が多いそういう社会に日本はなってきたのかなとも思ってしまう。社会の特質のようなものを何か表しているような気もする、平安時代に戻っているのかもしれない。

そんなことを考えていると今年のノーベル賞の文学賞がちょうど発表された、アニーエルノーというフランスの女性作家だ。ここでも女性か、どんな人なんだろうと、早速数冊の著作を図書館に予約した。楽しみではある。

小説を読むのは心の健康にいい、もうだいぶ以前からそう思い続けている。頭の回路が現実に密着しなくて済むそういう時間が貴重のように思っている。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧