2022年11月11日 (金)

事物の連鎖による理解

このところぼんやりと時の流れるままに過ごしているが、一つ一つの事象がつながって見えたりする時があって面白い。今は平野啓一郎だ。

図書館から何かの拍子で借り出していた平野啓一郎の芥川賞作品「日蝕」の返却期限が迫り急いで読む、ということが最近あった。読み始めると、15世紀末のヨーロッパが舞台となっていてそれをルビ付きの旧漢字がちNissyoku1 りばめられている見たことのない文体で書かれている。よく書かれていて学生が書いたものとはとても思えない。結構面白い。確かに才能がある。読み始めて直ぐは、文体のこれみよがしのようなひけらかしは気に入らない、と思うが読み進むとすぐに慣れて、中世の終わりルネサンスの始まりの時代の雰囲気が感じられるようにもなってくる。結構すらすらと読める。それにしても何故こんな作品を書くに至ったのかが伝わっては来ない。錬金術への興味からか。両性具有者を登場させる背景?。解らないまま読み終える。

数日後三島由紀夫vs全共闘のドキュメント映画をWowowで流しているので見ていると平野啓一郎が解説のような立場で出てくる、もちろん現代の、過去を振りかえっMisima1 て解説する立場だ。三島由紀夫の再来というキャッチフレーズがまだ有効なのだろうか。認識論の討論のようになっている場面で、こんな議論に強いということだろうか、そんなものかと見ているが今一つしっくりこない。今や遠くに過ぎ去った過去だが、今現在の時代の有り様に違う次元から関わってきている事件ととらえるべきなのかもしれない。

更に通日後、九州国立博物館で開かれているポンペイPonpei1 展を見る。数多くの発掘品の中に裸体の彫像もいくつかある、両性具有者ではないが男性器の誇示を感じる。現代とは何か感じ方が違うようだ。そしてその晩にはリアルな世界で皆既月食が出現する。 何だか「日蝕」の扱っていたキリスト教以前の世界とつながる錬金術のあやしい世界の雰囲気を感じてしまう。
ポンペイには今から見ても現代的とみえる生活の痕跡がリアルに残されている、中世の時代の人がこれを見たらどう思っただろうか。ポンペイ遺跡の発見は18世紀とされるが痕跡の一部は中世からルネサンス期にもみつけられていたのではなかろうか。それらが錬金術のようなキリスト教世界とGessyoku1 は違う認識体系を支えたのではなかろうか。

幾つかの疑問は解けないままだが、偶然につながって表れてきた時空が、感覚としてそうかもしれないという雰囲気を伝えてくれるような気がしている。事物の理解は連鎖の中にあるのだろう。

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2022年10月27日 (木)

写真展「祈り・藤原新也」を見る

藤原新也という写真家がどうにも気になっていた。東京漂流という本がでたあたりから、自分の活動範囲の中に引っかかってくる写真や文が幾つもあるような気がしていた、少し前まで日本野鳥の会が発行していた『Toriino』にもレギュラーとして写真と文を毎回載せていたのもある、何かがある。
北九州で「祈り・藤原新也」という写真展が開かれていてもうそろそInori1ろ終わりそうだというので思い立って出かけた。小倉には殆ど行ったことがなくとにかく車で走って近くの駐車場に入れればいいのだろうと走り出した。リバーウオークというビルの5階の北九州美術館分館および近くの北九州文学館に分かれて開催されている、ちょっと厄介な気もしていた。道が混んでいて予想した1時間半では着かず2時間弱かかってしまったがとにかく安そうなコインパークを見つけて車を置いて会場に入る。それほど混んではいない。分館の方は写真撮影可で、これはというものをパチリパチリ撮りながら進む。
始めのインドの写真から厳しい写真だ、もちろん手持ちでピンが緩かったりは問題にならない。路上で書も書いている。多才だ。よくこんな生き方の世界に入り込めたと思う。最初のインド行は朝日新聞のプラン募集に応募したのがきっかけだったとどこかで読んだ。それがすべての始まりだったのだろうが、芸大油絵に初めての受験で合格するあたりから何かが起こっていたとも思える。とにかく持っている人だ。北九州という土地が生んだ松本清張や火野葦平とどこか通ずるところがあるような気もしてくる。博多にはないまじめさというか。フワフワしたところがない。深く突っ込む。最初のインド行では自分のカメラを持っておらずお兄さんのペンタックスSPを借りて旅立ったともどこかで読んだ。その写真を当時のアサヒグラフが特集したのはその見方視点の故だろう、テクニックから写真入る人にはないものを持っていたということなのだろう。
帰って東京漂流を図書館から借り出して読んでみる、思っていたより写真がない、ほぼ文字の本だ、読んだことがない文章だとも思ってしまう、東京漂流から転載された写真を見て印象に強く残っていたということだろうか、でも、感じるところの多い本だ。

いい写真展だった。流れるように生きてきた空間は過ぎ去っていく、見たいものを見、感じたいところで感じる、こんな生き方を続けていくだけなのだろう。

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2022年7月27日 (水)

元首相の銃撃が

20日ほど前のことだった、アオバズクを見に午前に那珂川の現人神社に行った後戻って庭に水まきしていると家内が出てきて安倍さんが撃たれたという。兎に角驚く。どういうことだろうかとそれからテレビにくぎ付けとなる。その日の日記メモには「 暗殺なら韓国関係かと邪推するが、どうやらガンマニアのよう。造った手製銃で人を撃ちたかったよう。たまたま自宅近くに来た安倍を襲ったよう。」と記している。

次第に事件のあらましが明らかになってきた。現場で取り押さえられた狙撃犯人は旧統一教会に家庭・人生を破壊された恨みがあった、全人生をかけてもいいと思うほどの恨みがあった、統一教会とつながる政界の頂点が安倍と思っての銃撃だったということのようだ。
その後の政界と統一教会の繋がりが次第に明らかにされつつあるのを見て、大学時代のことを思い出してきた。全共闘が学内封鎖する直前の時代、講義が終わると待っていたかのように原理研究会と称する一団が演壇にあらわれ統一原理なるものを説き始める、しつこい、ほとんどすべての学生はあほらしくて教室を後にしてもっと本質的な宇宙の原理を語ってくれればいいのだが、などとぼやいていたことを思い出す。原理研究会は反共運動である勝共連合の別動隊であり、勝共連合を60年安保で学生運動に手を焼いていた岸元首相が後押しをしていたというのはいかにもありそうな時代だったと今から振り返ると思える。
勝共連合が更に統一教会の別動隊だったとは多くの人が知らなかったように思う。冷戦の終結で反共もしぼみ統一教会が世界的に展開する宗教活動の財源確保に日本での活動の軸足が移ったのだろう。それに政界とのコネクションが利用され続けたのだろう。
ともかく安倍が射殺されるに至った元をたどると60年・70年安保闘争の時代の政治情勢に行きつくようだ。更には朝鮮戦争にまで辿れるのかもしれない。

このあたりで半世紀以上引きずってきた古臭い対立軸を基盤とする動きに終止符を打つべき時代になってきたように思える。ウクライナの戦争もそういうことかもしれない。それができないところでとんでもないことが起こるようだ。

平和な平成が終わり争いの令和に、時代はサイクルで巡っている、次は何が。

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2021年11月28日 (日)

多相な時の流れが

冬らしくなってきた。東北以北では大雪のところもあるようで本格的冬の到来が今年は早いような気がする。

世界的な寒さのサイクルは北極振動である程度説明されている。すなわち、北極回りの渦(極渦)が強い(指数Ao1127 が+)と寒気が北極に閉じ込められて北極以外の北半球は暖かい冬となるが極渦が弱くなる(指数が-)と寒気が流出して北極以外の北半球は寒い冬となるというメカニズムだ。北極振動の今後の予測は2週間先までは米国NOAA(アメリカ海洋大気庁)の予測が公開されていてこの先一旦+側に振れ2週間後にはまた-になるとある。(添付図1,右端の赤線が予測)。2週間で1サイクルということになる。日本では具体的にはどうかというと気象庁の2週間予測データ(GSMデータ)で例えば福岡では、寒暖を2サイクル繰り返すと予測されている。北半球全体の振動より短い振動があるようでその影響がこの先2週間の日本では強いようだ。(添付図2 Kionsuii1127 上層の気温推移予測、黄色が850hp(高度1500mあたり)の気温で地上気温の指標とされている)。なんでこうなのかはよくは分からないが全地球の寒暖サイクルと局地のサイクルは必ずしも一致するものではないことを示しているようだ。あちこちの世界的な極端な気象を報ずる煽りのような報道が走ることがあるが、それはそれとして身の周りのことは落ち着いて考えるべきなのだろう。多相な空間がここにはある。

少し前に三浦百恵の著作の本を見ていた。
山口百恵が結婚引退してもう41年にもなる。ちょっとした感慨がMomoe あって図書館に百恵著のキルト本の貸出を予約していたらやっと順番がまわってきて借りてきて見ていた。「時間(とき)の花束 Bouquet du temps」だ。キルトとは?、と思っていたが見ると何となく感じが分かる、刺繍のような作業を布単位でやるのがキルトということになるのだろう。刺繍という言葉は詩集に通じる。詩集、言葉をモザイクのように合わせて世界を作る。キルトもモザイクのように組み合わせて自分だけの世界を作っていく、そう感じた。現在の本人の写真もある、姿が10代の時と大きく変わっている、当然ではある。以前のシャープなどこか作られた感じが取れて、ふつうの姿になっている。40年間世の中は色々なことがあった、この間の世の中の変動と百恵という個人の変動のサイクルもやはり別物だったのだろう、だから面白いのだろう。多相の時間が流れている。

たらたらと時を過ごしていた。人と接する機会を減らしてきているこのコロナ時代も同じように多相な時の流れが流れ続けていることに新たに思いを致している。

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2021年5月12日 (水)

コロナの本質は何なんだろうかとつらつら思う

コロナのことを何でも書き残そうとまた書いてみる。

図書館も今日から今月一杯コロナで閉館となった。閉まる前の図書館でふと見つけた「世界一周恐怖航海記」という本を今読んでいる。車谷長吉という作家が著したクルーズ船旅行記ということになが、車谷という作家はよく知らないというか全く知らなかった。知ってる人は知ってるようで、20年くらい前に直木賞をとった作家らしい。
15年くらい前の旅行記で、コロナの時代となった今の視点で見ると古き良きクルーズ船旅行の時代の道中記と映る。
実名で関係者の名前が次々に出てくる。個人情報に敏感な今から見ると何だかわきが甘い。そう思って今に至る時代を振り返って見ると、インターネットで個人が大量の情報に簡単にアクセスできるようになった辺りから、人と人の結びつき方が次第に形を変えてきたように思う。
葉書や手紙でなくメールやラインのやり取りが増えた、それだけ情報が拡散しやすくなった、匿名で攻撃することも容易にもなってきてしまった、その結果と言うべきか、電話帳が個人情報リストとして役に立たなくなってしまった、同窓会名簿がクローズになってきた、小さな会でも住所録リストは勿論会員名簿も会員内にも公開されないようになってしまった、年賀状も減少の一途だ。何らかの形でつながりのある知ってる人としか通信できないような社会形態になりつつある気がする。意見を同じくする人のみが固く結ばれ他者との接触がクローズされたサークルが形成されやすくなってきたようだ。社会を形づくっていた個と個との結ばり方が切れやすくなってきたようでもある。そこへコロナだ。
コロナはこの流れを決定づけた。知らない人とは距離を置く、が拡がり、個がバラバラにさせられてきた。これは今まで高まってきた潮流を決定的に後押ししているに過ぎないように思えてしまう。人類はバラバラにされれば生き残れなくなっていく。弱くなる。争いも起こる。
コロナウイルスの騒ぎが始まったころはDNAの特異な形からこれは人工的に作られたウイルスとしか考えられない、といった主張がいくつかの研究者から提示されていたがそれは政治的にはあまりにも危ない表現となるせいか、このところ言われなくなってしまった。しかし、真実を突いていたのではなかろうか、未だにそう思っている。敵を弱らせるにはこんな風に人の繋がりをバラバラにしていくウイルスが有効なのではないか、といった研究が実は各国でやられていてその故に対策ワクチンがするすると米英ロ中という、いわばきな臭い国々からたちまち大量供給されるようになったということではなかろうか。生物兵器の専門家は誰もが知っているだけにこの舞台のからくりを語ろうとしないようにも思えてくる。
もう随分前から人間社会は見えざる手に導かれて自らが滅びの選択をしてしまっているのではないか、と思ってしまう。突然のように見えるコロナ騒ぎもその脈絡の上に乗っているだけなのではなかろうか。

旅行記の方は、何だか行間に滲み出る自慢話を読まされているような気がしてきて読むのが辛くなり途中でやめてしまった。

今は緊急事態宣言下の梅雨をどうやってやり過ごそうか、そればかりが頭を占める。
本当にどこへ向かっているのだろうか、我々は。

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2021年3月29日 (月)

53年後の「男と女」を見たりコンサートにでかけたり

ブルーレイの録画を整理して、一段落したのでテレビ番組をみてみるとwowowで53年後の「男と女」をやっている(邦題:男と女 人生最良の日々 )。途中からだがリリックでちょっといい。見ながらipadで調べると、昔の「男と女」と同じスタッフとキャストで53年後を撮ったものという。昔の「男と女」で主役Otokotoonna だったトランティニャンとアヌク・エーメはもとより子役の二人もそのまま成長した子どもとして出演しているというから徹底している。勿論監督・音楽も同じクロードルルーシュとフランシスレイだ。もしかしたら最初撮影した時から50年後にこんな続編を作ってみたいという願望がルルーシュの胸にあったのかもしれない。ジャン=ルイ・トランティニャンは 役名でもジャン=ルイだ。ドキュメンタリーとフィクションの境界がぼやけていて面白い。同じ時間が観ている自分の中にも流れていったのを感じる、自分にとってのドキュメントのようにさえ思えてしまう。こんな映画は一生に一度くらいしか撮れないだろう、見ていると話の焦点がどこかボケているような気がするのもかえって生々しい。ジャン=ルイ・トランティニャンは今90歳アヌーク・エーメは間もなく89歳という。映画の中でアヌークエーメに向かってジャンルイが、若く見える、というところがあるが誰もがそう思うセリフだ、実際に再会した時こんな会話があったのだろう、女性の方が老けにくいのかもしれない、こんなところにもリアルさがある。いい映画だった。

月に1-2回クラシックのコンサートに出かけるのをまだ続けている。惰性というのでもないが続けてやっていることが身の回りに目についてきて歳をとったと感じる。
Acrosugassou 先週はアクロス合奏団の公演にでかけた。昨年夏の公演のはずがコロナでここまで繰り延べにされている。アクロス会員の延長がこの夏からのアクロス一時閉館のため効かなくなってしまったのもあって、2階の少し安い席とした。音響はいい会場だから聞くぶんには問題ないが姿をじかに見るにはちと遠い。
曲目はコレルリとテレマンのバロック、及びチャイコフスキーだ。
(コレッリ:合奏協奏曲 第8番 ト短調「クリスマス協奏曲」 Op.6-8
テレマン:4つのヴァイオリンのための協奏曲 ト長調 TWV40:201
チャイコフスキー:弦楽合奏のためのセレナード ハ長調 作品48)
バロックは感情を抑えた表現で教会音楽から派生したと思わせるところから、淡々としている。2つ目のテレマンの4つのバイオリンのための協奏曲などは、フラットで、お稽古発表会とすら思えてしまう。淡々として胸に迫るというのは結構難しいようだ。
これに比べてチャイコフスキーは抑揚が十分にあってサービス精神に満ちていて、聴きやすい、楽に聴ける。クラッシクという音楽全体を流れる時間の流れを感じてしまう、総じていいコンサートだった。

こんな風におやと思う映画を観たり、コンサートを聴いたり、散歩したりの日々が過ぎていく、どうということもない時が限りなく過ぎていく。

過ぎていく時の流れを感じることそのものが生きているというリアルではないか、そう思っている。

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2019年11月30日 (土)

牛頸窯跡群

 

壁にかかっている新聞屋のカレンダーの11月がいい写真の紅葉だったのでその場所へ出かけてみた。牛頸ダムという。確か今年の始めにベニマシUshikubi1121z コを見に行ったところだがダム全体は見ていなかった。大野城市だが大野城市というのも水城史跡や古代城の大野城史跡をつないだような横長の市域でイメージがちょっと湧きにくい。福岡市への通勤が多いベッドタウンの様相があるような気がしていた。
グーグルマップの航空写真から撮影地点を割り出してともかくそこをナビの目標値に入れて出発する。自宅からは1時間以内で着けるとの計算だ、近い。
ダムの周回道路を進むと難なくそれらしいところに着く。駐車場所もある。紅葉の方は未だ今一つだった。が、景観は悪くない、野鳥は少なかったがオオバンやカイツブリくらいは見れた。こんなものかと見渡すと 牛頸窯跡群 との看板が立っている。窯跡はどこにも見当たらないのだがこの辺りがそうだということらしい。平成21年に国の史跡に指定されていて九州最大の須恵器の窯跡だという、全く知らなかった。日本の3大古窯の一つに数えられているというから全国区ということにもなる。
戻ってネットで調べると出土品も大分あるようで中にヘラで漢字を刻み込んであるのもあるという。最も古い窯は6世紀頃だが最盛期は8世紀頃で太宰府と水城等の防衛線が建設された時期からこの地が須恵器の生産拠点として整備されていったようだ。
1Ushikubi1121b1 0世紀には衰退したようで現在はこの辺りでは陶磁器の製造はなされていない。そんなこともあって古窯遺跡の保存にはあまり力が入っていないようにも感じられる。
太宰府から博多を結ぶエリアに人が住み始めてもう恐らく数千年の時が流れているのだろう、踏みしめている地面には想像を超えた長い歴史が文字通り刻まれているのを感じる。何処を掘ってもなにがしかの遺跡があるのかもしれない。
11月もこんな風にして終わっていく。流れ続ける時そのものが存在の本質ではなかろうか、そんなことを思っている。

 

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2019年11月22日 (金)

安徳台遺跡が興味深い

市になって間もないせいか那珂川市が主催する講演会が少し気になって、聞きに出かけた。安徳台遺跡についての講演だ。
安徳台という名前についての解説はない。そちらの方がまずは気になったりする。
少し調べると安徳台の名は安徳天皇に由来していることとすぐわかる。平清盛の強引な後押しで安徳天皇が数え3歳で即位したのが1180年,壇ノ浦で入水したのが1185年で,短い命だが足かけ6年は在位している。この間1183年に木曽義仲に押されるように京を離れ平家とともに九州太宰府に移り、筑紫の豪族原田種直の館に滞在した。この時安徳天皇がいた場所がこの安徳台とされる。この後一行は屋島に移動するも義経の奇襲に会い、再び西へ逃れ逃れて壇ノ浦にまで至って滅んでしまう。
江戸時代にも安徳台は「御所が原」と呼ばれており、とにかくこの地に安徳天皇がいたことは確かのようだ。
一方で2003年に安徳台で弥生中期の大型円形住居跡が発見され俄かに大規模な弥生遺跡として注目されるようになった。この地は古くより居住に適しており、それが故にこの地一帯を支配する豪族がここを拠点にしてきたと思われる。安徳天皇がここにいたというのも歴史的な必然があったのだろう。神功皇后が開いたとされる裂田の溝(うなで) も安徳台のすぐ横だし日本の住吉神社の本宮ともいわれる非常に古い神社現人神社も近い。
Antokudai歴史のある場所のようだ、それにしても安徳台とは何なのだろうと思っていたところへこの講演会のポスターが目に入り聴講を申し込んだ、というのが聴くことになった経緯だ。講演が3つとシンポジウムが1つという構成で13時スタート終了17時の4時間の講演会となっていて長い。安徳台遺跡でそんなに話すことがあるのだろうかとさえ思ってしまう。
3人の講演者の話をつなげると弥生中期から古墳時代まで続く遺跡で様々な出土品や人骨が長い時間経過に応じて出土している、ということのようだ。昨年11月の答申を受け今年2月に安徳台遺跡として文化庁から国の史跡に指定されている。それを記念しての講演会ということになる。
話を聞いていると弥生時代に玄界灘の荒波を越えた交易を平然としばしば行っていたというのにも尊敬の念さえ覚えてしまう。
青銅器の鋳型や鉄剣、ガラス器、ゴホウラ貝やイモ貝のおびただしい数の腕輪等出土品が多様で広範囲の国や地域との交易の有様が証拠付けられているように思える。
交易ルートは那珂川から博多湾に出る水路の他、南に峠越えし有明海から船出する交易路の使用も推測されている。今では街から離れた奥まった場所だが、この地は現在思うより遥かに交易に都合の良い立地だったようだ。
ともかくここは魏志倭人伝に登場し漢から金印を授けられたあの奴国を支える重要な地域の一つだったということになる。
講演をMapantoku 聞いていくと知らないことも多い。ゴホウラ貝の腕輪は主に男性の右腕の副葬品で右腕に25個も付けた状態で発見された人骨もある、女性はイモ貝の腕輪となっているという、そんな区別が有ったとは知らなかった。呪術的な意味合いがあるのだろう。また、勾玉は勢力の強い被葬者ほど大きい美しいものが出ておりその差は歴苑たるものがあるようだ。力があるということを誰の目にもわかるように示すといTekkenn う役割があったのだろう。鉄製品や鉄素材は弥生時代は殆どが輸入されたものでそのため鉄剣の分布は西日本に偏っているというのも初めて知った。戻って少し調べると弥生時代の国内鉄生産については諸説あり国内でも幾らかは製鉄されたとするのが有力そうだ。日本における製鉄の歴史も色々とまだわからない事が有って面白そうに思える。

飽きることなく話が湧いてくる。時空を流れる流れの様を俯瞰して見ていくような心地がしてこんな話には興味が尽きない。我々は一体どこからきてどこへ向かっているのだろうか。

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2019年11月 8日 (金)

月下美人3回目の開花といい時間

歳を重ねてくると猶更、いい時間を送りたい、と思うようになる。しかし時はするすると流れ去っていく。

Geka1023 もう2週間と少し前のことになるが自宅にある月下美人が今年3回目の開花を見せてくれた。
同じ株が1年に3回花を咲かせることは滅多にないようで、インスタにアップしたら米国の月下美人愛好家から3回目はなかなかないですよとコメントを頂いた。つたない英文でインスタを毎日投稿していると海外から時々”いいね”以上のレスポンスが届いて面白い。日記の代わりにもなっていつ何が起こったかインスタを手繰ってその日の投稿に辿り着くとその時の光景が思い浮かんでくる。日付がすぐ解るので何かと役にも立つ。

今年は温暖化のせいか暖かい日が続いて春先から植物の花付きはどれも良かった。1回目の開花は7月12日でとりわけ早いというほどでもないが、前の年に咲いたのが9月末だったのに比べると今年は元気がいいと思えた。2回目は9月18日、そして3回目が10月23日となった。2回目から3回目の間隔は1ヵ月ちょっとしかなくよくぞ咲いたと思う。10月7日に3回目の蕾を見つけた時は今年は一体どうしたんだろうとさえ思った。
昨年は留守中に開花してしまい開花は見れずじまいだった。今年の1回目は初めて開花をちゃんと見れたので、ちょっとした感動ものだったが2回目になると驚きも薄れて あれまた咲いた、くGekatubomi1007 らいだった。しかし3回目の蕾を見つけた時はまさか、と別の意味で驚いた(写真右)。このまま開花まで至らずに寒さを迎えるかもしれないとも思った。しかし心配には当たらず、台風17号(9月23日早朝に福岡に最接近して我が家にも損傷を与えた)の後には強い台風も福岡には接近せず、順調に蕾は膨らんでいった。毎日様子を見ていて、前2回と同じパターンとなる首を開花に向けた最後の曲げを示したところで家の中に鉢を取り込んだ。今晩咲くはずだ。

間違いなくその日の晩に開花したのだが、今回は何故か香りが圧倒的だ。溜めていたものを一気に解き放った感じさえある。花の咲きっぷりも堂々として迫力がある。一晩で萎むのは惜しいばかりだが一晩限りだからこそこの迫力が出せるのだろう。
翌朝には約束通り萎んでしまったつぼみが残されていた。
思えば今年は6年前の大雪で殆ど枯れていたクジャクサボテンも元気になって2株共花を付けた。この月下美人もその時にダメージを受けていたがやっと傷が完治したということなのだろう。
こんなことがあると年の瀬を迎えつつある今、今年を振り返りながらいい年だったと思えてくる。

いい時間とはこんなピースが寄せ集まって流れていく時間なのだろうか。

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2019年9月25日 (水)

福岡アジア文化賞を受賞したレオナルド・ブリュッセイ氏の講演が面白くて

市政だよりをぼんやり見ていたら福岡アジア文化賞 の学術研究賞を今年受賞したオランダ人のレオナルド・ブリュッセイ氏の講演があるというのが目に入って、申し込みをして六本松まで聴きに行った。
福岡アジア文化賞というのは良く知らなかったが1990年福岡で開かれたアジア太平洋博の記念事業として毎年アジアの固有かつ多様な文化の保存と創造に顕著な業績を挙げた個人又は団体を顕彰する賞で大賞(賞金5百万)学術研究賞、芸術・文化賞(賞金各3百万)がそれぞれ選考授与される。運営は福岡よかトピア国際交流財団の資産運用益と財団が受ける補助金で賄われており委員会事務局は福岡市役所内に設置されているようだ。福岡地域での官民あげFukuokaprize2 ての受賞スキームということになる。
基本的に人文系の賞でノーベル賞のような理工系を含む賞ではない。今年で30回目になるが過去の大賞受賞者からはノーベル賞受賞者も輩出しており文系の賞としてはそれなりのステータスがあるようだ。

講演は「17世紀の東アジア海域と三人の冒険商人」と題されており、角倉了以、フランソワ・カロン、鄭芝龍 の3人の話となる。3人の歴史的活動の紹介が大半で講演者の強い主張がある話でもなく却って聞きやすい。こういう人たちがいた豊臣=徳川初期のアジアの時代の雰囲気が解ってくる。
講演は英語で同時通訳があるが本人は日本語も話せて続くパネルディスカッションでは日本語でやり取りしていた。
角倉了以及び息子の素庵は京都の豪商・起業家で1592年から朱印状貿易をベトナムのホイワン(ここには日本人町が形成された)拠点に行って財を成し京都の河川の水運の整備に尽力した、保津川の浚渫や運河(高瀬川)また鵜飼を現在に残したりしている。京都嵐山の景観もこの2人に負うところが大きいようだ。公共事業で後世に名が残ったといえる。
これも面白いが次の2人の話が興味を引く。
まずは元はフランス人だが両親がオランダに亡命してオランダ人となったフランソワ・カロンだ。1619年、19才の時東インド会社の仕事で平戸に来る、その後22年日本に滞在。平戸の江口十左衛門の娘と結婚 日本語堪能で6人の子供ももうけている。
1639年 平戸商館長になる。 (1640年)幕府より平戸商館破壊を命じられすぐ実行、幕府の信頼を得る。以後長崎出島へ移る。
1641年 日本退去 オランダへ 6人の子供も連れて行っている。その後バタビアに移り一時は台湾総統にもなったが東インド会社を円満退社。その後程なくしてフランスの東インド会社設立に際しフランスから招聘され長となった。その後、1666年鄭成功が台湾に入った時 オランダはカロンに助けを求めたが断った、という経緯もある。1672年 英仏は オランダと 戦いを始めた、 カロンは蘭と戦うことを拒否。翌年航行中に 突然船が座礁して沈没、亡くなった。貫いたのは忠誠心だったかもしれない。(カロンは平戸時代に鄭芝龍と交流がありその関係から鄭成功と戦うことを拒んだのかもしれない)。
鄭芝龍、またはイッカン(一官)とも呼ばれる。
平戸にいて平戸 ← →台湾の交易をおこなう。
1623年 マツと結婚、1624年平戸で鄭成功出産
その後台湾を経て福建省に移り明の亡命政権を支えた。最後は清に降伏したものの
(子の鄭成功を抑えられず)清で首をはねられる。
 子の鄭成功は旧明王を支え続け、1662年台湾を植民地としていたオランダを打ち破ってこれを追い出した。(しかし4か月後に病で死亡)。
ここでも貫かれたのは忠誠心だった。この辺りの話は近松門左衛門が国姓爺合戦として歌舞伎にしている。

東南アジアの争いに日本人は傭兵として加担し続けていたがこれも1621年にはとまった。

時代の流れの中でこの海域での国境を越えた人々の活発で興味深い動きをこれら3人にみてとれる。
個々のイベントを包む長い流れ、フェルナン・ブローデルのいう longue dureeを感じることができるともいえる。
民間貿易は海賊貿易と同義であったりもする時代だ。面白い。

久し振りに文化的刺激を受ける話を聞いた思いがする。3年前に平戸を訪れた時に鄭成功誕生の地も見た記憶がある。それとは別に台湾はオランダと日本という2度占領をうける歴史を持つという記述に遭遇してオランダ??といぶかしく思ったこともある。勿論京都の嵐山の景観も数回訪れたことがあるが話を聞いてそれが角倉了以の仕事の結果だったとは、という軽い驚きもある、幾つかの見聞きしたことがつながっていく様はどこか新鮮な感触を与えてくれる。
少しは質問もしてみたかったがそんな時間は用意されていなかった、それが残念でもあった。台湾を植民地化した後オランダやポルトガルは隙あらば(アメリカ大陸で行ったように)中国本土も占領しようとしていたのではないのか、そんなことが聞いて見たかった。秀吉の直観はそれを感じ取ってキリシタン追放を急に出してきたのではないのか、キリシタン弾圧は歴史の必然ではなかったか、そんなことを思ってしまう。

それにしても福岡を大きく変身させたのはアジア太平洋博だったと今更のように思い知る。都市には時々そう言う大掛かりなイベントが必要なようだ。

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