2025年2月28日 (金)

平尾八幡宮という所に行ってみて時空のつながりを思う

平尾八幡宮に行ってみる。ずいぶん昔、戦後10年という時代にこの近くの平尾小学校という所に通っていて、今でもこのあたりの雰囲気はうっすら覚えているのだが、ここにこんなお宮があったのは記憶していない。当時は動物園側に高射砲陣地跡というのがあったり教会があったりしたのだが平尾山荘通りの東の方にこんな神社あったっけ、という感じだ。昔の地図をネットで探してみてみると、確かに神社マークがある、知らないだけだったようだ。当時は山荘通り南側の小笹地区一帯が大開発中でいったい何ができるのだろうという感じが印象の中心にあったような気がする。記憶は曖昧なところが懐かしさの元にあるような気もしている。改めて平尾八幡宮に行ってみると平尾天神というのも横にあって、菅原道真が流されて博多に上陸したところにできた容見天神が移転してきたものだという。天神の水鏡天満宮の起源とは別の容見天神があったということのようだ。住吉神社に残されている鎌倉時代の博多古図からは平尾村のところに容見天神 が書かれており 位置関係からはこちらの方がそれらしい気もしなくはない。ともかくこの地の言い伝えはすぐに1000年前の時代に軽く飛ぶ。高宮駅に寄ったところには高宮八幡宮というのがあるがここは天智天皇が中大兄皇子 と言っていたころ博多に来て(結局は白村江の敗戦に至る)百済救援の陣をひいていた辺りらしい。随分昔に起源があるようだが平尾八幡宮の方もそもそもの起源はそれより古い神功皇后の三韓征伐までさかのぼることになっているようではある。むろん本当のところはわからないが博多の地は古くから朝鮮半島/大陸に向かう玄関口だったことから、様々な本当らしい言い伝えに満ちているような気がしている。金印の出土など証拠となる遺物遺跡もいくつもあって古代から連続する歴史の時空が今に繋がっている様が否応なく現実に感じられてしまう。

この話とは全く別だが時空はつながっている話で最近感じていることがある。

この冬は波状的に日本列島は寒波に襲われて北の地方では近年にない豪雪になっているようだ。この天気は西高東低の冬型の強まりが直接の原因とされる。大陸の冷たい高気圧である西高というのに対し東低という形はは東の海上に向かって急速に低気圧が発達してこれが寒気を呼び込む形を作ってしまうということのようだ。多分相対的に暖かい海洋上に冷たい空気が吹き込んでくると上昇気流ができやすくこれが低気圧を発達させるの2025022607utc だろうが、この発達した低気圧はその後どうなってしまうのだろう。地球規模の雨雲の動きを追跡してみると、日本の東の海上で発達した低気圧は東進を続け大体は北米の西海岸北部に到達する。当然のように北米の西海岸北部は次々に現れる低気圧で冬の間中雨だらけとなる(暖かい海流のせいで雪にはならない)。シアトルに昔仕事で時々行っていたが、Seattle: 32 Days of Rain と書かれた帽子がお土産品として売られていたほどだった。Seattle’s gray skies というフレーズもあるようだ。日本の豪雪はシアトルの冬のgray skiesに直接つながる、さらには全く同じようなパターンで北米への寒波は大西洋の東に位置する英国にはGrey skies over London、といった表現が用いられるように冬のロンドンにシアトルに似た冬の気象をもたらすようだ。波状的に気象は世界をめぐっている、思っている以上に地球を包む時空はつながっている、と感じてしまう。

こんな風につらつら思いを時空に解き放ち漂っているともう2月も終わりに来てしまった、3月は何が待っているのだろうか

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2024年11月30日 (土)

作曲家藤井凡大さんのことを思い出して

先日の九州交響楽団の定期演奏会で和楽器との共演を聴いた後そういえば幼いころ住んでた家の隣に作曲家・指揮者となった藤井凡大さん(1931-1994)が住んでいたことを思い出した。幼かったのもありその姿の記憶は残っていないが九大で造船工学を学んでいた凡大さんが造った船の模型をもらい受Bondai2 けて風呂に浮かべて遊んでいた記憶はある、しっかり作られた模型だった。隣の家のご両親は家で三味線・琴・お謡いを教えていて、和楽の音が漂っているそんな地域だった。もう随分前の話だ、現在は、数年前訪れてみるとまとめて地上げされたあとに通信制の高校が建っている、流れつづける時の流れには身を任せるほかない。
凡大さんの曲をまともに聞いたことがないような気がしてネットで探してみると代表作の一つ「東洋の楽器による交響曲・西遊記」のCDが売られてるのをみつけて早速発注してみた。藤井凡大指揮でレコードとして発売され昭和42年度のレコード部門の芸Bondai1 術祭賞を受賞している。
聴いてみると、音楽というより音そのものが面白い。シルクロードの楽器多数から構成される演奏でそれを組み上げて40分を超える大曲にしている、大河の流れのようでもありス トーリーのある構成だがエンドレスに聴いていられる気がしてくる。アジアに対する何かが込められているような気もして楽器を揃られるかが大変だろうがこの先も演奏し続けられるべき曲のように思えてしまう。生で聞いてみたい。
もう一度これを今演奏するとすれば、九響の太田弦ならできるかもしれない、そんなことをつらつら思ってしまう、期待してしまう。

所詮平均余命がも   はや11年しか残っていない身には生で聞くことはもう無理かもしれないけれど。

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2024年11月20日 (水)

温暖化の話にうんざりする

温暖化が問題視されて久しい。いつも不思議に思うのは、恐竜がいたころはCO2濃度も高くもっと温暖な気候に地球は包まれていたはずで、それでも地球は破綻することなく現在に至っている。地球自体が問題となる温暖化ではないのではないか、地球を救おうという掛け声は一体何なのか、今の地球が沸騰というのなら恐竜時代の地球は何なのか、知る限り恐竜時代は植物の生育も極めて盛んでその遺跡たる石炭を今でも掘り出して大事に使っているほどだ。有り余るほどの生命が当時地球上Kannkyouhistry にあった、それのどこが問題なのか、その後気温は大きく変動しながら今に至っている。今言う温暖化は数が大きくなり過ぎた人間にとっては不都合でも46億年存在し続けてきた地球にとっては生命全体に危険な存在となっている人類を滅亡に導く都合の良いことのはずなのだろう。地球の当然の反応に大騒ぎするのはもうやめたい。素直に受け入れればいいだけではないか、素直に人類滅亡の道を歩めばいいだけではないか。

馬鹿げた温暖化騒ぎはここらでトランプが終止符を打ってくれることを期待するばかりだ。

  添付図は 放送大学「地球史を読み解く」より

 

 

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2024年8月11日 (日)

邪馬台国がリアルに感じられて

野方遺跡というのを最近見に行って、また邪馬台国が気になり始めた。またというのはこれまでにも何度もということだが、今回はそのリアリティゆえだ。
野方遺跡というのは福岡市西区にある弥生後期・古墳時代の住居跡遺跡だ。
これまで邪馬台国というと胡散臭い架空の世界との感じがどこか漂っていた。これが邪馬台国の遺跡ですというものにお目にかかったことはなかった。ところがここへ来ると、これNogataiseki は紛れもなく邪馬台国の遺跡といっていいと感じる。というのは例の魏志倭人伝だ。正確には西晋の時代に陳寿により編纂された古代中国の正史「三国志」巻30の東夷伝の中の倭人伝を指し日本を記述した最初の歴史書とされる。後の南朝宋の時代にまとめられた後漢書も魏志倭人伝の記述の多くをたどっているようだ。魏志倭人伝では女王のいる邪馬台国への道筋を書いているが対馬・壱岐・松浦・伊都・奴 と距離方角を示しながら来るがその先は南に邪馬台国水行10日陸行1月と書かれているばかりで、はっきり書かれていない、のちの邪馬台国論争のもとがここにあるのだが、逆に言えば奴までは女王国に属すると明記されているのでここまでの国が邪馬台国の一部であることは確かということになる。この野方遺跡の集落は伊都国の東の入り口に位置し伊都国の一部と考えられている、出土品から1800年から1700年前の時代の住居跡とされており丁度卑弥呼時代の遺跡ということになる。どうみてもリアルに邪馬台国遺跡の一部だ、議論の余地はない。
この機にと魏志倭人伝や後漢書を読んでみるとなんとなく感じがつかめてくる。魏志倭人伝/後漢書では中国側の役所のある楽浪郡から女王のいる邪馬台国までは1万2千里、楽浪郡から朝鮮半島の端の狗邪韓国 までは7000里、魏志倭人伝では松浦までの3回の渡海で3000里、松浦から奴までは600里とあり単純計算では残りは1400里ということになる。対馬と松浦の間の距離より大分近い距離だ、邪馬台国が近畿にあるというのは相当無理な解釈のように思えてしまう。水行10日陸行1月という記述は楽浪郡からの日数を書いたものという説があってまさかと思っていたがこれが本当らしく思えてくる。とにかく当時中国と行き来していたのは九州の邪馬台国で東の倭種の国ではなかったと解釈するのが素直な読み方のように思えて仕方がない。

九州へ来ると古代史が身近にある、どうしようもないことなのだろう、それに浸っている感触が面白い。

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2024年6月24日 (月)

香春の採銅所に古代の先端技術を感じて

筑豊にあるKawaradka 香春岳は全山石灰岩の山で戦前からセメントの原料として削られてきた。そびえていた主峰一の岳は映画「青春の門」に撮られたころまでは未だ一応山の形があったがもはや見る影もない。香春は先祖代々の地でもありこの山については調べなくてはと常々思っていたが思うに任せず、手始めに引っかかっていた香春岳の採銅所を少し調べてみた、奈良の大仏の銅はここからきているという言い伝えをどこかで聞いていた。郷土史誌「かわら」の採銅所特集号など読んでみたが、奈良の大仏の銅に香春の銅が使われたことは当時の状況からそうとしか考えられないがきっぱりした書き物があるというわけでもないようだ。しかし東大寺の記録である「東大寺要録」には大仏の銅には西海の銅を使ったとあり、当時の西海は九州のことを指すと考えるのが順当と思われる(当時の行政区分である西海道は筑前豊前他九州島内の九国及び壱岐対馬のことであった)。香春は豊前国に属しており、当時有力な銅山であった香春の銅が使われたと解するのが普通の読み方なのだと思われる。いずれにせよ大仏には500トンもの銅が使われており、当時の国内の有力な銅山はすべからく銅を大仏に提供したと考えるべきで、香春の銅と同じ香春岳/平尾台/秋吉台とつながる石灰岩層に熱水が貫入してできたスカルン鉱床である長登銅山を含めた多くの銅山からの銅が使われたと思うのが順当なのだろう。
平家によって大仏殿は破壊され大仏も一部を残して溶けてしまったようだがそれを2度までも復元した先人の熱意には驚くべきものがある。それにしても8世紀によくもこれだけのものを国内で製造しえたのだと思う。55年位前に大学で工学を学んだ時にこれを取り上げて講義で語っていた教授がいたのを薄っすらと思い出す、当時の最先端技術の結集だったようだ。
まだまだ調べてみなくてはな、そんなことを思っている。

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2024年5月20日 (月)

紫式部日記を読んでいるが,面白い

しばらく前にも源氏物語を通読したことがあって、よくぞこんな破綻のない長編を1000年も前に書き上げたものだと思っていた、作者紫式部に焦点を合わせた大河ドラマは

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興味深く毎回見ている。勿論ドラマ故歴史的事実とは言えない脚色が色々あってどこまでが本当らしいことなのか、自分でも確かめたくな る、そういえば紫式部日記があったな、と家にあった日本古典文学大系から引っ張り出して読んでいる。原文ではあるものの注釈はたっぷりあって一応読めるのだが、儀式的な記述が多くてちょっとついていけなくなって、最近出た古川日出男の「紫式部本人による現代語訳「紫式部日記」」を図書館から借りて読んでみた。面白い本だ。紫式部本人が1000年後の現代の読者に現代語を使って分かりやすく端折るところは端折って内容を説明してくれる、という語り口になっている、こんな形態の本は読んだことがない、でも確かにこういわれるとよく解る、わかった気がする。

それにしても源氏物語を書いたのは紫式部ですと現存する写本に書いてあるわけでもないようで間接証拠からそのように言われ続けてきたようだが、その証拠となる表現が紫式部日記にいくつか残されているというのでそこのところを読み返したりもしている。
例えば 左衛門の督「あなかしこ、このわたりにわかむらさきやさぶらふ」と藤原公任が紫式部を呼んだりする場面を日記に書いたり、一条天皇が源氏物語を人に読ませて「この人(作者)は日本紀をこそ読み給ふべけれ」とあったのを左衛門の内侍が聞いて紫式部のことを日本紀の御局とあだ名した、と日記に書いたりもしていて、ここらを読むと紫式部が作者であることは疑いないように見える。日記は中宮出産がまじかに迫った場面から書き始められているがこの時(寛弘5年、西暦1008年)すでに源氏物語は読める形になっていて主だった人々が読んでいたようなのも興味深い。夫藤原宣孝と死別したのが1001年(長保3年)でその後に源氏物語を書き始めたと考えるのが順当のように見え、6-7年で物語の大半を完成させていたことになる、たやすくはないができなくもないか、とも思ってしまう。
気になったことがあれば原文をその都度読み返したりしている、それにしても才女だ、面白い。まだまだ暫くは楽しめそうだ。

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2024年4月12日 (金)

マイケルグリーンの「アメリカのアジア戦略史・上」を読んでみたが

マイケル・グリーンのアメリカのアジア戦略史 上 建国期から21世紀まで という本を借りてこのところ読んでいたが2週間の貸し出し制限がきつくやっと読み終えてそのまま返却した。アメリカという国は太平洋を越えた西にあるアジアとどう向き合ってきたかという視点からの書物で、こういう見方から書かれた本Photo_20240412103601 は初めてで新鮮な思いがした。誰がどう政策決定に関わってきたかを人名を中心に細かく書き記している。屈折しながらジグザグと進んできたアメリカの状況がそれなりに分かる気がする。書かれていることは多分本当なのだろうが、読み終えて感じることは幾つか肝心のところが書かれていない、意図的にか逃げているように感じるところがあるのが気になる。狂信的な愛国者からのトラブルを避けるためアメリカにまずいことは書かないようにしているのかもしれないと感じてしまう。一つはハワイ王国滅亡に対するアメリカ政府のかかわりのところだ。植民地化-併合のプロセスでは手を汚していないかのような書き方に終始しているというかきちんと書いていない。第2次大戦後の植民地の民族自決をアメリカがリードしたというところはきっちり書いているのに自らはハワイ王国を簒奪し併合している(住民の7割が反対したといわれる)という歴史的事実に向き合っていない、キレイキレイに書いている、そういうことなら他にもそんなところがあるかもしれないと内容が疑わしく思えてくる。日本との開戦に至るいきさつもたとえばハルノートのような動きはまるで書かれていない、というより開戦直前直後の米政府内部の動きについては一切書かれていない。何かまずいことがあるのかもしれないと思う、真珠湾はだまし討ちだというローズベルトの主張は米国の失態を覆い隠し利用するプロパガンダだったのかもしれないと思ってしまう。

色々あるが米国が建国以来太平洋を西へ西へと押し続けているという歴史・現状は事実に即して素直な目で眺め続けなければならないのだろう。思った以上に米中対立は簡単には終わりそうにもない、そうも感じる。

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2024年3月14日 (木)

「大シルクロード展」を見る

3月中に見ておかねばと思っていた2つ目の展示Posuta は、「大シルクロード展」というシルクロードの文物、資料の展示だ、現在中洲の福岡アジア美術館で開かれている。主催は中国文物交流中心( 中国の国家文物管理局直轄の機関)他各地美術館、各新聞社などで外務省も後援しており本格的なシルクロードの展示ということができるようだ。東京、福岡、宮城、愛媛、岡山、京都 と来年2025年2月まで国内各地を巡回していくという。
例によって放送大学の学割で入場する、放送大学の学費はこんなことで大方取り戻せるような気がしている。出展品リストの配布もないがとにかく見ては写真に撮るFelt1 を繰り返しながら見ていく。平日のためか年配者が多い。初めの方にウイグルから出土した紀元前8-前3世紀のフェルトの背の高い帽子があってちょっと驚く、あまりに保存がいい、砂漠地帯のためだろうか。最初の方に古いものが多く置いてあるようでもあるが展示順の筋がよく理解できないままに進んでいく。パッと見た目 正倉院御物のようなものが目に付く。江西省博物館から出品の和同開珎まであったりする、日本との交流の明確な証拠だ。6世紀ころの経文がいくつか展示されているが、漢字が今と同じというところに妙に感じたりして、アジアのベースになり続けた中国文化の深さに改めて感じWadokaiho 入る。展示物は興味深いものが多々あるが、これがシルクロードに点在して遺跡として現代まで残されているということそのものにインパクトを感じる。
出口手前で動画放映があり、その中に出てくる敦煌 月牙泉の映像に驚く。広い砂漠の中にここだけがげ現実離れした不思議な風景を作っている。シルクロード見てみたくなる、行けるものなら行ってみたくなるKyoumon
もう無理かな、でも、と、そんなことを想いながら会場を後にした。

添付写真は順に ポスター、フェルト帽子、和同開珎、経文断片、敦煌 月牙泉の映像Tonkou1

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2024年3月10日 (日)

ローマ展を見る

正月から3月までの期間にはいろいろ博物館や美術館で興味深い展示があって、見なくてはと思っているうちに時がするすると過ぎ去ってしまって少々慌てている。すぐにも終わりそうな「永遠の都 ローマ展」というのをまずは見に行った、大濠公園にある福岡市美術館での開催だ。例によって放送大学の学割で入る。そんなに混んでいない。ローマのカピトリーノ美術館所蔵が中心という。よく知らなかったが世界的に最も古い美術館といってもいい歴史があるらしい。コロッセオの北Caesar西600mくらいのところにあるようで、フォロロマーノのそばでもありいかにも古い都の中心部にある美術館という趣があるようだ。
福岡展の目玉はカラヴァッジオの洗礼者ヨハネの絵画となっているようだが、展示として印象的なのは数多くの彫像やレリーフだった。20数年前にローマを訪れた時に感じた彫物芸術がローマの特徴というのを改めてここでも感じてしまう、圧倒的だ。カエサル、アウグストゥスといった支配者の像ばかりでなく女性の胸像や老女像といった生き生きとしたその時代を感じさせる像もあり像として残すということが色々なレベルで行われていたというあたりが感じられて興味深い。現代は残すといえば写真ばかりだがそのうち立体写真や像で残すということがはやり始めるかもしれないなどと思ってしまう。それとは別に美術系の教育で用いらPhoto_20240309234901 れる石膏像スケッチの原点が実はここにあったのかと思い至るのもちょっと面白い。カピトリーノのヴィーナスが東京だけの展示で福岡には来なかったのは残念だった、とか色々思うがまたローマに行ってみるのもいいかもしれないと感じさせてもくれる。

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いい展示だった、見れてよかった。添付は展示彫像で上からカエサル、アウグ

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ストゥス、トラ ヤヌス、ハドリアヌス、女性の胸像、老女像、マイナスを表す浮彫の断 片、ディオ ニソス の頭部。

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Roujyo
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2024年2月27日 (火)

ベンジャミン・カーター・ヘットの「ドイツ人はなぜヒトラーを選んだのか」を読む

近現代の世界の歴史で前から引っかかっていたのがナチズムは暴力革命ではなく当時最も民主的と思われるワイマール共和国で選挙で第一党となって政権を担当することになった、すなわち当時のドイツ国民のマジョリティーがヒトラーを選択したというところにあった。そんなこともあり、誰かの書評でこの「ドイツ人はなぜヒトラーを選んだのか」という本が紹介されていたのを見てこの本を図書館から借りだして読み始めたというのが直接のきっかけではある。著者はベンジャミン・カータHitler ー・ヘットというカナダ育ちのアメリカ人で、弁護士からスタートしたが4年でやめ大学の歴史学の博士課程を学びなおし歴史学者となったという経歴を持つ、と本人の名を冠したホームページに書かれている。ドイツの近現代史を法律家の視点で眺めながら研究して2004年から著書を次々に世 に出すようになって現在はニューヨーク市立のハンターカレッジで歴史学の教授を務めているという。この本は2018年に出版されたがここまでもナチス政権成立直後の国会議事堂燃上事件の詳細な調査を行い何があったのか再構築し原因を可能な限り明らかにしようとした本も出しているようで、この時期のドイツの政治社会情勢について広範な資料を調査研究していていることがうかがえる。
読んでいくと、ナチスの登場のキーワードはワイマール共和国の体制が国民に概して不人気であった、特に当時ソ連から逃れてきた大量のユダヤ人移民やこれとは別に共産主義勢力及び米英がとるグローバル資本主義が吹き荒れており、これを是認し象徴するのがワイマール共和国の体制だったと思われていたようでそこにナショナリストが大きな勢力となりうる原因があったということのように思えてくる。1932年7月の選挙でナチ党は37.3%の得票を得、第2党の社会民主党21.5%を大きく引き離す第1党となった。大統領ヒンデンブルグはヒトラーを首相に任命したくなく大統領アドバイザーのシュライヒャーを首相としてナチ党の一部も引き入れた連合政権としようとしたがうまくいかず、1933年1月やむなくヒトラーを首相に指名した。より直接的には1933年1月15日のリッペ州の州選挙でもナチは43%の高得票率を得たという結果がとどめとなったということらしい。確かに民主的な選挙結果によってヒトラー/ナチというドイツ国民による選択を示されたことになる。英米主導のグロバリゼーションと殺到する難民という図式はまさに現代の様相であり、これに火をつける政治家が現れればヒトラー/ナチズムの形を変えた再来は当然に考えられる気がする、確かに米国や欧州各地で極右勢力/政党が伸びているようでもある。しかし現代の有利なポジションはこのようなことが起こったということを歴史に学んでいることなのだろう。
なかなかの本だった。世界はどうなっていくだろう、理解し眺め続けることもそれはそれで面白い気もしている。

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