2018年6月 3日 (日)

印象派の美術展が

印象派の美術展が九州国立博物館で開かれているとテレビコマーシャルも打たれて、結構いい絵があるようなので終わらないうちにと出かけた。ビューレルコレクションとある、看板になっているルノワールの絵はどこかで一度見た覚えがあって気になっていたが日本初公開のものが色々あるような宣伝文句だったしそれはそれでと思っていた。

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入場料は普通に入れば1600円と安くもないが放送大学で学んでいると学生証を見せればこの半額以下となって随分気楽に見れることができる。
女性の観客が8割くらいの感じだ、平日ということもあるがとにかく女性が多い、印象派の絵というと女性の好みという雰囲気を感じる。結構混んでいてイヤホンで解説を聴きながらの人が多く歩みが遅い。2列目から見ていてこれはという所で隙間を見て前に出て見る、これを繰り返しながらとにかく見ていく。
それにしても既視感のある絵ばかりが並ぶ。有名な絵だから印刷物で目にすることが多かったということだろ

Monet

うかとも思ってしまう。明らかに見たことのない絵ももちろんたくさんあって、アングルのアングル夫人を描いた絵などは、売り物ではないからだろうかアングルのいつもの過度とも思える隅々までの装飾性などは全く無く絵そのものの良さが染み出てきてこの後の潮流の先駆けとなっている雰囲気を感じる、なかなかいい絵だ。最後のモネの壁画のように壁いっぱいとなった睡蓮も初めて見る。端の方までは手が回りきってない様子も見えて、いかにもモネらしい。
力作ばかりを見ていると少々疲れていつもは続けて見る常設展も見ずにまっすぐ帰る。
帰って気になった既視感を調べてみようとこれまでに見た美術展の図録で印象派のものを引っ張り出しては見てみる。そのうちアッという図録に行き当たる。1990年に横浜美術館で開かれたビューレ―コレクションによる印象派展だ。横浜みなとみらい博の一環として開館した横浜美術館の開館1周年記念展示会とある。見た記憶がよみがえる。調べると今回展示の64作品中31作品がこの横浜の美術展で展示されていた。ほぼ半数だ、既視感が濃いのも当然だ。それにしても27年前の美術展の記憶がこうも頭に残っているとはとそちらのほうに軽い驚きを禁じ得なかった。いい絵とはとにかく心に残る絵ということになるのだろうか。
27年前とは大した昔でもない、しかし考えてみれば27年前ではまだインターネット時代には全く入っていない、この後失われた20年もあったりして明らかに一時代前のアナログ基調の昔という感じがする、
テレビもアナログだった、色んなことがこの年の後あった。節目の年だったかもしれない。この一年前に平成が始まり今一年後に平成が終わろうとしている。昔のことを考えているといくらでも時間が過ぎてしまって何も後には残らないような空虚感があるからだろうか振り返ることはあまり好きではない。でもこの27年の移り変わりはどこかすさまじいものがある、思い出し始めるとついつい順に追っていってしまう、流れ出てくる。個人的にも世の中の移り変わりでも特別な凝縮された27年だったように思う。
今から未来に27年を伸ばすともうそこは朦朧とした時代しか見えない、そんな年回りになってしまったことも感じる。

なかなかの展示会だった。
事前に半数が見ていた展示と知っていたら見に行かなかったかもしれない、しかし見てしまうと様々なことを考えさせてくれて素直によかったと思う。

流れに任せて事前に詳しく調べ過ぎない方が良いこともある、その方がむしろ新しい切り口を見出すことができる、そうだったそんなことを思いながら過ごしてきたことをもつらつらと思い出していた。思い出し始めるときりがない、流れていった時間はやはり面白くもある。

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2018年5月18日 (金)

福翁自伝から話が広がって

ひと月位前に福翁自伝というのを読んだ。面白い本だ。福沢諭吉が64歳の時に書いた自伝という、口述筆記させて後から随分手直ししたらしい、講談本のようだ。明

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治30年の作ということになる。日清戦争と日露戦争の間という維新が結実して強国になっていく時代だ、威勢のいい空気が背景にある。
読むと幕末から明治へ移行する時期のリアルな活写となっているところがとりわけ興味を引く。福沢諭吉は幕府召し抱えではあるが勤皇でも佐幕でもなく超然とした翻訳者の立場に立っていたようだ。諭吉は積極的開国論者であったが、幕府の言う開国も結局は攘夷をしたいが止む無く開国というようで諭吉には気に入らなかったともある。幕末から明治にかけては何より暗殺が最も恐れていた事態だったという。夜は出歩かないと心していたとある。そうだろう。

幕末ドキュメンタリとも読めてなかなか面白いと思っていたところ思いがけず先月の法事の席で福翁自伝に話が及んだ。
親戚繋がりの方から出てきた話だ。福翁自伝の緒方洪庵・適塾時代のくだりに松下元芳という久留米出身の医者と諭吉が夜店に入って暴れた話が出てくるがこの松下元芳とその方は5代くらい前で系図がつながっているという。ということは系図の線をたどっていけば自分と松下元芳をつなぐ線が現れるということになる。何だか人類皆兄弟と思えてくる。


自分の両親の家系はどちらもずっと九州のはずだ、一度できる範囲で辿ってみるのも面白いかもしれない。そう思い始める。

単純計算では5代辿れれば100年、50代辿れれば1000年前まで行ける。勿論役所の書類では3-4代前くらいしかわかるまい。その先はお寺や神社やどこかの記録に残っているかということになる。

できはしないが500代で10000年と縄文初期までトレースを追えれば遡れるはずで、もっと前にも勿論つながっているのは間違いない。突然生命は生まれるはずもなく今ある命のもとは数十億年前の生命の誕生まで必ずつながっていなければならない。考えてみれば途方もないことだ。今生き残っている全ての命は46億年の地球の歴史の中でおこった数回に及ぶ地球生命大絶滅の大波をかろうじて潜り抜けてきた奇跡のような生き残りばかりだ。恐ろしいばかりに貴重な命だ。

自分はどこからきたのか。多細胞生物が始まる10億年位前までに至るDNAの分岐を遡ってルーツを追っていく、これをだれもが行える技術として いつかは人類の手に入るのだろうか。このまま人類が絶滅することなく永らえれば1億年位は人類の時代が続くだろう、きっとその内にそのくらいのことはできそうな気がする。そんな技術があってこそ人類は助け合わねばならないことをリアルに感じることができるのではなかろうか。たかが数千年をたどれる位の約束の地などは殆ど意味のない約束だと知るだろう。

とんでもないところで線が交差し枝分かれして延々と続いていく、それが個人という生き物で構成される世界の成り立ちであり行く末なのだろう。

考えていくと僅か100年足らずの寿命であるのが残念になる、しかし1億年先までの未来を連綿とつながる自分のDNAは見続けていってくれるだろう、それがあってこその寿命と思い切ることもできる。
命の連鎖は面白い。福沢諭吉から一気に考えが拡がるのもまた面白い。世界は面白いことで満ちている。




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2018年5月12日 (土)

薩摩を旅する

離島の旅行を2つ立て続けに失敗して、これならばという天気をしっかり読み休暇村指宿に空きを見つけて鹿児島に小旅行した。大河ドラマの影響がもちろんあるが、指宿の温泉に行けるうちクルマでに行っておきたいというところに心が動いた。長崎ランタンフェスティバルもインフルエンザで行けなかったし自力で行けるところがだんだん狭くなってきていると最近感じ始めていた。
5時間近く走って鹿児島を巡った翌日知覧へ行ってみた。武家屋敷と特攻で知られる。ここの記念館で40年位前に宇都宮で眺めていた4式戦「疾風」その機体そのものに突然再会した。一体どういう経緯でここに至ったのか。(写真は1973年に撮影したもの)。
1973年の入間航空ショーでフライトしその後宇都宮飛行場へ飛来してこの地に暫く止まった。宇都宮上空を飛行している姿を見上げるように街中から眺めたこともある。旧中島飛行機関係者のプロフェショナルな手で丁寧にメンテナンスされていたが、オーナー

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の後閑氏が亡くなった後宇都宮を離れ、関西を転々とした挙句知覧町の手に渡りここに落ち着いたという事のようだ。多分もう飛べないだろう。残念だがしょうがない。
貴重な機体の写真を撮りたかったが撮影禁止という事で撮れない。なぜ禁止なのかはよく解らない、なにを気にしているのだろうか。

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仕方なく写真が載っているパンフレットを購入する。少しでも稼ぎたいということかもしれない。情けない。
展示を見ていく。特攻は一定の戦術的効果を米軍に与えたといわれる。そのまさに必死の抵抗が日本上陸侵攻後にも続けられれば米軍は多大な損害をさらに受けると恐れ、それがためらいのない原爆投下に繋がったというのはあなかち牽強付会と言うわけでもないような気がしてくる。何でこんな悲惨な戦争を邁進したのか、誰が責を負うべきなのか、それを解明しようとする或いは糾弾する説明文はどこにも見られない、日本国民として戦争責任を追求する行いがほとんど行われずに今日に至ったのが腹立たしくてしょうがなくなる。死んで行った幾多の命に申し訳ない気がしてくる。知覧の展示はその意味で全く情けない、同情を買い客寄せのためにやっているのかと言いたくなる。永遠にゼロだ。

鹿児島の街はとんでもなく走りにくかった。世界遺産の寺山炭窯跡から仙巌園に向かおうとナビに目的地を入れると一筋縄では読めない道順が出てくる。ループでシラ

Navi

ス台地から降りて南下したあとUターンして北上せよとの指示だ(写真)。どういう道だろうと走っていくとまさにそうしないとたどり着けない。ループを降りては左折して北上することができない道になっている。普通の道ではない。解ってない人、地元ではない人には走りにくい道になっている。ほかでも感じる、よそ者のことは親身に考えていない構造を。

世界遺産の構成資産である関吉の疎水溝と寺山炭窯跡はいずれも良いところだった、しかし、行きにくい。
福岡を朝クルマで出ると丁度ランチ時が最初の訪問地ということになる。

Touonkan

関吉の疎水溝の近くの稲音館(とうおんかん)という所をランチ場所と決めてナビに住所を入れて出発する。予定通り12時頃に現地に着いたのだが最後はとんでもなく細い道を指示してくる。どういうことだろうと恐る恐る進むと確かにこの道しかないと解る。関吉の疎水溝の駐車場は5台くらいのスペースで稲音館にクルマを置いても行けるのだがこちらも5台くらいだ。勿論バスは入れない。人はほとんど来ないと決めてかかっているようだ。稲音館のランチは美味しくテラスで風に吹かれていい気持だったが数組しか入れない、

Sekimuzu

この時はついに他のお客は現れなかった。県道沿いには看板も気が付かない程でナビか知ってる人以外来ようがないところだ。関吉の疎水溝のほうは興味深い遺構が残っていて疎水のはるか仙巌園に向かって流れ行くさまも見れて特に夏場は心地よいところに思えた。しかし行きにくい。次は寺山炭窯跡に向かう。こちらはネットで調べてみても駐車場は少し離れた公園を示してあったりでよく分からなかったがとにかく現地にまず到達してみようと走っていった。やや細い県道220号線を、ここらあたりか、というところまで来ると駐車場入口の表示が見える、やっぱり近

Sumiyaki

くにあったんだとクルマを入れるが1台も止まっておらず不気味なところがある。どっちへ向かえばいいのか道案内もなくて看板を探したりと少し手間取るが解って歩き始める。100m位で近い。森の中でリュウキュウサンショウクイやシジュウカラの声などが響いて気持ち良い散策となる、いいところだ。炭窯跡の遺構はいかにも近代遺産という感じで普通の炭焼き跡とはずいぶん違う。ここが仙巌園の反射炉のエネルギー源であり、辺り一面の落葉樹が切られていったのだろうが今はいい森だ。落ち着ける。
いずれも自然散策にいいところだがよそ者にはなかなか近づけない雰囲気のする場所だった。世界遺産で何とか整備しようとしているところは感じるが元々が人の近づきにくいところに作られていて本来的に行きにくい。
そのあと今回巡ったいくつかのポイントでもよそ者にとってのわかりにくさを感じた。そういうう風土なのだろう薩摩というところは、簡単には抜け去らないのだろう。

2日で720kmくらい走って、随分歩きもした、疲れた。殆どアクセルもブレーキも踏まずに済む車だから走れた気がする。こんな旅行はいつまでできるだろうか、それでも旅は面白い。

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2018年5月 8日 (火)

昔住んでいたところを歩く

昔住んでいたところを歩いてみよう、ずっとそう思っていた。自宅から歩いて5分程のバス停から出る路線に乗れば乗り換えなしで行ける。又は最寄駅から西鉄電車で行ってもいい、簡単に行ける。それなのに福岡に引っ越してきて実際に訪れるまで5年かかった。いつでも行けるという気持ちがここまでずるずると引き延ばしてきたような気がする。
結局3週間ほど前のとある日思い立って全く唐突にふらりと出かけた。すぐ近くのバス停から駅行きが来ればそれに乗ればいいし間があれば少し離れたバス停からバスに乗ればいい、そんな風に思ってまずはすぐ近くのバス停の時刻表を見ると数分後に駅行が来るようだ。ラッキー!とこれを待って乗り込む。ミニバスだ。久しぶりに乗る、駅東口が終点となっていて、前に乗った西口で降りるのと行き方が少し変わっている。なんでも変わっていく。短い間にも世の中は動いていく。
次の
まで西鉄電車に乗る。
そういえばこの駅で降りた記憶が昔にもない、というか蘇ってこない,その先で降りるのが常だった。駅の階段を降りて出たところでも地理がピッと頭に来ない。暫く眺めまわしてああこっちだとわかる。
街角の記憶は薄っすらとしかない、写真があればいいがそんな写真は昔撮ってはいない。

Jinjyax

北へバス通り沿いに下っていくと右手の路地のずっと向こうに鳥居が見える。西鉄電車の高架線を越えた向こうに神社があるようだ。こんな神社は全く記憶にない。昔は西鉄電車が高架になっておらず土手のように盛り土した上を走っていた、そんなせいで土手の向こうの記憶が乏しいのかもしれない。とにかく人の記憶などあいまいなものだ。
川を渡る橋の少し手前を右に折れる。道の向こう側には駄菓子屋があったはずだが勿論今はもうない。近くの外車ディーラー大手のショーウインドーは健在だ。生き残る

Dagasiyaato

のは大手だけなのだろうか。右に曲がって進んでいくと昔ここらのどこか広い場所でラジオ体操を行ったと思い出すがそれらしい場所はない。変わってしまった。進駐軍の将校が接収して住んでいた角の家のところまで来る。今や背の高い建物ばかりで面影はない。昔住んでいた区画の中では自宅の裏にあったやや大きな木造の家がそのまま残っている、50年以上前そのままの姿に少々驚く、但し空き家のようだ。その他の家は全く面影がない。もと自分が住んでいたところはと見ると今は通信制の高校のビルになっている、初めて知った。通信制でありながら全日制

Uraroji

のユニークな高校で芸能人も輩出しているようだ。
昔の風情を感じるどころか驚きだけだ。昔歩いた道を行きつ戻りつジグザグに歩いて先の電車の駅に向かう。途中でおやという張り紙に出くわす。昔行きつけだった床屋だ、寄る年波には勝てず3月末で店を閉めました、とある。惜しかった、あとひと月早くここを散策しておれば床屋の主人か女主人と言葉を交わすことができたものを。喧嘩床屋と「うち」ではあだ名していた、いつも床屋夫婦が言い合いをしながら髪を切ってくれた。昔の思い出のままとなってしまった。80才は過ぎているだろうから店を閉めるのもむべなるかなだ。
駅に抜ける抜け道だった細い路地が拡幅されて立派な歩道になっている。変わり続ける。
高架になった駅を左に見て1丁目に向かう。途中で右へ折れて昔 通学のバス停までの経路として使っていた道を探してみる。すっかり様子が変わっていて道を見つけるのさえ苦労する。
しかしどんどん昔の記憶が蘇ってくる。路地の太さの感じが昔の記憶より細い。周りの建物の高さが高くなったためだろうか。
一丁目で終わりにしようかと歩いてきたのだが着くとまだ元気だしずんずん歩けて面白

Rakusui

い、もう少しと柳橋の市場に向かう。手前で少し休憩したくなったのと喉の渇きを覚えたのとでコンビニでアイスコーヒーを飲む。座れるところのあるコンビニは有り難い。
長くいるのも気が引けて飲みながら歩く。柳橋市場に来たのは小学校以来のような気がする。古い記憶だがあまり変わっていない感じがする。見るだけで通り過ぎる。昼下がりの時間帯では活気も少ない。
思いの外短くて市場を抜ける。ここまで来ると出発前に何気に見ていた楽水園の紹介が思い起こされて楽水園まで行って終わりにしようと想い始める。手に持ったアイスコーヒーの飲み残しカップが邪魔だが捨てるところがない。
住吉神社のところまで歩いてくる、通りは人は多くないが旅行者風の姿がちらほら見える。
住吉神社境内に入る、池にはマガモがいてつつじがきれいだ。広い境内を歩いて本殿のところに出る。5年前の正月に初詣に来て以来だ。

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5年前の混雑とは様変わりして落ち着いた雰囲気がある。中国からの旅行者の一行が過ぎていく。
昔 海に向いていたといわれる正面入り口から出て右回りに縁を巡って樂水園に至る。この地にあった明治時代の豪商の別邸庭園を再現したような庭園で建造は戦後だ。茶室で抹茶を飲む。ちょっと気が休まる、雰囲気はいい。そういえば水琴窟がここにはあって音が聞けると思い出して尋ねると、庭の石に水をかけて耳をすませば聞こえるという。早速試す。周辺の都市雑音がやや気になるが石に柄杓で水をかけて耳を澄ますとゴアンゴワンというかすかな音が聞こえる。フーン優雅な響きだ。博多塀などもじっくり見て近くのバス停から帰路に就く。何だか満喫した思いだ。

昔の記憶を思い起こしながら気ままに街を歩く、これは案外面白い。計画しないところがいい、そんなことが気ままにできる街だし、歳だ。
また新しい遊びを見つけたような気がした、果てしない時の流れは泳ぐように過ごしていくだけで楽しい。

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2018年4月17日 (火)

北京ツアー3日目及び帰国

この日は万里の長城が混雑しているという情報からホテル出発が7時15分にセットされる。早いがホテルの朝食は6時半からなので問題なく食べることはできる。
万里の長城へ直ぐ向かうかと思えばまずは寝具店に寄るという、ここらがショッピングツアーの面目躍如の感ありだ。例によって1時間くらい店の中で時を過ごす。latexという天然ゴム素材の寝具が売りで、枕を買う人が多いが布団を買う人も6-7人もいる、枕だけでも1万円位する、結構いい商売だ、布団は真空引きで圧縮して専用のスーツケースに入れて渡されている。ちょっとした荷物だ。
やっと万里の長城・八達嶺に向かうと道路は渋滞が始まっている、何しろ春の連休だ。ガイド(中国人)はあちこちに電話して混雑情報を探り空いた入り口を求めて文

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字通りバスは東奔西走する。八達嶺の東側から上がって一番近い許可車のみの駐車場にうまく滑り込んでなんとか八達嶺の入り口に到達する。一時は今日はもう着けないのではないかと思うほどに厳しい渋滞だった、中国人ガイドの大活躍で何とかなったというところだろう。懸念した天候は風がやや強いが歩くのには支障ない、寒さは標高800m位あるものの前日と同じくらいでまあ耐えられる。残雪もみられるが予想の範囲内ではある。
兎に角人が多い。集合場所と時間だけ決めて各自歩く。とても団体行動などはとれない。大昔からあったものの明時代に現存する形が造られたというから、新しそうに見えても随分な歴史がある。それにしてもこんな山奥に延々とよくぞ造ったと半ばあきれる、トランプがメキシコ国境に造りたい壁はとてもこんな風にはできまい。日本に残る神籠石と呼ばれる古代城もこんなイメージがもとになったのではとも思わせる、

Jyobi

しかし長大だ。秀吉は明を攻めようとして朝鮮に侵攻し明軍の登場であっさり撃退されたが当時の明の軍事力は想像以上のものがあったに違いない、この長城を見ても秀吉の手で攻め落とせる相手とはとても思えない。
どこまでも続くので適当なところで引き返す。人波に逆流するような形なってこれも一苦労だ。
途中で鳥のさえずりを聞く、見ればジョウビタキだ、ジョウビタキのさえずりは初めて聞いたように思う。中国で見た数少ないオヤと思う鳥だった。
13時頃バスに戻り昼食場所に出発する。滞在時間は80分位だがそれなりに面白い。
前日と同じような昼食の後シルク店にてショッピングだが皆疲れて元気がなく参加者のうち一人が買うくらいだ、売り子が可哀そうにも見えてくる。
この後清朝皇帝の別荘である頤和園を見る、ここも世界遺産だ。清朝末期に西太后

Iwaenn

が住んだ場所ともされる。狭い回廊が入り組んだりしているところへ連休の人出で人の多さばかりが印象に残る。日光東照宮に描かれている模様に似たところがあり、この辺りを元に描かれたのかと思う、東アジアではつい近年まで中国文化の力が圧倒的だったと思い知る。
夕食は全聚徳という北京ダックの店だが海外からの団体観光旅行客で埋まっていて騒がしい上にいつもの中華料理に北京ダックのスライスが加わったという位でお

Kyogeki

いしいという気持ちにはなれない。しかしこんなものなのだろう。
オプションの京劇を梨園劇場で観る。いくつかの寸劇で構成されていて、体験版という風情だ。子供たちの修学旅行もいたりして観客もバラエティに富んでいる、京劇鑑賞を体験するという全体が面白い。
翌日は午前4時半ホテル発なのでホテルに戻って手早くパッキングしてとにかく寝る、忙しい旅行だ。自由時間らしいものがほとんどない、普通のおみやげもなかなか

Kaeri

買えない、旅らしさに欠けるところがあるといえばその通りだ。仕方がない。
帰りも出国手続きは青島で一度降りて行い、昼過ぎに福岡に帰り着く、早起きした分楽なスケジュールとなって悪くもない。
兎に角疲れたが、中国の人口の圧力を生に感じられただけでも十分な気がしている。こんな旅もたまにはいい。

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2018年4月12日 (木)

北京ツアー2日目


朝7時半から市内観光が始まる。北京オリンピックのスタジアム「鳥の巣」をやや遠めに眺めた後、まずは中華民族園の近くにあるショッピングセンターのヒスイ店に案内される。1日2店回ると知らされていたのでまあしょうがない。1時間近く店にいることになって、手頃な値段を設定してある商品に人だかりが出来るし、
それなりに買う人も出てくる。ショッピングツアーに観光がついていると考えた方がいいツアーなのかもしれない。

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中華民族園は見ないで市街を北から南に横切って天壇公園に至る、ここを見る。もう9時半くらいになっているがまだ気温が低い、3℃くらいの感じがする、出がけに見た北京の気温は1℃だった、予想通りの寒波だ。

とにかく園内を進む、一応世界遺産だ、人出が多い、清明節の連休が始まったところで中国の各地から出て来たという雰囲気だ。

Kasasagi

15世紀に明によって建てられた祈祷用の建物だが随分なスケールだ。地震が無いところなので石造りで一回建てるとなかなか壊れないと見える、傷んでいない。庭園を結構歩くが時折鳥が出てくる、カササギとオナガの他はスズメ位だ。食べられない鳥が残っているのかもしれない。

10時40分位に終わって今度は紫禁城内にある掛軸屋へ行くという。移動は3-40分かかる。北京という街は地図で見るより広い感じだ。ラストエンペラー
愛新覚羅溥儀の弟である愛新覚羅溥傑が人民中国となった時代にいっときこの店で働いたとの説明がある。
店に入ると清王朝崩壊の歴史の説明の後 清朝皇族の愛新覚羅一族の末裔であるという愛新覚羅恒珏(コウカク)氏の書道実演がある。

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愛新覚羅溥傑の子息であるような説明がされるが店内に示されている系図ではどうもそうは読めない。確か溥傑には男子はいなかったのではなかったか。ちょっと大げさに脚色して言っているようだが愛新覚羅一族は多くが書画で身を立てている様で清朝の歴史の果てがここにあることはどうやら間違いなさそうだ。
恒珏氏の掛軸や色紙大の書が販売される。掛軸は表装してある書が3万円という、歴史的に重みがあるものにしては安すぎる、どこか怪しいところを感じるが観光客相手の販売が身を立てる中心になっているのかもしれない、共産中国では清帝国の末裔は肩身が狭いのだろう。1万円の色紙サイズの書を買うことにする、歴史を買うという気持ちだ。心清事達 という文字で、心清と書くからにはそれ程非道い詐称はあるまいとの思いもある。しかし中国のことだ、本当のところは解らない。

Koukaku

全てを含めて中国ならではという人に出会った気がする。
帰国した後、愛新覚羅恒珏という人についてもう少しネットで調べてみる。

書に添付されていた系図と説明書きから、清の第四代康熙帝の次男で皇后の子の胤礽(いんじょう)がその祖となっているようだ。この胤礽は皇太子として早くから認められていたが反逆のそぶりありとして結局廃嫡されている。その末裔が恒珏氏という系図になっている。添付されていた系図はネット上にで見つけた胤礽の末裔の流れと凡そあっていて帝系の流れをくむ人であるという説明は一応正しそうだ。北京中国書画協会常務理事等それなりのポジションにあるという説明書きも中国のwikipediaであるBaidu百科で調べてもそのような記述で書画家としてある程度名の通った人であるようではある、Baidu百科の写真も本人だ。
清朝の末裔がこんなところでひっそりと書画を売って生計を立てている、その物語そのものが幾ばくかのお金を払って手にするのにふさわしい中国土産のような気がしている。

Tenanmon

この日のツアーはこの後 天壇公園と天安門広場の中間にある老根山荘というレストランで中華料理のランチを食して天安広場、紫禁城の観光のコースに入った。

だだっ広くていかにも中国らしい天安門広場、門をくぐってもくぐっても次々に門が現れる複雑怪奇な紫禁城をひたすら歩き 歩き疲れてやっと夕食となる。後で調べるとこの日は15000歩くらい歩いている。オプションの雑技団のショーをツアー参加の多くの人が観る予定なのもあってショーがある朝陽劇場のすぐそばの中華レストランが夕食場所となる。

Sikinjyo

四川料理と銘打ってあるが昼の食事に多少品数が増えたかというくらいで あまり変わり映えがしない。このツアーはホテルの朝食以外は食事にはあまり期待しないほうが良いようだ。
雑技ショーも滞りなく見終わって一日が終わる。疲れた。明日は万里の長城だ。

Zatugi


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2018年3月12日 (月)

梅はやはり太宰府

急に暖かくなって本当に春が来た。急いでスタッドレスタイヤから夏タイヤに履き替える。今年は雪のある山に近づかなかったこともありスタッドレスはお守り位の役目しか果たさなかった、スタッドレスに履き替えてまだ1000km位しか走っていなかった。来冬こそは雪のついた場所へ出かけて行こう、そう思っている。そうは思っても体が動かない、そんなことが目に付くようになってきて悩ましいが、それはそれで受け入れればいいだけのことだ、そう思うことにしている。歯切れの悪い生き方になっているのはどうしようもない。

春が来ると待ちかねたように花を愛でたくなる。まずは梅からと先週は海が見えてよさそうな糸島の小富士梅林に出かけた。

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のんびり山のすそ野を歩くところはいいが梅は今一つの雰囲気がする。あたりの農家の庭の梅の花は見事なのだがとも思う。梅林は食用梅と割り切って育てているようだ、その気持ちに添って眺めるとこんなものだ、楽に楽しめて悪くもない、心の持ちようだ。

今週はやはり名所は抑えるべきと太宰府の梅園に出向いた。幼い時は梅見といえば太宰府だったような記憶があってそれをまた見てみたいという思いが半分以上ある。金曜まで雨空が続き土曜の午後になってしまったので人出の多いのは覚悟の上ではある。
太宰府周辺は予想通りの渋滞でその先に民間駐車場が幾つもある。しかし満の表示が続いたり入口の誘導員が手を交差してバツの合図をしたりと、なかなかとめるところが見つからない。やっとの思いで空とでている駐車場を見つけてクルマを入れる。こんなに駐車場の満が続く光景も太宰府では初めての経験のように思う。
梅まつりの行事があっていて店の並ぶ門前の通りはいや増しに混んでいる。地元の酒もふるまわれたりしているがこれは飲めない。こんな日は電車で来るのがどうやら正解のようだ。
境内に入るとあちこちに植えてある梅がどれも見頃だ、この前行った小富士梅林とは違って庭木として丁寧に手入れされている。
外国人が結構いるようで中国人のグループが順番に写真を撮りあっている光景もある。

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梅ヶ枝餅を食べたりして休み休みしながら境内の梅を見て歩くが幼い時に見た覚えのある緩い斜面にお茶屋と梅が登っていく状景にはなかなか行き当らない。時がたって変わってしまったのだろうか。
飛梅も見て本殿の裏手に出ると、緩い登り勾配に梅が花開いている、お茶屋も点在している。ああここだった、と記憶が次第に蘇る。昔より梅は綺麗なように思える、子供のころは花にはそれほど心を惹かれていなかったのかもしれない。
昔はそこまでは上ったことのなかった天開稲荷を上まで登りつめてみる、こういう所だったんだと記憶の輪が閉じていく。この感触が得たくて見に来たともいえる。

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下ってお石茶屋というお茶屋でまた梅ヶ枝餅を頼む、焼きあがるまで10数分くらいかかるがいいですかという。ちょっと怪訝な思いもあったが休憩にちょうどいいと休んで待っていると運ばれてくる。これはうまい、今まで生涯で食べた梅ヶ枝餅の中で最もうまい。梅ヶ枝餅にこんなに差があるとは思ってもみなかった。
吉井勇の歌碑があったりと戦前から有名な茶屋らしい。
帰ってネットで調べると昔九州一といわれるほどの美人のおかみが開いた茶屋で経済界の大物や文学人が多く通ったとされる茶屋だった。40年位前におかみは亡くなったというから幼い頃に親に連れられて梅見に来た時にはもしかしたら出会っていたかもしれない、そんなこともふと浮かぶ。つながって流れていく時を見ているようで面白い。

こんな風にして一つ一つ何かをつぶして生きているようにも思う。そういうことができるということが幸せなのだろう。

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2018年2月21日 (水)

恐竜と鳥の話をまた保育園児に

去年恐竜と鳥の話を5才の保育園児にしたがあまりうまく子供たちに話せた感触が

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無くて今年は無いと思っていたら また、の依頼が来た。色んな人の話を聞かせるというイベントは保育園にとって大事なのかなと思ってまた引き受けた。依頼があれば断ってはいけないという教訓を昔身に染みたことがあったからでもある。
昨年読んでいた資料に加えて今年はもう少し勉強をと「恐竜はなぜ鳥に進化したのか」と題されたピーター・D・ウォード著の単行本を読んでみる。酸素濃度の変化が重要な影響を与えたのではないか、というのが主張の根底にある。確かに鳥の呼吸器系は人間のものより常にフレッシュな空気が肺に入るところが優れていてこれが長時間の飛行や高空の飛行を

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可能にしているように見える。このそもそもの始まりが恐竜時代の初期にかなり酸素濃度が下がって温暖化しこの環境下で気嚢を使った効率的な呼吸システムがあった故に恐竜は低酸素時代に勢いを増した、その上冷却に有利な冷血システムだったのも功を奏して巨大化したということのようだ。
恐竜が生物の頂点に立ち続けたのもそんな呼吸システムがあったせいでそれを引き継いだゆえに鳥類は小型で効率よく飛翔できる生き物として1.6億年もの間進化してきたのだろう。鳥の体の中は袋だらけだ。
5歳児にも一応鳥の呼吸システムと恐竜の呼吸システムの話も入れておく。難しいかもしれないが中にはわかる子もいるだろう、覚えておいて生涯それが心に引っかかる子がいるかもしれない。確かに幼い子供たちに話をするのは面白い、未来につながる道がそこにみえてしまうからなのだろうか。

放送大学で学ぶということをこのところ続けている、半期に一講座ずつだから負担は大したことは無いし おや と思うことを改めて学んでみるのは刺激的だ。この冬季は万葉集と古事記の講座をとっていたが、万葉・古事記の世界が歴史的にも文学的にも多少は理解できたような気になって面白かった。来
は何にしようかと迷ったが生物の進化の歴史をとってみることにした。以前放送大学で学んだ地球史やこの幼稚園児に対するお話でかじってみると生命体の歴史は存外に面白そうだ、そんな気持ちになっている。生命体を生み発達させた地球という星の異常さをも感じている。

どんな形にせよ教えることは学ぶことである、それは幾つになっても楽しい。

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2018年2月15日 (木)

モスクワの近くで旅客機が墜落

モスクワの近くで旅客機が墜落して乗員乗客が全員死亡した。一年以上民間旅客機の墜落事故はなかったがついに破られてしまった、こんな時代によくもそんなことが続いたということかもしれない。

現時点で明らかにされている事故の状況は以下の通り:
2018年2月11日現地時間14時21分(世界標準時では11時21分)、モスクワの南35㎞ほどのところにあるドモジェドヴォ国際空港をオルスクに向け離陸したサラトフ航空のアントノフAn-148-100Bが離陸後6分の14時27分にモスクワ近郊のラメンスキー地区ステパノフスコエ付近に墜落大破した。搭乗していた乗員6名乗客65名合計71名全員が死亡した。満席に近かったようだ。高度6400ft(約1950m)から急降下して地面に激突した模様。

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機体のAn-148-100BはウクライナのANTKアントノフ社が2007年に開発した双発のターボファンジェット旅客機で75人乗り、最大離陸重量42トン、航続距離2200nmとおおよそMRJに近いサイズのリージョナルジェット機だ。形の上では高翼に特徴がある。現在38機が飛行しており、内 北朝鮮のAIR KORYOが4機、今回のロシア・サラトフ航空が7機、ロシア・イルクーツクのアンガラ航空が5機、キューバのCubana航空が6機 他はロシア空軍等官需機になっているようで、旧共産圏以外には売れない苦しいビジネスとなっているようだ。今回墜落した機体は2010年製造でロシヤ航空に引き渡され使用されていたが2015年4月からはペテルスブルグで保管状態となり2017年2月からサラトフ航空にリースされ使用が再開されていた。
エンジンのProgress D-436-148はソ連時代の1980年代にウクライナのイーウチェンコ設計局が開発したターボファンエンジンD-436の派生型としてAn-148用に開発されたエンジンで現在はウクライナのモトール・シーチ社が製造している。ソ連の崩壊、その後の旧ソ連グループの航空産業を支えてきたウクライナの姿が浮かび上がってくるような機体だ。
勿論これらの会社はロシア―ウクライナを中軸にする旧ソ連圏の軍需産業の中核だ。ロシアの軍事的プレゼンスを支える軍需産業の視点から眺めればロシアとウクライナの間の戦争はありえない戦争のような気がしてくる。所詮内輪もめの類で部外者はクールに傍観するほかないのではないか、そんな気持ちになる。
サラトフ航空はアエロフロートのサラトフ支社が独立してできた中堅のリージョナル航空会社で本社がヴォルガ川沿いの都市サラトフにある。サラトフは帝政ロシア時代に移住したドイツ人”ヴォルガドイツ人”が多く住む町であったといわれそのせいか産業や文化が発達した。航空機工業も盛んでアントノフ設計局を率いた航空機設計者アントノフの故郷でもある。アントノフの故郷の名を冠した航空会社の運航するアントノフ機が墜落したのも何かの巡り合わせなのだろう。

事故機の飛行については飛行中に地上に送られてくるADS-BのデータがFlightRadar24という
民間機の航跡データをリアルタイムにネットに表示する事業者により公表されている。これによれば離陸上昇中から速度は大きく変動し最後は急降下に至っている。

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事故機のフライトレコーダ
は回収され調査が進んでいる模様だが事故調査当局の速報的コメントからは 対気速度を検出するピトーセンサーの除氷装置がパイロットによりオフにされたまま飛行しており着氷のため速度表示が離陸直後からおかしな値となっていた可能性が濃厚という。ADS-Bで送られてきたデータもそもそもの元データがおかしかったのだろう。

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パイロットは自動操縦装置がおかしいと判断したのかこれを切りそのあとに急降下に入ったらしい。雲中飛行であり氷結で速度計の指示が低くなっていたためこれを回復すべく意図的に急降下したとも考えられる。

この報道を見てまず思ったのは本当に着氷する気象状態だったかというあたりだ。厳しい着氷が起こるのは0℃近くの生ぬるいくらいの気温が水分が多く含めて危ない、モスクワ付近であれば気温はずっと低かったのではないかと少し調べてみた。
ドモジェドヴォ国際空港のMETAR気象データでは現地時刻14時30分で小雪、気温-5℃、湿数1、2600ft以上は全域雲、でちょっと寒いくらいの湿度の高い状態だ、確かにこれは少々危ない。

 

上空のデータはドモジェドヴォ国際空港の現地時間15時のゾンデデータがWyoming大のサイトにあってこれを読みだしてみると上空1500m(5000ft)くらいまではあまり気温は下がらず暖かい上空になっている。

 

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この気温ー高度の条件では米航空局(FAA)の防除氷装置の設計を規定するFARpt25にある着氷条件の図からは着氷の恐れがかなり厳しいと判定される。
850hp高度(高度5000ft相当)の相当温位を見てみると黒海から相当温位の比較的高い領域が北へス―っと伸びている。厳冬期にこんな気象は滅多にないのかもしれない。
こんな条件で防除氷スイッチを切った神経が疑われるがパイロットも5000時間の経験のベテランという、普段はもっとドライなきつい寒さでこんな生ぬるい条件の飛行はしていなかったか或いは防除氷装置そのものが不調だったか又はエンジンの出力がヒータ電源を切りたくなるほどに低下していたのか、様々に考えてしまう。

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事故があれば色々調べたくなり調べてみると知らなかった世界が開けてくる。世界が思わず広がるところが航空機事故を追いかけて見ることの面白いところでもある。

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2018年1月28日 (日)

古事記と万葉集を学ぶ

古事記と万葉集という講義を放送大学で受講している、というかもう試験も終わったので受講していたというべきなのだろう。ラジオで聴取する形で、教科書とラジオ録音がすべてだ。15回の講義で1回あたり800円弱の受講料を前もって払っておく必要がある。高いといえば高い。資格を取るといった明確な目標を抱いて学ぶ人には妥当なのだろうが面白そうだから学ぶというには費用が少々大きい。まあしかしこんなものだろう。

古事記から入る。古事記は713年に完成し天皇に献上されたとされている。
古事記は漢文体の日本書紀に対比させられる音訓交用表記であり、中の歌謡は一音一字の音読みの所謂万葉仮名表記,神の名前は殆どが訓読み表記となって文体に苦心の

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跡がうかがえる。
中国文化を日本文化に取り込み咀嚼した漢字かな交じり文の原型が作られたのが古事記ということになるのだろう。
太安万侶の序文は表記の苦心を述べているがこの序文自体は漢文であり、公式文書はやはり漢文という当時の感覚も感じる。

古事記はともかく伝えられている国の歴史を物語と歌謡としてそのまま内向けの言葉で書き下すところに力点が置かれたと感じられる。

万葉集の巻一巻二は古事記とほぼ同時代に編纂され、古事記の続き すなわち舒明天皇以降の歴史書としての側面を課せられていたように考えられるという。
古事記では雄略天皇までが事績の記述が書き込まれていてその後の推古までは系譜のみとなるが日本書紀は持統までの事跡が淡々と記されていて対外的な歴史書の体裁をとっているようだ。
古事記+万葉集が所謂人間史、日本書紀が正史とういうことになるように思える。

古事記以降の人間的な歴史の記述を担わされたのが万葉集の一側面ということになるものの、万葉にあげられている古い時代の歌はその後の時代に造られた歌がそのように言い伝えられて残ったともみられるところがあり(即ちまつわる物語が創られていて)、混乱があるところがかえって生々しい。

例えば16代仁徳天皇皇后の磐姫が作ったとされる短歌四首が万葉集に載せられているが(巻二)、古事記の記述では19代允恭天皇の軽太子のところに出てくる衣通王(そとほしのおほきみ)の歌がこの四首のうちの一つとほぼ同一で、どちらが創ったとするのが正しいのか、どちらも怪しいのかわからない。巻二は古事記の編纂された十年位後の720年代にはほとんど出来上がっていたと思われているようだ。

古事記の軽太子のところに出てくる長歌は万葉集巻十三相聞歌に出てくる軽太子にまつわる長歌とほぼ等しいものの、この万葉仮名表記は古事記の方では1字1音を守っているが万葉集では漢字万葉仮名混じり文のように万葉仮名を使っていて明らかに万葉集編纂者は古事記を見ながら編纂し、編纂時の世間で語られていたことに引きずられて漢字万葉仮名混じり文にしているといると感じられる。
*)注。
先にあげた古事記で衣通王の歌とある短歌については古事記が時代的に先だけに衣通王の作とするのが正しそうに見えるが、一方で万葉集で磐姫の歌とされる四首は第四十一代持統天皇(在位690-697年)(藤原不比等の時代)のころに連作としてまとめられたようだという見方もあり、やや奇々怪々の印象を受ける。

藤原氏の勢力がゆるぎないものとなったのは当時の慣例を破り皇統でない藤原氏出身の光明皇后を仁徳天皇の皇后として立后(729年)したところにあるとの見方が有り、この立后の僅かな前例が同じく皇統でなかった皇后磐姫だったというところに磐姫を巡る記述の危うさがあるようでもある。古事記での磐姫の記述は極めて嫉妬深い女性として描かれ印象が今一つよくないところを改めるべく、磐姫を立派な歌を詠んだ姫とのいい印象を与える後付け証拠としてよくできた4首が集められこれが磐姫の連作のように万葉集に載せられたのではないのか、藤原氏の強い意向が入っているのではないか、どうにもそのように思えてしかたがない。

この衣通王は、柿本人麻呂・山部赤人とともに和歌三神と呼ばれるほどに和歌に優れた才能を示したとされているようだ。もっとも和歌三神としては幾つかの挙げ方が古来よりあり、玉津島明神と住吉明神、柿本人麻呂を挙げるのがむしろ普通ではあるようだが玉津島明神とは衣通王のことを指しているとされるため、いずれにせよ衣通王は古来より和歌三神の一柱だったということのようだ。それにしては残された歌が僅かしかない。衣通王の伝説が先にあって紀の国に伝えられておりそれをひきずったのが古事記の記述であるのかもしれない、古に優れた女性歌人がいた、そこが伝説の始まりかもしれない、そんなことも思ってしまう。すべてが架空のものがたりであり、歌だけが残ってきたという気がしてくる。

古事記と万葉集を見て行くと漠とした上代の雰囲気が感じられてくるばかりで、不確定性原理のようなその漠とした存在の仕方が日本の文化の原点そのものであるように思えてくる。そんなことを感じるようになっただけでも改めて学んだ価値があったように思う。学ぶことはやはり楽しい。
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*)例えば
隠(こも)り国(く)の 泊瀬(はつせ)の河の 上つ瀬に 斎杭(いくひ)を打ち
という長歌の始めの方の表記を比較すると

古事記允恭天皇90:
許母理久能 波都勢能賀波能 加美都勢爾 伊久比袁宇知

万葉集巻十三3263:
己母理久乃 泊瀬之河之 上瀬尓 伊杭乎打

と万葉仮名表記でも随分違う、万葉集は漢字で纏められるところは纏めている。

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