2017年11月27日 (月)

秋月の紅葉を観に

福岡の紅葉名所をと調べると上位にあるのが秋月だ。
名のある所は行ってみるべきと出かけるタイミングを狙っていた。
見頃は10月末頃が例年らしいが今年はどうかとまた気象庁の計算式で計算してみる。朝倉の気温から高度補正して計算すると11月23日位とでる。祝日で混雑が気になるが天気も変動が激しくここを外すといい日がもうあまりない。思い切ってエイッと出かける。
エイッと出かけるのは、タイヤも新しいスタッドレスに替えたところでクルマを新しくして初めての組み合わせで様子も見たいということもある。ホイールはタイヤ屋に調べてもらうと前のレガシイB4で使っていたものがそのまま使えるようで一安心ではあった。宇都宮にいたころは中古タイヤ屋が結構あり手頃な価格で頻度を上げて変えていくというようなこともできたがこの地に来るとスタッドレスの需要も少ないようで中古タイヤ屋は少なくてそんなワザも使えず、結局新品のブリジストンのスタッドレスとなった。結構な物入りで少し長く使っていかねばとも思う。ともかく12月1月の雪日数は宇都宮(7.6日)より福岡(10.7日)の方が多いのだから福岡でも冬はスタッドレスは欠かせない。

タイヤの慣らしということもあって都市高速は速度を抑えて走り大宰府からは高速を降りて下道を走る。夏タイヤから冬タイヤへの変化はB4の時とはだいぶ違うもののすぐに慣れる、しかしなんとなく安定度はB4のほうが高い気がする。前輪の分担荷重が小さくなったのだろうか。

気になっていた駐車場は途中から道に現れてきた臨時駐車場への誘導看板に従っ

Asakura1

て進むと、待つこともなく臨時駐車場にクルマを置けた。目的の秋月城跡とは尾根を挟んだ位置にあり駐車場からちょっとした登りを要するが途中に由緒のありそうな秋月八幡宮もあって面白くもある。これを越え坂を下って杉の馬場通りの終点付近に出る。さすがに人出は多い。紅葉の方は枯葉になりそうなまるまりかけの葉の木もある一方でまだ青い木もあり平均すれば見ごろという感じだ。逆光で見ると結構美しく紅葉している。紅葉見物にはやはり光の具合が大事だ。
休日だけに家族連れや若い人が多い、活気がある。
老人ばかりが目立つ平日に観光地を巡るのも考え物かもしれない。
黒門から垂裕神社の参道を上がる。確かに紅葉はいいが参道を外れると紅葉はまばらだ。マッシブな紅葉を求めてはやや物足りないことになる。背後の山にも紅葉は見えず、九州らしい人手で作られた紅葉風景ともいえるのかもしれない。

もともとは秀吉の九州征伐に抵抗して敗れ石高を5分の1くらいにまで縮小された上で高鍋に移封された秋月氏の城だった、その高鍋秋月氏からはあの上杉鷹山を輩出した、ケネディが大統領に就任した時に記者に問われて最も尊敬する日本人の名として挙げた人物だ。秋月の城は江戸時代は黒田藩の城として使われ明治に廃された後は垂裕神社となった、神社建設には高鍋秋月氏の旧家臣が中心となった、という歴史がある。思いがこもった場所というところが、また感じさせる何かを放っているようではある。

来た道を登り返して駐車場に戻る。紅葉としてはまずまずかなと自宅へ向けて走り始めるとやや進んだところで右手に少し変わった形の古墳が見えてくる。時間も十分あるので寄ってみる。何しろ朝倉は邪馬台国があったともされる場所だ、古墳はすべからく興味を引く。

Kofuna2

仙道古墳という円形の古墳だ。2段になっていて周りに円筒埴輪がずらりと並べてある。玄室入り口には鉄の扉があってカギがかかっている。装飾古墳になっているようで近くには石室の現寸大の復元模型が展示してありどのように絵が描かれているかがわかる。丸や三角が描かれていてまじないのようだ。
大型の円墳で装飾古墳でありまた数多く発掘された円筒形の埴輪は人が盾を持ったものなどの具象的な形を持つ九州地方には少ない形象埴輪であることなどから

Kofuna

国の史跡に指定されているということらしい、立派に整備されている。
邪馬台国の時代の古墳ではないが昔から人が住み続けている土地であることには違いなさそうだ。

一体この地は日本の歴史にどうかかわり続けて現在に至ったのだろうか、バラバラの時代の痕跡が繋がっていかないのがどうにももどかしい。しかし考えてみれば自分の立っている地面はどこにしろ途方もなく長い歴史を抱えていてその具体的な時間の流れは知る由もない。そんなものなのだろう。

全てを受け入れて今を存分に生きる、それしかない、また思ってしまった。

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2017年10月29日 (日)

希望の党が


とんでもない劇場となった衆議院選挙も終わり、少し落ち着いてきた。
希望の党の失速のタイミングは色々言われるが 個人的な心の内では公示当日午後に

Kumo

なってやっと明らかになった九州ブロックの比例名簿順を見た時だった。単独1位が中山成彬になっている。まさかと思ってしまった。南京事件は無かったなどと公言する右翼政治家だ。その他あまりの発言に自民党ですら除名に至った人物だ。希望の党というか小池百合子の本音はこういう人を大事にして比例一位で必ず通すというところにあったのかと悟ってしまった。佐賀の原口さんが中山の比例単独一位を知りこんな人とは一緒にやれないと無所属出馬を選択したのはよく理解ができる、普通の人ならそうだろう。

健全な中道が必要だ、それが多くの人の望みだったような気がする、その受け皿が希望の党かとの期待感がいっときあった、本当にそうなら選挙結果は大きく違っただろう。しかしそうでは無かった。排除さらさらの発言も中山の比例一位も同じ根から出ていてその根をつまびらかにしないまま風を起こそうとしたが出来なかった、そう甘くは無かったということだろう。このままなら希望の党に未来は無いように思える。

こんな風な結果が選挙で出てくるのを見ると日本の民主主義もなかなかのものだ。

週末はまた台風だ、今年の紅葉はどうなのだろうか。

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2017年10月28日 (土)

今更のように古事記を読む

古事記を読んでみた。勿論口語訳版だ。原文は漢文に万葉仮名が混ざったとっつきにくい文章だ。しかし古代の歴史をみていくとどうしてもここに行き当たる。

通読してみるとそうかというところがいくつかある。まずはオオクニヌシの位置づけだ。ニニギノミコトが天孫降臨する前にスサノウが地上-出雲-に降りておりその孫として

Kougokojiki

オオクニヌシが広く葦原(つまり地上世界)を支配をしていた。それが気に入らないアマテラスはオオクニヌシに支配を終わらせることを同意させたうえで孫を高千穂の峰に降臨させた、という筋書きだ。
オオクニヌシの子は出雲から信濃まで逃げて諏訪神社にとどまることを条件に成敗をまぬかれた。
確かに諏訪神社にはいけにえの風習が後の世まで長く残り、他の神社とは異なる原始の荒々しさが今でも感じられる、単なる神社ではない。
出雲も何かの雰囲気が今も残っているのかもしれない、一度行ってみなくてはならない、そう思えてくる。

要するにニニギノミコトが初めて地上に降り立ったわけでも何でもない。現在の天皇家の直系がそこにあると示しているだけで、諏訪はそれ以前の支配者の流れを汲み続けていることをはっきり示しているようでもある。そういうことか。

ニニギノミコトの子が海幸彦山幸彦であり山幸彦の孫が神武天皇であって九州から瀬戸内海伝いに東征する話が書かれている。何故ニニギが天下ったのは出雲ではなかったのか。
明らかに出雲にもアマテラスのいる高天の原とつながるルートがあってスサノウは島根と鳥取の境にある斐伊川に高天の原から降りてそこでヤマタノオロチを退治することになっている。もっとも日本書紀ではこの時スサノウは新羅に天下ってそこから船で斐伊川に行ったと記述してあるから、神話だけあってぼけた話にはなっているようだ。とにかくニニギが出雲に直接天下らない訳があったように思える。

読んでいくと、やたらと「まぐあい」だの「ほとを突く」だのと現代の視点からは猥雑な表現が出てくるし、争いでは残忍に切り殺す表現がたくさん出てくる。国の正式な歴史書物にしてはどうかなと思ってしまう。

神武東征のところは思いのほかあっさりしている。日向から北上して宇佐へいき西に向かって岡田宮に1.5年、東へ向かって安芸の国タケリに7年、更に東に行き吉備の国高島に8年いて、明石から大阪湾を横切り和歌山あたりに至った。陸地からは抵抗が激しく海路で巡ったとの話になっている。要するに海路のみで東へ向かっている。
近畿に王朝が出来てからは纏向の字がたびたび出てくる、纏向遺跡が立派なのは当たり前と思える。邪馬台国論争で証拠のように纏向があげられるのはなんだかおかしい気もする。

古事記の記述がしつこく書いているのは当時の氏(豪族)の先祖がどうつながっているかのあたりだ、人名あるいは神の名前は煩雑と思えるほどだがそれが古事記の中核のようにも思えてくる、しっかり伝えている。地名のいわれもしつこい。
これらをつなげた話が長い時間を経て形造られてきて稗田阿礼の伝承となったと考えるのがそれらしい。
つまり当時いた天皇をはじめとする有力な豪族の所以・正当性を記したのが古事記ということになるのだろう。しかしすべてを創作するのは却って大変な作業になる、事実の歴史も深く織り込まれているとも考えざるを得ないように思われる。

古事記が作られた時の天皇家はどこからきたのかそれを記したのが古事記であるとするとどこらあたりまでが史実に近いのだろうか。

記述の細かさから少なくとも大和盆地には宇陀から(東から)入ったとするのは本当らしそうだ。当時の文化の流れからは明らかに西から東だから、東から大和に入ったがもとは西から来たのだ、と東征伝説でこと更に言いたかったのかもしれない。
更にそのもとはどこにいたか、紆余曲折があったとしても結局は幾つかのルートによる弥生文化の大陸からの伝来、弥生人の侵入というところに辿り着くということになるのだろう。
普通に考えてその遥かな記憶の正当化が国生み・天孫降臨神話になったのだろうしそう思って古事記の神代紀を読むとおかしくはない、どういう伝説であれそう言い方もあるかと思える。

なんとなく全体の感じは解った。古事記は歴史書としてではなく やはり最も古い日本文学として読むものなのかもしれない、そんな風に思えている。

こうして気になっていることを一つ一つ潰すようにして過ごしていく、これも悪くはない日々だ。

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2017年10月27日 (金)

リンゴ北紅の物語が

少し前になるが、台風21号が接近するというので雨が続き一日のほとんどを家に居てゴロゴロとテレビを見るという日々があった。

Missveedol

何かの拍子で見始めた番組で、戦前、青森県三沢の淋代海岸から飛び立った2人の米国-PangbornとHerndonによる初の太平洋横断飛行の話を流していた。
三沢の人々の離陸に際しての献身的な努力のお陰もあり、飛行は見事成功して機体のMissVeedol
号はワシントン州のウェナッチに胴体着陸した、パイロットが青森から運んだのは三沢産の5個のリンゴ(紅玉)だった。これがウェナッチの人々に感銘を与えた。リンドバークの大西洋横断から4年後の1931年のことだ。
ウェナッチは全米1のリンゴの産地でこの記念のリンゴは大事にアルコール保存され翌年には青森に返礼としてリンゴ苗木-リチャードデリシャス5本が贈呈された。リチャードデリシャスは評判となり、苗木は日本で一気に広まって最初の5本から枝分かれした接ぎ木は9年で1万本を越えるまでになったという。
日米戦争で交流は途絶えたが飛行50年後の1981年、ウェナッチ市と三沢市は姉妹都市になった。

その後この話はどうなったか、実にこのリチャードデリシャスと紅玉の両方の遺伝子を受け継ぐ北紅(きたくれない)という品種のリンゴが青森で生まれているという。

今から思い返せばどこまでがテレビ放送でどこからがネットで得た情報か解らなくなったが、ともかく86年前の偉業による交流の証が今新しい品種のリンゴとして売られている、というところにどうしようもなく胸に響くものを感じる。これは是非取り寄せてみなければならない、即座にそう思った。味わってみたい。

Kitakurenai1


北紅の銘柄指定で青森からネットで3kg取り寄せる。こんなことにはネットはすこぶる便利だ。4-5日して8個の大玉の見事な北紅が届いた。甘さといい適度な酸味といいしっかりとした歯ごたえといい、これは素晴らしい。蜜もたっぷり入っている。そしてここには初の太平洋横断飛行にまつわる思いが文字通り込められている。

こんな物語に満ちた世界に行き当たるとぼんやりテレビを見て過ごす日々があっても、それも貴重な日々であることに違いは無いと思い至る。ただ生きているだけでこの世は十分に面白い。

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2017年9月 7日 (木)

カモメと北朝鮮と

野鳥の集まりでカモメの話を聞いた。今一つピリッと来ない。カモメの生物学的系統

Kamome2


はきちんとは整理されていない、そんなことを思うばかりだ。
カモメがこうなった歴史というか系統というか、そこらはどうなのだろうか。何故カモメはカモメなのか。

セグロカモメについては、モンゴルカモメが分派してセグロカモメやオオセグロカモメを生んでいった、バイカル湖やカスピ海のカモメが本家でモンゴルセグロカモメやカスピセグロカモメとなった本家に押しやられて辺境の北極海を繁殖地とするカモメがセグロカモとして生き残った、どうもそういう風に聞こえてしまう。そういうことなのだろう。

それにしても鳥たちの歴史に氷河期はどう関連しているのだろうか。北極圏で繁殖するセグロカモメの様な冬鳥は氷河期に順応してきた鳥たちということかもしれない。現在の間氷期が終われば人も冬鳥のように今より10度くらい低い気温の環境に順応していくようになっていくのだろうか。およそ12万年周期の氷河期のサイクルがこれまで通りならそろそろ間氷期も終わりになるはずだが。急に到来するのかもしれない。



氷河期の到来ではないが、北朝鮮をめぐる情勢の展開が急になってきている。どうみてもトランプは手詰まりだ。
北朝鮮は北主導の朝鮮半島の統一という目的がぶれないのに引き換えトランプ側にはきちんとしたドクトリンを欠く状態が続いている。もはや冷戦はとうに終わっている。
ロシアも中国もこの機会を利用してアメリカのプレゼンスを東へ押し戻そうとしているかに見える。
話し合いで事態を進めようとすれば落ち着くところは民族自決による分断の解消ということになろう。韓国がどうしたいか、というところにかかってくる。これまでの北朝鮮・韓国の統一の動きの歴史からはとりあえず1991年共同声明の連合制か連邦国家を目指すということになるのだろう。韓国がその気になればすらすらと事は運ぶのかもしれない。まずは話し合いで米軍が朝鮮半島から引いていくとなるかどうかが注目なのだろう。
トランプでは他国のためにプレゼンスを増すという方向になるとはどうしても思えない。

間氷期の終わりも朝鮮半島の分断の終わりもいずれ何らかの形でやってくるはずだ。今のままの世界が未来までずっと続く、そんなことは決してない。とりあえずは心の備えが必要なようだ。

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2017年8月15日 (火)

大ピラミッド展

エジプトにもいつかは行かねばと思っていたところへ、早稲田隊の吉村作治さんが企画・監修した大ピラミッド展という展示会が福岡に巡回してきた。2年位国内のあちこちを巡回

Entry

してきたらしい。これとは別だが昔宇都宮で、やはり吉村さんがセットした古代エジプトの展示会を見たのを覚えている。発掘資金集めの一環かな、観に行けば支援にもなってそれもいいか、とついふらふらと見にいってしまった。



この間みたラスコーの洞窟壁画は2万年前、こちらは5千年前だから、この間の変化が人類文明の進歩というとになるが、この1万5千年の間にピラミッドような超大工事を正確にやれるようになっていた、ということに尽きるようだ。

Miira

文字を使い、王国を築き、数々の工芸品を残すに至った姿からは一気に前に進んだ勢いを感じることができる。

しかし考えてみれば、縄文の始まりから現代までがおよそ1万年5千年だから1万5千年でこれ位の進歩というのはそう不思議でもない。進歩というのは所謂クオンタムリープ(量子的飛躍)の繰り返しだから、飛躍の度合いをきめる天才がどれくらい優れているかどの位いるかで進歩の速度は決まってしまうような気がする、古代エジプトでは天才の数が限られていたのだろう、まだ人類の総数が少なかったということかもしれない。氷河期でそれどころではない時代が続いていたということかもしれない。

展示品で感じるのはその色の華やかさだ、3000年前の木製のミイラカバーは鮮やかな色彩の細かい絵で埋め尽くされている。ミイラを作る技術とともに物を保存する技術も磨かれたのだろう。勿論乾燥した地域の地下で厳重に封印され続けてきたということもある。

Menk

日本のたった1500年前位の古墳から出土する木製品はこんな姿では到底ない。

展示品にはカイロ博物館の重要な収蔵品が多く含まれていて国内でこれほどの古代エジプトの出土品がカイロ博物館から出展されるのは初めてではないかと思われる。メンカウラー王のトリアード(添付写真)は思いのほか小さいが顔の細工も細やかでリアリティがある。これは。。と思わせる迫力がある。

日用品ではエジプト・アラバスターと呼ばれる半透明の石を加工してつくられていた水差しの巧みな技が印象的だった。今使ってもおかしくない、美しい。
目玉となっているアメンエムオペト王の黄金のマスクも立派だが金だけに古びたところがなくてそれがかえってこんなものかと、感慨がどこか薄い。

しかし並べられている展示品はほぼすべてが墳墓から出土したものだ、言わば墓荒らしの成果をみているようでどこかうしろめたさがある。そうはいっても大規模な建造物を除けば墓しか残っていない。ピラミッドもギザにある3つのピラミッド以降は総てがかなり崩れているようだ。
戦乱や大規模な自然災害を潜り抜けては洞窟か墓か或いは余程の大建造物しか残らない、結局そういうことだろうか。今後も5千年や1万年のスケールでは大震災だって核戦争だってあるだろう、これからでもそういうことかもしれない。ちょっと空しくなる。

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2017年7月28日 (金)

ラスコーの世界巡回展示が

もう10年以上前の話だが宇都宮にいた頃 西武パルコで洋書の特価市があった折 洞窟壁画の写真が豊富にあるのが気に入ってラスコー洞窟の本を買っておいた、割

Lascaux0

安だったので何気なくというのがより正確だがとにかく”LASCAUX en Perigord Noir”というしっかりした本が手元にある。ぺリゴー ル・ノワール地区にあるラスコー というのがタイトルの意味だが、フランス語の本だ。但し解説文は英語とドイツ語、スペイン語が並べて書いてあって、各言語の表現が簡単に比較できる点でも面白い本だ。勿論図版は豊富にある、図版そのものについている説明はフランス語だけで少々残念だが全体としてそれなりに書いてあることはわかる面白い本だ。

暫くこんな本のことは忘れていたのだが、九州国立博物館でラスコー展が開かれているというので思い出して眺めてみた、なかなかいい、勿論展示はレプリカが主体だ

Lascaux1

が立体的な姿が見れるようだ、とにかく展示を見てみようと出かけた。後で調べて解ったが、この展示会は2012年10月から始まった「ラスコー3」と称する世界巡回展示会であり、これまでに、ボルドー、シカゴ、ヒューストン、モントリオール、ブラッセル、パリ、ジュネーブ、韓国光明市、東京、仙台、そして福岡 とめぐってきた。2020年まではフランスに戻らないとされているが福岡の後は公表されていない。巡回に従って内容は充実してきているようで、ラスコーで発見された壁画の制作道具の展示は東京から加えられたとされているようだ。福岡だけの展示というのも結構あったりもする。

Lascaux2

ともかく数年前の大英博物館の展示といい、全世界を巡回する世界的な展示会というのが目に付くようになってきた気がする。これもグローバリズムの一端だろうか。

展示の焦点は実物大の洞窟レプリカで、4か所分くらいあって、照明も工夫されていて洞窟の雰囲気がよく出ている。牛や馬の姿がリアルで、例えば竹原古墳の壁画などより遥かに生き生きしている。一朝一夕にはこうはかけない、描くこと専門の人がいた感じがする。同時に展示されている精巧な石器も国内で見るものより遥かに美しい。

Lascaux3

2万年くらい前の時代に美的感覚を持って絵が描かれ道具が作られていた、それがあからさまに解る。すごい。
この展示を世界巡回させたいという主催者側の気持ちには西洋文明の根源がここにあることを世界に誇りたいとの気持ちがあるのだろう、どうしてもそれを感じてしまう。

でもたかが2万年だ、せいぜい1000世代位前の先祖がなせる技だ、このままいけば人類はあと2万年位は軽く生存し続けるだろう、いやその何倍もの先の未来へ続いていくだろう、4次元の時空に生きる座標をまた感じてしまう。

歳をとったのかもしれない、そう思いながら
暑苦しくも楽しくもある現実世界へと会場を後にした。

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2017年6月15日 (木)

菩提樹、言葉と事物

いつものようにテレビをぼんやり見ていたら菩提樹の花が満開ですとにこやかに笑うアナウンサーの姿が出てくる。フーンと思いながらも見にいくのもいいかもしれないと思う。理屈をつけて出かけるようにしないと特に梅雨場は動きが鈍くなる、精神に良く無い。
恵光院という寺だという、調べて見ると筥崎宮のすぐ側だ、一応駐車場はある事になっている、特に問題もないようなので直ぐに出かけることにする。例によってナビはそうかなあという街中突破の道順を指し示す、面倒なのでナビにとりあえずは従ってみる。走り出すと案の定渋滞ありリルートしますが次々に出てその度にリルートに従うと細い道をうねうね走らされる。後悔しながら筥崎宮までたどり着くと恵光院の駐車場が分からずぐるぐるまわることになって、諦めて筥崎宮の門前のコインパークに入れる。参道を歩いて行くと確かに恵光院の駐車場はあるが筥崎宮の参道から曲がりこむところが進入禁止になっていて普通に考えると駐車出来ない。しかし既に1台駐車している、どこから、と思っていると次の一台が現れた、参道の歩道部分を少し走って進入禁止の立て札の裏側から曲がり込んでいる。知っている人はこうするらしい。

Bodaijyu 門をくぐってやや進むと目当ての菩提樹が現れる。なんとも言えない香りを漂わせて小さな黄色い花が鈴なりに垂れている。本堂には涅槃図のご開帳もある。仏門の信者ではないが形ばかりのお参りをして、花の写真をあれこれ撮る。置いてあったベンチに腰掛けてのんびり眺めたりもする。確かに心が和らぐ木だ。
釈迦が悟りをひらいたのも菩提樹の下とされる。一方で菩提樹といえばリンデンバウムだ、シューベルトの冬の旅の中の有名な歌曲でもある。
眺めているとシューベルトと釈迦は本当に菩提樹でつなBodaijyu1 がっているのだろうかと思えてくる、何だかピッとこない、歌詞を思い起こすと同じ木だとは思えない。
戻ってネットであれこれ調べると、フーンという話が色々出てくる。
まずは釈迦が修行した菩提樹はインドボダイジュと現在呼ばれている木で、クワ科イチジク属の木であり、恵光院の菩提樹は和名ボダイジュでシナノキ科シナノキ属で全く違う木とわかる。シューベルトのリンデンバウムのほうもまた違うセイヨウシナノキと呼ばれる木だがこちらはシナノキ科シナノキ属でボダイジュとは近しい関係にはある。

なんでインドボダイジュでないボダイジュがお寺にあるのかというと、もとは約800年前に中国から伝わったものであのお茶を伝えた栄西が中国に渡った際にこれも持ち帰ったという。正確には頼んで日本に送ってもらったという事らしい。送り先は博多で香椎宮のそばにまずは植えられたという。その後日本に戻った栄西の手によって株分けされたボダイジュが全国の寺院に配られて日本に根を下ろしたという事らしい。東大寺の菩提樹にはその経緯が残されており栄西が伝えた木の子孫であることが明記されているようだ。香椎宮の元の木は戦国時代に焼失しその場所には今は東大寺から株分けした木が植えられているという。恵光院の菩提樹は樹齢200年とされるばかりで由来の説明がないがたどれば栄西の木にたどりつくのだろう。
栄西の伝えた菩提樹が日本国内で大事にされてきたのはその木の出す雰囲気があったからだろうが、そもそも何で中国でインドボダイジュが菩提樹とされずシナノキの仲間が菩提樹とよばれるようになったか。これについてはインドボダイジュが熱帯性の木で温帯には適合できないため近しい木として今のボダイジュが選ばれたとの説明があるようだ。しかし本当にそうなのかどうか、解らない。現在通販でもインドボダイジュは売られており日本国内で育てている人も多数いるようではある。おおらかなところが大乗仏教らしいといえばそうだ。
シューベルトの菩提樹の歌だが歌詞はドイツの詩人ヴィルヘルム・ミュラーのドイツ語で勿論菩提樹の言葉は訳者が選んだ言葉だ。訳詞は明治の終わりから大正の初めに活躍した近藤朔風の手によるもので、同じシューベルトの野ばらもこの人が訳出したものだった。「菩提樹」は重ぐるしい歌曲冬の旅の中でほっとする気持ちを与える名曲だ、菩提樹という和名は名前はまさにそのような効果を曲とともにもたらしているように感じる。原文のリンデンバウムは植物学的には、セイヨウシナノキというべきなのだろうがそれでは歌にならない、近い種類のボダイジュを当てたのは正しいと思える。
調べると色々な思いが菩提樹ボダイジュという言葉からにじみ出てくる。
言葉と事物の繋がりの保証が容易く崩れ、崩れたとしてもまた新たな時空を生み出していく深みのある関係に思いが至る。
こういうう風にして世界は成り立っているのだ、また思ってしまった。

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2017年6月 6日 (火)

タイ特別展を見る

心に引っかかって気になっていた展示会がついに最終日になったというのでとにかく見に行った。近頃はPoster日程をコントロールする力が弱まっていて、きっちり予定をくんでおかないと何もできなくなるような恐ろしさが自分の周りに漂っている。ここで終わりという日には何をさておいても動くしかない。
観に行ったのは 日タイ修好130周年記念 特別展 「タイ-- 仏の国の輝き--」という九州国立博物館の出し物だ。東南アジアには訪れたことがなく知らなすぎるという引け目とどのくらいの文化だったのだろうかという純粋な好奇心のないまぜがたわいもなく心に引っ掛かりを作っていた。
 九州国立博物館は放送大学で学んでいると半額で入場できるということもある、行かねば損との気にもさせていた。

午前の早めに入場したが最終日の日曜日ということもあり混んでいる。駐車場も既に大分埋まっている。いつもは平日に訪れているせいか子供の姿が多く思える。
見始める。時代順に日本では法隆寺の時代に当たる頃の仏像から始まる。不思議P03 な形の仏像が並ぶ、ともかく顔の形が日本でみる仏像と全く違う、唇が随分厚いし口 が大きい。人種的には近いはずだが文化が違うとこうなるかとの印象を受ける。最初にどう作られたかで違ってきたのだろうか。勿論ここにも特有の美しさがある、力がある。
タイ語の文字も並んでいる。漢字文化とは全く違う。戻って調べると、インドの文化圏のようで、タイ文字はアショカ王時代にも使われたインドのブラーフミー文字というのがその源流にあるようだ。梵字などとも近しい文字らしい。タイに仏教が根強く生きているのもそんなことが関係してもいるのだろう。
文字がしっかりしていると文化も古くからしっかりと開花していく、メナム川(チャオプラヤー川)下流に栄えたドヴァーラヴァティー王国の7-8世紀の仏像や工芸品も並べられているがいずれも素晴らしい美術品だし精巧な細工だ。インド文化圏とも称せられる文化圏と中国を中心とする漢字文化圏の2つの有力な文化圏が厳然とアジアに存在し続けていたことを改めて知らされる。ちなみにベトナムは中国漢字文化圏の南端、タイはインド文化圏のヘリで 挟まるカンボジアは微妙な位置に昔からあったということになる、現代史が透けて見えるようでもある。学ぶことが多い。

15-6世紀の日本の戦国時代には多くの日本人がシャム(タイ)に進出していた。当然それなりの航海術が発達していて、立派な海図が残されている。これもここで見ることができる。むろん世界地図もあるが、特にロシア北岸の海岸線が良く描かれていることに改めて驚く。当時既に北極近くまでの地理的知識が世界的には蓄積されていたようだ。世界は広がっていた、鎖国がなければ全く違うアジアでの日本の広がりというものがあったに違いない、鎖国で安全は保てたが失ったものも相当に大きかったように思える。

予想していた通り気になっていた通りタイには日本と明らかに異なる優れた文明があった、リスペクトする心、それは知ることから始まるのだろうな、当たり前のことをまた教えられた気がする

まだまだ学ばねばならないことは果てしない。

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2017年4月30日 (日)

たらたらと歴史を想う

4月も終わりとなった。なんだかちょっと疲れた。

晴れた日が多くて、クルマも新しくなって出かけたくなる日が続いたためかもしれない。
なるべく食事会飲み会には出ないようにしているが何故か4月5月6月とその機会が増える。気象だ野鳥だとどうしても所属するグループの輪の飲み会・食事会には年度初めということもあり付き合うことになり、法事もあったりすると、そうでなくとも体調が今一つで足が遠のいているヨット遊びには出れなくなる。花見にも行かねば、興味のある歴史探索にも出かけねばと思えばとにかく忙しい。
本当はやらねばならないことなど何一つないのだから全部をうっちゃってぼーとしてればいいのだがそうもいかない。春は気ぜわしい。

最近行った歴史探索では装飾古墳の竹原古墳が心に残る。6世紀後半ころのものというから水城や基肄城や大野城といった、白村江の敗戦後に造られた対唐新羅防衛建造物などと同じころの古墳ということになる。よく残ったと思う。現地に常時駐在して管理している方の話によれば高松塚などの明日香の装飾古墳は漆喰の上に描かれたため脆くて傷みが出ているようだがここは岩にじかに描かれているため比較的傷みにくいということらしい。
Takehara 同じく筑豊にある特別史跡の王塚古墳のはかない壁画に比べてもくっきりとして見事だ。勿論ガラス越しで見ることになるがよく見える。
きちんと管理して何時でも誰でも見れるという強さが古墳の管理には重要なのかもしれない。絵が傷みそうなら誰の目にもすぐそれが解るという状態が直ちに対策をとれるということになって望ましいのだろう。隠さないことが強さを作るのだろう。
壁画は撮影禁止となって掲示されている説明図を撮るしかない、説明にはなるが記録にはならない。フラッシュを焚かないことを条件に撮影可と
Ponpei1した方がいいのではないか、そんなことも思ってしまう。最近福岡市に周ってきたポンペイ壁画展(日伊国交樹立150周年記念「世界遺産 ポンペイの壁画展」)は全て撮影可だった、そこには堂々とした誰に向かっても解放された人類の遺産という誇りがむしろ感じられた、そんな姿がこの古墳にも似つかわしい。

ポンペイの壁画展には紀元前数十年頃に描かれた壁画が含まれていたが、そのころといえばシーザーがガリア戦記を記したころだ。
たまたま図書館にあった
Ponpei2ガリア戦記(新訳ガリア戦記 ユリウス・カイサル著 中倉玄喜 翻訳・解説)を読んでいるところだったので一層この時代が生々しく感じられる。ガリア戦記もポンペイの壁画も2000年前とは思えないリアルさと人間の息遣いが感じられる作品だ。
2000年もの間を人類は徒に過ごしていたのだろうか、10 年前に書かれたといわれてもそうかと思ってしまうほどだ。

そのころの日本の様子はどうだったのか。2000年前の遺跡である自宅近くの吉武高木遺跡で少しはうかがい知ることができるが、到底ローマには及ばない時代を過ごしていたようだ。それにしても吉武高木遺跡の王墓らしき墓からは前漢製の鏡が出土するなど東シナ海を越えた交易が広がっていたようでもある。邪馬台国成立以前、伊都国や奴国ができる以前の時代だ。日本でも目いっぱい生きていた
Yositaketakakiその時代の人の生きようがうっすら浮かぶ。進んでいたか遅れていたかそんなことではない人間の生活が感じられてくる。

たらたらとこんなことを思って4月も終わる。いい生き方かもしれない。時々そう思う。

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