2018年2月21日 (水)

恐竜と鳥の話をまた保育園児に

去年恐竜と鳥の話を5才の保育園児にしたがあまりうまく子供たちに話せた感触が

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無くて今年は無いと思っていたら また、の依頼が来た。色んな人の話を聞かせるというイベントは保育園にとって大事なのかなと思ってまた引き受けた。依頼があれば断ってはいけないという教訓を昔身に染みたことがあったからでもある。
昨年読んでいた資料に今年はもう少し勉強をと「恐竜はなぜ鳥に進化したのか」と題されたピーター・D・ウォード著の単行本を読んでみる。酸素濃度の変化が重要な影響を与えたのではないか、というのが主張の根底にある。確かに鳥の呼吸器系は人間のものより常にフレッシュな空気が肺に入るところが優れていてこれが長時間の飛行や高空の飛行を

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可能にしているように見える。このそもそもの始まりが恐竜時代の初期にかなり酸素濃度が下がって温暖化しこの環境下で気嚢を使った効率的な呼吸システムがあった故に恐竜は低酸素時代に勢いを増した、その上冷却に有利な冷血システムだったのも功を奏して巨大化した思われる。
恐竜が生物の頂点に立ち続けたのもそんな呼吸システムがあったせいでそれを引き継いだゆえに鳥類は小型で効率よく飛翔できる生き物として1.6億年もの間進化してきたのだろう。鳥の体の中は袋だらけだ。
5歳児にも一応鳥の呼吸システムと恐竜の呼吸システムの話も入れておく。難しいかもしれないが中にはわかる子もいるだろう、覚えておいて生涯それが心に引っかかる子がいるかもしれない。確かに幼い子供たちに話をするのは面白い、未来につながる道がそこにみえてしまうからなのだろうか。

放送大学で学ぶということをこのところ続けている、半期に一講座ずつだから負担は大したことは無いし おや と思うことを改めて学んでみるのは刺激的だ。この冬季は万葉集と古事記の講座をとっていたが、万葉・古事記の世界が歴史的にも文学的にも多少は理解できたような気になって面白かった。来
は何にしようかと迷ったが生物の進化の歴史をとってみることにした。以前放送大学で学んだ地球史やこの幼稚園児に対するお話でかじってみると生命体の歴史は存外に面白そうだ、そんな気持ちになっている。生命体を生み発達させた地球という星の異常さをも感じている。

どんな形にせよ教えることは学ぶことである、それは幾つになっても楽しい。

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2018年2月15日 (木)

モスクワの近くで旅客機が墜落

モスクワの近くで旅客機が墜落して乗員乗客が全員死亡した。一年以上民間旅客機の墜落事故はなかったがついに破られてしまった、こんな時代によくもそんなことが続いたということかもしれない。

現時点で明らかにされている事故の状況は以下の通り:
2018年2月11日現地時間14時21分(世界標準時では11時21分)、モスクワの南35㎞ほどのところにあるドモジェドヴォ国際空港をオルスクに向け離陸したサラトフ航空のアントノフAn-148-100Bが離陸後6分の14時27分にモスクワ近郊のラメンスキー地区ステパノフスコエ付近に墜落大破した。搭乗していた乗員6名乗客65名合計71名全員が死亡した。満席に近かったようだ。高度6400ft(約1950m)から急降下して地面に激突した模様。

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機体のAn-148-100BはウクライナのANTKアントノフ社が2007年に開発した双発のターボファンジェット旅客機で75人乗り、最大離陸重量42トン、航続距離2200nmとおおよそMRJに近いサイズのリージョナルジェット機だ。形の上では高翼に特徴がある。現在38機が飛行しており、内 北朝鮮のAIR KORYOが4機、今回のロシア・サラトフ航空が7機、ロシア・イルクーツクのアンガラ航空が5機、キューバのCubana航空が6機 他はロシア空軍等官需機になっているようで、旧共産圏以外には売れない苦しいビジネスとなっているようだ。今回墜落した機体は2010年製造でロシヤ航空に引き渡され使用されていたが2015年4月からはペテルスブルグで保管状態となり2017年2月からサラトフ航空にリースされ使用が再開されていた。
エンジンのProgress D-436-148はソ連時代の1980年代にウクライナのイーウチェンコ設計局が開発したターボファンエンジンD-436の派生型としてAn-148用に開発されたエンジンで現在はウクライナのモトール・シーチ社が製造している。ソ連の崩壊、その後の旧ソ連グループの航空産業を支えてきたウクライナの姿が浮かび上がってくるような機体だ。
勿論これらの会社はロシア―ウクライナを中軸にする旧ソ連圏の軍需産業の中核だ。ロシアの軍事的プレゼンスを支える軍需産業の視点から眺めればロシアとウクライナの間の戦争はありえない戦争のような気がしてくる。所詮内輪もめの類で部外者はクールに傍観するほかないのではないか、そんな気持ちになる。
サラトフ航空はアエロフロートのサラトフ支社が独立してできた中堅のリージョナル航空会社で本社がヴォルガ川沿いの都市サラトフにある。サラトフは帝政ロシア時代に移住したドイツ人”ヴォルガドイツ人”が多く住む町であったといわれそのせいか産業や文化が発達した。航空機工業も盛んでアントノフ設計局を率いた航空機設計者アントノフの故郷でもある。アントノフの故郷の名を冠した航空会社の運航するアントノフ機が墜落したのも何かの巡り合わせなのだろう。

事故機の飛行については飛行中に地上に送られてくるADS-BのデータがFlightRadar24という
民間機の航跡データをリアルタイムにネットに表示する事業者により公表されている。これによれば離陸上昇中から速度は大きく変動し最後は急降下に至っている。

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事故機のフライトレコーダ
は回収され調査が進んでいる模様だが事故調査当局の速報的コメントからは 対気速度を検出するピトーセンサーの除氷装置がパイロットによりオフにされたまま飛行しており着氷のため速度表示が離陸直後からおかしな値となっていた可能性が濃厚という。ADS-Bで送られてきたデータもそもそもの元データがおかしかったのだろう。

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パイロットは自動操縦装置がおかしいと判断したのかこれを切りそのあとに急降下に入ったらしい。雲中飛行であり氷結で速度計の指示が低くなっていたためこれを回復すべく意図的に急降下したとも考えられる。

この報道を見てまず思ったのは本当に着氷する気象状態だったかというあたりだ。厳しい着氷が起こるのは0℃近くの生ぬるいくらいの気温が水分が多く含めて危ない、モスクワ付近であれば気温はずっと低かったのではないかと少し調べてみた。
ドモジェドヴォ国際空港のMETAR気象データでは現地時刻14時30分で小雪、気温-5℃、湿数1、2600ft以上は全域雲、でちょっと寒いくらいの湿度の高い状態だ、確かにこれは少々危ない。

 

上空のデータはドモジェドヴォ国際空港の現地時間15時のゾンデデータがWyoming大のサイトにあってこれを読みだしてみると上空1500m(5000ft)くらいまではあまり気温は下がらず暖かい上空になっている。

 

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この気温ー高度の条件では米航空局(FAA)の防除氷装置の設計を規定するFARpt25にある着氷条件の図からは着氷の恐れがかなり厳しいと判定される。
850hp高度(高度5000ft相当)の相当温位を見てみると黒海から相当温位の比較的高い領域が北へス―っと伸びている。厳冬期にこんな気象は滅多にないのかもしれない。
こんな条件で防除氷スイッチを切った神経が疑われるがパイロットも5000時間の経験のベテランという、普段はもっとドライなきつい寒さでこんな生ぬるい条件の飛行はしていなかったか或いは防除氷装置そのものが不調だったか又はエンジンの出力がヒータ電源を切りたくなるほどに低下していたのか、様々に考えてしまう。

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事故があれば色々調べたくなり調べてみると知らなかった世界が開けてくる。世界が思わず広がるところが航空機事故を追いかけて見ることの面白いところでもある。

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2018年1月28日 (日)

古事記と万葉集を学ぶ

古事記と万葉集という講義を放送大学で受講している、というかもう試験も終わったので受講していたというべきなのだろう。ラジオで聴取する形で、教科書とラジオ録音がすべてだ。15回の講義で1回あたり800円弱の受講料を前もって払っておく必要がある。高いといえば高い。資格を取るといった明確な目標を抱いて学ぶ人には妥当なのだろうが面白そうだから学ぶというには費用が少々大きい。まあしかしこんなものだろう。

古事記から入る。古事記は713年に完成し天皇に献上されたとされている。
古事記は漢文体の日本書紀に対比させられる音訓交用表記であり、中の歌謡は一音一字の音読みの所謂万葉仮名表記,神の名前は殆どが訓読み表記となって文体に苦心の

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跡がうかがえる。
中国文化を日本文化に取り込み咀嚼した漢字かな交じり文の原型が作られたのが古事記ということになるのだろう。
太安万侶の序文は表記の苦心を述べているがこの序文自体は漢文であり、公式文書はやはり漢文という当時の感覚も感じる。

古事記はともかく伝えられている国の歴史を物語と歌謡としてそのまま内向けの言葉で書き下すところに力点が置かれたと感じられる。

万葉集の巻一巻二は古事記とほぼ同時代に編纂され、古事記の続き すなわち舒明天皇以降の歴史書としての側面を課せられていたように考えられるという。
古事記では雄略天皇までが事績の記述が書き込まれていてその後の推古までは系譜のみとなるが日本書紀は持統までの事跡が淡々と記されていて対外的な歴史書の体裁をとっているようだ。
古事記+万葉集が所謂人間史、日本書紀が正史とういうことになるように思える。

古事記以降の人間的な歴史の記述を担わされたのが万葉集の一側面ということになるものの、万葉にあげられている古い時代の歌はその後の時代に造られた歌がそのように言い伝えられて残ったともみられるところがあり(即ちまつわる物語が創られていて)、混乱があるところがかえって生々しい。

例えば16代仁徳天皇皇后の磐姫が作ったとされる短歌四首が万葉集に載せられているが(巻二)、古事記の記述では19代允恭天皇の軽太子のところに出てくる衣通王(そとほしのおほきみ)の歌がこの四首のうちの一つとほぼ同一で、どちらが創ったとするのが正しいのか、どちらも怪しいのかわからない。巻二は古事記の編纂された十年位後の720年代にはほとんど出来上がっていたと思われているようだ。

古事記の軽太子のところに出てくる長歌は万葉集巻十三相聞歌に出てくる軽太子にまつわる長歌とほぼ等しいものの、この万葉仮名表記は古事記の方では1字1音を守っているが万葉集では漢字万葉仮名混じり文のように万葉仮名を使っていて明らかに万葉集編纂者は古事記を見ながら編纂し、編纂時の世間で語られていたことに引きずられて漢字万葉仮名混じり文にしているといると感じられる。
*)注。
先にあげた古事記で衣通王の歌とある短歌については古事記が時代的に先だけに衣通王の作とするのが正しそうに見えるが、一方で万葉集で磐姫の歌とされる四首は第四十一代持統天皇(在位690-697年)(藤原不比等の時代)のころに連作としてまとめられたようだという見方もあり、やや奇々怪々の印象を受ける。

藤原氏の勢力がゆるぎないものとなったのは当時の慣例を破り皇統でない藤原氏出身の光明皇后を仁徳天皇の皇后として立后(729年)したところにあるとの見方が有り、この立后の僅かな前例が同じく皇統でなかった皇后磐姫だったというところに磐姫を巡る記述の危うさがあるようでもある。古事記での磐姫の記述は極めて嫉妬深い女性として描かれ印象が今一つよくないところを改めるべく、磐姫を立派な歌を詠んだ姫とのいい印象を与える後付け証拠としてよくできた4首が集められこれが磐姫の連作のように万葉集に載せられたのではないのか、藤原氏の強い意向が入っているのではないか、どうにもそのように思えてしかたがない。

この衣通王は、柿本人麻呂・山部赤人とともに和歌三神と呼ばれるほどに和歌に優れた才能を示したとされているようだ。もっとも和歌三神としては幾つかの挙げ方が古来よりあり、玉津島明神と住吉明神、柿本人麻呂を挙げるのがむしろ普通ではあるようだが玉津島明神とは衣通王のことを指しているとされるため、いずれにせよ衣通王は古来より和歌三神の一柱だったということのようだ。それにしては残された歌が僅かしかない。衣通王の伝説が先にあって紀の国に伝えられておりそれをひきずったのが古事記の記述であるのかもしれない、古に優れた女性歌人がいた、そこが伝説の始まりかもしれない、そんなことも思ってしまう。すべてが架空のものがたりであり、歌だけが残ってきたという気がしてくる。

古事記と万葉集を見て行くと漠とした上代の雰囲気が感じられてくるばかりで、不確定性原理のようなその漠とした存在の仕方が日本の文化の原点そのものであるように思えてくる。そんなことを感じるようになっただけでも改めて学んだ価値があったように思う。学ぶことはやはり楽しい。
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*)例えば
隠(こも)り国(く)の 泊瀬(はつせ)の河の 上つ瀬に 斎杭(いくひ)を打ち
という長歌の始めの方の表記を比較すると

古事記允恭天皇90:
許母理久能 波都勢能賀波能 加美都勢爾 伊久比袁宇知

万葉集巻十三3263:
己母理久乃 泊瀬之河之 上瀬尓 伊杭乎打

と万葉仮名表記でも随分違う、万葉集は漢字で纏められるところは纏めている。

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2018年1月21日 (日)

ダーウインの種の起源を読む

ダーウインの種の起源を読んでいる。光文社の文庫本だと何となく岩波の文庫本よりとっつきがいい。

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読み始めて気が付いたのが原本の出版年が思いの外遅いという事実だ、日本の歴史では殆ど明治維新寸前というあたりになる。

正確には幕末安政の大獄が引き起こされた1859年で、9年後には明治元年となる。ぼんやりと進化論発表は1830年位のイメージを持っていたがそうではなかった。アメリカでは南北戦争、欧州ではナポレオン3世がオーストリアと戦争していた頃で世界的に騒然としてきた時代のように思える。音楽ではショパンが亡くなった後のブルックナーの時代となる。
第1次大戦前の世界に向かってグローバリゼーションが展開していきつつある時代ともいえる。
読むと確かに今に通じている。今でも疑問に思うことを地道に追いかけている。世界の動植物の生きていく様をつぶさに見て考察した結果が自然淘汰による生物の進化だったということのようで非常に説得力のある本だ。膨大な観察を背後に感じさせる。
たとえば草原に何故この植物が繁茂しているかを受精に関わる昆虫ともからめて説明している。
アカクローバーを訪花するのは蜜まで口が届くマルハナバチだけでそこに生息するマルハナバチの数はその巣を荒らすノネズミの数に大きく左右されネズミの数は猫に左右される、従って
アカクローバーの花がその地域で見つかる頻度はその地域にどれだけの数のネコがいるかによって決まる可能性がある、と説く。
ダーウインの主張のキーは結局は小さな形質の差異が生存や種の生き残りに結構大きな影響を与えているというところにあるような気がする。相互に依存している生命はわずかな変化が別の連鎖の優位性を生み出すというところにあるようだ。
確かにそういうところはある、しかしそれは変化を拡大する自然の不安定な一面の強調であって変化を抑え込み安定させている保存系としての地球の面はとらえきれていないようにも思う。それがあってこそ46億年も緑の地球は続いたのだろう。そこらが自然淘汰によりかかる進化論の限界のようにも感じる。

何がこの世界を安定化するように働いているのか。「神の見えざる手」は何なのだろうか。命の寿命だろうか。環境の多様性だろうか。今なお色々考えさせられる本だ。

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2018年1月13日 (土)

神功皇后の存在感が

今年の初詣は元旦に近くの御子神社を訪れた、ここ数年同じで引っ越してからの生活パターンも定まって来た感じがする。3が日はのんびり過ごした後この地の習慣に従ってあと2社を回った。3社参りは明治になって商業的動機で人為的に広められた習わしと言われ、従う理由も無いのだが正月は何か時間がゆったりしていて3社くらい回るのがやはりちょうどいい、1社ではやや物足りない。

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福岡周辺の大きなお宮はこれまで順に詣でていたがそういえば宇美八幡にはまだ行っていない。今年はここからかと訪れてみた。
福岡空港の向こう側で、九州高速のすぐ東にあるようだ。ナビで目的地を入れて向かうと難なく到着し駐車場も特には並ばなくて呆気ない。1月も4日ではだいぶ空いてくるようだ。
立派なお宮だ。そもそもは神功皇后が三韓征伐から戻って 後の応神天皇となる御子を産み落としたのがこの地であったことから宇美の名があるという、古事記にはっきりそう記されている。福岡周辺では神功皇后の言い伝えがあちこちで顔を出すような気がするが、ここではこの地域の成立そのものが神功皇后だ。進んで行くと社殿の両側に巨大なクスの巨木が見えてくる。樹齢2000年とされる。確かに縄文杉に漂う異様さがここにも感じる。これはかなり古い。神功皇后も見たに違いないと思えてくる。その時代とつながっている現代をどうしても感じてしまう。すごい。

2日後、神功皇后の残した石がご神体になっている糸島の鎮懐石八幡宮を訪れた。こち

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らは神功皇后が新羅征伐に出発するとき懐妊しており出産を遅らせるために二つの石を持参した、そのうちの一つの石のある八幡宮ということになっている。単なる言い伝えでなく万葉集巻五に山上憶良がこの地を訪れた時(西暦730年頃)にこの神功皇后の残した石を見て説明を記し歌を詠んでいる。この時すでにここに石があったことは疑いようがない。(写真は展示されている相当の石、本物は御神体となっていて見れない)
このほかにも福岡市周辺には神功皇后の残したとされる遺跡が幾つかあり、那珂川町にある神功皇后が新羅征伐勝利祈願の神田に水を引くため掘らせたとされる農業用水路「裂田の溝(うなで) 」は現在でも水路として使われていたりもする。神功皇后は福岡周辺では存在感の強い名前となっている。
Shichitou九州以外でも、石上神社に伝わる七支刀(国宝)は百済から神功皇后に贈られたと日本書紀にある七支刀そのものではないかとみられているようでもあり、物的証拠があちこちにあるのも神功皇后の不思議でもある。

それにしても、神功皇后とは何者なのか。古事記・日本書紀では第十四代仲哀天皇の奥方で、九州に熊襲退治に天皇とともに訪れた時に天皇が亡くなり神の啓示を受けて新羅征伐にたった、とされる。首尾よく新羅征伐に成功しこの地に戻った、というのが武功の大筋ということになる。本当だろうかと思うが倭国が新羅を攻めてこれを破り新羅から朝貢を受けるようになったという事実は朝鮮半島側の4世紀後半頃の記録にも残されているようで史実と考えてよさそうだ。それが本当に神功皇后の武功であったかは解らない。神功皇后の話が記載されている古事記は8世紀初めの書物だから古事記が書かれた段階で既に三百数十年経っていたことになり、相当に話が脚色されてしまうのはいかにもありそうな気がする。しかし古事記万葉集の時代までに言い伝えられる程の事跡を残した人物がいたのはほぼ間違いないような気もする。

古事記では神功皇后の母方の生家は出石氏であったとされているようだ。出石氏は新羅王子であった天之日矛(アメノヒコボ)が帰化した所謂渡来人を祖先とする一族とされており元を辿れば朝鮮半島につながることになる。当時の倭と朝鮮半島の三韓は血族的にも強く結びついていたようにも思える。倭と三韓は今の日本と朝鮮半島の様な切れた関係ではなかったようで神功皇后にまつわる話は少なくともそんな雰囲気の中で形作られたと思うとある種のリアリティを感じて来たりもする。

半分本当で半分作り話、そんな世界が九州で見る古代史には立ち込めているようだ。その痕跡がすぐ間近にあるという所が面白い。
それにしても、核ミサイルであれ慰安婦問題であれ北朝鮮が韓国がという話が未だに日々の話題の中で重きをなすのは、歴史的に見れば当然ということかもしれない、これからもずっとこういう立場でお互いを見つめていくのだろう。理解しあうよう努めるほかないのだろう。

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2017年12月18日 (月)

「神聖ローマ帝国 皇帝ルドルフ2世の驚異の世界展」を見る

寒くなった。寒い時には屋内を巡るに限る。
福岡市博物館の出し物が気になっていたところへ、タダ券が手に入って勇んで出かけた。
神聖ローマ帝国 皇帝ルドルフ2世の驚異の世界展 という展示だ。12月24日まで福岡で開催し来年1月9日からは渋谷Bunkamuraで、そのあとは3月21日から滋賀の佐
川美術館へと巡回するという。

西洋近代美術館のアルチンボルドの展示会の様子がテレビで何回か放映されていててっきりこれが福岡に回ってきたのかと思っていたが、まったく違っていた。

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神聖ローマ帝国の皇帝ルドルフ2世が収集した森羅万象の事物の展示で、これが思った以上に面白い。
ドライにいうとハプスブルグ家による博物学的収集の一覧ということになる。
欧州の博物学というと百科事典派というのがあった気がして調べてみると、百科全書派というのが正し
くて、18世紀フランスでフランス革命直前に編纂された百科全書の作成に関わったディドロ、ダランベール、ヴォルテール、ルソー等が該当する。しかこのルドルフ2世とは時代が200年位違うようだ。
ルドルフ2世は日本でいえば戦
国時代、高山右近と同い年というから16世紀末から17世紀初めの時代となる。大航海時代で世界中には思いもよらないものがあると認識されるに至った時代だ。
錬金術師や画家や科
学者を多く抱えケプラーの法則(惑星軌道の面積速度一定の法則)で有名なケプラーも庇護し この時代のの文化を支えた存在だったようだ。動物園や植物園まで持っていたという。首都をウイーンからプラハへ移したことでも知られ現在のプラハに流れる文化的香りを創り出したのがこの皇帝とされるようだ。

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見ていくと天体観測用のアストロラーペや精巧な細工の時計など今見ても極めて興味深いものが次々に現れる。

 

 

 



アルチンボルドの絵も面白い。
展示されているアルチンボルドによる絵は皇帝ルドルフ2世の肖像の1枚のみだ。しかし、これに似た手法で人物を描いた他の画家の絵が何点か展示されていたがアルチンボルドの方が数倍優れているのは一目瞭然だ、一枚で十分に迫力がある。

 

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これを立体にした現代作家フィリップ・ハースの作品も並べられている、こんな作家がいるというのも面白い。

アルチンボルドの、詳細な植物の描写そのものをデフォルメせずに組み合わせだけで肖像を実現するというアイディアが、結局は全ての物はほんの100くらいの元素の組み合わせからできているだけなのだ、という今では誰もが知る事実につながる道を示しているようでもある。事物の真実を突いているところに多くの人が惹かれ
続けているのかもしれない。

 

Hana



  
ブリューゲル(父)の描いた花の静物画もあってこのように花瓶に入れた花を描くやり方はこの絵が始まりだったと聞くとこんなものにも歴史があるということ自体に気が付かされる。ルドルフの植物園で咲かせていたと思われる様々な種類の花を図鑑のように丹念に描き蝶や虫がついているところまで細かく描きこまれているのにも驚く。
現代にも流れる博物学的な知識の源流がこのあたりにあったのかとも認識させられる。確かに博物館で開くのに誠にふさわしい展示だ。

幻の鳥ともいわれるドードーもルドルフ2世の動物園で飼われていたらしくその絵がサーフェリーの絵などに僅かに残されている。

Tori

全ての珍しいものを残そうとするルドルフの努力が当時評価されていたか知る由もないが今となってはタイムマシンのようにその時代の痕跡に接することができる極めて貴重な仕事をしたと思えてくる。ルドルフ2世は政治的には愚鈍な王とされていたようで最後は弟によって力ずくで退位させられている、しかし後世までその名が残ったのはルドルフ2世の方だった。そんなものなのだろう。

なかなかいい展示企画だった。ふと東北震災の花は咲くの歌を思い出していた、今は何を残せているのだろうか。

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2017年11月27日 (月)

秋月の紅葉を観に

福岡の紅葉名所をと調べると上位にあるのが秋月だ。
名のある所は行ってみるべきと出かけるタイミングを狙っていた。
見頃は10月末頃が例年らしいが今年はどうかとまた気象庁の計算式で計算してみる。朝倉の気温から高度補正して計算すると11月23日位とでる。祝日で混雑が気になるが天気も変動が激しくここを外すといい日がもうあまりない。思い切ってエイッと出かける。
エイッと出かけるのは、タイヤも新しいスタッドレスに替えたところでクルマを新しくして初めての組み合わせで様子も見たいということもある。ホイールはタイヤ屋に調べてもらうと前のレガシイB4で使っていたものがそのまま使えるようで一安心ではあった。宇都宮にいたころは中古タイヤ屋が結構あり手頃な価格で頻度を上げて変えていくというようなこともできたがこの地に来るとスタッドレスの需要も少ないようで中古タイヤ屋は少なくてそんなワザも使えず、結局新品のブリジストンのスタッドレスとなった。結構な物入りで少し長く使っていかねばとも思う。ともかく12月1月の雪日数は宇都宮(7.6日)より福岡(10.7日)の方が多いのだから福岡でも冬はスタッドレスは欠かせない。

タイヤの慣らしということもあって都市高速は速度を抑えて走り大宰府からは高速を降りて下道を走る。夏タイヤから冬タイヤへの変化はB4の時とはだいぶ違うもののすぐに慣れる、しかしなんとなく安定度はB4のほうが高い気がする。前輪の分担荷重が小さくなったのだろうか。

気になっていた駐車場は途中から道に現れてきた臨時駐車場への誘導看板に従っ

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て進むと、待つこともなく臨時駐車場にクルマを置けた。目的の秋月城跡とは尾根を挟んだ位置にあり駐車場からちょっとした登りを要するが途中に由緒のありそうな秋月八幡宮もあって面白くもある。これを越え坂を下って杉の馬場通りの終点付近に出る。さすがに人出は多い。紅葉の方は枯葉になりそうなまるまりかけの葉の木もある一方でまだ青い木もあり平均すれば見ごろという感じだ。逆光で見ると結構美しく紅葉している。紅葉見物にはやはり光の具合が大事だ。
休日だけに家族連れや若い人が多い、活気がある。
老人ばかりが目立つ平日に観光地を巡るのも考え物かもしれない。
黒門から垂裕神社の参道を上がる。確かに紅葉はいいが参道を外れると紅葉はまばらだ。マッシブな紅葉を求めてはやや物足りないことになる。背後の山にも紅葉は見えず、九州らしい人手で作られた紅葉風景ともいえるのかもしれない。

もともとは秀吉の九州征伐に抵抗して敗れ石高を5分の1くらいにまで縮小された上で高鍋に移封された秋月氏の城だった、その高鍋秋月氏からはあの上杉鷹山を輩出した、ケネディが大統領に就任した時に記者に問われて最も尊敬する日本人の名として挙げた人物だ。秋月の城は江戸時代は黒田藩の城として使われ明治に廃された後は垂裕神社となった、神社建設には高鍋秋月氏の旧家臣が中心となった、という歴史がある。思いがこもった場所というところが、また感じさせる何かを放っているようではある。

来た道を登り返して駐車場に戻る。紅葉としてはまずまずかなと自宅へ向けて走り始めるとやや進んだところで右手に少し変わった形の古墳が見えてくる。時間も十分あるので寄ってみる。何しろ朝倉は邪馬台国があったともされる場所だ、古墳はすべからく興味を引く。

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仙道古墳という円形の古墳だ。2段になっていて周りに円筒埴輪がずらりと並べてある。玄室入り口には鉄の扉があってカギがかかっている。装飾古墳になっているようで近くには石室の現寸大の復元模型が展示してありどのように絵が描かれているかがわかる。丸や三角が描かれていてまじないのようだ。
大型の円墳で装飾古墳でありまた数多く発掘された円筒形の埴輪は人が盾を持ったものなどの具象的な形を持つ九州地方には少ない形象埴輪であることなどから

Kofuna

国の史跡に指定されているということらしい、立派に整備されている。
邪馬台国の時代の古墳ではないが昔から人が住み続けている土地であることには違いなさそうだ。

一体この地は日本の歴史にどうかかわり続けて現在に至ったのだろうか、バラバラの時代の痕跡が繋がっていかないのがどうにももどかしい。しかし考えてみれば自分の立っている地面はどこにしろ途方もなく長い歴史を抱えていてその具体的な時間の流れは知る由もない。そんなものなのだろう。

全てを受け入れて今を存分に生きる、それしかない、また思ってしまった。

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2017年10月29日 (日)

希望の党が


とんでもない劇場となった衆議院選挙も終わり、少し落ち着いてきた。
希望の党の失速のタイミングは色々言われるが 個人的な心の内では公示当日午後に

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なってやっと明らかになった九州ブロックの比例名簿順を見た時だった。単独1位が中山成彬になっている。まさかと思ってしまった。南京事件は無かったなどと公言する右翼政治家だ。その他あまりの発言に自民党ですら除名に至った人物だ。希望の党というか小池百合子の本音はこういう人を大事にして比例一位で必ず通すというところにあったのかと悟ってしまった。佐賀の原口さんが中山の比例単独一位を知りこんな人とは一緒にやれないと無所属出馬を選択したのはよく理解ができる、普通の人ならそうだろう。

健全な中道が必要だ、それが多くの人の望みだったような気がする、その受け皿が希望の党かとの期待感がいっときあった、本当にそうなら選挙結果は大きく違っただろう。しかしそうでは無かった。排除さらさらの発言も中山の比例一位も同じ根から出ていてその根をつまびらかにしないまま風を起こそうとしたが出来なかった、そう甘くは無かったということだろう。このままなら希望の党に未来は無いように思える。

こんな風な結果が選挙で出てくるのを見ると日本の民主主義もなかなかのものだ。

週末はまた台風だ、今年の紅葉はどうなのだろうか。

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2017年10月28日 (土)

今更のように古事記を読む

古事記を読んでみた。勿論口語訳版だ。原文は漢文に万葉仮名が混ざったとっつきにくい文章だ。しかし古代の歴史をみていくとどうしてもここに行き当たる。

通読してみるとそうかというところがいくつかある。まずはオオクニヌシの位置づけだ。ニニギノミコトが天孫降臨する前にスサノウが地上-出雲-に降りておりその孫として

Kougokojiki

オオクニヌシが広く葦原(つまり地上世界)を支配をしていた。それが気に入らないアマテラスはオオクニヌシに支配を終わらせることを同意させたうえで孫を高千穂の峰に降臨させた、という筋書きだ。
オオクニヌシの子は出雲から信濃まで逃げて諏訪神社にとどまることを条件に成敗をまぬかれた。
確かに諏訪神社にはいけにえの風習が後の世まで長く残り、他の神社とは異なる原始の荒々しさが今でも感じられる、単なる神社ではない。
出雲も何かの雰囲気が今も残っているのかもしれない、一度行ってみなくてはならない、そう思えてくる。

要するにニニギノミコトが初めて地上に降り立ったわけでも何でもない。現在の天皇家の直系がそこにあると示しているだけで、諏訪はそれ以前の支配者の流れを汲み続けていることをはっきり示しているようでもある。そういうことか。

ニニギノミコトの子が海幸彦山幸彦であり山幸彦の孫が神武天皇であって九州から瀬戸内海伝いに東征する話が書かれている。何故ニニギが天下ったのは出雲ではなかったのか。
明らかに出雲にもアマテラスのいる高天の原とつながるルートがあってスサノウは島根と鳥取の境にある斐伊川に高天の原から降りてそこでヤマタノオロチを退治することになっている。もっとも日本書紀ではこの時スサノウは新羅に天下ってそこから船で斐伊川に行ったと記述してあるから、神話だけあってぼけた話にはなっているようだ。とにかくニニギが出雲に直接天下らない訳があったように思える。

読んでいくと、やたらと「まぐあい」だの「ほとを突く」だのと現代の視点からは猥雑な表現が出てくるし、争いでは残忍に切り殺す表現がたくさん出てくる。国の正式な歴史書物にしてはどうかなと思ってしまう。

神武東征のところは思いのほかあっさりしている。日向から北上して宇佐へいき西に向かって岡田宮に1.5年、東へ向かって安芸の国タケリに7年、更に東に行き吉備の国高島に8年いて、明石から大阪湾を横切り和歌山あたりに至った。陸地からは抵抗が激しく海路で巡ったとの話になっている。要するに海路のみで東へ向かっている。
近畿に王朝が出来てからは纏向の字がたびたび出てくる、纏向遺跡が立派なのは当たり前と思える。邪馬台国論争で証拠のように纏向があげられるのはなんだかおかしい気もする。

古事記の記述がしつこく書いているのは当時の氏(豪族)の先祖がどうつながっているかのあたりだ、人名あるいは神の名前は煩雑と思えるほどだがそれが古事記の中核のようにも思えてくる、しっかり伝えている。地名のいわれもしつこい。
これらをつなげた話が長い時間を経て形造られてきて稗田阿礼の伝承となったと考えるのがそれらしい。
つまり当時いた天皇をはじめとする有力な豪族の所以・正当性を記したのが古事記ということになるのだろう。しかしすべてを創作するのは却って大変な作業になる、事実の歴史も深く織り込まれているとも考えざるを得ないように思われる。

古事記が作られた時の天皇家はどこからきたのかそれを記したのが古事記であるとするとどこらあたりまでが史実に近いのだろうか。

記述の細かさから少なくとも大和盆地には宇陀から(東から)入ったとするのは本当らしそうだ。当時の文化の流れからは明らかに西から東だから、東から大和に入ったがもとは西から来たのだ、と東征伝説でこと更に言いたかったのかもしれない。
更にそのもとはどこにいたか、紆余曲折があったとしても結局は幾つかのルートによる弥生文化の大陸からの伝来、弥生人の侵入というところに辿り着くということになるのだろう。
普通に考えてその遥かな記憶の正当化が国生み・天孫降臨神話になったのだろうしそう思って古事記の神代紀を読むとおかしくはない、どういう伝説であれそう言い方もあるかと思える。

なんとなく全体の感じは解った。古事記は歴史書としてではなく やはり最も古い日本文学として読むものなのかもしれない、そんな風に思えている。

こうして気になっていることを一つ一つ潰すようにして過ごしていく、これも悪くはない日々だ。

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2017年10月27日 (金)

リンゴ北紅の物語が

少し前になるが、台風21号が接近するというので雨が続き一日のほとんどを家に居てゴロゴロとテレビを見るという日々があった。

Missveedol

何かの拍子で見始めた番組で、戦前、青森県三沢の淋代海岸から飛び立った2人の米国-PangbornとHerndonによる初の太平洋横断飛行の話を流していた。
三沢の人々の離陸に際しての献身的な努力のお陰もあり、飛行は見事成功して機体のMissVeedol
号はワシントン州のウェナッチに胴体着陸した、パイロットが青森から運んだのは三沢産の5個のリンゴ(紅玉)だった。これがウェナッチの人々に感銘を与えた。リンドバークの大西洋横断から4年後の1931年のことだ。
ウェナッチは全米1のリンゴの産地でこの記念のリンゴは大事にアルコール保存され翌年には青森に返礼としてリンゴ苗木-リチャードデリシャス5本が贈呈された。リチャードデリシャスは評判となり、苗木は日本で一気に広まって最初の5本から枝分かれした接ぎ木は9年で1万本を越えるまでになったという。
日米戦争で交流は途絶えたが飛行50年後の1981年、ウェナッチ市と三沢市は姉妹都市になった。

その後この話はどうなったか、実にこのリチャードデリシャスと紅玉の両方の遺伝子を受け継ぐ北紅(きたくれない)という品種のリンゴが青森で生まれているという。

今から思い返せばどこまでがテレビ放送でどこからがネットで得た情報か解らなくなったが、ともかく86年前の偉業による交流の証が今新しい品種のリンゴとして売られている、というところにどうしようもなく胸に響くものを感じる。これは是非取り寄せてみなければならない、即座にそう思った。味わってみたい。

Kitakurenai1


北紅の銘柄指定で青森からネットで3kg取り寄せる。こんなことにはネットはすこぶる便利だ。4-5日して8個の大玉の見事な北紅が届いた。甘さといい適度な酸味といいしっかりとした歯ごたえといい、これは素晴らしい。蜜もたっぷり入っている。そしてここには初の太平洋横断飛行にまつわる思いが文字通り込められている。

こんな物語に満ちた世界に行き当たるとぼんやりテレビを見て過ごす日々があっても、それも貴重な日々であることに違いは無いと思い至る。ただ生きているだけでこの世は十分に面白い。

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