2023年5月30日 (火)

古代エジプト美術館展を見てエジプトの謎を感じる

古代エジプト美術館展というのが福岡アジア美術館で開かれていてもう終わりそうなので一週間前位に見に行った。美術展ではなく美術館展というとおり渋谷の古代エジプト美術館の収蔵品の展示という形だ。ほんとなら今頃はエジプト・トルコツアーに出ていたはずだが、随分高いのもあって申し込んだものの何もこんな円安の時にと思い直してキャンセルした、その記憶がまだ新しく、エジプトとあると見ておきたくなる。
クルマをリバレインの地下駐車場に入れる、ちょっと厄介な駐車場だ、久し振りだ。エレベータで7階まで上がって入場券を買うのだがここはキャッシュレスにとスマホで掲示されたページへアクセスして進めていた、しかし入力に要求される項目が多く小さいスマホからの入力が押し間違いばかりとなって遂にあきらめてキャッシュを払って入場した、カード払いもできない。勿論放送大学の割引が効いて学生料金で割安なのだが、何でEgypt0230522 現金のみ?、何だかなあと感じてしまう、頭の固い人がやっている美術館の気がしてくる。
展示は小さなものがいろいろ並べてあり紀元前35世紀位のもの(添付左)からあるが、大半は紀元前10世紀位の様だ、見ていくとどうも出土年代表示がきっちりしない感じがする。時代を追った展示にもなっていないのでちょっと見にくい。出土状態から年代を読むことができにくく、同位炭素で測れるような木製も少なくて、デザインにも大きな違いないため年代決定が難しいのかEgypt1230522 と想像してしまう。展示の中で引っかかるのはハヤブサだ(添付右及び左下)。鳥の中でもハヤブサに特別の意味を込めていたのが伝わってくる。もっと大きな猛禽ではなく何故ハヤブサなのか、いくら考えても分からない。チャットGPに聞いてみても「他の大型の猛禽には同じような特別な地位が与えられなかった理由は、具体的にははっきりしていません。」とあっさりで、解らない。
象形文字も非常に長い間同じ様な表記で引き継がれているようだ、何だか進歩が意図的に止められていた社会のような気もしてくる。それは何故なのか。
やはりエジプトは謎だ。円安も終わったころにでも元気が残っていればやはり行くべきところの様なEgypt2230522 気がしてきている。この世のすべてを見ることは不可能とはわかっていても。

 

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2023年5月27日 (土)

九州国立博物館のアールヌーボーガラス展を見る 

欧州のガラス工芸の源流、紀元前14世紀のエジプトのコアガラスの手法で作られた脚杯(左下図)から始まるガラス工芸の展示がアールヌーボーガラス展とKoaglass0501a銘打って九州国立博物館で開催されているというので、5月の初めに見に行った。この時代にこんなものまで、と思うほどに古くからガラス細工の工芸がエジプト・中東・欧州で作り続けられてきているのに驚かされる。現代でも通用しそうな装飾も2000年前には作られている(右下図)。見ていくとこの長い歴史の上に19世紀末から20世紀初頭のアールヌーボーの時期にエミールガレやドーム兄弟による燦然たるガラス作品が生み出されてきたというその流れが理解できる、そういうことだったんだとの感がある。更にあのパリコミューンを生むことに至った普仏戦争によりガレやドーム兄弟の故郷の地はドイツに奪われるが却ってそれが彼らの作品Koaglass0501bを生み続ける強い意志をもたらすことにもなっている、驚くべき歴史だ。そんな戦争に明け暮れた欧州の雰囲気が今のウクライナ戦争にも漂っているところが見えてきて現代的な問題につながっているように感じられるのも面白い。

さてエミールガレだ。ガラス工芸の技の極致を駆使してガレは表現しているように見える、半端でない。ジャポニズムにも傾倒し伊万里焼風の作品もいくつか残している。昆虫や草花をデザインに取り入れることで他には見られない作品群(例えば左下図)を残してもいる、多才だ、圧倒的だ。
Irisbud0501g1a ーム兄弟の方はガレとは違って大衆化の道を進めたように見えてしまう、芸術性より日常使いの美しいガラス器を多く生み出しているように見える。それにしてもなかなかの展示だ。

見終わって、ベネチアがガラス工芸を誇り薩摩が切子を生んだ歴史の展開がやっと少し腑に落ちた気がした、そこには強いアイデンティティへの意志があったのだ、見るべきものは見るように努めねば、そう思う日々だ。

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2023年5月25日 (木)

福岡市美術館でミュシャ展を見てジャポニズムを感じる

5月は少し気になる展示がいくつもあって、見なくっちゃと思っているうちに会期末が迫ってくる、今日は最後の福岡市美術館で開かれているミュシャ展を何とか見に行った。今回の展示は膨大なミュシャ作品を所有するチェコのチマル博士のコレクションから厳選したものの巡回展という。
ミュシャというとクリムトの頃の画家というくらいの時代認識しかなかった、確かにそうだがクリムトとは道が少し違ったようだ。年代を追うと、ミュシャは挿絵で生業を立てつつMyusyaa1 あった頃の1894年、女優サラベルナールを描いたポスター「ジスモンダ」で一気ににそのスタイルを確立してブレークしている。展示されている「ジスモンダ」を見るとその太い外形線にはどうしても日本の浮世絵の影響を感じてしまう(左図)。ついこの間九州国立博物館のガレ展で見たエミール・ガレのこの頃のガラス作品にも日本の伊万里焼の影響が濃い作品が展示されていたのを思い出した(右下図)。ジャポニズムという当時の文化的風潮が新しい芸術運動の核心部にあったことをあらわしているように思えてしまう。アールヌーボーの時代とはそういうことだったのだ。
ミュシャの作品の多くはリトグラフで印刷されたものだが、19世紀末から20世紀初めの時代にこれほどカラフルな印刷物が世間に流通していたことにも驚きを覚える、ハーフトーンを含めて発色がよく今の時代にも退色していない。
絵画を芸術という象牙の塔から広くあらゆるところに解放していく、そういう動きを切り開いていったミュシャという人、多才Galleimari という言葉だけではとてもカバーできない大きなインパクトを後世に与えているようだ。見れてよかった。

生きていて見れること感じれることには限りがある、でも、見たいものは見、知りたいことは知り、水のように自由な時間を過ごしていきたい、そればかりを思うこの頃だ。

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2023年4月27日 (木)

突然スマホが変調して民主主義の崩れていく様を感じる

突然スマホのスグ電が機能しなくなり更に電話に出るのが随分と出にくくなり、こわれたかとドコモショップに相談に行った。あれこれやりとりして結局こんなもんだというような回答でもう少し使ってみてくださいとあり、ちっとも改善されない。もう一か月半になる。かかってきた電話がまともにすぐには出られない状態が続いた。ところが今日になってまた突然に電話がすぐ受けられるようになってスグ電機能も一応回復した。自分で何をしたということもないので恐らくドコモ側がソフトのどこかをいじったのが波及したのではないかと想像している。使っているスマホは富士通のF-05Jという機種だ。2018年から使っているのでもはや古いと言われればそうだがそうポンポン買い替えねばならないとしたらそれも問題のようにも思う、生活の基本インフラになりつつあるスマホだ。更にはアップルとグーグルという2つの私企業にスマホのOS全てが握られているというのも異様といえば異様な世界だ、民主主義のかけらもない。とても優しいといえる仕組みではないしそれを変えようとするでもない社会を我々は選びつつあるような気がしてくる。


ウクライナにしろこんなことにしろ、民主主義の壊れていく様を眼前に眺めることができる貴重な時代に我々は生きているのかもしれない、じっくり眺めねば。

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2023年4月23日 (日)

武蔵寺の藤に漂う歴史を感じる

今年は花が早くてもうあちこちで藤が見ごろというので、自宅から近い藤の名所に訪れてみた、武蔵寺という天拝山の登り口にあるお寺だ。ぶぞうじと読むこの寺の名前の由緒は天台宗の寺ではあるが東国武蔵國から来た日蓮宗の僧が寺を再興して名付けたとの説が江戸時代の筑前国続風土記に紹介されている様だ、古くからの名刹の名前をそう簡単に変えるものなのかどうにもしっくりこない、一時期廃寺状態だったものを鎌倉時代に全く別の寺の形で再興したのかとも推察される。そもそもの創建は7世紀後半、藤原虎麿というこの地の豪族がツバキの木で薬師如来を彫って本尊としたのが始まりとされるようだ(紙本著色武蔵寺縁起(福岡県指定有形文化財))。名物となっている藤は藤原虎麿が亡くなる前に植えた藤が現在に至ったということの様だが、樹齢1300年以上ということなのか、或いは飛梅のようにひこばえを育てて継いでいったものなのか、はたまた今あるのは別の藤なのか、これもよくはわからない。九州最古の仏跡とのふれこみもあるが近くの観世音寺や戒壇院の方が古そうでもあり、そこらあたりの関係もよくわからない。藤原虎麿の系譜や位置づけがはっきりしないこともあって、ぼやけた古代のイメージがあたりに漂う。邪馬台国もそうだが九州の古代はこのぼやけたところが本当はこっちかもしれないと、かえって真実味があって面白くもある。
ともかく藤だ。1mを超えるような長い藤の花という紹介もネットにあるが訪れてみると普通の藤の感じでとりわけ長さを強調するほどでもない。足利フラワーパークのような驚くばかりの藤では全くないが、長い時を経て引き継がれてきた歴史が護られている、という事実の重みだけで十分の様な気がする。いい藤だ。

天気のいい爽やかな日はこんなのどかな散策そのものが楽しい。
写真は 武蔵寺の藤、武蔵寺入り口、藤原虎麿の像(天拝山公園)

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2023年3月 8日 (水)

九大の博物館に行ってみる

福岡にはあの有名な漢委奴国王の金印を有する市立博物館はあれど、この地の植物や動物、地質などを展示した普通の博物館がないのに怪訝な思いがして、ネットを探っていくと、九大の総合研究博物館というのが箱崎の跡地(箱崎サテライト)に整備されつつあって一部は常設室に展示されているとわかり、建物も面白そうなので出かけてみることにした。この地では自然に対する感覚が関東や東北とはだいぶ違うというのが根本的原因かもしれない、ここでは人の手がベタベタに入った山が普通という感じだ。
ホームページがあるので見ると一般の来訪者は駐車できない、近隣のコインパークにとめてくださいとある、ちょっと厄介だがしょうがない。ネットで探すと少し歩くがタKyuudai-ato1 イムズ駐車場があるのでここを目指して出発する。ナビの指示で走るがナビがいい道を示さない、こんなことは珍しい、到着目的地がごちゃごちゃしたところとなるせいだろうか。混んではいたがとにかくたどり着く。クルマを入れて結構歩いて門の守衛のところで入門手続きをするが、聞い てみるとクルマは普通の人でもここに止められますという、サイトのページでそうあるのはもしいっぱいで止められないと困るからそう書いているのかもしれないという。あんまり来てほしくない気持ちがにじんでいるのだろうか。素直ではない。
糸島への移転で元の九大の建物は殆ど壊され、残された建物は赤レンガの建物とどっしりした如何にも大学という旧工学部本館の建物位だ。博物Kyuudai-ato2館となるのはこのどっしりした方で1930年の建造らしい。中に入ると1階の廊下にアンモナイトや鉱石標本などが置かれていてそれらしい。3階の展示室に上がる。広くはないが興味深いものが色々置いてある。例えば福岡市の中心を南北に走る警固断層の剥ぎ取り断面だ、確かにくっきりした断層で1万6千年位の周期で動いてきたようだ、そろそろ怪しい時期で警戒されているのだろう。その他縄文人から侵入してきた弥生人への移り変わりの骨の標本なども展示されていて興味を引く。植物系の展示は見当たらないが本格的に開館する2027年までには色々工夫されるのだろう。

それにしても取り壊されて出来た広い跡地には何ができるのだろうか、動き続ける福岡という街がまた面白い。

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2022年11月30日 (水)

川端の自殺を扱った小説「事故のてんまつ」を読んでみる

三島由紀夫が市ヶ谷で割腹自殺してこの25日で52年になった。そんなこともあるのかWowowで「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」という2020年につくられたドキュメント映画が放映されたりしていた。もうそんなに時が過ぎ去ったのかと思う、その場に観客としていた当時のことを思い出しなJikonotenmatu がら見ていたが、そういえば三島と川端康成は三島が学生の頃川端のところへ押しかけて以来師弟のような間柄で交際が続いていた、川端の自殺は何だったんだろうか、と思い至った。少し調べると川端の自殺に至った経緯を 事故のてんまつ という小説にして臼井吉見が書いている、と引っかかる。言われてみれば 事故のてんまつ の名前は薄っすら記憶にある。市の図書館の蔵書を調べると借り出せることが分かって早速借り出して読んでいた。この小説の主人公となる語り手は安曇野の植木屋の娘縫子(仮名)で川端に見込まれてお手伝いさんとして川端家に6か月の約束で出向いていた。川端は縫子を運転手として重宝に使っていて手放したがらなかったが縫子は嫌で延長をきっぱり断った、落胆した川端はその日の夕方に自殺している。殆どが事実のように書かれていて主人公の縫子やその周りの人は仮名だが川端など名の知れた人はすべて実名で登場してくる。何で臼井吉見がこんな小説を、と思うが調べると臼井は安曇野の出身で、安曇野をめぐる事件に並々ならぬ関心を寄せたものと思われる。もしかしたら件の植木屋も縫子も知っていたのかもしれない。あとがきには貴重な資料を得たことが執筆のきっかけと書いていて、縫子から日記のようなものを渡されたことをにおわせているが、どこまでが真実かわからない。
日付を逆に追っていくと

1972年(昭和47年)4月16日に川端康成自殺
1971年11月* 縫子、6か月間の約束でお手伝いとして川端家に来る(1972年4月一杯までの約束とみられる)
1971年(昭和46年)4月11日に投開票された東京都知事選挙で川端は美濃部に対抗する秦野を支援、応援演説も行っている。
1971年(昭和46年)1月24日、川端は築地本願寺で行われた三島由紀夫葬儀・告別式の葬儀委員長を務める
1970年(昭和45年)11月25日 三島由紀夫割腹自殺、直後川端現場を訪れる
1970年(昭和45年)5月12日 川端とその誘いで東山魁夷、井上靖 の3巨頭が、安曇野を訪れる。この時に件の植木屋に寄ったと事故のてんまつに記されている。

1969年(昭和45年)5月13日 東大駒場キャンパスの900番教室 三島由紀夫vs全共闘の討論

1968年(昭和43年)10月17日、川端の日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定した。

(* wikipediaの記述では縫子が川端家にお手伝いとして行ったのは1970年11月からとあるが、1971年の間違いと思われる。事故のてんまつの記載でも3巨頭の安曇野訪問の同じ年に川端家に行ったことになっているが、都知事選挙の後とも書いており、事故のてんまつの日付の記載もおかしなところがある。全体を整合的に見るなら1971年としか考えられない。)

結局川端の自死と三島の自死との関連は解らない。三島葬儀の後に行われた都議選でも急に秦野の応援演説を引き受けるなど、それまでの行動よりも政治的な動きになっていたようにも感じられるが自死までに至るとは考えにくいような気がする。お気に入りのお手伝いさんが延長依頼を拒絶した件は直接の引き金になった可能性があるようにも思えるが、底流に死に向かうものがあったればこそ、の感がする。それは何だったのだろうか


やはり自殺の理由はわからないというしか言いようがない、そう思えてしかたがない。

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2022年11月23日 (水)

コロナの旅行支援で姫路/山陰をめぐる

コロナの旅行支援があるのでせっかくだからと、1泊2日の旅行社ツアーで姫路城/鳥取砂丘/足立美術館/出雲大社を巡る旅に参加してみた。山陰は自分で旅程を組むにはちょっと面倒なところがあって、丁度いいかという感じがあった。ルートを調べるとこの3月に姫路から中国道までの高速道が開通し姫路城を見た後鳥取砂丘に回Kippu1 るコースが1日で回れるようになっ て実現したツアーのように思える。
8時10分の集合時刻に合わせて博多駅に行くと40人くらいいる、結構多い、女性が多い感じもする。集合場所で新幹線の切符が渡されるかと思いきや指定座席のシート番号が書かれたメモ紙が渡され入場は改札口の横の仕切りを開けてもらって団体で一斉に入る形となるHimejijyo 、普通の改札はな い。切符もないこんなんで大丈夫かと思うがいつもこうのようだ。2時間半くらいで姫路到着だから遠いというほどではない。観光バスで11時30分ころ姫路城につく、懸念した通り昼食が問題だった。昼食は付いておらず2時間の城内観光の時間内で各々昼食をとる必要があるが城内は食事禁止でひとまわりした後お堀の外に並ぶ土産物兼食事の店まで戻って食べるほかない、結構混んでいて、バス出発時間が際どい。しょうがないので店の前で売っているおでんを買って近くのベンチを探してここで昼食を済ませる。バスの中もコロナ対策で食事は禁止となっている。コロナ時代の旅はやはり少々面倒だ。
2時間半ほどバスに揺られて鳥取砂丘に4時前に着く。日没は4時55分ころだ。砂山の肩のところまで歩いて登って海を眺める。風は弱く砂が靴に入ることもない。Sakyu このくらいの砂丘なら日本の各所にありそうな気もしてくる、大抵は松を植えたりして砂をコントロールしているがここはそれをあきらめたに過ぎないような気がする。福岡の海の中道も剥ぎとれば大砂丘なのだろう。でも夕日の景色はいい、夕日の頃にここにつくように設定されたプランはさすがと思わせる。ここにきたら砂の美術館も行くべきところのように思えてくるが時間がきついお仕着せのツアー故今回は行けない、そこまでは無理だ、しょうがない。
大山のふもとの宿に一泊する。大きな建物でツアー客が多い。コロナ真っ盛りの時はどうしのいだのだろう、やっと一息つけた雰囲気がひしひし伝わる。もらった一人3000円のクーポン券は鳥取県内でしか使えない、このホテルで半分と次の日の朝一番で行く土産物屋で残り半分を使う。とにかくこの地の経済を回すことにお役に立てた心地がして悪くない。
Teien 続いて安来の足立美術館に寄る。足立といっても足立区とは何の関係もない。足立全康という名の安来出身の事業家・蒐集家が1970年に創設した大きなスケールの美術館で横山大観の豊富なコレクションと広い日本庭園が(国際的にも)立派として知られる。団体客を多く受け入れるだけのキャパシティーがあり、この日も平日ながら結構な混みようだ。すこぶる個人的な印象としてはフーンという感じで、感動というほどのものは感じない、でもこういう施設は個人が作ったものにせよ島根にとってはかけがえのないものとなっていることをどうしても感じる。こんな美術館はここにしかない、よくぞ創った。
出雲大社に行く。このツアーの訪問地としてはここが最後だ。本殿に向かって参ったが本殿はよく見えない、見るということにはあまり向いていない建造物のようだ。また昼にかかるがオプションの昼膳を頼んでIzumotaisya いたのでランチは何とかなった。食べ終わって歴史博物館へ急ぐ。圧巻は荒神谷から出土した銅剣365本だった、全てをこれでもかと展示してある。加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸もすぐそばに展示してある。何故これほどの量がここにとどうしても思ってしまう。古代史における出雲の位置づけがまだまだ不十分なのを感じる。
あわただしく駆け抜けてバスは広島に向かう。途中の休憩は三次ワイナリーDouken だったがインターのそばのトイレ休憩に向く施設として存在しているのも面白い、次々に観光バスがやってくる。勿論ワインも大サービスの試飲が効いて次々に売れていく、巧みなビジネスだ。
余裕で広島駅に到着、やや持て余した時間をスタバで過ごす。夕食は予約していた駅弁となるが勿論新幹線内は食事可能でのんびりとくつろぐ。
あわただしい旅ではあったが、この時代の旅行を取り巻くビジネスの有様があちこちで面白くも見られたのが印象的だった。コロナが8波でやってきてもこれは何としても凌がねばならない、そんなことを思っていた。

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2022年11月11日 (金)

事物の連鎖による理解

このところぼんやりと時の流れるままに過ごしているが、一つ一つの事象がつながって見えたりする時があって面白い。今は平野啓一郎だ。

図書館から何かの拍子で借り出していた平野啓一郎の芥川賞作品「日蝕」の返却期限が迫り急いで読む、ということが最近あった。読み始めると、15世紀末のヨーロッパが舞台となっていてそれをルビ付きの旧漢字がちNissyoku1 りばめられている見たことのない文体で書かれている。よく書かれていて学生が書いたものとはとても思えない。結構面白い。確かに才能がある。読み始めて直ぐは、文体のこれみよがしのようなひけらかしは気に入らない、と思うが読み進むとすぐに慣れて、中世の終わりルネサンスの始まりの時代の雰囲気が感じられるようにもなってくる。結構すらすらと読める。それにしても何故こんな作品を書くに至ったのかが伝わっては来ない。錬金術への興味からか。両性具有者を登場させる背景?。解らないまま読み終える。

数日後三島由紀夫vs全共闘のドキュメント映画をWowowで流しているので見ていると平野啓一郎が解説のような立場で出てくる、もちろん現代の、過去を振りかえっMisima1 て解説する立場だ。三島由紀夫の再来というキャッチフレーズがまだ有効なのだろうか。認識論の討論のようになっている場面で、こんな議論に強いということだろうか、そんなものかと見ているが今一つしっくりこない。今や遠くに過ぎ去った過去だが、今現在の時代の有り様に違う次元から関わってきている事件ととらえるべきなのかもしれない。

更に通日後、九州国立博物館で開かれているポンペイPonpei1 展を見る。数多くの発掘品の中に裸体の彫像もいくつかある、両性具有者ではないが男性器の誇示を感じる。現代とは何か感じ方が違うようだ。そしてその晩にはリアルな世界で皆既月食が出現する。 何だか「日蝕」の扱っていたキリスト教以前の世界とつながる錬金術のあやしい世界の雰囲気を感じてしまう。
ポンペイには今から見ても現代的とみえる生活の痕跡がリアルに残されている、中世の時代の人がこれを見たらどう思っただろうか。ポンペイ遺跡の発見は18世紀とされるが痕跡の一部は中世からルネサンス期にもみつけられていたのではなかろうか。それらが錬金術のようなキリスト教世界とGessyoku1 は違う認識体系を支えたのではなかろうか。

幾つかの疑問は解けないままだが、偶然につながって表れてきた時空が、感覚としてそうかもしれないという雰囲気を伝えてくれるような気がしている。事物の理解は連鎖の中にあるのだろう。

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2022年10月16日 (日)

コスモスを平原遺跡に見る

数日前のことになるが、朝食後コスモス見に行こうと思い立ち出かけることにした、この頃は思いつくように出かけることが多い。場所は遠賀川河畔が面白そうだがネットで見るとまだあまり咲いてない様なので、糸島の平原古墳にした、ここも今どのくらい咲いているか判然としないが、期待外れでも帰りに今津に久しぶりに鳥見に寄ればそれもいい。10時半前に出発。近くのセブンでおにぎりなど仕入れる。ルートは高速は使わず下道で日向峠を越えていく。ニニギノミコトはここのすぐ北のくしふる山に天下ったという古事記の読み方があるというがそれでもおかしくはない気もする、鹿児島や宮崎の高千穂ではちょっと苦しい がここなら古事記の言うように韓国(からくに)に対しているといっておかしくない。大和朝廷の元は朝鮮半島から来たというのは多分そうなのだろうから。
 ナビに従って道を平原遺跡に曲がりこむとそこに先ほど追いCosmos1 抜いて行った白バイが止まっている、どうやら表の通りを走る速度違反車をここから追いかけて捕まえようとしているようだ。色々苦労している。平原遺跡の駐車場にとめて、歩いていくとコスモスは7-8分咲きでほぼ見ごろだ、なかなかいい。のんびり散策しておにぎりを食べる。ここは魏志倭人伝に記された伊都国の中心部だ、まだ大和朝廷の古墳文化には染められておらず、平地の王募から数多くの大型銅鏡が出土し全てが国宝になっている。この辺りが日本が日本とCosmos2 して出来始めていった現場なのだろう。古代から流れくるものがまだ漂っている気がする。写真を撮ったりゴロゴロして今津へ向かう。
玄洋高校の横に駐車して少し歩くが鳥が少ない、モズとサギくらいで二つ池にも何もいない。ぐるりと回って堤防のところにクルマをとめ河口を見ると満潮だ、チドリ類もまるでいない、手前の川にカルガモの群れがいたり、ウミネコが1羽、それにアオサギの群れが飛んでいく程度だ。畑の方にも行ってみるが少ない。あきらめて帰る。こんなこともある。
でも、思いついて動いたにしては上出来の気がしている、秋は咲き乱れるコスモスを見るのにも、古い時代から流れてきている時を感じるのにもいい季節だ。

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