2011年9月25日 (日)

渡良瀬遊水地にて

台風15号が駆け抜けてあちこち水浸しになった。宇都宮は台風の目が通りそうだったが僅かに西にずれて目 の中のつかの間の穏やかさは味わえないままに去って行った。これまで自分の頭上に目が通ったことは数回くらいはあったような気がしているがはっきり思い出せない、内陸にくるまで眼がしっかりしている台風もそうは無いような気もしている。何しろ台風の渦巻きのエネルギーは暖かい海から供給され続けなければたちまち弱まる。
台風一過一日置いてもう大丈夫かと渡良瀬遊水地に出かけた。殆ど思い付きだ、何が目当てというわけでもない、動けば何かには行き当たるだろう、動いていたほうが面白い、それくらいの思いだ。一応ネットで遊水地立ち入り禁止のお知らせはないことを確認して出かけたが、湿地資料館に立ち寄ると、声の大きな館の人が水浸しでとても入れない、朝からヘリコプターで繰り返し流していたよという。ちょっと圧倒されてしまうがとにかく様子を見ようと北エントランスまで行ってみる、確かにクルマははいれないようになっている。土手に上がると、水は思ったほどでもない、少なくも道は見えているし人も少しばかり見える、入っても大丈夫だろうかと車止めのしてある道を少し下って恐る恐る写真を撮っていると、こんなところではよく撮れないでしょう、中を歩いてもしかられませんよ、と後ろから声がかかる、振り向けばのんびりとイヌを連れた男性が散歩の風情だ。
従うように 降りていく、道端にまで水は来ているが大したことはない。これは滅多に見ない景色だ、とにかく見る、見ることだけだ。鳥といってもホオジロがたまに飛び出してくる位Wataraseで静かなものだ。他にはオオヨシキリが1声2声、コジュケイが突然現れる、ツバメが少しずつとびかうようになる、カワラヒワが数羽で横切る、トビが2羽ソアリングを始める、それくらいであとはカラスの天下だ。シギが現れるわけでもない。
葦は随分荒れた感じで雑草も多い、今年は地震のせいもあって3月の野焼きをやらずじまいになってしまったという、そのせいだろう、自然の力がひたひたと広がっているようだ。歩いていると時々人に会う、横浜から来たという若い男性に 草原に入れる所はありますか、と聞かれて答えにつまってしまう、解らないことを聞く人もあるものだ、草原とは目の前に広がるこの風景のことだろうか、水浸しは見えている、いつもなら適当に入るところはあるのですがこの有様ではといい加減に応えると解ったように別の方向へ歩いていく。いろんな人がいる。大分歩いたつもりでも広い遊水地ではいくらもいけない、いい加減なところで引き返す。なんとなく生きているとはこんなことだな、と思い始める、茫洋としたところを訳も無く歩いていく、時々不思議な人に出会う、また歩く。悪くない。

台風は台風らしい暴れ方をして秋を残すように去っていった。雲が大分高くなったようだ、山には雪が降り冬がすこしずつ近づき季節はゆるやかに転がる。

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2011年8月 8日 (月)

出口が見えない

節電対策で6月末以来このところ木金休みで土日出社が続いているがまだなじめない。月火水にだけ仕事をしているような気分になる。1週間があっという間に過ぎる。

日本の政治状況もめちゃくちゃだがアメリカの状況もおかしくなっている、同期しているように思えるのは何か根本的な意味があるのだろうか。

先月米国連邦議会では連邦航空局(FAA)の事業継続予算法案を予算切れの期限までに成立させることが出来ず流してしまった、米国は個別に議会が予算を提案・承認する。FAAは運転資金を切られたため即刻職員4000人を一時帰休にした、給料が払えない。手持ち資金を食い延ばして航空管制だけは死守する体制だ。議会でこじれた原因は下院で多数を占める共和党がローカルなコミュニティ空港に対する補助が予算に入っていたことを不満としたためといわれる。なにもそこまでしなくとも、と思えるが何か民主主義の限界を示しているようだ。選挙に勝ちやすい政党の主張が似てきて選挙テクニックで大きく結果Usperl が振られる、2院制にねじれが容易に生じて議会が動かなくなる、政治が理念でなくテクニックとアジテーションの場に変わり果てる。大局を見通す声が通らない。戦前ならばここでファシズムが登場するところだがマスメディアの発達がそれを押しとどめている、出口が見えない。選挙で政治を2者択一できるほど簡単な政治メカニズムではなくなっている。フセインを倒したイラクでは底知れぬ不幸の連鎖が止まないようにみえる、ムバラクを倒したエジプトでも混乱は一向に収まらない、民主主義のスローガンだけでは幸せになれない、全てがつながっているようだ。移ろいやすい民衆の心の上に乗っているが故の民主主義の機能不全があちこちで頭をもたげる。京都五山の送り火に 陸前高田の被災者の思いがこもった松が使われるはずが、市民から寄せられたいわれのない放射能汚染懸念に 容易に主催者が屈してしまったことともどこかつながっている。結局は一人一人の心の中の問題なのだろう。

週の初めでもない歯切れの悪い月曜日がまた始まる。すべてが狂い始めていることを象徴している、心を強く持って目の前の現実に真正面から向き合う気持ちがいつになく求められているようだ。

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2011年6月28日 (火)

渦潮のような東京

根津で同窓会を5年ぶりにやると言うので出かけてみた。根津だから千代田線だ、行き方を調べていると、栗橋で湘南ライナーから東武に乗り換えていくのがよさそうだ、宇都宮駅からでは新幹線と較べても30分位の差だ、自宅近くのバス停からのバスとも良く接合して、バスで行く限り時間は変わらない。ともかく随分安い。これにしようと決めて栗橋から久し振りに東武に乗ってみると冷房の風がきつい、節電で冷房は控えめのはずだったのに、赤子を連れた家族連れは困ってさえいる。JRは控え目がきっちり浸透していたが、私鉄はまだゆるいようだ、これでは15%節電も余裕でできそうな気がしてくる。東武動物公園あたりからはなんとなく東京に入った気がしてきてJRの重々しさがない、暗さがない、そのまま地下鉄に入っていくイメージがもうおよそ東京に着いたと思わせる。静かな津波のように東京の広がりが伝わってくる。北千住で千代田線に乗り換えると程なく根津だ。
昔に戻った時間が流れていく、それぞれにそれぞれの時間が流れている、そして結局はばらばらになっていく、吸い込まれていく。渦潮のように引き込んでちぎれ飛ばしていく東京らしい時空を感じてしまう。
そろそろ関東は終わりにしたほうがいいかもしれない、ふとそう思った。降りかかっていた雨はもうあがり、梅雨らしい暗闇を抱えた夜が広がっていた。

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2011年4月23日 (土)

花開くような未来

庭のヤマブキが咲きはじめた。今年の花はなんだかスピードが速い、見る見るうちに花開いたかと思うと散っていく。気のせいかもしれない、年をとったのかもしれない、あるいはゴSumire ムのように伸び縮みする時空が本当にそこに漂っているのかもしれない。
本当に久し振りに横浜まで出かけた、大学の講義を引き受けてしまったその1回目だ。駅のエスカレータは至るところ節電で停止だし照明も薄暗い、おまけに東京駅のコンコースはなんだか工事している、曇った日の日暮れのようなうす闇の世界があった。横浜駅の西口からバスに乗ってやっと大学に到着するとさすがに若者で溢れている、少し頼もしくなる。昼過ぎから講義を始めると時間と共に机にかぶって寝だす姿が出てくる、聞きたくなければそれでもいいや、聞きたい人だけが聞いてくれればその方がいいとばかりに話し続けるがそのうちこちらも疲れてきて休憩にする、再開すると今度は誰も寝ない、しゃんとして聞いている、気のせいか目が少し輝いている、少しは伝わっているようだ、ともかくこのほうがはなしがいがあるというものだ。
確かに若さには未来がある。
花開くような未来がある、いつしか過ぎ去ってしまう未来がある。

春の雨が時折通り過ぎていき5月がもうそのかどに確かな姿を現わそうとしている。流れていく時にそのままゆだね続ける心地よさを近頃は感じるようになってきた。やるべきことの連なりから開放されて連綿とつながる時の一部になりきる感じがいい、ここが花開くような未来なのだろうか。

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2010年12月 5日 (日)

電動歯ブラシ

電動歯ブラシというのを贈り物でもらって使っているが思いのほか便利だ、パナソニックのEW-DS11というのだが、以前からなんで歯ブラシまで電気なんだといぶかっていたものの使っDs11 てみると細かい動きで歯の汚れが旨く落ちるように思える、大きさも普通の歯ブラシより軸がやや太い程度で違和感も無い、大分進歩している。替えブラシというのが2本で450円くらいで売っていて普通の歯ブラシくらいの費用で後は使い続けられる仕掛けになっている。最近の4枚刃髭剃りのように替刃を少し高めに売って替刃で稼ぐタイプのビジネスモデルでもないらしい。素直なビジネスだ。しかしヨドバシの売り場に行くとやたらと替えブラシがぶら下げてあってどれが適合するのか探すに一苦労する、新製品が出るたびに種類が増え続けているようだ、こんな形がいつまでも続くとは思えない。交換品がなくなるのがユーザーとしては一番気になるところだがこんな情景を見るとどこかで終りが来そうだ、もっとも、便利なものだからシンプルな形に収束して生きながらえるという気もする。
昔、練り歯磨きというのは美容の意味合いが強くて歯の健康には特に必要でないという話とデータをどこかで読んだことが頭にあり、電動歯ブラシにしてから、よく磨けることもあって練り歯磨きをつけないで磨いている、勿論何の不都合も起こっていない、慣れてみるとこの方が健康的のように思えてくる。
古代エジプトから歯磨きと練り歯磨きはセットになっていたといわれパピルス文書に練り歯磨きの調合法まで残っているらしい、相当な歴史だ、少しずつ形を変えて、この先も人類が滅ぶまで恐らく続くのだろうと思ってしまう、練り歯磨きも電動歯ブラシくらいで彫らんでしまうこともあるまい。歯磨きごとき、と思っているが身近なものに恐ろしく長い時の流れが染み込んでいて、そんなものに囲まれて生きていることを今更のように面白く感じてしまう。

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2010年11月17日 (水)

落石の秋がよくて

やっと平地の紅葉が見頃になってきた。前の週末那珂川の落石というところの紅葉がきれいらしいというので出かけてみた。それというのも前の晩ぼんやりみていた 天気予報の後の紅葉情報で栃木県では落石の紅葉だけがマークされていて落石とはどこなのだろうと探し始めたことから始まる。ネットで 落石、紅葉 として検索すると烏山ちかくの落石がヒットする、ここらしい。烏山の境橋から烏山大橋にかけてが紅葉の見所でとりわけ境橋付近がOchiisi いいとある。翌日は予想以上に高層の雲が南から伸びて朝から曇りとなったがしょうがない、ともかく昼もだいぶ過ぎた頃に出る、烏山は久し振りだ。境橋の手前の小道を左へ折れると公園のようなキャンプ場に出る、ここにクルマを置いて河原へ降りてみる、ネットに出ていた紹介写真はここから撮ったもののようだ。日差しが雲で遮られて紅葉がさえないが清新な景観だ。日光のようなむせ返るような紅葉とは違うがこれもまたいい、のんびりとしながら秋の雰囲気に浸る。河原には鮭の死骸が横たわり流れの中にもOchisi2 死んだ鮭が見える。遥かな旅の終わりに見事責務を果たした姿だ、こうして川に生息する生き物たちの餌となり川の生態系を豊かにする、ざわわと流れる川の音がいい。カワセミが何羽も飛び交っている、イカルチドリも石の間を歩き回る、アオサギがのんびりとたたずみトビも低く舞ってくる。なかなかいい。河原をゆっくり下っていくと流れの中でうきがピクピク動いている、しかけに鮭がかかっているようだ、網にからまれてもがいている。抜けられるかもしれない、このまま力尽きてしまうかもしれない、どちらにせよいずれはここで命尽きるのだろう、何か感慨がある、人の生きようも似たようなものかもしれない。

見上げれば対岸の紅葉には時々淡い夕陽が射す、脈を打つように紅葉が少し元気付く。

こんな緩い時が過ぎていく北関東の秋が好きだ。

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2010年11月12日 (金)

気を抜くとすぐにぺったりした平面的な生き方に

今朝起きがけに3時のSYNOPデータでパソコン上に天気図を書かせてみてちょっと驚い10111203y た、ウラジオのあたりにすごい低気圧だ、それによく見ると前線の通過した後の朝鮮半島では一面に6番の砂塵が出ている、黄砂だ。書いてみるものだ。面倒になってあまり書いていなかったが黄砂の舞うG20か、中国の影響が次第に強くなってきている世界を図らずも具現しているように思えてくる。世界が少し立体的に見えてくる。
北関東でも朝から空に少々どんよりしたところがある、もう黄砂が来ているようだ。車を会社の駐車場へ停めて見上げると見事な高積雲が漂って、近くに目をやると電線にカワラヒワが12羽位とまっている、このところ毎朝5羽くらいが来てキリキリとか細く鳴いていたが今日になって倍増している、また新しい仲間が増えたのだろうか、人見知りしているように声も立てない、それにしても中国から黄砂を運ぶくらいだから国内を渡る鳥を運ぶ位は風にしてみれば造作も無いことなのだろう、羽根を広げると黄色いマークが見えるカワラヒワが黄色い砂と共にやってくる、黄色ずくしでなんだか面白い。風は空間的な広がりで何でも運んでくる。
鳥やきれいな雲を見ると写真に残したくなる、しかしあいにく通勤にはカメラを持参していない、携帯では旨く写りそうに無い、見るだけであきらめる。鳥はすぐ飛んでいってしまうし、雲のほうも10分もすると形を変えて薄汚くなってしまう、雲は思っている以上に次々と形を変えていく、3次元の造形が形を変えて流れていく様はなかなかいい。何もすることが無くなったら雲を眺めて暮らせばいいや、結構それも面白そうだ、そんな風にも思ったりもする。
写真を撮るといえば、いつもしっくり来ない風に撮れてしまうのは何故だろうとずっとひっかかっていた、思いついて最近Autoを止めて全てマニュアルにして見たらこれがなかなかの感触を思い起こさせてくれる。絞りとシャッター速度を変えながら何枚も撮っていく、ピントも自動を止めてマニュアルピントにする、ファインダーの中でピントがあった感触もよみがえる。手間がかかるが1枚1枚が重くなる、自分の責任で写したとの思いがしてくる。なかなかいい。何枚も撮るとカンで露出がおおよそわかるようになってくる、昔の写真の撮るさまを思い出す、厄介といえばそうだが面白いというべきのようだ。いいかと思う露出は大概アンダーだ、しかしautoで撮るべったりとした平面さが無くなる。タカが露出だがこれが面白い。立体感が肝心のようだ。
今使っているK100Dは600万画素しかなく、パソコン画面で大きく拡大していくとあらが目立つ、次第にのめりこめなくなる。不思議なものだ。細部が一方では立体感を支えているともいえる。ともかくカメラも買い換える時期に来ている、ペンタックスならK-5が良さそうだ、しかしボディでも12万位というのではお安くない、元値は半額以下といわれるのではためらいも出る。どうするか。

気を抜くとすぐにぺったりした平面的な生き方に染まってしまう、いつも抵抗しなくてはと思っている、いつまで続くだろうか、もう絡め捕られているのだろうか。

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2010年8月 2日 (月)

オルセー美術館展

暑い日々になかなか終りが来ない。夏らしくていいやと思い込むのにもそろそろ疲れてきた。

別に暑さのためではないが、オルセー美術館から100点以上の作品が来ているというので六本Orsay木の国立新美術館まで出かけてみた、勿論クルマだ、気になる駐車はなんとかそばのコインパークに停める、15分200円とかなり値が張るがしょうがない。
オルセーというからてっきり印象派展だと思って見始めていたらどうも色あせた感じが否めない、生彩がない、なんだか変だと思って展示会のタイトルをよく見るとポスト印象派とある。ポスト印象派とは随分アバウトなくくりだ、とにかく1880年代末から1900年代初頭の欧州絵画と思うほか無さそうだ。点描派に代表される技巧に走っている姿が目に付く、いい絵というより歴史の遺物のような絵が続く、とにかく当時としては新しい手法で画家のアイデンティティを示そうとしている姿勢が前面に出ているようだ、理屈で押している、何のために描いているのだろうか。中で目立つのはロートレックの手法にとらわれない生き生きとした描写だ、理屈をいわずに描きたいものを描きたいように描いている、ロートレックという人はこう捉えるのか、初めて解った気がする、ゴッホもゴーギャンもセザンヌも技巧偏重からの離脱として自身を確立していっているように見えてくる、パリに居ては自分を見失う。どこか写真技術に押されまいとする努力も感じる、何を何のために描くのか、問うている時代そのものを感じる。難しい時代だったんだ。
いい絵を見たいだけだったのが歴史の勉強をさせられた、そんなちょっと複雑な思いでカフェテリアでサンドイッチをパクつく。それにしても随分な混雑だ、それに絵を前にして絵を見ていない人がこんなに多いのは何故なんだろう、今の時代は更に難しい時代になっているのかもしれない。
美術館の外はむっと暑い真夏の大気で満ちていた。秋はまだ随分遠くに居て気配すら感じさせてくれないようだ。

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2010年6月20日 (日)

人とホタルと

先週の木曜日はむっとした夕方になった、今日は雨も無い、ほたる観にちょうどいいかと宇都宮美術館南の小川にでかけた。だんだん億劫になって今年も近場で済ませるようになってしま。駐車場所に着いてクルマを降りるが誰も居ない。まだ薄明かりが残るためか歩き始めてもほたるは見えない。ゆっくりと小川を下って行くが蚊ばかりが襲ってくる。空振りかとあきらめ心地で、折り返して戻り始めると目の前に3頭がふわふわと飛んでくる、ホッとした気持ちで見入る。そのうち5頭くらいになってからんだり田んぼのほうにスーと走ったり、動きがあって面白い。しかし蚊が多い。蚊をたたきながらあきず観ているとやっと一グループが現れた、ともかく人が少なくていい。小川を上ったり下ったりと行ききしてもういいか、と思う頃ドッと大家族一行が大きな犬を3匹連れて現れた、ほえたりして感じよくない。暗がりに犬はどうかと思う、狼に戻りそうだ。
 ほたる というと日本のものとのイメージがあったが最近netで 米国北東部ペンシルバ800pxphoturis_lucicrescens ニア州辺りの住宅の芝生には陸生の蛍がやたらといて珍しくもない という記述に行き当たった。(図は陸生のホタルPhoturis lucicrescensyori 、Wikipediaより)。もう少し調べるとゲンジボタルやヘイケボタルは水生だが世界のホタル約2900種のうち水生のホタルはアジアの日本、中国、台湾、タイ等に見られる僅か10種だけで殆どのホタルは陸生という。水生のホタルというのが日本的な情緒のある蛍の大事なところだったのか、と思い至る。水田耕作文化とかかわりがあるようだ、発光するのが田植えを終わって稲が育ち始める時期、というのも人に感慨を与える背景にありそうだ、水田という生息場所を得て水生のホタルは東アジアで永らえたのだろう、芝生の上のホタルには文化が無いのかもしれない。
地球の生態系に人はどうしようもなく組み込まれている、人によって栄える種もあれば絶滅する種もあるのは当然のことのようだ、人の手で生態系を”護る”ことそのものも生態系のダイナミクスの一部なのだろう、そんなことをはるかに超越するようなめくるめく種類の生き物の連鎖がまぶしくもある。

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2010年6月14日 (月)

なんにでも終わりは来る

毎年今の時期の早朝 野鳥の録音に出かけることにしている霧降にこの土曜の朝でかけた、年を経ると例年行っている、ということが増えてくる、当たり前のことだが はじめたものはどこかKirifr10 で止めなければならない、止めれなくなると身にふりつもってくる、新しいことが始めにくくなってくる。ともかく朝4時半頃自宅を出るがどうも例年より遅い。4時前には出ていたような気がしたがもう体が動かなくなったのだろうか。霧降の道を5時頃駆け上って第2リフト乗り場の先の橋のあたりに着くがもう陽が大分上がっている。それでも車を出るとオオルリの声が流れてくる、カッコウやホトトギスも声を響かせて、いい感じだ。20分ほど録音しているといやな音が次第に耳につくようになってくる、バイクとエゾハルゼミだ、やっぱり出るのが遅すぎた。時が過Ooruri10 ぎるにつれどちらの音もあたりを制圧してきてもう録音は止めろといっているようだ、いい加減であきらめて六方沢橋あたりに行ってみるがエゾハルゼミの声はいや増しだ、そばに寄って来てとまったりもして、途方も無い響きを響かせる、音の壁に覆われてしまったような気持ちになる。あちこち場所を変えてもエゾハルゼミからは逃れられない、エゾハルゼミは雨が降りそうなくらいにならないとなきやまないのだがこの朝はよく晴れているのが恨めしい、晴れればいい天気とはとてもいえない。バイクのほうがエゾハルゼミよりはかわいいと思っていると、先へ行ってUターンしてまたそばを走り抜けて走りを楽しんでいる、その繰り返しで台数が増えてくるとハルゼミが少しおとなしくなっても録音にならない。早朝から豊かな自然の中でバイク騒音に悩まされるのもうんざりして山を降りる。不満が残るがどこにもぶつけようが無い、とにかくこの時期は4時には録音開始でないと旨く録れないようだ、なんとなく無理っぽく感じてきた。楽しみでやっている自分にとっての年中行事だがそろそろ変え時かもしれない。
時々やっていることを整理しなくては と思う、自分だけでやっていることは決めれば終わりだが、何かの拍子で引き受けたことも次第に圧迫を感じるようになれば身を引かねばならない、かといって他の人を圧迫してもいけない、難しい、しかししょうがない、それが世の中だ、生きているということだ。
やっと梅雨に入ったようだ、こちらも季節という年中行事だが簡単には終わりにならない、しかし地球の一生という時間のスケールに思い至ると やはりつかのまの習慣なのだろう、なんにでも終わりは来るのか、とまた思ってしまう、ともかく梅雨だ。

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